第一巻 涼宮ハルヒの憂鬱

【Volume 1 — Suzumiya Haruhi no Yuutsu】


 

CONTENTS

 

プロローグ
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
エピローグ
あとがき

 

プロローグ

 

 サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信をもって言えるが最初から信じてなどいなかった。

 幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、記憶をたどると周囲にいた園児たちもあれが本物だとは思っていないような目つきでサンタのコスプレをした園長先生を眺めていたように思う。

 そんなこんなでオフクロがサンタにキスしているところを目撃したわけでもないのにクリスマスにしか仕事をしないジジイの存在を疑っていた賢しい俺なのだが、宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織やそれらと戦うアニメ的|特撮的漫画的ヒーローたちがこの世に存在しないのだということに気付いたのは相当後になってからだった。

 いや、本当は気付いていたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいたのだ。

 俺が朝目覚めて夜|眠るまでのこのフツーな世界に比べて、アニメ的特撮的漫画的物語の中に描かれる世界の、なんと魅力的なことだろう。

 俺もこんな世界に生まれたかった!

 宇宙人にさらわれてでっかい透明なエンドウ豆のサヤに入れられている少女を救い出したり、レーザー銃片手に歴史の改変を計る未来人を知恵と勇気で撃退したり、悪霊や妖怪を呪文一発で片づけたり、秘密組織の超能力者とサイキックバトルを繰り広げたり、つまりそんなことをしたかった!

 いや待て冷静になれ、仮に宇宙人や(以下略)が襲撃してきたとしても俺自身には何の特殊能力もなく太刀打ちできるはずがない。ってことで俺は考えたね。

 ある日|突然謎の転校生が俺のクラスにやって来て、そいつが実は宇宙人とか未来人とかまあそんな感じで得体の知れない力なんかを持っていたりして、でもって悪い奴らなんかと戦っていたりして、俺もその闘いに巻き込まれたりすることになればいいじゃん。メインで戦うのはそいつ。俺はフォロー役。おお素晴らしい、頭いーな俺。

 か、あるいはこうだ。やっぱりある日突然俺は不思議な能力に目覚めるのだ。テレポーテーションとかサイコキネキスとかそんなんだ。実は他にも超能力を持っている人間はけっこういて、そういう連中ばかりが集められているような組織も当然あって、善玉の方の組織から仲間が迎えに来て俺もその一員となり世界|征服を狙う悪い超能力者と戦うとかな。

 しかし現実ってのは意外と厳しい。

 実際のところ、俺のいたクラスに転校生が来たことなんて皆無だし、UFOだって見たこともないし、幽霊や妖怪を探しに地元の心霊スポットに行ってもなんも出ないし、机の上の鉛筆を二時間も必死こいて凝視していても一ミクロンも動かないし、前の席の同級生の頭を授業中いっぱい睨んでいても思考を読めるはずもない。

 世界の物理法則がよく出来ていることに感心しつつ自嘲しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に観なくなっていた。いるワケねー……でもちょっとはいて欲しい、みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。

 中学校を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。一縷の期待をかけていた一九九九年に何かが起こるわけでもなかったしな。二十一世紀になっても人類はまだ月から向こうに到達してねーし、俺が生きている間にアルファケンタウリまで日帰りで往復できることもこのぶんじゃなさそうだ。

 そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら俺はたいした感慨もなく高校生になり----、涼宮ハルヒと出会った。

 

第一章

 

 うすらぼんやりとしているうちに学区内の県立高校へと無難に進学した俺が最初に後悔したのはこの学校がえらい山の上にあることで、春だってのに大汗をかきながら延々と続く坂道を登りつつ気軽なハイキング気分をいやいや満喫している最中であった。これから三年間も毎日こんな山登りを朝っぱらからせにゃならんのかと思うと暗澹たる気分になるのだが、ひょっとしたらギリギリまで寝ていたおかげで自然と足早を強いられているのかもしれず、ならばあと十分でも早起きすればゆっくり歩けるわけだしそうキツイことでもないかと考えたりするものの、起きる間際の十分の睡眠がどれほど貴重かを思えば、そんなことは不可能で、つまり結局俺は朝の運動を継続しなければならないだろうと確信し暗澹たる気分が倍加した。

 そんなわけで、無駄に広い体育館で入学式がおこなわれている間、俺は新しい学び舎での希望と不安に満ちた学園生活に思いをはせている新入生特有の顔つきとは関係なく、ただ暗い顔をしていた。同じ中学から来ている奴がかなりの量にのぼっていたし、うち何人かはけっこう仲のよかった連中なので友人のあてに困ることはなかったが。

 男はブレザーなのに女はセーラー服ってのは変な組み合わせだな、もしかして今|壇上で眠気を誘う音波を長々と発しているヅラ校長がセーラー服マニアなのか、とか考えているあいだにテンプレートでダルダルな入学式がつつがなく終了し、俺は配属された一年五組の教室へ嫌でも一年間は面を突き合わせねばならないクラスメイトたちとぞろぞろ入った。

 担任の岡部なる若い青年教師は教壇に上がるや鏡の前で小一時間練習したような明朗快活な笑顔を俺たちに向け、自分が体育教師であること、ハンドボール部の顧問をしていること、大学時代にハンドボール部で活躍しリーグ戦ではそこそこいいところまで勝ちあがったこと、現在この高校のハンドボール部は部員が少ないので入部|即レギュラーは保障されたも同然であること、ハンドボール以上に面白い球技はこの世に存在しないであろうことをひとしきり喋り終えるともう話すことがなくなったらしく、

「みんなに自己|紹介をしてもらおう」

 と言い出した。

 まあありがちな展開だし、心積もりもしてあったから驚くことでもない。

 出席番号順に男女|交互で並んでいる左|端から一人一人立ち上がり、氏名、出身中学プラスα(趣味とか好きな食べ物とか)をあるいはぼそぼそと、あるいは調子よく、あるいはダダ滑りするギャグを交えて教室の温度を下げながら、だんだんと俺の番が近づいてきた。緊張の一瞬である。解るだろ?

 頭でひねっていた最低限のセリフを何とか噛まずに言い終え、やるべきことをやったという開放感に包まれながら俺は着席した。替わりに後ろの奴が立ち上がり----ああ、俺は生涯このことを忘れないだろうな----後々語り草となる言葉をのたまった。

「東中学出身、涼宮ハルヒ」

 ここまでは普通だった。真後ろの席を身体をよじって見るのもおっくうなので俺は前を向いたまま、その涼やかな声を聞いた。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

 さすがに振り向いたね。

 長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。

 ハルヒの白い喉がやけにまばゆかったのを覚えている。えらい美人がそこにいた。

 ハルヒは喧嘩でも売るような目つきでゆっくりと教室中を見渡し、最後に大口開けて見上げている俺をじろりと睨むと、にこりともせずに着席した。

 これってギャグなの?

 おそらく全員の頭にどういうリアクションをとればいいのか、疑問符が浮かんでいたことだろう。「ここ、笑うとこ?」

 結果から言うと、それはギャグでも笑いどころでもなかった。涼宮ハルヒは、いつだろうがどこだろうが冗談などは言わない。

 常に大マジなのだ。

 のちに身をもってそのことを知った俺が言うんだから間違いはない。

 沈黙の妖精が三十秒ほど教室を飛び回り、やがて体育教師岡部がためらいながら次の生徒を指名して、白くなっていた空気はようやく正常化した。

 こうして俺たちは出会っちまった。

 しみじみと思う。偶然だと信じたい、と。

 このように一瞬にしてクラス全員のハートをいろんな意味でキャッチした涼宮ハルヒだが、翌日以降しばらくは割とおとなしく一見無害な女子高生を演じていた。

 嵐の前の静けさ、という言葉の意味が今の俺にはよく解る。

 いや、この高校に来るのは、もともと市内の四つの中学出身の生徒たち(成績が普通レベルの奴ら)ばかりだし、東中もその中に入っていたから、涼宮ハルヒと同じ中学から進学した奴らもいるわけで、そんな彼らにしてみればこいつの雌伏状態が何かの前兆であることに気付いていたんだろうが、あいにく俺は東中に知り合いがいなかったしクラスの誰も教えてくれなかったから、スットンキョーな自己紹介から数日後、忘れもしない、朝のホームルームが始まる前だ。涼宮ハルヒに話しかけるという愚の骨頂なことを俺はしでかしてしまった。

 ケチのつき始めのドミノ倒し、その一枚目を俺は自分で倒しちまったというわけだ。

 だってよ、涼宮ハルヒは黙ってじっと座っている限りでは一美少女高校生にしか見えないんだぜ。たまたま席が真ん前だったという地の利を生かしてお近づきになっとくのもいいかなと一瞬血迷った俺を誰が責められよう。

 もちろん話題はあのことしかあるまい。

「なあ」

 と、俺はさりげなく振り返りながらさりげない笑みを満面に浮かべて言った。

「しょっぱなの自己紹介のアレ、どのへんまで本気だったんだ?」

 腕組みをして口をへの字に結んでいた涼宮ハルヒはそのままの姿勢でまともに俺の目を凝視した。

「自己紹介のアレって何」

「いや、だから宇宙人がどうとか」

「あんた、宇宙人なの?」

 大まじめな顔で訊きやがる。

「…違うけどさ」

「違うけど、何なの」

「…いや、何もない」

「だったら話かけないで。時間の無駄だから」

 思わず「すいません」と謝ってしまいそうになるくらい冷徹な口調と視線だったね。涼宮ハルヒは、まるで芽キャベツを見るように俺に向けていた目をフンとばかりに逸らすと、黒板の辺りを睨みつけ始めた。

 何かを言い返そうとして結局思いつかないでいた俺は担任の岡部が入ってきたおかげで救われた。

 負け犬の心でしおしおと前を向くと、クラスの何人かがこっちのほうを興味深げに眺めていやがった。目が合うと実に意味深な半笑いで「やっぱりな」とでも言いたげな、そして同情するかのごときうなずきを俺によこす。

 なんか、シャクに障る。後で解ったことだがそいつら全員東中だった。

 とまあ、おそらくファースト・コンタクトとしては最悪の部類に入る会話のおかげで、さすがに俺も涼宮ハルヒには関わらないほうがいいのではないかと思い始めてその思いが覆らないまま一週間が経過した。

 だが理解していない観察眼のない奴もまだまだいないわけではなく、いつも不機嫌そうに眉間にしわを寄せ唇をへの字にしている涼宮ハルヒに何やかんやと話かけるクラスメイトも中にはいた。

 だいがいそれはおせっかいな女子であり、新学期早々クラスから孤立しつつある女子生徒を気遣って調和の輪の中に入れようとする、本人にとっては好意から出た行動なのだろうが、いかんせん相手が相手だった。

「ねえ、昨日のドラマ見た? 九時からのやつ」

「見てない」

「えー? なんでー?」

「知らない」

「いっぺん見てみなよ、あーでも途中からじゃ解んないか。そうそう、だったら教えてあげようか、今までのあらすじ」

「うるさい」

 こんな感じ。

 無表情に応答するならまだしも、あからさまにイライラした顔と発音で応えるものだから話かけた人間の方が何か悪いことをしているような気分になり、結局「……まあ、その……」と肩を落としてすごすご引き下がることになる。「わたし、何かおかしな事言った?」

 安心したまえ、言ってない。おかしいのは涼宮ハルヒの頭のほうさ。

 別段一人で飯|喰うのは苦にならないものの、やはり皆がわやわや言いながらテーブルをくっつけているところにポツンと取り残されるように弁当をつついているというのも何なので、というわけでもないのだが、昼休みになると俺は中学が同じで比較的仲のよかった国木田と、たまたま席が近かった東中出身の谷口という奴と机を同じくすることにしていた。

 涼宮ハルヒの話題が出たのはその時である。

「お前、この前涼宮に話かけてたな」

 何気にそんな事を言い出す谷口。まあ、うなずいとこう。

「わけの解らんこと言われて追い返されただろ」

 その通りだ。

 谷口はゆで卵の輪切りを口に放り込み、もぐもぐしながら、

「もしあいつに気があるんなら、悪いことは言わん、やめとけ。涼宮が変人だってのは充分理解したろ」

 中学で涼宮と三年間同じクラスだったからよく知ってるんだがな、と前置きし、

「あいつの奇人ぶりは常軌を逸している。高校生にもなったら少しは落ち着くかと思ったんだが全然変ってないな。聞いたろ、あの自己|紹介」

「あの宇宙人がどうとか言うやつ?」

 焼き魚の切り身から小骨を細心の注意で取り除いていた国木田が口を挟んだ。

「そ。中学時代にもわけの解らんことを言いながらわけの解らんことを散々やり倒していたな。有名なのが校庭落書き事件」

「何だそりゃ?」

「石灰で白線引く道具があるだろ。あれ何つうんだっけ? まあいいや、とにかくそれで校庭にデカデカとけったいな絵文字を書きやがったことがある。しかも夜中に学校に忍び込んで」

 そん時のことを思い出したのか谷口はニヤニヤ笑いを浮かべた。

「驚くなよ。朝学校来たらグラウンドに巨大な丸とか三角とかが一面に書きなぐってあるんだぜ。近くで見ても何が書いてあんのか解らんからためしに校舎の四階から見てみたんだが、やっぱり何が書いてあるのか解んなかったな」

「あ、それ見た覚えあるな。確か新聞の地方|欄に載ってなかった? 航空写真でさ。出来そこないのナスカの地上絵みたいなの」

 と国木田が言う。俺には覚えがない。

「載ってた載ってた。中学校の校庭に描かれた謎のイタズラ書き、ってな。で、こんなアホなことをした犯人は誰だってことになったんだが……」

「その犯人があいつだってわけか」

「本人がそう言ったんだから間違いない。当然、何でそんなことしたんだってなるわな。校長室にまで呼ばれてたぜ。教師総|掛かりで問いつめたらしい」

「何でそんなことしたんだ?」

「知らん」

 あっさり答えて谷口は白飯をもしゃもしゃと頬張った。

「とうとう白状しなかったそうだ。だんまりを決め込んだ涼宮のキッツい目で睨まれてみろ、もうどうしようもないぜ。一説によるとUFOを呼ぶための地上絵だとか、あるいは悪魔召還の魔方陣だとか、または異世界への扉を開こうとしてたとか、噂はいろいろあったんだが、とにかく本人が理由を言わんのだから仕方がない。今もって謎のままだ」

 俺の脳裏には、真っ暗の校庭に真剣な表情で白線を引いている涼宮ハルヒの姿が浮かんでいた。ガラゴロ引きずっているラインカーと山積みにしている石灰の袋はあらかじめ体育倉庫からガメていたんだろう。懐中電灯くらいはもっていたかもしれない。頼りない明かりに照らされた涼宮ハルヒの顔はどこか思い詰めた悲壮感に溢れていた。俺の想像だけどな。

 たぶん涼宮ハルヒは本気でUFOあるいは悪魔または異世界への扉を呼び出そうとしたのだろう。ひょっとしたら一晩中、中学の運動場でがんばっていたのかもしれない。そしてとうとう何も現れなかったことにたいそう落胆したに違いない、と根拠もなく思った。

「他にもいっぱいやってたぞ」

 谷口は弁当の中身を次々と片付けつつ、

「朝教室に行ったら机が全部|廊下に出されていたこともあったな。校舎の屋上に星マークをペンキで描いたり、学校中に変なお札、キョンシーが顔にはっ付けているようなやつな、あれがベタベタ貼りまくられていたこともあった。意味わかんねーよ」

 ところで今教室に涼宮ハルヒはいない。いたらこんな話も出来ないだろうが、たとえいたとしてもまったく気にしないような気もする。その涼宮ハルヒだが、四時間目が終わるとすぐ教室を出て行って五時間目が始まる直前にならないと戻ってこないのが常だ。弁当を持ってきた様子はないから食堂を利用しているんだろう。しかし昼飯に一時間もかけないだろうし、そういや授業中の合間の休み時間にも必ずといっていいほど教室にはいない奴で、いったいこどをうろついているんだか。

「でもなぁ、あいつモテるんだよな」

 谷口はまだ話している。

「なんせツラがいいしさ。おまけにスポーツ万能で成績もどちらかと言えば優秀なんだ。ちょっとばかし変人でも黙って立っていたら、んなこと解んねーし」

「それにも何かエピソードがあんの?」

 問う国木田は谷口の半分も箸が進んでいない。

「一学期は取っ替え引っ替えってやつだったな。俺の知る限り、一番長く続いて一週間、最短では告白されてオーケーした五分後に破局してたなんてのもあったらしい。例外なく涼宮が振って終わりになるんだが、その際に言い放つ言葉がいつも同じ、『普通の人間の相手してるヒマはないの』。だったらオーケーするなってーの」

 こいつもそう言われたクチかもな。そんな俺の視線に気付いたか、谷口は慌てたふうに、

「聞いた話だって、マジで。何でか知らねえけどコクられて断るってことをしないんだよ、あいつは。三年になった頃にはみんな解ってるもんだから涼宮と付き合おうなんて考える奴はいなかったけどな。でも高校でまた同じことを繰り返す気がするぜ。だからな、お前が変な気を起こす前に言っておいてやる。やめとけ。こいつは同じクラスになったよしみで言う俺からの忠告だ」

 やめるとくも何も、そんな気ないんだがな。

 食い終わった弁当箱を鞄にしまい込んで谷口はニヤリと笑った。

「俺だったらそうだな、このクラスでのイチオシはあいつだな、朝倉涼子」

 谷口がアゴをしゃくって示した先に、女どもの一団が仲むつまじく机をひっつけて談笑している。その中心で明るい笑顔を振りまいているのが朝倉涼子だった。

「俺の見立てでは一年の女の中でもベスト3には確実に入るね」

 一年の女子全員をチェックでもしたのか。

「おうよ。AからDにまでランク付けしてそのうちAランクの女子はフルネームで覚えたぜ。一度しかない高校生活、どうせなら楽しく過ごしたいからよ」

「朝倉さんがそのAなわけ?」と国木田。

「AAランクプラス、だな。俺くらいになると顔見るだけで解る。アレはきっと性格までいいに違いない」

 勝手に決めつける谷口の言葉はまあ話し半分で聞くとしても、実のところ朝倉涼子もまた涼宮ハルヒとは別の意味で目立つ女だった。

 まず第一に美人である。いつも微笑んでいるような雰囲気がまことによい。第二に性格がいいという谷口の見立てはおそらく正しい。この頃になると涼宮ハルヒに話かけようなどという酔狂な人間は皆無に等しかったが、いくらぞんざいにあしらわれてもそれでもめげずに話かける唯一の人間が朝倉である。どことなく委員長っぽい気質がある。第三に授業での受け答えを見てると頭もなかなかいいらしい。当てられた問題を確実に正答している。教師にとってもありがたい生徒だろう。第四に同性にも人気がある。まだ新学期が始まって一週間そこそこだが、あっという間にクラスの女子の中心的人物になりおおせてしまった。人を惹きつけるカリスマみたいなものが確かにある。

 いつも眉間にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒと比べると、そりゃ彼女にするんならこっちかな、俺だって。つーか、どっちにしろ谷口には高嶺の花だと思うが。

 まだ四月だ。この時期、涼宮ハルヒもまだ大人しい頃合いで、つまり俺にとっても心安まる月だった。ハルヒが暴走を開始するにはまだ一ヶ月弱ほどある。

 しかしながら、ハルヒの奇矯な振る舞いはこの頃から徐々に片鱗を見せていたと言うべきだろう。

 と言うわけで、片鱗その一。

 髪型が毎日変わる。何となく眺めているうちにある法則性があることに気付いたのだが、それはつまり、月曜日のハルヒはストレートのロングヘアを普通に背中に垂らして登場する。次の日、どこから見ても非のうちどころのないポニーテールでやって来て、それがまたいやになるくらい似合っていたのだが、その次に日、今度は頭の両脇で髪をくくるツインテールで登校し、さらに次の日になると三つ編みになり、そして金曜日の髪型は頭の四ヶ所を適当にまとめてリボンで結ぶというすこぶる奇妙なものになる。

 月曜日=○、火曜=一、水曜=二……。

 ようするに曜日が進むごとに髪を結ぶ箇所が増えているのである。月曜日にリセットされ後は金曜日まで一つずつ増やしていく。何の意味があるのかさっぱり解らないし、この法則に従うなら最終日には六ヶ所になっているはずで、果たして日曜日にハルヒがどんな頭になっているのか見てみたい気もする。

 片鱗その二。

 体育の授業は男女別に行われるので五組と六組の合同でおこなわれる。着替えは女が奇数クラス、男が偶数クラスに移動してすることになっており、当然前の授業が終わると五組の男子は体操来入れを手にぞろぞろと六組に移動するわけだ。

 そんな中、涼宮ハルヒはまだ男どもが教室に残っているにもかかわらず、やおらセーラー服を脱ぎ出したのだった。

 まるでそこらの男などカボチャかジャガイモでしかないと思っているような平然たる面持ちで脱いだセーラー服を机に投げ出し、体操着に手をかける。

 あっけにとられていた俺を含め男たちは、この時点で朝倉涼子によって教室から叩き出された。

 その後朝倉涼子をはじめとしてクラスの女子はこぞってハルヒに説教をしたらしいが、まあ何の効果もなかったね。ハルヒは相変わらず男の目などまったく気にせず平気で着替えをやり始めるし、おかげで俺たち男連中は体育前の休み時間になるとチャイムと同時にダッシュで教室から撤退することを----主に朝倉涼子に----義務づけられてしまった。

 それにしてもやけにグラマーだったな……いや、それはさておき。

 片鱗その三。

 基本的に休み時間に教室から姿を消すハルヒはまた放課後になるとさっさと鞄を持って出て行ってしまう。最初はそのまま帰宅するのかと思っていたらさにあらず、呆れることにハルヒはこの学校に存在するあらゆるクラブに仮入部していたのだった。昨日バスケ部でボールを転がしていたかと思ったら、今日は手芸部で枕カバーをちくちく縫い、明日はラクロス部で棒振り回しているといった具合。野球部にも入ってみたというから徹底している。運動部からは例外なく熱心に入部を薦められ、そのすべてを断ってハルヒは毎日参加する部活を気まぐれに変えたあげく、結局どこにも入部することもなかった。

 何がしたいんだろうな、こいつはよ。

 この件により「今年の一年におかしな女がいる」という噂は瞬く間に全校に伝播し、涼宮ハルヒを知らない学校関係者などいないという状態になるまでにかかった日数はおよそ一ヶ月。五月の始まる頃には、校長の名前を覚えていない奴がいても涼宮ハルヒの名前を知らない奴は存在しないまでになっていた。

 そんなこんなをしながら----もっとも、そんなこんなをしていたのはハルヒだけだったが----五月がやってくる。

 運命なんてものを俺は琵琶湖で生きたプレシオサウルスが発見される可能性よりも信じていない。だが、もし運命が人間の知らないところで人生に影響を行使しているのだとしたら、俺の運命の輪はこのあたりで回り出したんだろうと思う。きっと、どこか遥か高みにいる誰かが俺の運命係数を勝手に書き換えやがったに違いない。

 ゴールデンウィークが明けた一日目。失われた曜日感覚と共に、まだ五月だってのに異様な陽気にさらされながら俺は学校へと続く果てしない坂道を汗水垂らしながら歩いていた。地球はいったい何がやりたいんだろう。黄熱病にでもかかってるんじゃないか。

「よ、キョン」

 後ろから肩を叩かれた。谷口だった。

 ブレザーをだらしなく肩に引っかけ、ネクタイをよれよれに結んだニヤケ面で、

「ゴールデンウィークはどっか行ったか?」

「小学の妹を連れて田舎のバーさん家に」

「しけてやんなあ」

「お前はどうなんだよ」

「ずっとバイト」

「似たようなもんじゃないか」

「キョン、高校生にもなって妹のお守りでジジババのご機嫌うかがいに行ってどうすんだ。高校生なら高校生らしいことをだな、」

 ちなみにキョンというのは俺のことだ。最初に言い出したのは叔母の一人だったように記憶している。何年か前に久しぶりに会った時、「まあキョンくん大きくなって」と勝手に俺の名をもじって呼び、それを聞いた妹がすっかり面白がって「キョンくん」と言うようになり、家に遊びに来た友達がそれを聞きつけ、その日からめでたく俺のあだ名はキョンになった。くそ、それまで俺を「お兄ちゃん」と呼んでいてくれていたのに。妹よ。

「ゴールデンウィークに従兄弟連中で集まるのが家の年中行事なんだよ」

 投げやりに答えて俺は坂道を登り続ける。髪の中から滲み出す汗がひたすら不愉快だ。

 谷口はバイトで出会った可愛い女の子がどうしたとか小金が貯まったからデート資金に不足はないとか、やたら元気に喋りまくっていた。他人の見た夢の話とペットの自慢話と並んで、この世で最もどうでもいい情報の一つだろう。

 谷口の計画する相手不在の仮想デートコースを三パターンほど聞き流しているうちに、ようやく俺は校門に到達した。

 教室に入ると涼宮ハルヒはとっくに俺の後ろの席で涼しい顔を窓の外に向けていて、今日は頭に二つドアノブを付けているようなダンゴ頭で、それで俺は、ああ今日は二ヶ所だから水曜日かと認識して椅子に座り、そして何か魔が差してしまったんだろう。それ以外の理由に思い当たるフシがない。気が付いたら涼宮ハルヒに話かけていた。

「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」

 ハルヒはロボットのような動きで首をこちらに向けると、いつもの笑わない顔で俺を見つめた。ちと怖い。

「いつ気付いたの」

 路傍の石に話かけるような口調で、ハルヒは言った。

 そう言われればいつだっただろう。

「んー……ちょっと前」

「あっそう」

 ハルヒは面倒くさそうに頬杖をついて、

「あたし、思うんだけど、曜日によって感じるイメージってそれぞれ異なる気がするのよね」

 初めて会話が成立した。

「色で言うと月曜は黄色。火曜が赤で水曜が青で木曜が緑、金曜は金色で土曜は茶色、日曜は白よね」

 それは解るような気がするが。

「つうことは、数字にしたら月曜がゼロで日曜が六なのか?」

「そう」

「俺は月曜は一って感じがするけどな」

「あんたの意見なんか誰も聞いていない」

「……そうかい」

 投げやりに呟く俺の顔のどこがどうなのか、ハルヒは気に入らなそうなしかめ面でこちらを見つめ、俺が少しばかり精神に不安定なものを感じるまでの時間を経過させておいて、

「あたし、あんたとどこかで会ったことがある? ずっと前に」

 と、訊いた。

「いいや」

 と、俺は答え、岡部担任教師が軽快に入ってきて、会話は終わった。

 きっかけ、なんてのは大抵どうってことないものなんだろうけど、まさしくこれがきっかけになったんだろうな。

 だいたいハルヒは授業中以外に教室にいたためしがないから何か話そうと思うとそれは朝のホームルーム前くらいしか時間がないわけで、たまたま俺がハルヒの前の席にいただけってこともあって何気なく話かけるには絶好のポジションにいたことは否定出来ない。

 しかもハルヒがまともな返事をよこしたことは驚きだ。てっきり「うるさいバカ黙れどうでもいいでしょ、そんなこと」と言われるものだとばかり思っていたからな。思っていながら話かけた俺もどうかしてるが。

 だから、ハルヒが翌日、法則通りなら三つ編みで登校するところを、長かった麗しい黒髪をばっさり切って登場したときには、けっこう俺は動揺した。

 腰にまで届こうかと伸ばしていた髪が肩の辺りで切りそろえられていて、それはそれでめちゃくちゃ似合っていたんだが、それにしたって俺が指摘した次に日に短くするってのも短絡的にすぎないか、おい。

 そのことを尋ねるとハルヒは、

「別に」

 相変わらず不機嫌そうに言うのみで格別の感想を漏らすわけでもなく、髪を切った理由を教えてくれるわけもなかった。

 だろうと思ったけどさ。

「全部のクラブに入ってみたってのは本当なのか」

 あれ以来、ホームルーム前のわずかな時間にハルヒと話すのは日課になりつつあった。話かけない限りハルヒは何のアクションも起こさない上、昨日のテレビドラマとか今日の天気とかいったハルヒ的「死ぬほどどうでもいい話」にはノーリアクションなので、話題には毎回気を使う。

「どこか面白そうな部があったら教えてくれよ。参考にするからさ」

「ない」

 ハルヒは即答した。

「全然ない」

 駄目押ししてハルヒは蝶の羽ばたきのような吐息を漏らした。ため息のつもりなんだろうか。

「高校に入れば少しはマシかと思ったけど、これじゃ義務教育時代と何も変わんないわね。入る学校|間違えたかしら」

 何を基準に学校選びをしているのだろう。

「運動系も文化系も本当にもうまったく普通。これだけあれば少しは変なクラブがあってもよさそうなのに」

 何をもって変だとか普通だとかを決定するんだ?

「あたしが気に入るようなクラブが変、そうでないのは全然普通、決まってるでしょ」

 そうかい、決まってるのかい。初めて知ったよ。

「ふん」

 そっぽを向き、この日の会話、終了。

 また別の日は、

「ちょっと小耳に挟んだんだけどな」

「どうせロクでもないことでしょ」

「付き合う男全部振ったって本当か?」

「何であんたにそんなこと言わなくちゃいけないのよ」

 肩にかかる黒髪をハラリと払い、ハルヒは真っ黒な瞳で俺を睨みつけた。まったく、無表情でいないときは怒った顔ばかりだな。

「出どころは谷口? 高校に来てまであのアホと同じクラスなんて、ひょっとしたらストーカーかしら、あいつ」

「それはない」と思う。

「何を聞いたか知らないけど、まあいいわ、たぶん全部本当だから」

「一人くらいまともに付き合おうとか思う奴がいなかったのか」

「全然ダメ」

 どうやらこいつの口癖は「全然」のようだ。

「どいつもこいつもアホらしいほどまともな奴だったわ。日曜日に駅前に待ち合わせ、行く場所は判で押したみたいに映画館か遊園地かスポーツ観戦、ファーストフードで昼ご飯食べて、うろうろしてお茶飲んで、じゃあまた明日ね、ってそれしかないの?」

 それのどこが悪いんだと思ったが、口に出すのはやめておいた。ハルヒがダメだと言うからにはそれはすべからくダメなのだろうな。

「あと告白がほとんど電話だったのは何なの、あれ。そういう大事なことは面と向かって言いなさいよ!」

 虫でも見るような目つきを前にして重大な----少なくとも本人にとっては----打ち明けごとをする気になれなかっただろう男の気分をトレースしながら一応俺は同意しておいた。

「まあ、そうかな、俺ならどっか呼び出して言うかな」

「そんなことはどうでもいいのよ!」

 どっちなんだよ。

「問題はね、くだらない男しかこの世に存在しないのかどうなのかってことよ。ほんと中学時代はずうっとイライラしっぱなしだった」

 今もだろうが。

「じゃ、どんな男ならよかったんだ? やっぱりアレか、宇宙人か?」

「宇宙人、もしくはそれに準じる何かね。とにかく普通の人間でなければ男だろうが女だろうが」

 どうしてそんなに人間以外の存在にこだわるのだろう。俺がそう言うと、ハルヒはあからさまにバカを見る目をして言い放った。

「そっちのほうが面白いじゃないの!」

 それは……そうかもしれない。

 俺だってハルヒの意見に否やはない。転校生の美少女が実は宇宙人と地球人のハーフであったりして欲しい。今、近くの席から俺とハルヒをチラチラとうかがっているアホの谷口の正体が未来から来た調査員かなにかであったりしたらとても面白いと思うし、やはりこっちを向いてなぜか微笑んでいる朝倉涼子が超能力者だったら学園生活はちょっと楽しくなると思う。

 だが。そんなことはまずあり得ない。宇宙人や未来人や超能力者がいるなんてことがあり得ないし、たとえいたとしてもホイホイ俺たちの前に登場することも、だいたい何の関係もない俺の前にやってきて「いやあワタクシ、その正体は宇宙人とかでして」と自己|紹介してくれるわけねーだろ。

「だからよ!」

 ハルヒは椅子を蹴倒して叫んだ。教室に揃っていた全員が振り返る。

「だからあたしはこうして一生懸命、」

「遅れてすまない!」

 息せき切って明朗快活岡部体育教師が駆け込んできて、拳を握りしめて立ち上がった姿勢で天井を睨んでいるハルヒとそのハルヒを一斉に振り返ってみている一同を目にして、ギョッと立ちすくんだ。

「あー……ホームルーム、始めるぞ」

 すとんとハルヒは腰を下ろし、机の角を熱心に眺め始める。ふう。

 俺も前を向き、他の連中も前を向き、岡部|教諭はよたよたと壇上に登り、咳払いを一つ。

「遅れてすまない。あー……ホームルーム、始めるぞ」

 最初から言い直し、いつもの日常が復活した。おそらくこんな日常こそがハルヒの最も忌むべきものなんだろうな。

 でも人生ってそんなもんだろ?

 しかしな。ハルヒの生き様をうらやましいと思う理屈では割り切れない感情が心の片隅でひっそり躍っていることも無視出来ない。

 俺がとうにあきらめてしまった非日常との邂逅をいまだに待ち望んでいるわけだし、何と言ってもやり方がアクティブだよな。

 ただ待っていても都合よくそんなもんは現れやしない。だったらこちらから呼んじまおう。で、校庭に白線引いたり屋上にペンキ塗ったりフダを貼り回ったり。

 いやはや(これって死語か?)。

 いつからハルヒが傍目から見るとトチ狂っているとしか思えないことをやっていたのか知らんけど、待てど暮らせど何も現れず、業を煮やしては奇怪な儀式を行ってもナシのツブテ、そりゃいつも全世界を呪っているような顔にもなる……わけないか。

 休み時間、谷口が難しい表情を顔に貼り付けてやって来た。そんな顔してると本当にアホみたいだぞ、谷口。

「ほっとけ。んなこたぁいい。それよりお前、どんな魔法を使ったんだ?」

「魔法って何だ?」

 高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないという警句を思い出しながら俺は聞き返した。授業が終わると例によって教室から消えてしまったハルヒの席を親指で差して谷口は言った。

「俺、涼宮が人とあんなに長い間|喋ってるの初めて見るぞ。お前、何言ったんだ?」

 さて、何だろう。適当なことしか訊いていないような気がするんだが。

「驚天動地だ」

 あくまで大げさに驚きを表明する谷口。その後からひっこりと国木田が顔を出した。

「昔からキョンは変な女が好きだからねぇ」

 誤解を招くようなことを言うな。

「キョンが変な女を好きでもいっこうに構わん。俺が理解しがたいのは、涼宮がキョンを相手にちゃんと会話を成立させたことだ。納得がいかん」

「どちらかと言うとキョンも変な人間にカテゴライズされるからじゃないかなぁ」

「そりゃ、キョンなんつーあだ名の奴がまともであるはずはないんだがな。それにしても」

 キョンキョン言うな。俺だってこんなマヌケなニックネームで呼ばれるくらいなら本名で呼ばれたほうがいくらかマシだ。せめて妹には「お兄ちゃん」と呼んでもらいたい。

「あたしも聞きたいな」

 いきなり女の声が降って来た。軽やかなソプラノ。見上げると朝倉涼子の作り物でもこうはいかない笑顔が俺に向けられていた。

「あたしがいくら話かけても、なーんも答えてくれない涼宮さんがどうしたら話すようになってくれるのか、コツでもあるの?」

 俺は一応考えてみた。と言うか考えるフリをして首を振った。考えるまでもないからな。

「解らん」

 朝倉は笑い声を一つ。

「ふーん。でも安心した。涼宮さん、いつまでもクラスで孤立したままじゃ困るもんね。一人でも友達が出来たのはいいことよね」

 どうして朝倉涼子がまるで委員長みたいな心配をするのかと言うと、委員長だからである。この前のロングホームルームの時間にそう決まったのだ。

「友達ね……」

 俺は首をかしげる。そうなのか? それにしては俺はハルヒの渋面しか見ていないような気がするぞ。

「その調子で涼宮さんをクラスに溶け込めるようにしてあげてね。せっかく一緒のクラスになったんだから、みんなで仲良くしていきたいじゃない? よろしくね」

 よろしくね、と言われてもな。

「これから何か伝えることがあったら、あなたから言ってもらうようにするから」

 いや、だから待てよ。俺はあいつのスポークスマンでも何でもないぞ。

「お願い」

 両手まで合わされた。俺は「ああ」とか「うう」とか呻き、それを肯定の意思表示と取ったのか、朝倉は黄色いチューリップみたいな笑顔を投げかけて、また女子の輪の中へ戻って行った。輪を構成する女どもが残らずこちらを注目していたことが俺の気分をさらにツーランクほどダウンさせる。

「キョン、俺たち友達だよな……」

 谷口が胡乱な目で俺に言う。何の話だよ。国木田までが目を閉じ腕を組んで意味もなく頷いている。

 どいつもこいつもアホだらけだ。

 席替えは月に一度といつの間にやら決まったようで、委員長朝倉涼子がハトサブレの缶に四つ折にした紙片のクジを回して来たものを引くと俺は中庭に面した窓際後方二番目というなかなかのポジションを獲得した。その後ろ、ラストグリッドについたのが誰かと言うと、なんてことだろうね、涼宮ハルヒが虫歯をこらえるような顔で座っていた。

「生徒が続けざまに失踪したりとか、密室になった教室で先生が殺されてたりとかしないもかしらね」

「物騒な話だな」

「ミステリ研究会ってのがあったのよ」

「へえ。どうだった?」

「笑わせるわ。今まで一回も事件らしい事件に出くわさなかったって言うんだもの。部員もただのミステリ小説オタクばっかりで名|探偵みたいな奴もいないし」

「そりゃそうだろう」

「超常現象研究会にはちょっと期待してたんだけど」

「そうかい」

「ただのオカルトマニアの集まりでしかないのよ、どう思う?」

「どうも思わん」

「あー、もう、つまんない! どうしてこの学校にはもっとマシな部活動がないの?」

「ないもんはしょうがないだろう」

「高校にはもっとラディカルなサークルがあると思ってたのに。まるで甲子園を目指す気まんまんで入学したのに野球部がなかったと知らされた野球バカみたいな気分だわ」

 ハルヒはお百度参りを決意した呪い女のようなワニ目で中空を眺め、北風のようなため息をついた。

 気の毒だと思うところなのか。ここは?

 だいたいにおいて、ハルヒがどんな部活動なら満足するのか、その定義が不明である。本人にも解っていないんじゃないのか? 漠然と「何か面白いことをしてて欲しい」と思っているだけで、その「面白いこと」が何なのか、殺人事件の解決なのか、宇宙人探しなのか、妖魔退散なのか、こいつの中でも定まっていない気がする。

「ないもんはしょうがないだろ」

 俺は意見してやった。

「結局のところ、人間はそこにあるもので満足しなければならないのさ。言うなれば、それを出来ない人間が、発明やら発見やらをして文明を発達させてきたんだ。空を飛びたいと思ったから飛行機作ったし、楽に移動したいと考えたから車や列車を産み出したんだ。でもそれは一部の人間の才覚や発想によって初めて生じたものなんだ。天才が、それを可能にしたわけだ。凡人たる我々は、人生を凡庸に過ごすのが一番であってだな。身分不相応な冒険心なんか出さないほうが、」

「うるさい」

 ハルヒは俺が気分よく演説していることろを中断させて、あらぬ方向を向いた。実に機嫌が悪そうだ。まあ、それもいつものことだ。

 多分、この女はなんだっていいんだろう。ツマラナイ現実から遊離した現象ならば。でもそんな現象はそうそうこの世にはない。つーか、ない。

 物理法則万歳! おかげで俺たちは平穏無事に暮らしていられる。ハルヒには悪いがな。

 そう思った。

 普通だろ?

 いったい何がきっかけだったんだろうな。

 前述の会話がネタフリだったのかもしれない。

 それは突然やって来た。

 うららかな日差しに眠気を誘われ、船をこぎこぎ首をカクカクさせていた俺の襟首をわしづかみにされたかと思うと恐るべき勢いで引っ張られ、脱力の極みにいた俺の後頭部が机の角に猛然と激突、俺は目の前に刻の涙を見た。

「何しやがる!」

 もっともな怒りをもって憤然と振り返った俺が見たものは、俺の襟をひっつかんで突っ立っている涼宮ハルヒの----初めて見る----赤道直下の炎天下じみた笑顔だった。もし笑顔に温度が付帯しているなら、熱帯雨林のど真ん中くらいの気温になっているだろう。

「気がついた!」

 唾を飛ばすな。

「どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」

 ハルヒは白鳥座α星くらいの輝きを見せる両眼を真っ直ぐに俺に向けていた。仕方なく俺は尋ねる。

「何に気付いたんだ?」

「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」

「何を」

「部活よ!」

 頭が痛いのは机の角にぶつけただけではなさそうだ。

「そうか。そりゃよかったな。ところでそろそろ手を離してくれ」

「なに? その反応。もうちょっとあんたも喜びなさいよ、この発見を」

「その発見とやらは後でゆっくり聞いてやる。場合によってはヨロコビを分かち合ってもい。ただ、今は落ち着け」

「なんのこと?」

「授業中だ」

 ようやくハルヒは俺の襟首から手を離した。じんじんする頭を押さえて前に向き直った俺は、全クラスメイトの半口を明けた顔と、チョーク片手に今にも泣きそうな大学出たての女教師を視界に捕らえた。

 俺は後ろに早く座れと手で合図し、次いで哀れな英語教師に掌を上に向けて差し出して見せた。

 どうぞ、授業の続きを。

 なにかを呟きつつ、ともかくハルヒは着席し、女教師は板書の続きに戻り……

 新しくクラブを作る?

 ふむ。

 まさか、俺にも一枚|噛めと言うんじゃないだろうな。

 痛む後頭部がよからぬ予感を告げていた。

 

第二章

 

 結果から言おう。そのまさかだった、と。

 その後の休み時間、ハルヒはいつものように一人で教室から出て行くことはなかった。その代わり、俺の手を強引に引いて歩き出した。教室を出て廊下をずんずん進み階段を一段飛ばしで登り屋上へ出るドアの前に来て停止する。

 屋上へのドアは常時|施錠されていて、四階より上の階段はほとんど倉庫代わりになっている。多分美術部だろう。でかいカンバスやら壊れかけのイーゼルやら鼻のかけたマルス像やらがところ狭しと積み上げられていて、実際狭い。しかも薄暗い。

 こんな所に連れ込んで俺をどうしようと言うんだ。

「協力しなさい」

 ハルヒは言った。今、ハルヒがつかんでいるのは俺のネクタイだ。頭一つ分低い位置から鋭い眼光が俺に迫っている。カツアゲされているような気分だよ。

「何を協力するって?」

 実は解っていたが、そう訊いてみた。

「あたしの新クラブ作りよ」

「なぜ俺がお前の思いつきに協力しなければならんのか、それをまず教えてくれ」

「あたしは部室と部員を確保するから、あんたは学校に提出する書類を揃えなさい」

 聞いちゃいねえ。

 俺はハルヒの手を振りほどくと、

「何のクラブを作るつもりなんだ?」

「どうでもいいじゃないの、そんなの。とりあえずまず作るのよ」

 そんな活動内容不明なクラブを作ったとして学校側が認めるか大いに疑問だがな。

「いい? 今日の放課後までに調べておいて。あたしもそれまでに部室を探しておくから。いいわね」

 よくない、などと言えばこの場で撲殺されそうな気配だった。俺が何と返答すべきかを考えているうちにハルヒは身を翻して軽妙な足取りでさっさかと階段を降りていき、ホコリっぽい階段の踊り場で途方に暮れる一人の男が残された。

「……俺はイエスともノートも言っていないんだが……」

 石膏像に問いかけるのもむなしく、俺は好奇心のかたまりになっているであろうクラスメイトどもに何と挨拶して教室に入ろうかと考えながら歩き出した。

「同好会」の新設に伴う規定。

 人数五人以上。顧問の教師、名称、責任者、活動内容を決定し、生徒会クラブ運営委員会で承認されることが必要。活動内容は創造的かつ活力ある学校生活を送るに相応しいものに限られる。発足以降の活動・実績によって「研究会」への昇格が運営委員会において動議される。なお、同好会に留まる限り予算は配分されない。

 わざわざ調べるまでもなかった。生徒手帳の後ろのほうにそう書いてある。

 人数は適当に名前だけ借りるとかして揃えることも可能だろう。顧問はなかなか難しいが、何とかだまくらかしてなってもらうという手もある。名称も当り障りのないものにする。責任者は勿論ハルヒでいい。

 だが、賭けてもいいがその活動内容が「創造的かつ活力ある学校生活を送るに相応しいもの」になることはないだろう。

 そう言ったんだけどな。自分の都合の悪いことには聞く耳を持たないのが涼宮ハルヒの涼宮ハルヒたるゆえんである。

 終業のチャイムが鳴るや否や俺のブレザーの袖を万力のようなパワーで握りしめたハルヒは拉致同然に俺を教室から引きずり出してたったかと早足で歩き出した。鞄を教室に置き去りにしないようにするのが精一杯だった。

「どこ行くんだよ」

 俺の当然の疑問に、

「部室っ」

 前方をのたりのたり歩いている生徒たちを蹴散らす勢いで歩みを進めつつハルヒは短く答え、後は沈黙を守り通した。せめて手は離せ。

 渡り廊下を通り、一階まで降り、いったん外に出て別校舎に入り、また階段を登り、薄暗い廊下の半ばでハルヒは止まり俺も立ち止まった。

 目の前にある一枚のドア。

 文芸部。

 そのように書かれたプレートが斜めに傾いで貼り付けられている。

「ここ」

 ノックもせずにハルヒはドアを引き、遠慮も何もなく入っていった。無論俺も。

 意外に広い。長テーブルとパイプ椅子、それにスチール製の本棚くらいしかないせいだろうか。天井や壁には年代を思わせるヒビ割れが二、三本走っており建物自体の老朽化を如実に物語っている。

 そしてこの部屋のオマケのように、一人の少女がパイプ椅子に腰掛けて分厚いハードカバーを読んでいた。

「これからこの部室が我々の部室よ!」

 両手を広げてハルヒが重々しく宣言した。その顔は神々しいまでの笑みに彩られていて、俺はそういう表情を教室でもずっと見せていればいいのにとか思ったが言わずにおいた。

「ちょっと待て。どこなんだよ、ここは」

「文化系部の部室|棟よ。美術部や吹奏楽部なら美術室や音楽室があるでしょ。そういう特別教室を持たないクラブや同好会の部室が集まっているのがこの部室棟。通称旧館。この部室は文芸部」

「じゃあ、文芸部なんだろ」

「でも今年の春に三年生が卒業して部員ゼロ、新たに誰かが入部しないと休部が決定していた唯一のクラブなのよ。で、このコが一年生の新入部員」

「てことは休部になってないじゃないか」

「似たようなもんよ。一人しかいないんだから」

 呆れた野郎だ。こいつは部室を乗っ取る気だぞ。俺は折りたたみテーブルに本を開いて読書にふける文芸部一年生らしきその女の子に視線を振った。

 眼鏡をかけた髪の短い少女である。

 これだけハルヒが大騒ぎしているのに顔を上げようともしない。たまに動くのはページを繰る指先だけで残りの部分は微動だにせず、俺たちの存在を完璧に無視してのけている。これはこれで変な女だった。

 俺は声をひそめてハルヒに囁いた。

「あの娘はどうするんだよ」

「別にいいって言ってたわよ」

「本当かそりゃ?」

「昼休みに会ったときに。部室貸してっていったら、どうぞって。本さえ読めればいいらしいわ。変わっていると言えば変わっているわね」

 お前が言うな。

 俺はあらためてその変わり者の文芸部員を観察した。

 白い肌に感情の欠落した顔、機械のように動く指。ボブカットをさらに短くしたような髪がそれなりに整った顔を覆っている。出来れば眼鏡を外したところも見たみたい感じだ。どこか人形めいた雰囲気が存在感を希薄なものにしていた。身も蓋もない言い方をすれば、早い話がいわゆる神秘的な無表情系ってやつ。

 しげしげと眺める俺の視線をどう思ったのか、その少女は予備動作なしで面を上げて眼鏡のツルを指で押さえた。

 レンズの置くから闇色の瞳が俺を見つめる。その目にも、唇にも、まったく何の表情も浮かんでいない。無表情レベル、マックスだ。ハルヒのものとは違って、最初から何の感情も持たないようなデフォルトの無表情である。

「長門有希」

 と彼女は言った。それが名前らしい。聞いた三秒後には忘れてしまいそうな平坦で耳に残らない声だった。

 長門有希は瞬きを二回するあいだぶんくらい俺を注視すると、それきり興味を失ったようにまた読書に戻った。

「長門さんとやら」俺は言った。「こいつはこの部室を何だか解らん部の部室にしようとしてんだぞ、それでもいいのか?」

「いい」

 長門有希はページから視線を離さずに答える。

「いや、しかし、多分ものすごく迷惑をかけると思うぞ」

「別に」

「そのうち追い出されるかもしれんぞ?」

「どうぞ」

 即答してくるのはいいが、まるで無感動な応答だな。心の底からどうでもいいと思っている様子である。

「ま、そういうことだから」

 ハルヒが割り込んできた。こっちの声はやたらに弾んでいる。なんとなく、あまりいい予感がしなかった。

「これから放課後、この部室に集合ね。絶対来なさいよ。来なかったら死刑だから」

 桜満開の笑みで言われて、俺は不承不承ながらうなずいた。

 死刑はいやだったからな。

 こうして部室を間借りすることになったのいいが、書類のほうはまだ手つかずである。だいたい名称も活動内容も決まっていないのだ。先にそれを決めてからにしろと言ったんだが、ハルヒにはまた別の考えがあるようだ。

「そんなもんはね、後からついてくるのよ!」

 ハルヒは高らかにのたまった。

「まずは部員よね。最低後二人はいるわね」

 ってことはなんだ、あの文芸部員も頭数に入れてしまっているのか? 長門有希を部室に付属する備品か何かと勘違いしているんじゃないか?

「安心して。すぐに集めるから。適材な人間の心当たりはあるの」

 何をどう安心すればいいのだろう。疑問は深まるばかりである。

 次の日、一緒に帰ろうぜと言う谷口と国木田に断りを入れて俺は、しょうがない、部室へと足を運んだ。

 ハルヒは「先にいってて!」と叫ぶや陸上部が是非我が部にと勧誘したのも解るスタートダッシュで教室を飛び出した。足首にブースターでも付いているのかと思いたくなる勢いだ。おそらく新しい部員を確保しに行ったのだろう。とうとう宇宙人の知り合いでも出来たんだろうか。

 通学鞄を肩に引っかけて俺は乗り気のしない足取りで文芸部に向かった。

 部室にはすでに長門有希がいて、昨日とまったく同じ姿勢で読書をしておりデジャブを感じさせた。俺が入ってきてもピクリともしないのも昨日と同じ。よく知らないのだが、文芸部ってのは本を読むクラブなのか?

 沈黙。

「……何を読んでんだ?」

 二人して黙りこくっているのに耐えかねて俺はそう訊いてみた。長門有希は返事の代わりにハードカバーをひょいと持ち上げて背表紙を俺に見せる。睡眠薬みたいな名前のカタカナがゴシック体で躍っていた。SFか何かの小説らしい。

「面白い?」

 長門有希は無気力な仕草で眼鏡のブリッジに指をやって、無気力な声を発した。

「ユニーク」

 どうも訊かれたからとりあえず答えているみたいな感じである。

「どういうところが?」

「ぜんぶ」

「本が好きなんだな」

「わりと」

「そうか……」

「……」

 沈黙。

 帰っていいかな、俺。

 テーブルに鞄を置いて余っていたパイプ椅子に腰を下ろそうとしたとき、蹴飛ばされたようにドアが開いた。

「やあごめんごめん! 遅れちゃった! 捕まえるのに手間取っちゃって!」

 片手を頭の上でかざしてハルヒが登場した。後ろに回されたもう一方の手が別の人間の腕をつかんでいて、どう見ても無理矢理連れてこられたと思しきその人物共々、ハルヒはズカズカ部室に入ってなぜかドアに錠を施した。ガチャリ、というその音に、不安げに震えた小柄な身体の持ち主は、またしても少女だった。

 しかもまたすんげー美少女だった。

 これのどこが「適材な人間」なんだろうか。

「なんなんですかー?」

 その美少女も言った。気の毒なことに半泣き状態だ。

「ここどこですか、なんでわたし連れてこられたんですか、何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を、」

「黙りなさい」

 ハルヒの押し殺した声に少女はビクッとして固まった。

「紹介するわ。朝比奈みくるちゃんよ」

 それだけ言ったきり、ハルヒは黙り込んだ。もう紹介終わりかよ。

 名状しがたき気詰まりな沈黙が部屋を支配した。ハルヒはすでに自分の役割を果たしたみたいな顔で立ってるし、長門有希は何一つ反応することなく読書を続けてるし、朝比奈みくるとかいうらしい謎の美少女は今にも泣きそうな顔でおどおどしてるし、誰かなんか言えよと思いながら俺はやむを得ず口を開いた。

「どこから拉致して来たんだ?」

「拉致じゃなくて任意同行よ」

 似たようなもんだ。

「二年の教室でぼんやりしているところを捕まえたの。あたし、休み時間には校舎をすみずみまで歩くようにしてるから、何回か見かけて覚えていたわけ」

 休み時間に絶対教室にいないと思ったらそんなことをしていたのか。いや、そんなことより、

「じゃ、この人は上級生じゃないか!」

「それがどうかしたの?」

 不思議そうな顔をしやがる。本当に何とも思っていないらしい。

「まあいい……。それはそれとして、ええと、朝比奈みくるさんか。なんでまたこの人なんだ?」

「まあ見てごらんなさいよ」

 ハルヒは指を朝比奈みくるさんの鼻先に突きつけ彼女の小さい肩をすくませて、

「めちゃくちゃ可愛いでしょ」

 アブナイ誘拐犯のようなことを言い出した。と思ったら、

「わたしね、萌えってけっこう重要なことだと思うのよ」

「……すまん、何だって?」

「萌えよ萌え、いわゆる一つの萌え要素。基本的にね、何かおかしな事件が起こるような物語にはこういう萌えでロリっぽいキャラが一人はいるものなのよ!」

 思わず俺は朝比奈みくるさんを見た。小柄である。ついでに童顔である。なるほど、下手をすれば小学生と間違ってしまいそうでもあった。微妙にウェーブした栗色の髪が柔らかく襟元を隠し、子犬のようにこちらを見上げる潤んだ瞳が守ってください光線を発しつつ半開きの唇から覗く白磁の歯が小ぶりの顔に絶妙なハーモニーを醸し出し、光る玉の付いたステッキでも持たせたらたちどころに魔女っ娘にでも変身しそうな、って俺は何を言っているんだろうね?

「それだけじゃないのよ!」

 ハルヒは自慢げに微笑みながら朝比奈みくるさんなる上級生の背後に回り、後ろからいきなり抱きついた。

「わひゃああ!」

 叫ぶ朝比奈さん。お構いなしにハルヒはセーラー服の上から獲物の胸をわしづかみ。

「どひぇええ!」

「ちっこいくせに、ほら、あたしより胸でかいのよ。ロリ顔で巨乳、これも萌えの重要要素の一つなのよ!」

 知らん。

「あー、本当におっきいなー」

 終いにはハルヒはセーラー服の下から手を突っ込んでじかに揉み始めた。おーい。

「なんか腹立ってきたわ。こんな可愛らしい顔して、あたしより大きいなんて!」

「たたたす助けてえ!」

 顔を真っ赤にして手足をバタつかせる朝比奈さんだが、いかんせん体格の差はいかんともしがたく、調子に乗ったハルヒが彼女のスカートを捲り上げかけたあたりで背中にへばりついている痴漢女を引きはがした。

「アホかお前は」

「でも、めちゃデカイのよ。マジよ。あんたも触ってみる?」

 朝比奈さんは小さく、ひいっ、と悲鳴を漏らした。

「遠慮しとく」

 そう言うしかあるまい。

 驚くべきことに、この間、長門有希は一度も顔を上げることなく読書にふけり続けていた。こいつもどうかしている。

 それからふと気付いて、

「すると何か、お前はこの……朝比奈さんが可愛くて小柄で胸が大きかったからという理由なだけでここに連れてきたのか?」

「そうよ」

 真性のアホだ、こいつ。

「こういうマスコット的なキャラも必要だと思って」

 思うな、そんなこと。

 朝比奈さんは乱れた制服をパタパタ叩いて直し、上目遣いに俺をじっと見た。そんな目で見られても困る。

「みくるちゃん、あなた他に何かクラブ活動してる?」

「あの……書道部に……」

「じゃあ、そこ辞めて。我が部の活動の邪魔だから」

 どこまでも自分本位なハルヒだった。

 朝比奈さんは、飲む毒の種類は青酸カリがいいかストリキニーネがいいかと訊かれた殺人事件の被害者のような顔つきでうつむき、救いを求めるようにもう一度俺を見上げ、次に長門有希の存在に初めて気付いて驚愕に目を見開き、しばらく視線を彷徨わせてからトノボのため息ような声で「そっかー……」と呟いて、

「解りました」と言った。

 何が解ったんだろう。

「書道部は辞めてこっちに入部します……」

 可哀想なくらいに悲愴な声である。

「でも文芸部って何するところなのかよく知らなくって、」

「我が部は文芸部じゃないわよ」

 当たり前のように言うハルヒ。

 目を丸くする朝比奈さんに、俺はハルヒに代わって言ってあげた

「ここの部室は一時的に借りてるだけなんです。あなたが入られようとしているのは、そこの涼宮がこれから作る活動内容未定で名称不明の同好会ですよ」

「……えっ……」

「ちなみにあっちで座って本読んでいるのが本当の文芸部員です」

「はあ……」

 愛くるしい唇をポカンと開ける朝比奈さんはそれっきり言葉を失った。無理もあるまい。

「だいじょうぶ!」

 無責任なまでの明るい笑顔でハルヒは朝比奈さんの小さい肩をどやしつけた。

「名前なら、たった今、考えたから」

「……言ってみろ」

 期待値ゼロの俺の声が部屋に響く。出来ればあまり聞きたくない。そんな俺の思いなど頓着するはずもない涼宮ハルヒは声高らかに命名の雄叫びを上げたのだった。

 お知らせしよう。何の紆余曲折もなく単なるハルヒの思いつきにより、新しく発足するクラブの名は今ここに決定した。

 SOS団。

 世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団。

 略してSOS団である。

 そこ、笑っていいぞ。

 俺は笑う前に呆れたけどな。

 なぜに団かと言うと、本来なら「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの同好会」とすべきなんだろうが、なにしろまだ同好会の体すらたっていない上に、何をする集団なのかも解らないのである。「それだったら、団でいいじゃない」という意味不明なハルヒのヒトコトによりめでたくそのように決まった。

 朝比奈さんはあきらめきったように口を閉ざし、長門有希は部外者であり、俺は何を言う気にもなれなかったため、賛成一、棄権三で「SOS団」はめでたく発足の運びとなった。

 好きにしろよ、もう。

 毎日放課後ここに集合ね、とハルヒが全員に言い渡して、この日は解散となった。肩を落としてトボトボ廊下を歩いている朝比奈さんの後姿があまりに哀れを催したので、

「朝比奈さん」

「何ですか」

 年上にまったく見えない朝比奈さんは純真そのものの無垢な顔を傾けた。

「別に入んなくてもいいですよ、あんな変な団に。あいつのことなら気にしないで下さい。俺が後から言っときますから」

「いえ」

 立ち止まって、彼女はわずかに目を細めた。笑みの形の唇から綿毛のような声が、

「いいんです。入ります、わたし」

「でも多分、ろくなことになりませんよ」

「大丈夫です。あなたもいるんでしょう?」

 そういや俺は何でいるんだろうな。

「おそらく、これがこの時間平面上の必然なんでしょうね……」

 つぶらと表現するしかない彼女の目が遠くのほうを見た。

「へ?」

「それに長門さんがいるのも気になるし……」

「気になる?」

「え、や、何でもないです」

 朝比奈さんは慌てた感じで首をぶんぶん振った。ふわふわの髪の毛がふわふわと揺れる。

 そして朝比奈さんは照れ笑いをしながら深々と腰を折った。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

「まあ、そう言われるんでしたら……」

「それからあたしのことでしたら、どうぞ、みくるちゃんとお呼び下さい」

 にっこり微笑む。

 うーん。眩暈を覚えるほど可愛い。

 ある日のハルヒと俺の会話。

「あと必要なのは何だと思う?」

「さあな」

「やっぱり謎の転校生は押さえておきたいと思うわよね」

「謎の定義を教えて欲しいものだ」

「新年度が始まって二ヶ月も経ってないのに、そんな時期に転校してくる奴は充分謎の資格があると思うでしょ、あんたも」

「親父が急な転勤になったとかじゃねえのか」

「いいえ、不自然だわ。そんなの」

「お前にとって自然とはなんなのか、俺はそれが知りたい」

「来ないもんかしらね、謎の転校生」

「ようするに俺の意見なんかどうでもいいんだな、お前は」

 どうもハルヒと俺が何かを企てている噂が流れているらしい。

「お前さあ、涼宮と何やってんの?」

 こんなこと訊いてくるのは谷口に決まっている。

「まさか付き合いだしたんじゃねえよな?」

 断じて違う。俺が一体全体何をやっているのか、それはこの俺自身が一番知りたい。

「ほどほどにしとけよ。中学じゃないんだ。グラウンドを使い物に出来なくなるようなことしたら悪けりゃ停学くらいにはなるぜ」

 ハルヒが一人でやるんであれば俺はそこまで面倒見きれないがな。少なくとも、長門有希や朝比奈みくるさんに害が及ばないように注意はしておこう。こんな配慮の出来る自分がちょっと誇らしい。

 暴走特急と化したハルヒを止める自身はあまりないけども。

「コンピュータも欲しいところね」

 SOS団の設立を宣言して以来、長テーブルとパイプ椅子それに本棚くらいしかなかった文芸部の部室にはやたらと物が増え始めた。

 どこから持ってきたのか、移動式のハンガーラックが部室の片隅に設置され、給湯ポットと急須、人数分の湯飲みも常備、今どきMDも付いていないCDラジカセに一層しかない冷蔵庫、カセットコンロ、土鍋、ヤカン、数々の食器は何だろうか、ここで暮らすつもりなんだろうか。

 今、ハルヒはどっかの教室からガメてきた勉強机の上であぐらをかいて腕を組んでいた。その机にはあろうことか「団長」とマジックで書かれた三角錐まで立っている。

「この情報化時代にパソコンの一つもないなんて、許し難いことだわ」

 誰を許さないつもりなのか。

 一応メンバーは揃っていた。相も変わらず長門有希は定位置で土星のマイナー衛星が落ちたとかどうしたとかいうタイトルのハードカバーを読みふけり、来なくてもいいのに生真面目にもちゃんとやって来た朝比奈みくるさんは所在なげにパイプ椅子に腰|掛けている。

 ハルヒは机から飛び降りると、俺に向かって実にいやぁな感じのする笑いを投げかけた。

「と言うわけで、調達に行くわよ」

 狩猟区へ鹿撃ちに行くハンターの目でハルヒは言った。

「調達って、パソコンを? どこでだよ。電気屋でも襲うつもりか」

「まさか。もっと手近なところよ」

 ついてきなさい、と命令された俺と朝比奈みくるさんを引き連れてハルヒが向かった先は、二|軒隣のコンピューター研究部だった。

 なるほど。

「これ持ってて」

 そう言って俺にインスタントカメラを渡す。

「いいこと? 作戦を言うから、その通りにしてよ。タイミングを逃さないように」

 俺に身を屈めさせてハルヒは耳元でその「作戦」とやらをごにょごにょと呟いた。

「ああん? そんな無茶苦茶な」

「いいのよ」

 お前はいいかもしれんが。俺は不思議そうにこっちを見ている朝比奈さんを一瞥し、アイコンタクトを図った。

 とっとと帰ったほうがいいですよ。

 目をパチパチさせている俺を朝比奈さんは怪訝そうな顔で見上げ、いかなる理屈か、頬を赤らめた。だめだ、通じていない。

 そんなことをしているうちにハルヒは平気な顔でコンピュータ研究部のドアをノックもなしに開いた。

「こんちわー! パソコン一式、いただきに来ましたー!」

 間取りは同じだが、こちらの部室はなかなか手狭だった。等間隔で並んだテーブルには何台ものディスプレイとタワー型の本体が載っていて、冷却ファンの回る低い音が室内の空気を振動させている。

 席についてキーボードをカチャカチャと叩いていた四人の男子生徒、何事かと身を乗り出して入り口に立ちふさがるハルヒを凝視していた。

「部長は誰?」

 笑いつつも横柄にハルヒが言い、一人が立ち上がって答えた。

「僕だけど、何の用?」

「用ならさっき言ったでしょ。一台でいいから、パソコンちょうだい」

 コンピュータ研究部部長、名も知れぬ上級生は「何言ってんだ、こいつ」という表情で首を振った。

「ダメダメ。ここのパソコンはね、予算だけじゃ足りないから部員の私費を積み立ててようやく買ったものばかりなんだ。くれと言われてあげるほどウチは機材に恵まれていない」

「いいじゃないの一個くらい。こんなにあるんだし」

「あのねえ……ところでキミたち誰?」

「SOS団団長、涼宮ハルヒ。この二人はあたしの部下その一と二」

 言うにことかいて部下はないだろう。

「SOS団の名において命じます。四の五の言わずに一台よこせ」

「キミたちが何者かは解らないけど、ダメなもんはダメ。自分たちで買えばいいだろ」

「そこまで言うのならこっちにも考えがあるわよ」

 ハルヒの瞳が不敵な光を放つ。よくない兆候である。

 ぼんやり立っていた朝比奈さんの背を押してハルヒは部長へと歩み寄り、いきなりそいつの手首を握りしめたかと思うと、電光石火の早業で部長の掌を朝比奈さんの胸に押しつけた。

「ふぎゃあ!」

「うわっ!」

 パシャリ。

 二種類の悲鳴をBGMに聞きながら俺はインスタントカメラのシャッターを切った。

 逃げようとする朝比奈さんを押さえつけ、ハルヒは右手につかんだ部長氏の手でぐりぐりと小柄な彼女の胸をまさぐった。

「キョン、もう一枚|撮って」

 不本意ながら俺はシャッターボタンを押すのだった。すまない、朝比奈さん。と、名も知らぬ部長。朝比奈さんのスカートの中に突っ込まれる寸前に部長はやっと手を振り解いて跳びすさった。

「何をするんだぁ!」

 紅潮したその顔面の前で、ハルヒは優雅に指を振るった。

「ちちち。あんたのセクハラ現場はばっちり撮らせてもらったわ。この写真を学校中にばらまかれたくなかったら、とっととパソコンをよこしなさい」

「そんなバカな!」

 口角泡を飛ばして抗議する部長。その気持ちはよく解る。

「キミが無理矢理やらせたんじゃないか! 僕は無実だ!」

「いったい何人があんたの言葉に耳を貸すかしらねえ」

 見ると朝比奈さんは床にへたり込んでいた。驚きを通り越してもはや虚脱の境地である。

 なおも部長は抗弁する。

「ここにいる部員たちが証人になってくれる! それは僕の意思じゃない!」

 唖然と大口を空けて石化していた三人のコンピュータ研部員たちが、我に返ったようにうなずいた。

「そうだぁ」

「部長は悪くないぞぉ」

 しかしそんな気の抜けたシュプレヒコールが通用するハルヒではなかった。

「部員全員がグルになってこのコを輪姦したんだって言いふらしてやるっ!」

 俺と朝比奈さんを含む全員の顔が青ざめた。いくらなんでもそれはないだろう。

「すすす涼宮さんっ……!」

 足にすがりつく朝比奈さんの手を軽く蹴飛ばして、ハルヒは傲然と胸を反らした。

「どうなの、よこすの、よこさないの!」

 赤から青へ目まぐるしく変色していた部長の顔はとうとう土気色になった。

 ついに彼は陥落した。

「好きなのを持って行ってくれ……」

 倒れ込むように椅子に背を投げ出した部長に他の部員たちが駆け寄った。

「部長!」

「しっかりしてください!」

「気を確かに!」

 糸の切れたマリオネットの動きで部長は首をうなだれた。ハルヒの片棒をかついでいる俺ではあるのだが、同情を禁じ得ない。

「最新機種はどれ?」

 どこまでも冷徹な女である。

「なんでそんなことを教えなくちゃいけないんだよ」

 怒る部員の言葉もなんのその、ハルヒは無言で俺が持つカメラを指さした。

「くそ! それだよ!」

 そいつが指さしたタワー型のメーカー名と型番を覗き込みつつハルヒはスカートのポケットから紙切れを取り出した。

「昨日、パソコンショップに寄って店員にここ最近出た機種を一覧にしてもらったのよねえ。これには載ってないみたいだけど?」

 あまりの周到さに慄然とするね。

 ハルヒはテーブルをぬって確認して回り、その中の一台を指名した。

「これちょうだい」

「待ってくれ! それは先月|購入したばかりの……!」

「カメラカメラ」

「……持ってけ! 泥棒!」

 まさしく泥棒だ。返す言葉もない。

 ハルヒの要求はとどまるところを知らない。各ケーブルを引っこ抜かせたハルヒはディスプレイから何からいっさいがっさいを文芸部室に運ばせたあげく配線し直すように求め、さらにインターネットを使用できるようにLANケーブルを二つの部屋の間に引かせ、ついで学校のドメインからネットに接続できるようにすることを申しつけ、そのすべてをコンピュータ研部員にやらせた。盗人猛々しいとはこのことだろう。

「朝比奈さん」

 すっかり手持ちぶさたになってしまった俺は両手で顔を覆ってうずくまる小さな身体に、

「とりあえず帰りましょう」

「ぅぅぅぅ……」

 しくしく泣いている朝比奈さんを介添えして立たせた。自分の胸を握らせたらよかったのにな、ハルヒも。男の目の前でも平気で着替えをするあいつなら、んなこと屁とも思わないだろうに。泣きやまない朝比奈さんを宥めながら、パソコンを使って何をするつもりなのかと俺は考えた。

 まあ、ほどなく明らかになったのだが。

 SOS団のウェブサイト立ち上げ。

 ハルヒはそれがしたかったようだ。で、誰が作るんだ? そのウェブサイトやらを。

「あんが」

 と、ハルヒは言った。

「どうせヒマでしょ。やりなさいよ。あたしは残りの部員を探さなきゃならないし」

 パソコンは「団長」と銘打たれた三角錐付きの机に置かれていた。ハルヒはマウスを操ってネットサーフィンしながら、

「一両日中によろしくね。まずサイトが出来ないことには活動しようがないし」

 我関せずとばかりに本を読む長門有希の横で朝比奈さんはテーブルに突っ伏して肩を震わせていた。ハルヒの言葉を聞いているのは、どうやら俺だけであり、ハルヒの託宣を聞いた以上は俺がそれをしないといけないようなのである。少なくともハルヒがそう思っているのは間違いない。

「そんなこと言われてもなあ」

 言いながらも俺はけっこう乗り気だった。いやいや、ハルヒの命令口調になれてきたからじゃないぜ。サイト作りさ。やったことないけど、なんか面白そうじゃないか。

 つまりそういうわけで、次の日から俺のサイト作成奮闘記が始まった。

 とは言え、奮闘することもそうそうなかった。さすがコンピュータ研究部、あらかたのアプリケーションはすでにハードディスク内に収まっており、サイトの作成もテンプレートに従ってちょこっと切ったり貼ったりすればよかったからだ。

 問題はそこに何を書くかである。

 なにせ俺はSOS団が何を活動理念とした団体なのか未だに知らないのだ。知らない活動理念について書けるはずもなく、トップページに「SOS団のサイトにようこそ!」と書いた画像データを貼り付けた段階で俺の指はハタと止まった。いいから作れ早く作れとハルヒが呪文のように耳元で言い続けるのがやかましいので、こうして昼休みに弁当を食いながらマウスを握りしめている俺だった。

「長門、何か書きたいことってあるか?」

 昼休みにまで部室に来て本を読んでいる長門有希に訊いてみた。

「何も」

 顔も上げやしない。どうでもいいがこいつはちゃんと授業に出ているんだろうな。

 長門有希の眼鏡顔から十七インチモニタに目を戻し、俺は再び考え込んだ。

 もう一つの問題がある。正式に認可を受けていない同好会以下の怪しげな団のサイトを、学校のアドレスで作ってしまっていいものなのだろうか。

 バレなきゃいいのよ、とはハルヒの弁。バレたらバレたで放っときゃいいのよ、こんなもんはね、やったもん勝ちなのよ!

 この楽観的で、ある意味前向きな性格はちょっとだけうらやましい。

 適当に拾ってきたフリーCGIのアクセスカウンタを取り付け、メールアドレスを記載して、----掲示板は時期尚早だろう----タイトルページのみでコンテンツ皆無という手抜き以前のホームページをアップロードした。

 こんなんでいいだろ。

 ネット上でちゃんと表示されていることを確認して俺はアプリを次々消してパソコンを終了させ、大きく伸びをしようとして、長門有希が背後にいることに気付いて飛び上がった。

 気配ってもんがないのか。いつの間にかに俺の後ろを取っていた長門の能面のような白い顔。わざとやっても出来そうにない見事な無表情で長門は俺を視力検査表でも見るような目つきで見つめていた。

「これ」

 分厚い本を差し出した。反射的に受け取る。ずしりと重い。表紙は何日か前に長門が読んでいた海外SFのものだった。

「貸すから」

 長門は短く言い残すと俺に反駁するヒマを与えることなく部屋を出て行った。こんな厚い本を貸されても。一人取り残された俺の耳に、昼休みがもうすぐ終わることを告げる予鈴が届いた。どうも俺の周りには俺の意見を聞こうとする奴が少ないみたいだ。

 ハードカバー本を手みやげに教室へ戻った俺の背中をシャープペンの先がつついた。

「どう、サイト出来た?」

 ハルヒが難しい顔をして机にかじりついていた。破ったノートに何やらせっせとペン先を走らせている。俺は出来るだけクラスの注目を浴びないようなさりげなさを装って、

「出来たには出来たが、見に来た奴が怒りそうな何もないサイトだぞ」

「今はまだそれでもいいのよ。メールアドレスさえあればオッケー」

 じゃあ携帯メールでも充分じゃないか。

「それはダメ。メールが殺到すると困る」

 何をどうすれば登録したばかりのアドレスにメールが殺到するんだ?

「内緒」

 そしてまたいやぁな感じの笑い。不気味だ。

「放課後になったら解るわよ。それまで極秘」

 永遠に極秘にしておいて欲しい。

 次の六時間目、ハルヒの姿は教室になかった。おとなしく帰っていてくれればいいのだが、まずあり得まい。悪事の前段階。

 その放課後である。自分のやっていることに疑念を覚えつつ、つい部室へと足を向けてしまうのは何故だろうと形而上学的な考察を働かせながら俺は文芸部室へとやって来た。

「ちわー」

 やっぱりいる長門有希と、両手を揃えて椅子に座っている朝比奈みくるさん。

 人のことは言えないが、よっぽどヒマなのか、この二人は。

 俺が入っていくと朝比奈さんはあからさまにホッとした表情になって会釈した。長門と二人で密室にいたら、そりゃ疲れるわな。

 つーか、あなた、あんな目にあいながらよく今日も来ましたね。

「涼宮さんは?」

「さあ、六限にはすでにいませんでしたけどね。またどこかで機材を強奪してるんじゃないですか」

「あたし、また昨日みたいなことしないといけないんでしょうか……」

 額に縦線を浮かべてうつむく朝比奈さんに、俺は精一杯の愛想の良さで

「大丈夫です。今度あいつが無理矢理朝比奈さんにあんなことしようとしたら、俺が全力で阻止します。自分の身体でやりゃいいんですよ。涼宮なら楽勝です」

「ありがとう」

 ペコリと頭を下げるはにかんだ微笑みのあまりの可愛さに思わず朝比奈さんを抱きしめたくなった。しないけどね。

「お願いします」

「お願いされましょう」

 太鼓判を押したのはいいが、俺のそんな約束が机上の空論、砂上の楼閣、太陽内部の水素原子のように崩壊するまでに五分とかからなかった。ダメ人間だ、俺。

「やっほー」

 とか言いながらハルヒ登場。両手に提げているでかい紙袋が俺の目を引いた。

「ちょっと手間取っちゃって、ごめんごめん」

 上機嫌時のハルヒは必ず他人の迷惑になりそうなことを考えていると見て間違いない。

 ハルヒは紙袋を床に置くと後ろ手でドアの鍵をかけた。その音に反射的にビクンとなる朝比奈さん。

「今度は何をする気なんだ、涼宮。言っとくが押し込み強盗のマネだけは勘弁な。あと脅迫も」

「何言ってんの? そんなことするわけないじゃないの」

 では机に載っているパソコンは何だ。

「平和裏に寄付してくれたものよ。そんなことより、ほら、これご覧なさい」

 紙袋の一つからハルヒの取り出したものは、何やら手書き文字が印刷されたA4の藁半紙である。

「わがSOS団の名を知らしめようと思って作ったチラシ。印刷室に忍び込んで二百枚ほど刷ってきたわ」

 ハルヒは俺たちにチラシを配った。授業をサボってそんなことをしていたのか。よく見つからなかったもんだ。別段見たくもなかったが俺はとりあえず受け取ったそれに目を通す。

『SOS団結団に伴う所信表明。

 わがSOS団はこの世の不思議を広く募集しています。過去に不思議な経験をしたことのある人、今現在とても不思議な現象や謎に直面している人、遠からず不思議な体験をする予定の人、そういう人がいたら我々に相談するとよいです。たちどころに解決に導きます。確実です。ただし普通の不思議さではダメです。我々が驚くまでに不思議なコトじゃないといけません。注意してください。メールアドレスは……』

 この団の存在意義がだんだん解ってきた。どうあってもハルヒはSFだかファンタジーだかホラーだかの物語世界に浸ってみたいらしい。

「では配りに行きましょう」

「どこでだよ」

「校門。今ならまだ下校していない生徒もいっぱいいるし」

 はいはいそうですか、と紙袋を持とうとした俺を、しかしハルヒは制した。

「あんたは来なくていいわよ。来るのはみくるちゃん」

「はい?」

 両手で藁半紙を握りしめ駄文を読んでいた朝比奈さんが首を傾げる。ハルヒはもう一つの紙袋をごそごそかき回し、そして勢いよくブツを取り出した。

「じゃあああん!」

 猫型ロボットのように得意満面にハルヒが手にしているのは最初黒い布切れに見えた。が、オーノー! ハルヒが四次元ポケットよろしく次々出してきたアイテムが揃うにつれ、俺はなぜハルヒが朝比奈さんを指名したのかを悟り、そして朝比奈さんのために祈った。あなたの魂に安らぎあれ。

 黒いワンウェイストレッチ、網タイツ、付け耳、蝶ネクタイに、白いカラー、カフス及びシッポ。

 それはどこからどう見てもバニーガールの衣装なのだった。

「あのあのあの、それはいったい……」

 怯える朝比奈さん。

「知ってるでしょ? バニーガール」

 こともなげに言うハルヒ。

「まままさかあたしがそれ着るんじゃ……」

「もちろん、みくるちゃんのぶんもあるわよ」

「そ、そんなの着れませんっ!」

「だいじょうぶ。サイズは合っているはずだから」

「そうじゃなくて、あの、ひょっとしてそれ着て校門でビラ配りを、」

「決まってるじゃない」

「い、いやですっ!」

「うるさい」

 いかん、目が据わっている。群れからはぐれたガゼルに襲いかかるライオンのメスのような俊敏な動きで朝比奈さんに飛びついたハルヒは、ジタバタする彼女のセーラー服を手際よく脱がせ始めた。

「いやあああぁぁぁ!」

「おとなしくしなさい!」

 無茶なことを言いながらハルヒは朝比奈さんを取り押さえ、あっさりセーラー服を脱がせてしまうとスカートのホックに指をかけ、これは止めたほうがいいだろうと足を上げかけた俺は朝比奈さんと目があってしまい。

「見ないでぇ!」

 泣き声で叫ばれて大急ぎで回れ右、ドアに走って----くそ、鍵がかかっていがる----無駄にガチャガチャとノブを回してからやっと鍵を開けて転がるように廊下へ脱出した。

 その時横目で見たのだが、長門有希はまるで何事もなかったように本読みをしていた。

 何か言うことはないのか。

 閉めたドアにもたれかかった俺に、

「ああっ!」「だめえ!」「せめて……じ、自分で外すから……ひぇっ!」

 などと、あられもない朝比奈さんの悲痛そのものの悲鳴と、

「うりゃっ!」「ほら脱いだ脱いだ!」「最初から素直にしときゃよかったのさ!」

 というハルヒの勝ち誇った雄叫びが交互に聞こえてきた。むむむ。気にならんと言えば嘘になるなあ、さすがに。

 それからしばらくして合図があり、

「入っていいわよ!」

 少々ためらいながら部室に戻った俺の目が映し出したもの。それはどうしようもないまでに完璧な二人のバニーガールだった。ハルヒも朝比奈さんも呆れるほど似合っていた。

 大きく開いた胸元と背中、ハイレグカットから伸びる網タイツに包まれた脚、ひょこひょこ揺れる頭のウサミミと白いカラーとカフスがポイントを高めている。何のポイントかは俺にだって解りはしない。

 スレンダーなくせして出ているところが出ているハルヒとチビっこいのに出るべきところが出ている朝比奈さんの組み合わせは、はっきり言って目の毒だ。

 うっうっうっと、しゃくりあげている朝比奈さんに「似合ってますよ」と声をかけるべきかどうか悩んでいるとハルヒが、

「どう?」

 どうと言われても、俺はお前の頭を疑うくらいしか出来ねえよ。

「これで注目度もばっちりだわ! この格好なら大抵の人間はビラを受け取るわ。そうよね!」

「そりゃそんなコスプレした奴が学校で二人もうろついていたら嫌でも目立つからな……。長門はいいのか?」

「二着しか買えなかったのよ、フルセットだから高かったんだから」

「そんなもんどこで売ってんだ?」

「ネット通販」

「……なるほど」

 目線がいつもより高いと思ったら、ご丁寧にハイヒールまであつらえてやがる。

 ハルヒはチラシの詰まった紙袋をつかむと、

「行くわよ、みくるちゃん」

 身体の前で腕を組み合わせている朝比奈さんは、助けを求めるように俺を見た。俺は朝比奈さんのバニースタイルにひたすら見とれるのみだった。

 ごめん。正直、たまりません。

 朝比奈さんは子供のようにぐずりながらテーブルにしがみついていたが、そこはハルヒのバカ力にかなうはずもなく、間もなく小さな悲鳴と共に引きずるように連れ去られ、二人のバニーは部屋から姿を消した。罪悪感にさいなまれつつ俺は力無く座ろうとして、

「それ」

 長門有希が床を差していた。目をやるとそこには乱雑に脱ぎ散らかされた二組のセーラー服と……あれはブラジャーか?

 ショートカットの眼鏡女は黙りこくったまま指先をハンガーラックへと向け、そうしてもう用はすんだと言わんばかりに読書に戻る。

 お前がやってくれよ。

 ため息交じりで俺は女どもの制服を拾い上げてハンガーに、げっ、まだ体温が残ってるよ。生々しー。

 三十分後、よれよれになった朝比奈さんが戻ってきた。うわぁ、本物のウサギみたいに目が赤いやあ、なんて言っている場合じゃないな。慌てて俺は椅子を譲り、朝比奈さんはいつかみたいにテーブルに突っ伏して形のいい肩甲骨を揺らし始めた。着替える気力もないらしい。背中が半ば以上も開いているから目のやり場に困る。俺はブレザーを脱いで震える白い背にかけてやった。めそめそ泣く少女とノーリアクションの読書好き。困惑する腰抜け野郎(俺のこった)が雰囲気最悪の一室で無言のまますごす時間……。遠くで鳴っているブラバンのへたくそなラッパと野球部の不明瞭な怒鳴り声がやけによく聞こえた。

 俺が今日の晩飯は何だろうなとかどうでもいいようなことを考え出した頃になって、ようやくハルヒが勇ましく帰還した。第一声、

「腹立つーっ! なんなの、あのバカ教師ども、邪魔なのよ、邪魔っ!」

 バニー姿で怒っていた。だいたい何が起こったのか解る気がするが、一応|訊いてみよう。

「何か問題でもあったのか」

「問題外よ! まだ半分しかビラまいてないのに教師が走ってきて、やめろとか言うのよ! 何様よ!」

 お前がな。バニーガールが二人して学校の門でチラシ配ってたら教師じゃなくても飛んでくるってーの。

「みくるちゃんはワンワン泣き出すし、あたしは生活指導室に連行されるし、ハンドボールバカの岡部も来るし」

 生活指導担当の教師も岡部担任もさぞかし目が泳いでいたことだろう。

「とにかく腹立つ! 今日はこれで終わり、終了!」

 やおらウサミミをむしりとったハルヒはそれを床に叩きつけると、バニーの制服を脱ごうとし、俺は走って部室を後にした。

「いつまで泣いてんの! ほら、ちゃちゃと立って着替える!」

 廊下の壁にもたれて二人の着替えが終わるのを待つ。露出狂というわけではなく、ハルヒは自分たちの半裸姿が男にどういう影響を与えるかがまったく理解できていないのだろう。バニーガールのコスプレも扇情的なところに着目したからではなく、単に目立つからに違いない。

 まともな恋愛が出来ないはずである。

 少しは男の、少なくとも俺の目くらいは気にかけて欲しいものだ。気疲れすることこの上ない。朝比奈さんのためにも、そう願わずにはいられない。それにしても……長門も少しは何か言ってくれよ。

 やがて部室から出てきた朝比奈さんは滑り止めすら引っかからずすべての受験に失敗した直後の三|浪生のような顔になっていた。かける言葉が見つからないので黙っていたら、

「キョンくん……」

 深海に沈んだ豪華客船から発せられる亡霊のような声が、

「……私がお嫁に行けなくなるようなことがあったら、もらってくれますか……?」

 何と言うべきか。って言うか、あなたも俺をその名で呼ぶのですか。

 朝比奈さんは油の切れたロボットの動きでブレザーを返した。胸に飛び込んで泣いてくれたりするのかなと不埒なことを一瞬考えたのだが、彼女は古くなった青葉のようにひしゃげきった面持ちで歩き去った。

 ちょっと残念。

 次の日、朝比奈さんは学校を休んだ。

 すでに校内に轟いていた涼宮ハルヒの名は、バニー騒ぎのおかげで有名を超越して全校生徒の常識にまでなっていた。それは構わない。ハルヒの奇行が全校に知れ渡ろうがどうしようが俺の知ったことではない。

 問題は涼宮ハルヒのオプションとして朝比奈みくるという名前が囁かれることになったことと、周囲の奇異を見る目が俺にまで向いているような気がすることである。

「キョンよぉ……いよいよもって、お前は涼宮と愉快な仲間たちの一員になっちまったんだな……」

 休み時間、谷口が憐れみすら感じられる口調で言った。

「涼宮にまさか仲間が出来るとはな……。やっぱ世間は広いや」

 うるさい。

「ほんと、昨日はビックリしたよ。帰り際にバニーガールに会うなんて、夢でも見ているのかと思う前に自分の正気を疑ったもんね」

 こちらは国木田。見覚えのある藁半紙をヒラヒラさせて、

「このSOS団って何なの? 何するとこ、それ」

 ハルヒに訊いてくれ。俺は知らん。知りたくもない。仮に知っていたとしても言いたくない。

「不思議なことを教えろって書いてあるけど、具体的に何を指すの? そんで普通じゃダメって、よく解らないんだけど」

 朝倉涼子までやって来た。

「面白いことしているみたいね、あなたたち。でも公序良俗に反することはやめておいたほうがいいよ。あれはちょっとやりすぎだと思うな」

 俺も休めばよかった。

 ハルヒはまだ怒っていた。ビラ配りを途中で邪魔された怒りもさることながら、今日の放課後になってもまるっきりSOS団|宛のメールが届かなかったからである。一つ二つは悪戯メールが来るんじゃないかと思っていたのだが世間は思いのほか常識的であった。おおかた皆、ハルヒに関わると面倒くさいことになりそうだと考えたに違いない。

 空っぽのメールボックスを眉根を寄せて睨みながらハルヒは光学マウスを振り回した。

「なんで一つも来ないのよ!」

「まあ昨日の今日だし。人に話すのもためらうほどのすげえ謎体験なのかもしれんし、こんな胡散臭い団を信用する気になれないだけかもしれん」

 俺は気休めを言ってやる。本当はだな、

 何か不思議な謎ありませんか。はい、あります。おお素晴らしい、私に教えてください。解りました、実は……

 なんてことになるわけないだろ。いいか、ハルヒ。そんなもんはマンガか小説の物語の中にしかないんだ。現実はもっとシビアでシリアスなんだよ。県立高校の一角で世界が終わってしまうような陰謀が進行中とか、人間外の生命体が閑静な住宅地を徘徊してるとか、裏山に宇宙船が埋まってるとか、ないないない、絶対ないって。解るよな? お前も本当は理解してるんだろ? ただもやもやしたりやり場のない若さゆえのイラダチがお前を突き抜けた行動に導いているだけだよな。いいかげん目を覚まして、誰か格好のいい男でも捕まえて一緒に下校したり日曜日に映画行ったりしてろよ。それか運動部にでも入って思いっきり暴れてろ。お前なら即レギュラーで活躍出来るさ。

 ……と、もっともらしく説いてやりたいのだが多分五行くらい話したあたりで鉄拳が飛んでくるような予感がしたのでやめておいた。

「みくるちゃんは今日は休み?」

「もう二度と来ないかもな。可哀想に、トラウマにならなければいいのだが」

「せっかく新しい衣装を用意したのに」

「自分で着ろよ」

「もちろんあたしも着るわよ。でも、みくるちゃんがいないとつまんない」

 長門有希は例によって希薄な存在感とともにテーブルと一体化していた。別に朝比奈さんにこだわらず長門を着せ替え人形にすればいいのに。ってのもあまりよくないが、それでも泣き虫の朝比奈さんと違って長門は言われたとおりに淡々とバニーガールの衣装を身につけるような気がするし、それはそれで見てみたいような気もする。

 待望の転校生がやって来た。

 朝のホームルーム前のわずかな時間に俺はそれをハルヒから聞かされた。

「すごいと思わない? 本当に来たわよ!」

 欲しがっていたオモヤチャを念願かなって買ってもらえた幼稚園児のような飛びっきりの笑顔でハルヒは机から身を乗り出していた。

 いったいどこで聞きつけてきたのか知らないが、その転校生は今日から一年九組に転入するのだと言う。

「またとないチャンスね。同じクラスじゃないのは残念だけど謎の転校生よ。間違いない」

 会ってもいないのにどうして謎だと解る。

「前にも言ったじゃないの。こんな中途半端な時期に転校してくる生徒は、もう高確率で謎の転校生なのよ!」

 その統計はいつ誰がどうやって取ったんだ。そっちのほうが謎だ。

 五月の中旬に転校することになった学生はすべからず謎的存在なのだとしたら、日本全国には謎の転校生がたくさんいるんじゃないかと思うぞ。

 しかし独自の涼宮ハルヒ理論はそんな普遍的な常識の追随を許可したりはしないのである。一限が終了すると同時にハルヒはすっ飛んで行った。謎の転校生にお目通りしに九組へと向かったのだろう。

 果たしてチャイムギリギリ、ハルヒは何やら複雑な顔つきで戻ってきた。

「謎っぽかった?」

「うーん……あんまり謎な感じはしなかったなあ」

 当たり前だ。

「ちょっと話してみたけど、でもまだ情報不足ね。普通人の仮面をかぶっているだけかもしれないし、どっちかって言うとその可能性のほうが高いわ。転校初日から正体を現す転校生もいないだろうし。次の休み時間にも尋問してみる」

 尋問ねえ。九組の奴らも驚いただろう。俺は想像する。自分から誰かに話しかけるなどほぼ皆無のハルヒが、いきなり自分たちの教室に踏み込んで手近な奴を捕まえ「転校生はどいつ?」とか訊いて答えを聞くや否やそっちへと突進し、おそらく親交を深めるべく団欒中の会話の輪へと突進し、その輪を突き崩して中心部へ侵入、驚く転校生に詰め寄って「どこから来たの? あんた何者?」などと詰問する様を。

 ふと思いつく。

「男? 女?」

「変装している可能性もあるけど、一応、男に見えたわね」

 じゃあ男なんだろ。

 てことは、SOS団にやっと俺以外の男子生徒が増えるということでもある。その男子は、ただ転校してきたというだけの理由で、有無を言わさず入団させられるのだ。しかしそいつが俺や朝比奈さんのようなお人好しとは限らない。そう上手くことが運ぶものだろうか。いくらハルヒが強引極まろうとも、もっと意思の強い人間ならば拒否しおおせるのではないだろうか。

 員数が揃ってしまえば本当に「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」なるバカげた同好会を作らんといかんようになるではないか。学校サイドが認めるかどうかはさておいて、そのために走り回ることになるのは十中八九、俺だろう。そして俺は「涼宮ハルヒの手下」という称号を手に入れてこの三年間を後ろ指差されて過ごすことになるのである。

 卒業後のことを具体的に考えているわけではないが漠然と大学には行きたいので、あまり内申に響くような行動は慎みたいのだが、ハルヒといる限りその望みは叶いそうもない。

 どうしたものだろう。

 どうもこうもない。

 俺は羽交い締めにしてでもハルヒを制止してSOS団を解散させるべきだったのだ。

 それからハルヒをこんこんと説得し、まともな高校生活を送らせるべきだったのだ。

 宇宙人や未来人や超能力者なんざ、まるっと無視して適当な男を見つけて恋愛に精を出したり運動部で身体を動かしたり、そういうふうな凡庸たる一生徒として三年間を過ごさせるべきだったのだ。

 そう出来たらどんなによかっただろう。

 俺にもっと絶対的な意思力と行動力があれば、涼宮ハルヒという急流に流されるまま奇妙な海へ泳ぎ着くこともなかっただろう。なべて世はこともなく、俺たちは普通に三年間を過ごして普通に卒業したに違いない。

 ……多分な。

 今、俺がこんなことを言うのも、つまり全然普通ではないことが実際に俺の身の上に降りかかったからであるのは、この話の流れからして、もうお解りだろう。

 どこから話そうか。

 まずその転校生が部室に来たあたりからかな。

 

第三章

 

 謎のバニーガールズとしてすっかり認知を受けてしまった二人組みの片割れである朝比奈みくるさんは、けなげにも一日休んだだけで復活し、部活にも顔を出すようになった。

 部活と言ってもすることもないので、俺は自宅の押入れに埋まっていたオセロを持ってきてポツポツと語り合いながら朝比奈さんとひたすら対戦していた。

 ホームページを作ったはいいがカウンタも回らずメールも届かず、すっかり無用の長物となっている。もっぱらパソコンはネットサーフィン専用機になっており、これではコンピュータ研の連中が泣く。

 長門有希が黙々と読書する横で、俺と朝比奈さんはオセロの第三戦目に入った。

「涼宮さん、遅いね」

 盤面をじっと見つめながら朝比奈さんがポツリと漏らした。

 表情はすぐれないが深く沈んだ様子もない。俺は安心する。なんだかんだと言っても一学年上とは言え可愛い女の子と空間を同じくするのは心が躍る。

「今日、転校生が来ましたらからね。多分そいつの勧誘に行っているんでしょう」

「転校生……?」

 小鳥のように首を傾げる朝比奈さん。

「九組に転入してきた奴がいまして。ハルヒ大喜びですよ。よっぽど転校生が好きなんでしょう」

 黒を置いて白を一枚裏返す。

「ふうん……?」

「それより朝比奈さん、よくまた部室に来る気になりましたね」

「うん……ちょっと悩んだけど、でもやっぱり気になるから」

 前にも似たようなことを言っていなかったか?

「何が気になるんですか?」

 パチリ、パタパタ。たおやかな指が石をひっくり返していく。

「ん……なんでもない」

 ふと気配を感じて横を見ると、長門が盤上を覗き込んでいた。瀬戸物人形のような顔立ちはいつものこと、ただし眼鏡の奥の目には初めて見る光が宿っていた。

「……」

 生まれて初めて犬を見た子猫のような目だった。石を置いては石をめくる俺の指先を錐のような視線で追っている。

「……代わろうか、長門」

 声をかけると長門有希は機械的に瞬きし、注意して見ていないと解らないほどの微妙な角度でうなずいた。俺は長門と場所を交代して朝比奈さんの隣に座る。

 オセロの石をつまみ上げ、しげしげと見つめる長門。全然見当違いのマスに持っていき、磁力でパチリとくっつくのに驚いたように指を引っ込める。

「……長門、オセロしたことある?」

 ゆっくりと左右に首が振られる。

「ルールは解るか」

 否定。

「えーとは、お前は黒だから白を挟むように黒を置く。挟まれた白は黒になる。そうやって最後に自分の色の数が多かったら勝ち」

 肯定。優雅な動作で長門は石を置いて、ぎこちなく相手の色を自分の色に変える。

 対戦相手が代わって、朝比奈さんの様子もどこかおかしくなった。なんとなく指が震えているように見えるし、決して顔を上げようとはしない。そのくせ上目使いで長門のほうを見ては急いで視線を戻すという仕草を何度も繰り返し、まるでゲームに集中していない。盤面はあっというまに黒の優勢へと変化した。

 なんだ? 朝比奈さんは長門が妙に気になっているらしい。理由は解らん。

 この勝負はあっさりと黒が大勝、次の試合を始めようかとなったとき、すべての元凶の元が新たな生贄を連れて現れた。

「へい、お待ち!」

 一人の男子生徒の袖をガッチリとキープした涼宮ハルヒが的はずれな挨拶をよこした。

「一年九組に本日やってきた即戦力の転校生、その名も、」

 言葉を句切り、顔で後は自分で言えとうながす。虜囚となっていたその少年は、薄く微笑んで俺たち三人のほうを向き

「古泉一樹です。……よろしく」

 さわやかなスポーツ少年のような雰囲気を持つ細身の男だった。如才のない笑み、柔和な目。適当なポーズをとらせてスーパーのチラシにモデルとして採用したらコアなファンが付きそうなルックス。これで性格がいいならけっこうな人気者になれるだろう。

「ここ、SOS団。わたしが団長の涼宮ハルヒ。そこの三人は団員その一と二と三。ちなみにあなたは四番目。みんっな、仲良くやりましょう!」

 そんな紹介ならされないほうが遥かにマシだ。解ったのはお前と転校生の名前だけじゃないか。

「入るのは別にいいんですが」

 転校生の古泉一樹は落ち着いた笑みを絶やさずに言った。

「何をするクラブなんですか?」

 百人いれば百人ともが頭に思い浮かべる疑問だ。俺が誰彼ともなく何度も問われ、ついぞ答えることの出来なかったクエスチョン。フェルマーの最終定理を説明出来たとしてもこればっかりは無理だ。知りもしないものを説明できる奴がいたとしたらそいつは詐欺師の才能がある。が、ハルヒはまったく動じずに、それどころか不敵な笑みすら浮かべて俺たちを順々に眺めて言った。

「教えるわ。SOS団の活動内容、それは、」

 大きく息を吸い、演出効果のつもりかセリフを溜めに溜めて、そしてハルヒは驚くべき真相を吐いた。

「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」

 全世界が停止したかと思われた。

 というのは嘘で、俺は単に「やっぱりか」と思っただけだった。しかし残りの三人はそうもいかなかったようだ。

 朝比奈さんは完全に硬化していた。目と口で三つの丸を作ってハルヒのハイビスカスのような笑顔を見つめたまま動かない。動かないのは長門有希も同様で、首をハルヒへと向けた状態で電池切れを起こしたみたいに止まっている。ほんのわずかだけ、目が見開かれているのに気付いて俺は意外に思う。さすがの無感動女もこれには意表をつかれたか。

 最後に古泉一樹だが、微笑なのか苦笑なのか驚きなのか判断しにくい表情で突っ立っていた。古泉は誰よりも先に我に返り、

「はあ、なるほど」

 と何かを悟ったような口ぶりで呟いて、朝比奈さんと長門有希を交互に眺め、訳知り顔でうなずいた。

「さすがは涼宮さんですね」

 意味不明な感想を言って、

「いいでしょう。入ります。今後とも、どうぞよろしく」

 白い歯を見せて微笑んだ。

 おおい、あんな説明でいいのかよ。本当に聞いていたのか?

 首を捻る俺の目の前に、ぬっと手が差し出された。

「古泉です。転校してきたばかりで教えていただくことばかりとは思いますが、なにとぞ御教示願います」

 バカ丁寧な定型句を口にする古泉の手を握りかえす。

「ああ、俺は……」

「そいつはキョン」

 ハルヒが勝手に俺を紹介し、次いで「あっちの可愛いのがみくるちゃんで、そっちの眼鏡っ娘が有希」と二人を指して、すべてを終えた顔をした。

 ごん。

 鈍い音がした。慌てて立ち上がろうとした朝比奈さんがパイプ椅子に足を取られて前のめりに蹴つまずき、オセロ盤に額を打ち付けた音である。

「だいじょうぶですか?」

 声をかけた古泉に朝比奈さんは首|振り人形のような反応を見せて、その転校生をまぶしげな目で見上げた。む。なんか気に入らない目つきだぞ、それは。

「……はい」

 蚊が喋っているみたいな小さな声で応えつつ朝比奈さんは古泉を恥ずかしそうに見ている。

「そういうわけで五人|揃ったことだし、これで学校としても文句はないわよねえ」

 ハルヒが何か言っている。

「いえー、SOS団、いよいよベールを脱ぐ時が来たわよ。みんな、一丸となってがんばっていきまっしょー!」

 何がベールだ。

 ふと気付くと長門はまた定位置に戻ってハードカバーの続きに挑戦している。勝手にメンバーに入れられちまってるけど、いいのか、お前。

 学校を案内してあげると言ってハルヒが古泉を連れ出し、朝比奈さんが用事があるからと帰ってしまったので、部室には俺と長門有希だけが残された。

 今更オセロをする気にもなれず、長門の読書シーンを観察していても面白くも何ともなく、だから俺もさっさと帰ることにした。鞄を提げる。長門に一声。

「じゃあな」

「本読んだ?」

 足が止まる。長門有希の暗闇色をした目が俺を射抜いていた。

 本。というと、いつぞや俺に貸した異様に厚いハードカバーのことか?

「そう」

「いや、まだだけど……返した方がいいか?」

「返さなくていい」

 長門のセリフはいつも端的だ。一文節内で収まる。

「今日読んで」

 長門はどうでもよさそうに言った。

「帰ったらすぐ」

 どうでもよさそうなのに命令調である。

 ここんとこ国語の教科書に載っている以外の小説なんて読んでもいないけど、そこまで言うからには他人に推薦したくなるほどの面白さなのだろう。

「……解ったよ」

 俺が応えると長門はまた自分の読書に戻った。

 そして俺は今、夕闇の中を必死で自転車をこいでいた。

 長門と別れて自宅に戻った俺は、晩飯食ったりしてダラダラしたのち、自室で借りたと言うより押しつけられた洋モノのSF小説を紐解くことにした。上下段にみっちり詰まった活字の海に眩暈を感じながら、こんなの読めるのかよとパラパラめくっていたら、半ばくらいに挟んであった栞が絨毯に落ちた。

 花のイラストがプリントしてあるファンシーな栞だ。何の気なしに裏返してみて、俺はそこに手書きの文字を発見した。

『午後七時。光陽園駅前公園で待つ』

 まるでワープロで印字したみたいに綺麗な手書き文字が書いてあった。このそっけなさ、いかにも長門が書きそうな感じではある。あるのだが、ここで疑問が募る。

 俺がこの本を受け取ったのは何日も前の話である。午後七時というのは、その日の午後七時のことなのだろうか。それとも今日の午後七時でいいんだろうか。まさか俺がこのメッセージをいつ目にしてもいいように、毎日公園で待っていたりしてたんじゃないだろうな。今日必ず読めといった長門の真意は、今日こそこの栞を見つけろってことだったのか? しかしそれなら部室で直接俺に言えばいいだけだし、そもそも夜の公園に呼び出す必要性が解らない。

 時計を見ると午後六時四十五分をちょっと過ぎている。光陽園駅は高校から一番近い私鉄の駅だが俺の自宅からではチャリをどんなに飛ばしても二十分はかかる。

 考えていたのは十秒くらいのはずだ。

 俺は栞をジーンズのポケットに入れると三月兎のように部屋を飛び出して階段を駆け降り、台所からアイスをくわえて出て来た妹の「キョンくんどこ行くのー」の声に「駅前」と答え、玄関先に繋いであったママチャリにまたがって走り出しながらライトを足で点け、帰ったらタイヤに空気を入れようと決意しつつ可能な限りのスピードでペダルを踏んだ。

 これで長門がいなかったら笑ってやる。

 笑わずに済んだようだ。

 交通法規を真面目に遵守したおかげで、俺が駅前公園に到着したのは七時十分|頃。大通りから外れているため、この時間になるとあまり人通りもない。

 電車や車の立てる喧騒を背中で聞きながら俺は自転車を押して公園に入っていく。等間隔で立っている街灯、その下にいくつかかたまって設置されている木製ベンチの一つに、長門有希の細っこいシルエットがぼんやり浮かんでいた。

 どうにも存在感の希薄な女である。知らずに通りかかったら幽霊かと思うかもしれない。

 長門は俺に気付いて糸に引かれた操り人形のようにすっと立ち上がった。

 制服姿である。

「今日でよかったのか?」

 うなずく。

「ひょっとして毎日待っていたとか」

 うなずく。

「……学校で言えないことでも?」

 うなずいて、長門は俺の前に立った。

「こっち」

 歩き出す。足音のしない、まるで忍者みたいな歩き方である。闇に溶けるように遠ざかる長門の後を、俺は仕方なくついて行く。

 微風に揺れるショートカットを眺めるともなく眺めながら歩いて数分後、俺たちは駅からほど近い分譲マンションへたどり着いた。

「ここ」

 玄関口のロックをテンキーのパスワードで解除してガラス戸を開ける。俺は自転車をその辺に止めてエレベータに向かう長門の後を追った。エレベータの中で長門は何を考えているのか解らない顔で一言も発せず、ただ数字|盤を凝視している。七階着。

「あのさ、どこに行こうとしてるんだ?」

 まことに遅ればせながら俺は質問する。マンションのドアが立ち並ぶ通路をすたすた歩きながら長門は、

「わたしの家」

 俺の足が止まる。ちょっと待て、なんで俺が長門の家に招待されなければならないんだ。

「誰もいないから」

 ますますちょっと待て。それはいったいどういう意味であるか。

 708号室のドアを開けて、長門は俺をじいいっと見た。

「入って」

 マジかよ。

 うろたえつつも狼狽を顔に出さないようにして、恐る恐る上がらせていただく。靴を脱ぎ一歩進んだところでドアが閉められる。

 何か取り返しのつかない所に来てしまったような気がした。その音に不吉な予感を感じて振り返る俺に、長門は、

「中へ」

 とだけ言って自分の靴を足の一振りで脱ぎ捨てた。これで室内が真っ暗だったら何を置いても逃げ出すつもりだったが、煌々たる明かりが広々とした部屋を寒々しく照らしている。

 3LDKくらい? 駅前という立地を考えると、けっこうな値段なんじゃないだろうか。

 しかしまあ、生活|臭のない部屋だな。

 通されたリビングにはコタツ机が一つ置いてあるだけで他には何もない。なんと、カーテンすらかかっていない。十|畳くらいのフローリングにはカーペットも敷かれず茶色の木目をさらしていた。

「座ってて」

 台所へ引っ込む間際にそう言い残し、俺はへっぴり腰でテーブルの際にあぐらをかいた。

 年頃の少女が年頃の少年を家人のいない家に連れ込む理由を頭の中に巡らせていると、長門が盆に急須と湯飲みを載せてカラクリ人形のような動きでテーブルに置き、制服のまま俺の向かいにちょこんと座った。

 沈黙。

 お茶を注ごうともしない。眼鏡のレンズを通して俺に突き刺さる無感情な視線が俺の居心地の悪さを加速させる。

 何か言ってみよう。

「あー……家の人は?」

「いない」

「いや、いないのは見れば解るんだが……。お出かけ中か?」

「最初から、わたししかいない」

 今までに聞いた長門のセリフで一番長い発言だった。

「ひょっとして一人暮らしなのか?」

「そう」

 ほほう、こんな高級マンションに高校生になったばかりの女の子が一人暮らしとは。ワケありなんだろうな。でもまあ、いきなり長門の家族と顔を合わさずにすんで安堵したよ。って安堵している場合じゃないな。

「それで何の用?」

 思い出したように長門は急須の中身を湯飲みに注いで俺の前に置いた。

「飲んで」

 飲むけどさ。ほうじ茶をすする俺を動物園でキリンを見るような目で観察する長門。自分は湯飲みには手を付けようともしない。

 しまった、毒か! ……なわけないって。

「おいしい?」

 初めて疑問形で訊かれたような気がする。

「ああ……」

 飲み干した湯飲みを置くと同時に長門は再び茶褐色の液体で湯飲みを満たした。しょうがなしにそれを飲んで、飲み終えるとすかさず三|杯目が。ついに急須が空になり、長門がおかわりを用意しようと腰を上げかけるのを、やっとのことで俺は止めた。

「お茶はいいから、俺をここまで連れてきた理由を教えてくれないか」

 腰を浮かせた姿勢で静止した長門はビデオの逆回しのように元の位置に座り直した。なかなか口を開かない。

「学校では出来ないような話って何だ?」

 水を向ける。ようやく長門は薄い唇を開いた。

「涼宮ハルヒのこと」

 背筋を伸ばした綺麗な正座で、

「それと、わたしのこと」

 口をつぐんで一拍置き、

「あなたに教えておく」

 と言ってまた黙った。

 どうにかならないのか、この話し方。

「涼宮とお前が何だって?」

 ここで長門は出会って以来、初めて見る表情を浮かべた。困ったような躊躇しているような、どちらにせよ注意深く見てないと解らない、無表情からミリ単位で変異したわずかな感情の起伏。

「うまく言語化できない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて」

 そして長門は話し出した。

「涼宮ハルヒとわたしは普通の人間じゃない」

 いきなり妙なことを言い出した。

「なんとなく普通じゃないのは解るけどさ」

「そうじゃない」

 膝の上で揃えた指先を見ながら長門。

「性格に普遍的な性質を持っていないという意味ではなく、文字通り純粋な意味で、彼女とわたしはあなたのような大多数の人間と同じは言えない」

 意味が解らん。

「この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。それが、わたし」

「……」

「わたしの仕事は涼宮ハルヒを観察して、入手した情報を統合思念体に報告すること」

「……」

「産み出されてから三年間、わたしはずっとそうやって過ごしてきた。この三年間は特別な不確定要素がなく、いたって平穏。でも、最近になって無視出来ないイレギュラー因子が涼宮ハルヒの周囲に現れた」

「……」

「それが、あなた」

 情報統合思念体。

 銀河系、それどころか全宇宙にまで広がる情報系の海から発生した肉体を持たない超高度な知性を持つ情報生命体である。

 それは最初から情報として生まれ、情報を寄り合わせて意識を生み出し、情報を取り込むことによって進化してきた。

 実体を持たず、ただ情報としてだけ存在するそれは、いかなる光学的手段でも観測するこては不可能である。

 宇宙|開闢とほぼ同時に存在していたそれは、宇宙の膨張とともに拡大し、情報系を広げ、巨大化しつつ発展してきた。

 地球、いや太陽系が形成される遥か前から全宇宙を知覚していたそれにとって、銀河の辺境に位置する大して珍しくもないこの星系に特別な価値などなかった。有機生命体が発生する惑星はその他にも数限りなくあったからだ。

 しかしその第三惑星で進化して二足歩行動物に知性と呼ぶべき思索能力が芽生えたことにより、現住生命体が地球と呼称するその酸化型惑星の重要度はランクアップを果たした。

「情報の蓄積と伝達速度に絶対的な限界のある有機生命体に知性が発現することなんてありえないと思われていたから」

 長門有希は真面目な顔で言った。

「統合思念体は地球に発生した人類にカテゴライズされる生命体に興味を持った。もしかしたら自分たちが陥っている自律進化の閉塞状態を打開する可能性があるかもしれなかったから」

 発生段階から完全な形で存在していた情報生命体とは違い、人類は不完全な有機生命体として出発しながら急速な自律進化を遂げていった。保有する情報量を増大させ、また新たに情報を創造し、加工し、蓄積する。

 宇宙に偏在する有機生命体に意識が生ずるのはありふれた現象だったが、高次の知性を持つまでに進化した例は地球人類が唯一であった。情報統合思念体は注意深く、かつ綿密に観測を続けた。

「そして三年前。惑星表面に他では類を見ない異常は情報フレアを観測した。弓状列島の一地域から噴出した情報|爆発は瞬く間に惑星全土を覆い、惑星外空間に拡散した。その中心にいたのが涼宮ハルヒ」

 原因も効果も何一つ解らない。情報生命体である彼等にもその情報を分析することは不可能だった。それは意味をなさない単なるジャンク情報にしか見えなかった。

 重要なのは、有機生命としての制約上、限定された情報しか扱えないはずの地球人類の、そのうちのたった一人の人間でしかない涼宮ハルヒから情報の奔流が発生したことだ。

 涼宮ハルヒから発せられる情報の奔流はそれからも間歇的に継続し、またまったくのランダムにそれはおこなわれる。そして涼宮ハルヒ本人はそのことを意識していない。

 この三年間、あらゆる角度から涼宮ハルヒという固体に対し調査がなされたが、今もってその正体は不明である。しかし情報統合思念体の一部は、彼女こそ人類の、ひいては情報生命体である自分たちに自律進化のきっかけを与える存在として涼宮ハルヒの解析をおこなっている……。

「情報生命体である彼らは有機生命体と直接的にコミュニケートできない。言語を持たないから。人間は言葉を抜きにして概念を伝達するすべを持たない。だから情報統合思念体はわたしのような人間用のインターフェースを作った。統合思念体はわたしを通して人間とコンタクト出来る」

 やっと長門は自分の湯飲みに口を付けた。一年分くらいの量を喋って喉がかれたのかもしれない。

「……」

 俺は二の句がつげない。

「涼宮ハルヒは自律進化の可能性を秘めている。おそらく彼女には自分の都合の良いように周囲の環境情報を操作する力がある。それが、わたしがここにいる理由。あなたがここにいる理由」

「待ってくれ」

 混乱したまま俺は言う。

「正直に言おう。お前が何を言っているのか、俺にはさっぱり解らない」

「信じて」

 長門は見たこともないほど真摯な顔で、

「言語で伝えられる情報には限りがある。わたしは単なる端末、対人間用の有機インターフェイスにすぎない。統合思念体の思考を完全に伝達するにはわたしの処理能力ではまかなえない。理解して欲しい」

 んなこと言われても。

「何で俺なんだ。お前がそのナントカ体のインターフェイスだってのを信用したとしても、それで何故俺に正体を明かすんだ?」

「あなたは涼宮ハルヒに選ばれた。涼宮ハルヒは意識的にしろ無意識的にしろ、自分の意思を絶対的な情報として環境に影響を及ぼす。あなたが選ばれたのは必ず理由がある」

「ねーよ」

「ある。多分、あなたは涼宮ハルヒにとっての鍵。あなたと涼宮ハルヒが、すべての可能性を握っている」

「本気で言っているのか?」

「もちろん」

 俺は今までになくイジマジと長門有希の顔を直視した。度を越えた無口な奴がやっと喋るようになったと思ったら、延々と電波なことを言いやがった。変な奴だとは思っていたが、ここまで変だとは想像外だった。

 情報統合思念体? ヒューマノイド・インターフェイス?

 アホか。

「あのな、そんな話ならチョクでハルヒに言ったほうが喜ばれると思うぞ。はっきり言うが、俺はその手の話題にはついていけないんだ。悪いがな」

「統合思念体の意識の大部分は、涼宮ハルヒが自分の存在価値と能力を自覚してしまうと予測出来ない危険を生む可能性があると認識している。今はまだ様子を見るべき」

「俺が聞いたままをハルヒに伝えるかもしれないじゃないか。だからなぜ、俺にそんなことを言うんだよ」

「あなたが彼女に言ったとしても彼女はあなたがもたらした情報を重視したりしない」

 確かにそうかもしれない。

「情報統合思念体が地球に置いているインターフェイスはわたし一つではない。統合思念体の意識には積極的な動きを起こして情報の変動を観測しようという動きもある。あなたは涼宮ハルヒにとっての鍵。危機が迫るとしたらまずあなた」

 付き合いきれん。

 俺はそろそろおいとまさせていただくことにした。お茶|美味かったよ。ごちそうさん。

 長門は止めなかった。

 視線を湯飲みに落としたまま、いつもの無表情に戻っている。ちょっとばかし寂しげに見えたのは俺の錯覚だろう。

 どこへ行っていたのかという母親の誰何に生返事をして俺は自室に戻った。ベットに横になって長門の長ゼリフを反芻する。

 あいつの言ったことをそのまま信用すると、ようするに長門有希は人類以外の、地球外生命体ってことになる。早い話、宇宙人だ。

 涼宮ハルヒがあれほど熱望し、追い求めている不思議的な存在だ。

 それがこんな身近にいたとは、灯台下暗しとはこれを指して言うべきだ。

 ……はっはっは。バカらしい。

 投げ出した状態で転がっていた厚手の小説本が視界のスミに映った。栞とともに拾い上げて、しばらく仰々しいイラストの表紙を眺め枕元に置いた。

 一人っきりのマンションでこんなSF本を読んでばっかりいるから、長門もけったいな妄想に頭を支配されるんだ。どうせ教室でも誰とも話さず自分の殻に閉じこもっているに違いない。本なんか捨てて、表層だけの付き合いでもいいから友達を作って、普通に学園生活を楽しめばいいのだ。あの無表情が悪い。笑えばあいつだってかなり可愛いと思うのに。

 この本も明日突き返そうか……。まあ、せっかくだし読んでみるのもいいかな。

 翌日の放課後。

 掃除当番だったため、俺が遅れて部室へ行くと、ハルヒが朝比奈さんで遊んでいた。

「じっとして! ほら暴れない!」

「やっ……やめっ……助けてぇ!」

 嫌がる朝比奈さんをハルヒがまた半裸に剥いていた。

「きゃああ!」

 部室に入りかけた俺を見て悲鳴を上げる朝比奈さんだった。

 超完全に下着姿の朝比奈さんを一瞬だけ眺めて、俺は半分以上開かれていたドアを半歩下がって閉めた。

「失礼」

 待つこと十分。朝比奈さんの可愛らしい叫び声とハルヒの楽しそうな声の二重奏が消えた。代わりにハルヒが

「いいわよ、入っても」

 そして俺は室内に入り、しかるのち絶句した。

 メイドさんがいた。

 エプロンドレスに身を包み、今にも泣きそうな朝比奈さんがパイプ椅子にちょこんと腰掛け、悲しげに俺を見てすぐにうつむいた。

 白いエプロンと、裾の広がったフレアスカートとブラウスのツーピース。ストッキングの白さが清楚な雰囲気を抜群に演出していて非常によろしい。頭のてっぺんのレースのカチューシャと、髪を後ろでまとめている頭の幅より大きいリボンがこれまた愛らしい。

 非のうちどころのないメイド少女である。

「どう、可愛いでしょう」

 ハルヒはまるで自分の手柄のように誇らしげに言って朝比奈さんの髪を撫でた。

 それには同意出来るな。情けなさそうな表情で悄然と座っている朝比奈さんには悪いが、無茶苦茶可愛い。

「まあ、それはいいとして」

 よくありません、と小声で呟く朝比奈さんを無視して俺はハルヒに、

「なんでメイドの格好をさせる必要があるんだ?」

「やっぱり萌えと言ったらメイドでしょう」

 また意味すら解らないことを。

「これでもあたしはけっこう考えたのよ」

 お前の考えることは考えないほうがいいようなことばかりだ。

「学校を舞台にした物語にはね、こういう萌えキャラが一人は必ずいるものなのよ。言い換えれば萌えキャラのあるところに物語りは発生するの。これはもはや必然と言っていいわね。いい? みくるちゃんというもともとロリーで気が弱くて、でもグラマーっていう萌え要素を持つ女の子をさらにメイド服で装飾することにより、萌えパワーは飛躍的に増大するわ。どこから見ても萌え記号のかたまりよね。もう勝ったも同然ね」

 何に勝つつもりなんだ。

 俺が呆れてものを言えないでいると、ハルヒはいつの間にかデジタルカメラを手にして、記念に写真を撮っておこうと言い出した。

 真っ赤になって朝比奈さんは首を振る。

「撮らないで……」

 手を合わせて拝まれようがどうしようが、ハルヒがそれをすると言えばするのである。

 懇願むなしく朝比奈さんは無理矢理にポーズを取らされ、何度も何度もフラッシュの光浴びた。

「ふええ……」

「目線こっち。ちょい顎ひいて手でエプロン握りしめて。そうそうもっと笑って笑って!」

 注文をつけながらハルヒは朝比奈さんを激写する。デジタルカメラなんかどこから持ってきたんだと訊いたら写真部から借りてきたという。パクってきたの間違いじゃないのか?

 写真|撮影のかたわらでは、長門有希がいつもの場所でいつものように読書に励んでいた。昨日、さんざんおれにデンパな話を語ったことなどおくびにも出さないそのいつもと変わらぬ様子に、俺はどことなくホッとした。

「キョン、カメラマン代わって」

 ハルヒは俺にデジタルカメラを渡し、朝比奈さんへと向き直った。水辺の鳥ににじり寄るワニのような動きで小さな肩を捕らえる。

「ひっ……」

 身を縮める朝比奈さんにハルヒは優しく微笑みかけた。

「みくるちゃん、もうちょっと色っぽくしてみようか」

 言うが早いかハルヒはメイド服の胸元からリボンを引き抜き、ブラウスのボタンをいきなり第三ボタンまで開いて胸元を露出させた。

「ちょ、やっ……何する……!」

「いいからいいから」

 なにがいいものか。

 朝比奈さんはさらに膝に手をついて前屈みの姿勢を取らされる。小柄な身体と幼い顔からは予想も出来ない豊かな谷間が胸襟から覗いて、俺は目をそらした。が、そらしていては写真が撮れないので仕方なしにファインダーを覗く。ハルヒに命じられるままシャッターを切りまくる。

 胸を強調するポーズを取って羞恥の色に頬を染め、泣き出す一歩手前の潤んだ目でぎこちない笑みを浮かべてカメラに目線を送る朝比奈さんは、それはもう例えようもないほど魅力的だった。

 やべ。惚れてしまいそうだ。

「有希ちゃん、眼鏡貸して」

 ゆっくりと本から顔を上げた長門は、ゆっくりと眼鏡を外すとハルヒに手渡し、ゆっくりと読書に戻った。読めるのか?

 ハルヒは受け取った眼鏡を朝比奈さんの顔にかけて、

「ちょっとずらした感じがいいのよねえ。うん、これで完璧! ロリで美乳でメイドでしかも眼鏡っ娘! 素晴らしいわ! キョン、じゃんじゃん撮ってあげて」

 撮るのに否やはないが、朝比奈さんのメイドコスプレ写真をこんなに撮影して何に使うつもりなんだろう。

「みくるちゃん、これから部屋にいるときはこの服着るようにしなさい」

「そんなあ……」

 精一杯の否定の意思表示をする朝比奈さん。しかしハルヒは、

「だってこんなに可愛いんだもの! もう、女のわたしでもどうにかなりそうだわ!」

 朝比奈さんに抱きついて頬ずりする。朝比奈さんは、わあわあ叫びながら逃れようとして果たせず、終いはぐったりとハルヒのされるままになってしまった。

 おいおい。うらやましいぞ、ハルヒ。つーか、止めろよな、俺も。

「そのへんで終わっとけ」

 朝比奈さんに露骨なセクハラを続けるハルヒの首根っこをつかむ。なかなか離れない。

「こら、いい加減にしろ!」

「いいじゃん。あんたも一緒にみくるちゃんにエッチぃことしようよ」

 グッとくるアイデアだが、たちまち真っ青になる朝比奈さんを見ていたら首肯するわけにもいかないだろ。

「うわ、何ですかこれ?」

 もみ合っている俺たちに声をかけたのは、入り口付近で鞄片手に立ちつくしている古泉一樹だった。

 朝比奈さんの開いた胸元に手を突っ込もうとしているハルヒと、その手を握って止めようとしている俺と、ぶるぶる震えているメイド姿の朝比奈さんと、裸眼で平然と読書中の長門を興味深そうに眺めて、

「何の催しですか?」

「古泉くん、いいところに来たね。みんなでみくるちゃんにイタズラしましょう」

 なんてことを言いだすんだ。

 古泉は口元だけでフッと笑った。同意するようならこいつも敵に回さなければならん。

「遠慮しておきましょう。後が怖そうだ」

 鞄をテーブルに置いて壁に立てかけてあったパイプ椅子を組み立てる。

「見学だけでもいいですか?」

 足を組んで座りながら面白そうな顔で俺を見やがる。

「お気になさらず、どうぞ続きを」

 違うって、俺は襲う方じゃなくて助けに入ってる方だっつーの。

 すったもんだん末、俺はどうにかハルヒと朝比奈さんの間に割って入り、ふらりと後ろ向きに倒れそうになる朝比奈さんを慌てて支え、その軽さにちょっと驚きながら椅子に座らせた。メイド服を乱して、くたっとなっている朝比奈さんの姿は、正直な話、かなりそそられた。

「まあいいか。写真もいっぱい撮れたし」

 ハルヒは目を閉じて背もたれに寄りかかっている朝比奈さんの綺麗な顔から眼鏡を抜き取ると長門に返した。

 無言で受け取って何をコメントすることもなくかけ直す長門。昨日あんだけ長広舌をふるったのが嘘のようだ。嘘だったんだろうか。それか壮大な冗談だったとか。

「ではこれより、第一回SOS団全体ミーティングを開始します!」

 団長席の椅子の上に立ってハルヒが藪から棒に大音声を発した。いきなり何を言い出すんだ。

「今まであたしたちは色々やってきました。ビラも配ったし、ホームページも作った。校内におけるSOS団の知名度は鰻の滝登り、第一段階は大成功だったと言えるでしょう」

 朝比奈さんの精神に傷を負わせておいて何が大成功だ。

「しかしながら、わが団のメールアドレスには不思議な出来事を訴えるメールが一通も来ず、またこの部室に奇怪な悩みを相談しに来る生徒もいません」

 そりゃあ、知名度だけは無駄にあっても、何をする部活動なのかいまいち解らないところだからな。第一、まだ部活動として認められてないし。

「果報は寝て待て、昔の人は言いました。でももうそんな時代じゃないのです。地面を掘り起こしてでも、果報は探し出すものなのです。だから探しに行きましょう!」

「……何を?」

 誰もツッコマないので俺が代表して訊いた。

「この世の不思議をよ! 市内をくまなく探索したら一つくらいは謎のような現象が転がっているに違いないわ!」

 その発想のほうが俺にとってはよっぽど謎だがな。

 俺はあきれ顔、古泉の何を考えているのか計りかねる曖昧な笑顔、長門の無表情、朝比奈さんのもうどうにでもしてという気力の感じられない顔。いっさい顧みることなく、ハルヒは手を振り回して叫ぶ。

「次の土曜日! つまり明日! 朝九時に北口駅前に集合ね! 遅れないように。来なかった者は死刑だから!」

 死刑て。

 ところで朝比奈さんのメイドコスプレ写真をハルヒがどうするつもりだったのかと言うと、このアマ、デジカメから吸い出した画像データを俺が適当に作ったホームページに載せるつもりでいやがったことが判明した。

 俺が気付いたときには、朝比奈さんのメイド画像が一ダースばかりトップページにずらりと並び、訪問者を出迎える準備|万端、まさにファイルが電脳空間にアップロードされる寸前だった。

 まったく伸びないアクセス数もこうすればあっという間に万単位で回るんだと言う。

 アホかい。

 こればっかりは死力を決して俺はハルヒを制し、すべての画像を消去した。自分がメイド服で悩殺ポーズを取っているようなあられもない画像が全世界に発信されるなんてことになれば、朝比奈さんはその場で卒倒するに相違ない。

 珍しく熱心に説教する俺をハルヒはじとっとした目でみやっていたが、ネットに個人を特定できるような情報を流すことの危険性を解説する俺の言葉をどうにか理解したのか、

「解ったわよ」

 ふてくされたように言って、しぶしぶデリートに同意した。この際だから画像そのものをすべて消去すべきだったのかもしれないが、それはちょっと惜しい。俺はハードディスクに隠しフォルダを作って、こっそり朝比奈みくる写真を格納し、パスワードで鍵をかけた。

 俺の観賞用にしておこう。

 

第四章

 

 休みの日に朝九時集合だと、ふざけんな。

 とか思いながらも自転車こぎこぎ駅前に向かっている自分が我ながら情けない。

 北口駅はこの市内の中心に位置する私鉄のターミナルジャンクションということもあって、休みになると駅前はヒマな若者でごった返す。そのほとんどは市内からもっと大きな都市部に出て行くお出かけ組みで、駅周辺には大きなデパート以外に遊ぶ所なんかない。それでもどこから湧いたのかと思うほどの人混みには、いつもこの大量の人間一人一人にそれぞれ人生ってのがあるんだよなあと考えさせられる。

 シャッターの閉まった銀行の前に不法|駐輪(すまん)して北側の改札出口に俺が到着したのが九時五分前。すでに全員が雁首を揃えていた。

「遅い。罰金」

 顔をあわせるやハルヒは言った。

「九時には間に合ってるだろ」

「たとえ遅れなくとも一番最後に来た奴は罰金なの。それがわたしたちのルール」

「初耳だが」

「今決めたからね」

 裾がやたらに長いロゴTシャツとニー丈デニムスカートのハルヒは晴れやかな表情で、

「だから全員にお茶おごること」

 カジュアルな格好で両手を腰に当てているハルヒは、教室で仏頂面しているときの百倍は取っつきやすい雰囲気だった。うやむやのうちに俺はうなずかされてしまい、とりあえず今日の行動予定を決めましょうというハルヒの言葉に従って喫茶店へと向かった。

 白いノースリーブワンピースに水色のカーディガンを羽織った朝比奈さんはバレッタで後ろの髪をまとめていて、歩くたびに髪がひょこひょこ揺れるのがとてつもなく可愛い。いいところの小さいお嬢さんが背伸びして大人っぽい格好をしているような微笑ましさである。手に提げたポーチもオシャレっぽい。

 古泉はピンクのワイシャツにブラウンのジャケットスーツ、えんじ色のネクタイまでしめているというカッチリしたスタイルで俺の横に並んでいる。うっとうしいことだが様になっている。俺より背が高いし。

 一同の最後尾には見慣れたセーラー服を着た長門有希が無音でついてくる。なんかもう完全にSOS団の一員になっているが、本当は文芸部員のはずじゃなかったのか。あの日、閑散としたマンションの一室で理解不能な話を聞かされた手前、その無表情ぶりがなおのこと気にかかる。しかし何で休みの日まで制服着てるんだ。

 ロータリーに面した喫茶店の奥まった席に腰を下ろす謎の五人組だった。注文を取りに来たウェイターにおのおのオーダーを言うものの、長門だけがメニューをためつすがめつしながら不可解なまでの真剣さ----でも無表情----で、なかなか決まらない。インスタントラーメンなら食べ頃になっている時間をかけて、

「アプリコット」と告げる。

 どうせ俺のおごりさ。

 ハルヒの提案はこうだった。

 これから二手に分かれて市内をうろつく。不思議な現状を発見したら携帯電話で連絡を取り合いつつ状況を継続する。のちに落ち合って反省点と今後に向けての展望を語り合う。

 以上。

「じゃあクジ引きね」

 ハルヒは卓上の容器から爪楊枝を五本取り出し、店から借りたボールペンでそのうちの二本に印をつけて握り込んだ。頭が飛び出た爪楊枝を俺たちに引かせる。俺は印入り。同じく朝比奈さんも印入り。後の三人が無印。

「ふむ、この組み合わせね……」

 なぜかハルヒは俺と朝比奈さんを交互に眺めて鼻を鳴らし、

「キョン、解ってる? これデートじゃないのよ。真面目にやるのよ。いい?」

「わあってるよ」

 我ながらやに下がった顔になっていたんじゃないだろうか。ラッキー。朝比奈さんは赤い頬に片手を当てて爪楊枝の先を見つめている。いいね、実にいい。

「具体的に何を探せばいいんでしょうか」

 能天気に言ったのは古泉である。その横で長門は定期的にカップを口に運んでいた。

 ハルヒはチュゴゴゴとアイスコーヒーの最後の一滴を飲み干して耳にかかる髪を払った。

「とにかく不可解なもの、疑問に思えること、謎っぽい人間、そうね、時空が歪んでいる場所とか、地球人のフリしたエイリアンとかを発見出来たら上出来」

 思わず口の中のミントティーを吹きそうになった。あれ、隣の朝比奈さんも同じような顔になっている。長門は相変わらずだが。

「なるほど」と古泉。

 本当に解ったのか、お前。

「ようするに宇宙人とか未来人とか超能力者本人や、彼らが地上に残した痕跡などを探せばいいんですね。よく解りました」

 古泉の顔は愉快げでありさえした。

「そう! 古泉くん、あんた見所がある奴だわね。その通りよ。キョンも少しは彼の物わかりの良さを見習いなさい」

 あまりこいつを増長させるな。恨めしげに見る俺に向かって古泉は笑顔で会釈した。

「ではそろそろ出発しましょ」

 勘定書を俺に握らせ、ハルヒは大またで店を出て行った。

 何度言ったか解らないが、もう一度言ってやる。

「やれやれ」

 マジ、デートじゃないのよ、遊んでたら後で殺すわよ、と言い残してハルヒは古泉と長門を従えて立ち去った。駅を中心にしてハルヒチームは東、俺と朝比奈さんが西を探索することになっていた。何が探索だ。

「どうします?」

 両手でポーチを持って三人の後ろ姿を見送っていた朝比奈さんが俺を見上げた。このまま持って帰りたい。俺は考えるフリをして、

「うーん。まあここに立っててもしょうがないから、どっかプラプラしてましょうか」

「はい」

 素直についてくる。ためらいがちに俺と並び、なにかの拍子に肩が触れ合ったりすると慌てて離れる仕草が初々しい。

 俺たちは近くを流れている川の河川敷を意味もなく北上しながら歩いていた。一ヶ月前ならまだ花も残っていただろう桜並木は、今はただしょぼくれた川縁の道でしかない。

 散策にうってつけの川沿いなので、家族連れやカップルとところどころですれ違う。俺たち二人だって知らない人が見れば仲むつまじい恋人同士に見えるはずである。まさか自分たちでも解っていないものを探している変な二人組みだとは思うまい。

「わたし、こんなふうに出歩くの初めてなんです」

 護岸工事された浅い川のせせらぎを眺めながら朝比奈さんが呟くように言った。

「こんなふうにとは?」

「……男の人と、二人で……」

「はなはだしく意外ですね。今まで誰かと付き合ったことはないんですか?」

「ないんです」

 ふわふわの髪でそよ風が遊んでいる。鼻筋の通った横顔を俺は見つめた。

「えー、でも朝比奈さんなら付き合ってくれとか、しょっちゅう言われるでしょ」

「うん……」

 恥ずかしそうにうつむいて、

「ダメなんです。わたし、誰とも付き合うわけにはいかないの。少なくともこの……」

 言いかけて黙る。次の言葉を待っている間に三組のカップルがこの世に何一つ悩みがないような足取りで俺たちの背後を通り過ぎた。

「キョンくん」

 水面を流れる木の葉の数でも数えようかと思っていた俺は、その声で我に返った。

 朝比奈さんが思い詰めたような表情で俺を見つめている。彼女は決然と

「お話したいことがあります」

 子鹿のような瞳に決意が露わに浮かんでいた。

 桜の下のベンチに俺たちは並んで座る。しかし朝比奈さんはなかなか話し出そうとはしなかった。「どこから話せばいいのか」とか「わたし話ヘタだから」とか「信じてもらえないかもしれませんけど」とか、顔を伏せてブツブツ呟いた後、やっと彼女は言葉を句切るようにして話し始めた。

 手始めにこう言われた。

「わたしはこの時代の人間ではありません。もっと、未来から来ました」

「いつ、どの時間平面からここに来たのかは言えません。言いたくても言えないんです。過去人に未来のことを伝えるのは厳重に制限されていて、航時機に乗る前に精神操作を受けて強制暗示にかからなくてはなりませんから。だから必要上のことを言おうとしても自動的にブロックがかかります。そのつもりで聞いてください」

 朝比奈さんは語った。

「時間というものは連続性のある流れのようなものでなく、その時間ごとに区切られた一つの平面の積み重ねたものなんです」

 最初から解らない。

「ええと、そうね。アニメーションを想像してみて。あれってまるで動いているように見えるけど、本体は一枚一枚|描かれた静止画でしかないんですよね。時間もそれと同じで、デジタルな現象なの。パラパラマンガみたいなものと言ったほうが解りやすいかな」

「時間と時間との間には断絶があるの。それは限りなくゼロに近い断絶だけど。だから時間と時間には本質的に連続性がない」

「時間移動は積み重なった時間平面を三次元方向に移動すること。未来から来たわたしは、この時代の時間平面上では、パラパラマンガの途中に描かれた余計な絵みたいなもの」

「時間は連続していないから、仮にわたしがこの時代で歴史を改変しようとしても、未来にそれは反映されません。この時間平面上のことだけで終わってしまう。何百ページもあるパラパラマンガの一部に余計な落書きをしても、ストーリーは変わらないでしょう?」

「時間はあの川みたいにアナログじゃないの。その一瞬ごとに時間平面が積み重なったデジタル現象なの。解ってくれたかな」

 俺はこめかみを押さえるべきかどうか迷ってから、やっぱり押さえることにした。

 時間平面。デジタル。そんなことはわりかしどうでもいい。けど未来人って?

 朝比奈さんはサンダル履きのつま先を眺めながら、

「わたしがこの時間平面に来た理由はね……」

 二人の子供を連れた夫婦が俺たちの前に影を落として歩いていく。

「三年前。大きな時間|震動が検出されたの。ああうん、今の時間から数えて三年前ね。キョンくんや涼宮さんが中学生になった頃の時代。調査するために過去にとんだ我々は驚いた。どうやってもそれ以上の過去に遡ることが出来なかったから」

 また三年前か。

「大きな時間の断層が時間平面と時間平面の間にあるんだろうってのが結論。でもどうしてその時代に限ってそれがあるのかは解らなかった。どうやらこれが原因らしいってことが解ったのはつい最近。……んん、これはわたしのいた未来での最近のことだけど」

「……何だったんです?」

 まさかアレが原因なんじゃないだろうな、という俺の願いは聞き届けられなかった。

「涼宮さん」

 朝比奈さんは、一番俺が聞きたくなかった言葉を言った。

「時間の歪みの真ん中に彼女がいたの。どうしてそれが解ったのかは訊かないで。禁則|事項に引っかかるから説明出来ないの。でも確かよ。過去への道を閉ざしたのは涼宮さんなのよ」

「……ハルヒにそんなことが出来るとは思えないんですが……」

「わたしたちだって思わなかったし、本当のこと言えば、一人の人間が時間平面に干渉出来るなんて未だに理解出来ていないの。謎なんです。涼宮さんも自分がそんなことしてるなんて全然自覚してない。自分が時間を歪曲させている時間震動の源だなんて考えてもいない。わたしは涼宮さんの近くで新しい時間の異変が起きないかどうかを監視するために送られた……ええと、手頃な言葉が見つからないけれど、監視係みたいなもの」

「…………」と俺。

「信じてもらえないでしょうね。こんなこと」

「いや……でも何で俺にそんなことを言うんです?」

「あなたが涼宮さんに選ばれた人だから」

 朝比奈さんは上半身ごと俺のほうへ向き直って、

「詳しくは言えない。禁則にかかるから。多分だけど、あなたは涼宮さんにとって重要な人。彼女の一挙手一投足にはすべて理由がある」

「長門や古泉は……」

「あの人たちはわたしと極めて近い存在です。まさか涼宮さんがこれだけ的確に我々を集めてしまうとは思わなかったけど」

「朝比奈さんはあいつらが何者か知ってるんですか?」

「禁則事項です」

「ハルヒのすることを放っておいたらどうなるんですか」

「禁則事項です」

「って言うか、未来から来たんだったらこれからどうなるか解りそうなもんなんですけど」

「禁則事項です」

「ハルヒに直接言ったらどうなんです」

「禁則事項です」

「…………」

「ごめんなさい。言えないんです。特に今のわたしにはそんな権限がないの」

 申し訳なさそうに朝比奈さんは顔を曇らせ、

「信じなくてもいいの。ただ知っておいて欲しかったんです。あなたには」

 似たようなセリフを先日も聞いたな。人の気配のしない静かなマンションの一室で。

「ごめんね」

 黙りこくる俺にどういう感想を抱いたのか、朝比奈さんは切なそうに目を潤ませた。

「急にこんなこと言って」

「それは別にいいんですが……」

 自分が宇宙人に作られた人造人間だとか言い出す奴がいたと思ったら今度は未来人の出現ですか。何をどうやったらそんなことが信じられるんだ? よかったら教えて欲しい。

 ベンチに手をついた拍子に朝比奈さんと手が触れ合った。小指しか触ってないのに朝比奈さんは電流でも走ったみたいに大げさに手を引っ込めて、またうつむいた。

 俺たちは黙って川面を見つめ続けていた。

 どれだけの時間が経過したことか。

「朝比奈さん」

「はい……?」

「全部、保留でいいですか。信じるとか信じないとかは全部|脇に置いておいて保留ってことで」

「はい」

 朝比奈さんは微笑んだ。いい笑顔です。

「それでいいです。今は。今後もわたしとは普通に接して下さい。お願いします」

 朝比奈さんはベンチに三つ指をついて深々と頭を下げた。大げさな。

「一個だけ訊いていいですか?」

「何でしょう」

「あなたの本当の歳を教えて下さい」

「禁則事項です」

 彼女はイタズラっぽく笑った。

 その後、俺たちはひたすらに街をブラついて過ごした。ハルヒにはデートじゃないんだからと釘を刺されていたが、あんな話を聞いた後ではもうどうでもよくなっていた。俺と朝比奈さんはコジャレ系のブティックをウィンドーショッピングして回ったり、ソフトクリームを買って食いながら歩いたり、バッタモノのアクセサリーを往来に広げている露天商を冷やかしたり……つまり普通のカップルのようなことをして時間を潰した。

 これで手でも繋いでくれたら最高だったんだけどな。

 携帯電話が鳴った。発信元はハルヒ。

『十二時にいったん集合。さっきの駅前のとこ』

 切れた。腕時計を見ると十一時五十分。間に合うわけがねえ。

「涼宮さん? 何だって?」

「また集まれだそうです。急いで戻ったほうがよさそうですね」

 俺たちが腕でも組んで現れたらハルヒはどんな顔をするだろう。怒り出すだろうか。

 カーディガンの前を合わせながら朝比奈さんは不思議そうに俺を見上げた。

「収穫は?」

 十分ほど遅れて行くと開口一番、ハルヒは不機嫌な面で

「何かあった?」

「何も」

「本当に探してた? ふらふらしてたんじゃないでしょうね。みくるちゃん?」

 朝比奈さんはふるふると首を振る。

「そっちこそ何か見つけたのかよ」

 ハルヒは沈黙する。その後ろで古泉が清涼感溢れる顔で頭をかき、長門はぼんやりと突っ立っていた。

「昼ご飯にして、それから午後の部ね」

 まだやるつもりかよ。

 ハンバーガーショップで昼飯を食っている最中にハルヒはまたグループ分けをしようと言い出し、喫茶店で使用した五本の爪楊枝を取り出した。用意のいい奴だ。

 無造作に手を一閃させ、古泉が

「また無印ですね」

 白すぎる歯。こいつは笑ってばかりいるような気がする。

「わたしも」

 朝比奈さんがつまんだ楊枝を俺に見せた。

「キョンは?」

「残念ですが、印入りです」

 ますます不機嫌な顔で、ハルヒは長門にも引くようにうながした。

 クジの結果、今度は俺と長門有希の二人とその他三人という組み合わせになった。

「……」

 印の付いていない己の爪楊枝を親の仇敵のような目つきで眺め、それから俺とチーズバーガーをちまちま食べている長門を順番に見て、ハルヒはペリカンみたいな口をした。

 何が言いたい。

「四時に駅前で落ち合いましょう。今度こそ何かを見つけてきてよね」

 シェイクをチュゴゴゴと飲み干した。

 今度は北と南に別れることになり、俺たちは南担当。去り際に朝比奈さんは小さく手を振ってくれた。心が温まるね。

 そして今、俺は昼下がりの駅前で、喧噪の中に長門と並んで立ちつくしているわけだ。

「どうする」

「……」

 長門は無言。

「……行くか」

 歩き出すとついてくる。だんだんとこいつの扱いにも慣れてきた。

「長門、この前の話だが」

「なに」

「なんとなく、少しは信じてもいいような気分になってきたよ」

「そう」

「ああ」

「…………」

 空虚なオーラをまといながら俺たちは黙々と駅の周りを回り続けた。

「お前、私服持ってないのか」

「……」

「休みの日はいつも何してんのさ」

「……」

「今、楽しいか」

「……」

 ま、こんな感じか。

 いい加減に虚無的な行動を続けるのもしんどくなってきたので、俺は長門を図書館に誘った。本館はもっと海べりにあるのだが、駅前が行政開発によって土地整理されたときに出来た新しい図書館である。本なんかほとんど借りたりしないから俺は入ったことがない。

 ソファでもあったら座って休もうと思っていたのだが、あるにはあるものの全部ふさがっていた。ヒマ人どもめ。他に行くところがないのか。

 俺が憮然と館内を見渡していると、長門はまるで夢遊病|患者のようなステップでふらふらと本棚に向かって歩き出した。放っておこう。

 本は昔よく読んだ。小学生の低学年の頃、母親が図書館で子供向けのジュブナイルを借りてきて俺にあてがった本を片端から読んでいた。ジャンルも何もまちまちだったが、それでも読む本すべてが面白かったように記憶している。何読んだかは忘れたけど。

 いつからかな。本を読まなくなったのは。読んでも面白いと思わなくなったのは。

 俺は本棚から目に付いた本を抜いて、パラパラめくっては元に戻すことを繰り返しながらこれだけの量の中から事前情報なしに面白い本を探すのは一苦労だなと考えながら棚の間をさまよった。

 長門の姿を探すと、壁際のやたらでかくて分厚い本が立ち並んでいる棚の前でダンベルの代わりになりそうな本を立ち読みしていた。厚モノ好きだな、ほんと。

 スポーツ紙を広げてふんぞり返っていたオッサンがソファを離れたのを見つけて、俺は適当に選んだノベルス本を抱えて空いたスペースに滑り込んだ。

 読む気もない本を読むのはさすがにノレず、瞬く間に俺は睡魔との闘いを余儀なくされ、敵の圧倒的な波状|攻撃にあっさり陥落、俺は速やかに眠りに落ちた。

 尻ポケットが震動した。

「おわ?」

 飛び起きる。周囲の客が迷惑そうに俺を見て俺はここが図書館であることを思い出した。ヨダレをぬぐいつつ俺は館外に小走りで出た。

 バイブレータ機能をいかんなく発揮していた携帯電話を耳に当てる。

『何やってんのこのバカ!』

 金切り声が鼓膜をつんざいた。おかげで頭がはっきりする。

『今何時だと思ってんのよ!』

「すまん、今起きたとこなんだ」

『はあ? このアホンダラゲ!』

 お前だけにはアホとは言われたくないな。

 腕時計を見ると四時半を回っている。四時集合だったけ。

『とっとと戻りなさいよ! 三十秒以内にね!』

 無茶言うな。

 乱暴に切られた携帯電話をポケットに戻して図書館に戻る。長門は簡単に見つかった。最初に見かけた棚の前を動かずに百科事典みたいな本を読みふけっていたからである。

 そこからが一苦労だった。床に根を生やしたように動かない長門をその場から移動させるには、カウンターに行って長門の貸し出しカードを作ってその本を借りてやるまでの時間が必要で、その間にかかりまくってくるハルヒからの電話を俺はすべて無視した。

 なんだか難しい名前の外国人が著者の哲学書を大切そうに抱える長門を急かして駅前に戻ってきた俺たちを、三人は三者三様の反応で出迎えてくれた。

 朝比奈さんは疲れ切った顔でため息混じりに微笑んで、古泉の野郎はオーバーアクションで肩をすくめ、ハルヒはタバスコを一気飲みしたような顔で、

「遅刻。罰金」

 またおごりかよ。

 結局のところ、成果もへったくれもあるはずがなく、いたずらに時間と金を無駄にしただけでこの日の野外活動は終わった。

「疲れました。涼宮さん。ものすごい早足でどんどん歩いていくんだもの。ついて行くのがやっと」

 別れ際に朝比奈さんが言って息をついた。それから背伸びをして俺の耳元に唇を近づけ、

「今日は話を聞いてくれてありがとう」

 すぐに後ろに下がって照れて笑う。未来人ってのは皆こんなに優雅に笑うものかね。

 じゃ、と可愛く会釈して朝比奈さんは立ち去った。古泉が俺の肩を軽く叩き、

「なかなか楽しかったですよ、いや、期待にたがわず面白い人ですね、涼宮さんは。あなたと一緒に行動できなかったのは心残りですが、またいずれ」

 いやになるほど爽やかな笑み残して古泉も退去、長門はとうの昔に姿を消していた。

 一人残ったハルヒが俺を睨みつけ、

「あんた今日、いったい何をしていたの?」

「さあ。いったい何をしていたんだろうな」

「そんなことじゃダメじゃない!」

 本気で怒っているようだった。

「そう言うお前はどうなんだよ。何か面白いもんでも発見出来たのか?」

 うぐ、と詰まってハルヒは下唇をかんだ。放っておくとそのまま唇を噛みやぶらんばかりである。

「ま、一日やそこらで発見出来るほど、相手も無防備じゃないだろ」

 フォローを入れる俺をジロリという感じで見て、ハルヒはつんと横を向いた。

「明後日、学校で。反省会しなきゃね」

 きびすを返し、それっきり振り返ることもなくあっと言う間に人混みに紛れていく。

 俺も帰らせてもらおうかと銀行の前まで行けば、自転車がなかった。かわりに「不法|駐輪の自転車は撤去しました」と書かれたプレートが近くの電柱にかかっていた。

 

第五章

 

 週明け、そろそろ梅雨を感じさせる湿気を感じながら登校すると着いた頃には今までにも増して汗みずくになった。誰かこの坂にエスカレータを付けるという公約を掲げて選挙に出る奴はいないものか。将来選挙権を得たときにそいつに投票してやってもいい。

 教室で下敷きを団扇代わりにして首元から風を送り込んでいたら、珍しく始業の鐘ギリギリにハルヒが入ってきた。

 どすりと鞄を机に投げ出し、

「あたしも扇いでよ」

「自分でやれ」

 ハルヒは二日前に駅前で別れたときとまったく変化のない仏頂面で唇を突き出していた。最近マシな顔になったと思っていたのに、また元に戻っちまった。

「あのさ、涼宮。お前『しあわせの青い鳥』って話知ってるか?」

「それが何?」

「いや、まあ何でもないんだけどな」

「じゃあ訊いてくんな」

 ハルヒは斜め上を睨み、俺は前を向き、岡部教師がやって来てホームルームが始まった。

 この日の授業中、不機嫌オーラを八方に放射するハルヒのダウナーな気配がずっと俺の背中にプレッシャーを与えていて、いや、今日ほど終業のチャイムが福音に聞こえた日はなかった。山火事をいち早く察知した野ネズミのように、俺は部室|棟へと退避する。

 部室で長門が読書する姿は今やデフォルトの風景であり、もはやこの部屋と切り離せない固定の置物のようでもあった。

 だから俺は、一足先に部室に来ていた古泉一樹にこのように言った。

「お前も俺に涼宮のことで何か話があるんじゃないのか?」

 この場には三人しかいない。ハルヒは今週が掃除当番だし朝比奈さんはまだ来ていない。

「おや、お前も、と言うからにはすでにお二方からアプローチを受けているようですね」

 古泉は、昨日図書館から借り出した本に顔を埋めている長門を一瞥する。すべてを知っているみたいな訳知り口調が気に入らない。

「場所を変えましょう。涼宮さんに出くわすとマズイですから」

 古泉が俺を伴って訪れた先は食堂の屋外テーブルだった。途中で自販機のコーヒーを買って手渡し、丸いテーブルに男二人でつくのもアレだけども、この際仕方がない。

「どこまでご存じですか?」

「涼宮がただ者ではないってことくらいか」

「それなら話は簡単です。その通りなのでね」

 これは何かの冗談なのか? SOS団に揃った三人が三人とも涼宮を人間じゃないみたいなことを言い出すとは、地球温暖化のせいで熱気にあてられてるんじゃねえのか。

「まずお前の正体から聞こうか」

 宇宙人と未来人には心当たりがあるか、

「実は超能力者でして、などと言うんじゃないだろうな」

「先に言わないで欲しいな」

 古泉は紙コップをゆるゆると振って、

「ちょっと違う気もするんですが、そうですね、超能力者と呼ぶのが一番近いかな。そうです、実は僕は超能力者なんですよ」

 俺は黙ってコーヒーを飲んだ。減糖しておくべきだった。甘ったるい。

「本当はこんな急に転校してくるつもりはなかったんですが、状況が変わりましてね。よもやあの二人がこうも簡単に涼宮ハルヒと結託するとは予定外でした。それまでは外部から観察しているだけだったんですけど」

 ハルヒを珍しい昆虫か何かみたいに言うな。

 俺の眉が寄ったのを見てとったか、

「どうか気を悪くしないで下さい。我々も必死なんですよ。涼宮さんに危害を加えたりはしませんし、むしろ我々は彼女を危機から守ろうとしているんですから」

「我々ってことは、お前の他にもいっぱいいるのか。その超能力者とやらは」

「いっぱいってことはないですが、それなりには。僕は末端なので正確には知りませんが、地球全土で十人くらいでしょう。その全員が『機関』に所属しているはずです」

『機関』と来たか。

「実体は不明です。構成員が何人いるのかも。トップにいる人たちがすべてを統括しているそうですが」

「……それで、その『機関』なる秘密結社は何をする団体なんだ」

 古泉はぬるくなったコーヒーで唇を湿らせ、

「あなたの想像通りですよ。『機関』は三年前の発足以来、涼宮ハルヒの監視を最重要|事項にして存在しています。きっぱり言い切ってしまえば、涼宮さんを監視するためだけに発生した組織です。ここまで言えばそろそろお解りでしょうが、この学校にいる『機関』の手の者は僕だけではありません。何人ものエージェントがすでに潜入済みです。僕は追加要員としてここに来ました」

 だしぬけに俺は谷口の顔を思い出した。ハルヒとは中学からずっと同じクラスであるとか言っていた。まさか、あいつも古泉と同種類の人間なのか?

「さあ、それはどうでしょう」

 古泉はするりとしらばっくれ

「しかしまあ、それなりの人員が涼宮さんの周りにいることは保証してもいいですよ」

 どうしてみんなそんなにハルヒが好きなんだ。エキセントリックで居丈高で周囲の迷惑を顧みない自己中女のどこにそんな大げさな組織から狙われるような要因があると言うんだ。見てくれはいいのは認めてやっていいが。

「今から三年前に何があったかは解りません。僕に解るのは、三年前のあの日、突然僕の身に超能力としか思えない力が芽生えたことですね。最初はパニックでしたよ。怖い思いもずいぶんしましたしね。すぐに『機関』からお迎えが来て救われましたが、あのままではてっきり自分の頭がおかしくなったと思って自殺してたかもしれません」

 その時から今までずっとお前の頭はおかしくなり続けなんじゃないか。

「ええ、その可能性もなくはない。しかし我々はもっと畏怖すべき可能性を危惧しているのですよ」

 自嘲的な笑みと一緒にコーヒーを飲み込んだ古泉は不意に真顔になった。

「あなたは、世界がいつから存在していると思いますか?」

 えらくマクロな話に飛んだな。

「遥か昔にビッグバンとかいう爆発が起きてからじゃないのか」

「そういうことになってますね。ですが我々は一つの可能性として、世界が三年前から始まったという仮説を捨てきれないのですよ」

 俺は古泉の顔を見返した。正気の沙汰とは思えんな。

「そんなわけがないだろ。俺は三年前より以前の記憶だってちゃんとあるし、親だって健在だ。ガキの頃にドブに落ちて三針縫った傷跡だってちゃんと残ってる。日本史で必死こいて覚えている歴史はどうなるんだよ」

「もし、あなたを含める全人類が、それまでの記憶を持ったまま、ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定するんですか? 三年前にこだわることもない。今からたった五分前に全宇宙があるべき姿をあらかじめ用意されて世界が生まれ、そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠などこの世のどこにもありません」

「…………」

「例えば、仮想現実空間を考えてみて下さい。あなたが脳に電極を埋め込まれ、見ている映像や空気の匂いやテーブルを触った感覚などが、全部直接脳に与えられている情報なのだとしたら、あなたはそれが本当の現実でないと気付くことはないでしょう。現実とは、世界とは意外に脆いものなんです」

「……それはそれでいいことにしておこう。世界が三年前か五分前に始まったってのもまあいい。そこから何をどう捻ったらハルヒの名前が出てくるんだ?」

「『機関』のお偉方は、この世界をある存在が見ている夢のようなものだと考えています。我々は、いやこの世界そのものがその存在にとっての夢にすぎないのではないのかとね。なにぶん夢ですから、その存在にとって我々が現実と呼ぶ世界を創造したり改変したりすることなどは児戯にも等しいはずです。そして我々はそんなことの出来る存在の名前を知っています」

 丁寧語で落ち着いた喋りのせいか古泉の顔つきは腹立たしいほど大人びて見えた。

「世界を自らの意思で創ったり壊したり出来る存在----人間はそのような存在のことを、神と定義しています」

 ……おい、ハルヒ。お前とうとう神様にまでされちゃってるぞ。どうすんだ。

「ですから『機関』の者は戦々恐々としているんですよ。万が一、この世界が神の不興を買ったら、神はあっさり世界を破壊して一から創り直そうとするかもしれません。砂場に作った山の形が気に入らなかった子供のように。僕はいくら矛盾に満ちた世の中だとは言え、この世界にそれなりに愛着を抱いています。ですので、『機関』に協力しているというわけなんです」

「ハルヒに頼んでみたらどうだ、世界を壊すのはどうかやめて下さいってな。聞いてくれるかもしれないぞ」

「もちろん涼宮さんは自分がそのような存在であることには無自覚です。彼女はまだ本来の能力に気付いていない。我々は出来れば生涯気付かないまま平穏無事な人生を送ってもらいたいと考えています」

 ここでやっと古泉は元の笑みを取り戻した。

「言うなれば彼女は未完成の神ですよ。自在に世界を操るまでになっていない。ただし未発達ながら、片鱗を見せるようにはなっています」

「どうして解る?」

「あなたは何故我々みたいな超能力者や、あるいは朝比奈みくるや長門有希のような存在がこの世にいると思うんですか。涼宮さんがそう願ったからですよ」

 宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、わたしのところに来なさい。

 最初に出会った教室の自己|紹介でハルヒが述べたセリフが蘇る。

「彼女はまだ自覚的に神のごとき力を発揮出来はしない。無意識のうちに偶然その力を行使しているにすぎません。しかしこの数ヶ月ほど、明らかに人知を越えた力が涼宮さんから放たれたことは解っています。その結果は、もう言うまでもありませんね。涼宮さんは朝比奈みくると出会い、長門有希に出会い、そして僕を彼女の一団に加えてしまった」

 俺だけ除け者かよ。

「そうではありません。それどころか、あなたが一番の謎なんです。失礼とは思いましたが、あなたについては色々調べさせてもらいました。保証します。あなたには特別何の力も持たない普通の人間です」

 ほっとしていいのか、悲しむべきなのか。

「解りませんね。ひょっとしたらあなたが世界の命運を握っているということも考えられます。これは我々からのお願いです。どうか涼宮さんがこの世界に絶望してしまわないように注意して下さい」

「ハルヒが神様だと言うのなら」と俺は提案した。「あいつを捕まえて解剖でもして、頭の中の仕組みでも調べるなりなんなりしてみたらどうだ。手っ取り早く世界の仕組みがわかるかもしれないぞ」

「そのように主張する強硬派も、確かに『機関』には存在します」

 あっさり古泉はうなずいた。

「ですが、軽々しく手を出すべきではないという意見で大勢は占められています。もしうっかりと神の機嫌を損ねてしまうようなことがあれば、高確率で取り返しのつかないことになるでしょう。我々が望んでいるのは世界の現状|維持ですから、涼宮さんには平和な生活を送っていただけることを希望しています。ヘタを打てば、火鉢の中の焼き栗を取ろうとして結果、火傷をすることになるだけですよ」

「……いったいどうすりゃいいんだよ」

「それも解りません」

「もし、もしもだな、ハルヒがポックリ逝っちまったら世界はどうなる?」

「さて、同時に世界も一瞬にして消滅するのか、神なき世界が続くのか、また新しい神が生まれるのか。誰にも解りません。その時が来るまでね」

 紙コップのコーヒーはすっかり冷たくなっていた。飲む気が失せて、俺はそれをテーブルの端に追いやると、

「超能力者とか言ったよな」

「ええ、我々はまた違う名称をつけていますが、簡単に言えばそれで間違いないでしょう」

「だったら何か力を使って見せてくれよ。そうしたらお前の言うことを信用してやる。例えばこのコーヒーを元の熱さに戻すとか」

 古泉は楽しそうに笑った。含み笑い以外の笑み見るのはこれが最初かもしれない。

「すいません無理です。そういう解りやすい能力とはちょっと違うんです。それに普段の僕には何の力もありません。力を使えるのはいくつかの条件が重なって初めて出来ることなんです。お見せする機会もあるでしょう」

 長々と話したりしてすみませんでした、今日はもう帰ります、と言って、古泉はにこやかにテーブルを離れた。

 俺は軽快に去ってゆく古泉の背中が見えなくなるまで見送って、ふと思いついて紙コップを手に取った。

 言うまでもないかもしれないが。

 当然、中身は冷たいままだった。

 部室に戻ると朝比奈さんが下着姿で立っていた。

「……」

 朝比奈さんはフリフリのエプロンドレスを手に持って、ドアノブを握ったまま佇む俺をびっくりした猫のように丸い目で見つめて、ゆっくりと口を悲鳴の形に開いていく。

「失礼しました」

 声を出される前に俺は踏み出しかけていた足を元の位置に戻してドアを閉めた。幸いなことに悲鳴は聞かれずにすんだ。

 しまったな、ノックすべきだった。いや待て、着替えるんなら鍵くらいかけておいてくれよなあ。

 網膜に映った白い裸身を長期|記憶に移行すべきかどうか考えていると、内側から控えめなノックの音。「どうぞ……」声も控えめだ。

「すみません」

「いえ……」

 ドアを開けてくれた朝比奈さんの頭二つぶんくらい低いところにある旋毛を見つつ謝る俺に、朝比奈さんは目元をうっすらピンクに染めて、

「わたしこそ、いつも恥ずかしいところばかり見せちゃって……」

 全然けっこうです。

 どうやらハルヒの注文を愚直に守っているらしい。朝比奈さんは例のメイド服を着込んでしきりと恥らっていた。

 やっぱり可愛い。

 このまま朝比奈さんと見つめ合っていたら、さっきの映像やら何やらが脳内でこんがらがって究極的にダメになりそうだったので、俺は理性を総動員してリビドーを迎撃、団長席に座ってパソコンのスイッチを入れた。

 視線を感じて目を上げると長門有希が珍しくこっちを眺めていて、眼鏡のブリッジに手を添えてちょいと上げ、読書に戻る。奇妙なほど人間くさい仕草に見えた。

 HTMLエディタを起動してホームページファイルを呼び出す。いつまでも代わり映えしないSOS団サイトをどうにかしようと思ったのだが、何をどう発展させればいいのか見当もつかない。いつも無駄に時間を浪費して嘆息とともにファイルを閉じるだけであり、だったらせんでもいいじゃないかという気もしつつ、何せヒマだからな。オセロも飽きたし。

 腕を組んで呻吟する俺の前に湯飲みが置かれた。メイド服の朝比奈さんが、にっこりして盆を掲げている。もうまるで本物のメイドさんに給仕されている気分。

「ども」

 さっき古泉にコーヒーを奢られたばかりだが、当たり前だ、ありがたく頂戴する。

 朝比奈さんはさらに長門にもお茶を配って、その隣に座り、ふーふー冷ましながら煎茶を飲み始めた。

 結局その日、ハルヒは部室に姿を現さなかった。

「昨日はどうして来なかったんだよ。反省会をするんじゃなかったのか?」

 例によって例のごとし。朝のホームルーム前に後ろの席に話しかける俺である。

 机に顎をつけて突っ伏していたハルヒは面倒くさそうに口を開いた。

「うるさいわね。反省会なら一人でしたわよ」

 訊けばハルヒは土曜日に三人で歩いたコースを、昨日学校が引けた後で一人で廻っていたのだと言う。

「見落としがあったんじゃないかと思って」

 犯行現場に何度も足を運ぶ習性のあるのは刑事だけかと思っていたが。

「暑いし疲れた。衣替えはいつからなのかしら。早く夏服に着替えたいわ」

 衣替えは六月からだ。後一週間ほど五月は残っている。

「涼宮、前にも言ったかもしれないけどさ、見つけることも出来ない謎探しはすっぱり止めて、普通の高校生らしい遊びを開拓してみたらどうだ」

 ガバッと起きあがって睨みつけられる……ことを予想したのだが、あにはからんや、ハルヒはぐてっと頬を机にくっつけたままだった。疲れているのは本当のようだ。

「高校生らしい遊びって何よ」

 声にも潤いがない。

「だから、いい男でも見つけて市内の散策ならそいつとやれよ。デートにもなって一石二鳥だろうが」

 あの日の朝比奈さんとの語らいを思い出しながら俺はそう提案する。

「それにお前なら男には不自由しないぞ。その奇矯な性格を隠蔽していればの話だが」

「ふんだ。男なんかどうでもいいわ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ」

 机を枕にして窓の外へぼんやり視線を固定したまま、ハルヒは無気力に言った。

「あたしだってねー、たまーにだけどそんな気分になったりするわよ。そりゃ健康な若い女なんだし身体をもてあましたりもするわ。でもね、一時の気の迷いで面倒ごとを背負い込むほどバカじゃないのよ、わたしは。それにあたしが男|漁りするようになったらSOS団はどうなるの。まだ作ったばっかりなのに」

 ほんと言うとまだ出来てもいないんだがな。

「何か適当なお遊びサークルにすればいい。そうすりゃ人も集まるぞ」

「いやよ」

 一言で拒絶された。

「そんなのつまんないからSOS団を作ったのに。萌えキャラと謎の転校生も入団させたのに。何も起こらないのは何故なのよ? あああ、そろそろ何かパアッと事件の一つでも発生しないかな」

 こんなに参っているハルヒを見るのも初めてだが、弱気になっている顔は割合可愛かった。笑わなくても普通の顔をしているだけで、こいつはけっこう見栄えがするんだ。つくづく、もったいない。

 その後、午前の授業中のほとんどを、ハルヒは熟睡して過ごした。一度も教師に発見されなかったのは奇跡……いや偶然だろう、やはり。

 だがこの時、奇しくも事件はひそかに始まっていたのだ。パアッというほど派手じゃなかったからほとんど誰も知らないうちに始まって、また終わった事件なのだが、少なくとも俺は朝のホームルームの時点で、そうだな、足首にまでその事件に浸かっていたんだ。

 実はハルヒに話しかけながら、俺は一つの懸案事項を抱えていた。その懸案は朝、俺の下駄箱に入っていたノートの切れ端。

 そこには、

『放課後誰もいなくなったら、一年五組の教室まで来て』

 と、明らかな女の字で書いてあった。

 どう解釈するか、脳内人格を結集して会議を開く必要がある。まず一人目が「前にも同じようなことがあったよな」と言っている。しかしこれはあの栞に書いてあった長門の字とは明らかに違う。あの自称宇宙人モドキの字は機械のように綺麗だったが、この紙切れの字はいかにも女子高生が書きそうな丸みを帯びている。それに長門なら下駄箱にメッセージを入れるなんて率直な手は使わないだろう。すると二人目が「朝比奈みくるってセンはないか」と言い出した。それもどうかと思う。千切ったノートの切れっ端にこんな時間指定もない伝言をよこすとは思えない。そうだな、朝比奈さんだったらちゃんとした封筒と便箋で書いてくれるであろう。それに一年五組などと俺の教室を場所に指名しているのもおかしい。「ハルヒなら?」と三人目。ますますありえん。あいつならいつかのように階段の踊り場まで強引に引っ張っていって話をつけるだろう。似たような理由で古泉説も却下。四人目がとうとう「じゃあ見も知らない第三の人物からのラブレター」。ラブレターかどうかはさておき、呼び出しを告げる連絡文書であることは確かだ。相手が女とは限らないが。「のぼせるなよ。谷口と国木田あたりのとびきりジョークかもしれないぜ」そうだな、その可能性が最も理解しやすい。いかにもアホの谷口がやりそうな頭の悪いギャグの匂いがプンプンする。が、だったらもっとディテールに凝るような気がするのだが。

 そんなことを考えながら俺はワケもなく校内を練り歩いた。ハルヒは体調不十分を理由に早々に帰宅しちまった。好都合と言えば好都合だ。

 俺はいったん部室に行くことにした。あまり早く五組に戻って、それこそ誰もいない教室で誰とも知れない奴を待っているのも業腹だし、待っている最中に谷口がやって来て、「よう、どんだけ待った? あんな紙切れ一枚でひょいひょいやって来るとは、お前も単純だなゲラゲラ」とか言われるともっとシャクに障る。時間を潰してから教室をひょいと覗いて、誰もいないことを確認してさっさと帰ろう。うむ、完璧な作戦だ。

 一人うなずきながら歩いている間に部室の前までたどり着いた。ノックを忘れない。

「はーい、どうぞ」

 朝比奈さんの返事を確認して俺はドアを開ける。朝比奈さんのメイド姿はいつ何回見ても可憐だ。

「遅かったんですね。涼宮さんは?」

 お茶を煎れてくれる姿も様になっている。

「帰りました。何だか疲れ気味のようでしてね。逆襲するなら今ですよ、弱ってる最中みたいだから」

「そんなの、しませんよー」

 長門が読書に情熱を傾ける姿を背景に、俺たちは向かい合ってお茶を飲んだ。また元の無目的な同好会未満になっている感じ。

「古泉は来てないんですか?」

「古泉くんね、さっきちょっと顔を見せたんだけど、アルバイトがあるからって帰っちゃった」

 何のバイトなんだかな。ま、この様子ではここにいる二人が手紙の主ではなさそうだ。

 他にすることもないので俺と朝比奈さんは途切れがちの会話の合間にオセロをして、三戦全勝を俺が飾り、次いでネットに繋いで二人してニュースサイトをぐるぐる回っていると長門がパタリと本を閉じ、最近はそれを部活|終了の合図にしている俺たちは帰り支度を始めた。もうまったく何を活動しているのか解らない。

 着替えるから先に帰ってて、という朝比奈さんのお言葉に甘えて俺は部室を飛び出した。

 時計は五時半あたりを指している。教室に残っている生徒など一人としていまい。

 谷口だって痺れを切らして帰っちまってる時間だろう。それでも俺は二段飛ばしで階段を駆け上がり、校舎の最上階を目指した。何事にも万が一ということがある。だろ?

 人気の絶えた廊下で、俺は深呼吸一つ。窓は磨りガラスなので中の様子はうかがえないが、西日でオレンジ色に染まっていることだけは解る。俺はことさら何でもなさそうに一年五組の引き戸を開けた。

 誰がそこにいようと驚くことはなかったろうが、実際にそこにいた人物を目にして俺はかなり意表をつかれた。まるで予想だにしなかった奴が黒板の前に立っていたからだ。

「遅いよ」

 朝倉涼子が俺に笑いかけていた。

 清潔そうなまっすぐの髪を揺らして、朝倉は教壇から降りた。プリーツスカートから伸びた細い脚と白いソックスがやけに目に付く。

 教室の中程に進んで歩みを止め、朝倉は笑顔をそのままに誘うように手を振った。

「入ったら?」

 引き戸に手をかけた状態で止まっていた俺は、その動きに誘われるように朝倉に近寄る。

「お前か……」

「そ。意外でしょ」

 くったくなく笑う朝倉。その右半身が夕日に紅く染まっていた。

「何の用だ?」

 わざとぶっきらぼうに訊く。くつくつと笑い声を立てながら朝倉は、

「用があることは確かなんだけどね。ちょっと訊きたいことがあるの」

 俺の真正面に朝倉の白い顔があった。

「人間はさあ、よく『やらなくて後悔するよりも、やって後悔するほうがいい』って言うよね。これ、どう思う?」

「よく言うかどうかは知らないが、言葉通りの意味だろうよ」

「じゃあさあ、たとえ話なんだけど、現状を維持するままではジリ貧になることは解ってるんだけど、どうすれば良い方向に向かうことが出来るのか解らないとき。あなたならどうする?」

「なんだそりゃ、日本の経済の話か?」

 俺の質問返しを朝倉は変わらない笑顔で無視した。

「とりあえず何でもいいから変えてみようと思うんじゃない。どうせ今のままでは何も変わらないんだし」

「まあ、そういうこともあるかもしれん」

「でしょ?」

 手を後ろで組んで、朝倉は身体をわずかに傾けた。

「でもね、上の方にいる人は頭が固くて、急な変化にはついていけないの。でも現場はそうもしてられない。手をつかねていたらどんどん良くないことになりそうだから。だったらもう現場の独断で強硬に変革を進めちゃってもいいわよね?」

 何を言おうとしているんだ? ドッキリか? 俺は掃除用具入れにでも谷口が隠れてるんじゃないかと思って教室を見渡した。隠れやすそうな所は、あと教卓の中とかか。

「何も変化しない観察対象に、あたしはもう飽き飽きしてるのね。だから……」

 キョロキョロするのに気を取られて、俺はあやうく朝倉の言うことを聞き漏らすところだった。

「あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」

 惚けているヒマはなかった。後ろ手に隠されていた朝倉の右手が一閃、さっきまで俺の首があった空間を鈍い金属光が薙いだ。

 猫を膝に抱いて背中を撫でているような笑顔で、朝倉は右手のナイフを振りかざした。軍隊に採用されていそうな恐ろしげなナイフだ。

 俺が最初の一撃をかわせたのはほとんど僥倖だ。その証拠に俺は無様に尻餅をついて、しかもアホ面で朝倉の姿を見上げている。マウントポジションを取られたら逃げようがない。慌ててバッタみたいに跳びすさる。

 なぜか朝倉は追ってこない。

 ……いや、待て。この状況は何だ? なんで俺が朝倉にナイフを突きつけられねばならんのか。待て待て、朝倉は何と言った。俺を殺す? ホワイ、なぜ?

「冗談はやめろ」

 こういうときには常套句しか言えない。

「マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって。だから、よせ!」

 もうまったくワケが解らない。解る奴がいたらここに来い。そして俺に説明しろ。

「冗談だと思う?」

 朝倉はあくまで晴れやかに問いかける。それを見ているとまるで本気には見えない。笑顔でナイフを向けてくる女子高生がいたら、それはとても怖いと思う。と言うか、確かに今俺はめちゃ怖い。

「ふーん」

 朝倉はナイフの背で肩を叩いた。

「死ぬのっていや? 殺されたくない? わたしには有機生命体の死の概念がよく理解出来ないけど」

 俺はそろそろと立ち上がる。冗談、シャレだよな、これ。本気だったらシャレですまされんが。だいたい信じられるわけがないだろ。別に泥沼化したあげくこっぴどく振った女でもなくクラスでもロクに喋りゃしない真面目な委員長に刃物で斬りつけられるなんて、本気の出来事だと思えるわけがない。

 だが、もしあのナイフが本物だったなら、とっさに避けなければ俺は今頃血だまりの中に沈んでいたに違いないだろう。

「意味が解らないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ」

「うん、それ無理」

 無邪気そのもので朝倉は教室で女子同士かたまっているときと同じ顔で微笑んだ。

「だって、わたしは本当にあなたに死んで欲しいんだもの」

 ナイフを腰だめに構えた姿勢で突っ込んで来た。速い! が、今度は俺にも余裕があった。朝倉が動く前に脱兎のごとく走り出し、教室から逃げ出そう----として、俺は壁に激突した。

 ????

 ドアがない。窓もない。廊下側に面した教室の壁は、まったくの塗り壁さながらにネズミ色一色に染まっていた。

 ありえない。

「無駄なの」

 背後から近づいてくる声。

「この空間は、わたしの情報|制御下にある。脱出路は封鎖した。簡単なこと。この惑星の建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」

 振り返る。夕日すら消えている。校庭側の窓もすべてコンクリートの壁に置き換わっていた。知らないうちに点灯していた蛍光灯が寒々しく並んだ机の表面を照らしている。

 嘘だろ?

 薄い影を床に落としながら朝倉がゆっくりと歩いてくる。

「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」

「……何者なんだ、お前は」

 何回見ても壁は壁でしかない。立て付けの悪かった引き戸も磨りガラスの窓も何もない。それとも、どうしかしちまったのは俺の頭のほうなのか。

 俺はじりじりと机の間をぬって朝倉から少しでも離れようとする。しかし朝倉は一直線に俺に向かってきた。机が勝手に動いて朝倉の進路を妨害しないようにしているのに比べて、俺の下がる先には必ず机が一団になっている。

 おっかけっこは長く続かず、俺はたちまちのうちに教室の端に追いやられた。

 こうなったら。

 椅子を持ち上げて思いっきり投げつけてやった。椅子は朝倉の手前で方向|転換すると横に飛んで、落ちた。そんなアホな。

「無駄。言ったでしょう。今のこの教室はすべてあたしの意のままに動くって」

 待て待て待て待て。

 何だこれは。何なんだこれは。冗談でもシャレでも俺か朝倉の頭が変になったわけでもないとしたら、いったいこれは何だ。

 あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る。

 またハルヒか。人気者だな、ハルヒ。

「最初からこうしておけばよかった」

 その言葉で俺は身体を動かせなくなっているのを知る。アリかよ! 反則だ。

 足が床から生える木にでもなったみたいに微動だにしない。手もパラフィンで固められたみたいに上がらない。それどころか指一本動かせない。下を向いた状態で固定された俺の視線に朝倉の上履きが入ってきた。

「あなたが死ねば、必ず涼宮ハルヒは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報|爆発が観測できるはず。またとない機会だわ」

 知らねえよ。

「じゃあ死んで」

 朝倉がナイフを構える気配。どこを狙ってるんだろう。頚動脈か、心臓か。解っていれば少しは心構えも出来るんだが。せめて目を閉じ……れない。なんつうこっちゃ。

 空気が動いた。ナイフが俺に降ってくる。

 その時。

 天井をぶち破るような音とともに瓦礫の山が降ってきた。コンクリートの破片が俺の頭にぶつかって痛えなこの野郎! 降り注ぐ白い石の雨が俺の身体を粉まみれにして、このぶんじゃ朝倉も粉まみれだろう、しかし確認しようにも身体がピクリとも……あれ、動く。

 顔を上げた俺は見た。何を?

 俺の首筋に今にも触れようとしているナイフの切っ先とナイフの柄を逆手に握って驚きの表情で静止する朝倉とナイフの刃を素手で握りしめている----素手だぜ----長門有希の小柄な姿だった。

「一つ一つのプログラムが甘い」

 長門は平素と変わらない無感動な声で、

「天井部分の空間|閉鎖も、情報封鎖も甘い。だからわたしに気づかれる。侵入を許す」

「邪魔する気?」

 対する朝倉も平然たるものだった。

「この人間が殺されたら、間違いなく涼宮ハルヒは動く。これ以上の情報を得るにはそれしかないのよ」

「あなたはわたしのバックアップのはず」

 長門は読経のような平坦な声で、

「独断専行は許可されていない。わたしに従うべき」

「いやだと言ったら?」

「情報結合を解除する」

「やってみる? ここでは、わたしのほうが有利よ。この教室はわたしの情報制御空間」

「情報結合の解除を申請する」

 言うが早いか、長門の握ったナイフの先が煌き出した。紅茶に入れた角砂糖のように、微小な結晶となってサラサラとこぼれ落ちていく。

「!」

 ナイフを放して朝倉はいきなり五メートルくらい後ろにジャンプした。それを見て俺は、ああ、この二人本当に人間じゃないみたいだな、とか悠長なことを思った。

 一気に距離を稼いだ朝倉は教室の後ろにふわりと着地。微笑みは変わりない。

 空間がくにゃりと歪んだ。としか言いようがない。朝倉も机も天井も床もまとめて揺らぎ、液体金属のように変化する様が見て取れたが、よくは見えない。

 ただその空間そのものが槍のように凝縮する、と思った瞬間には長門のかざした掌の前で結晶が爆発したことだけが解った。

 間髪置かず、長門の周囲で次々と結晶の粉が炸裂しては舞い落ちる。空間を凝めた槍状の武器が認識不可能な速度で俺たちを襲い、長門の手が同様の速度でそのすべてを迎撃していることに気付いたのは、しばらくたってからのことだった。

「離れないで」

 長門は朝倉の攻撃を弾きながら片手で俺のネクタイをつかんで引き下ろし、俺は屈み込んだ長門の背中に乗っかるような体勢で膝をついた。

「うわっ!」

 俺の頭を見えない何かがかすめて黒板を粉々に叩き潰した。

 長門がチラリと上を見上げる。その刹那、天井から氷柱が生えて朝倉の頭上に降り注ぐ。残像だけを残す高速移動。天井色の氷柱が床に何十本となく突き立って林を作る。

「この空間ではわたしには勝てないわ」

 まったくの余裕の表情で朝倉は佇んでいる。数メートルの間を挟んで長門と対峙。俺はと言うと、情けないことに腰が立たず、床にへばりついていた。

 長門は俺の頭をまたいで立っていた。生真面目にも上履きの横に小さく名前を書いているのがこいつらしい。小説の朗読をするような口調で長門は何かを呟いた。こう聞こえた。

「SELECTシリアルコードFROMデータベースWHERE コードデータORDER BY攻性情報|戦闘HAVINGターミネートモード。パーソナルネーム朝倉涼子を敵性と判断。該当対象の有機情報連結を解除する」

 教室の中はもうまともな空間ではなくなっていた。何もかもが幾何学模様と化して湾曲し渦を巻いて躍っている。見ていると酔いそうだ。まるで遊園地のビックリハウスに乗っているような視覚効果。目が回る。

「あなたの機能停止のほうが早いわ」

 極彩色の蜃気楼の陰に隠れた朝倉の声がどこから聞こえてくるのは全然解らない。

 ヒュン、と風切り音。

 長門のかかとが俺を思い切り蹴飛ばした。

「なにす」

 る、と言いかけた俺の鼻先を見えない槍が通過、床がめくれ返る。

「そいつを守りながら、いつまで持つかしら。じゃあ、こんなのはどう?」

 次の瞬間、俺の前に立ちはだかった長門の身体が一ダースほどの茶色の槍に貫かれていた。

「…………」

 つまり、朝倉は俺と長門に向かって同時に多方向から攻撃を加え、そのうちのいくつかを結晶化して無効にしたものの、迎撃しきれなかった槍が俺を襲い、俺を守ろうとした長門は自分の身体を使用した、ということだったのだが、この時の俺にはそんなこと知るよしもなかった。

 長門の顔から眼鏡が落ちて、床で小さく跳ねた。

「長門!」

「あなたは動かないでいい」

 胸から腹にかけてビッシリと突き刺さった槍を一瞥して長門は平然と言った。

 鮮血が長門の足元に小さな池を作り始めている。

「へいき」

 いや、ちっとも平気には見えねえって。

 長門は眉一つ動かさずに身体に生えた槍を引き抜いて床に落とした。乾いた音を立てて転がった血まみれの槍は、数瞬ののちに生徒机へと姿を変える。槍の正体はそれか。

「それだけダメージを受けたら他の情報に干渉する余裕はないでしょ? じゃ、とどめね」

 揺らぐ空間の向こうに、朝倉の姿が見え隠れする。笑っている。両手が静かに上がり----俺の見間違いでなければ、指先から二の腕までがまばゆい光に包まれて二倍ほど伸びた。いや、二倍どころか----。

「死になさい」

 朝倉の腕が、さらに伸び、触手のようにのたくって突出、左右から同時攻撃、動けない長門の小柄な体が揺れ……。俺の顔に赤くて温かい液体が飛び散った。

 右の脇腹に突き立った朝倉の左腕と、左胸を貫いた右腕が、背中を突き破って教室の壁をぶち抜いてようやく止まった。

 長門の体から吹き出した血が白い足をつたって床の血溜りの幅を拡大させていく。

「終わった」

 ポツリと言って、長門は触手を握った。何も起こらない。

「終わったって、何のこと?」

 朝倉は勝ちを確信したかのような口調。

「あなたの三年あまりの人生が?」

「ちがう」

 これだけの重傷を負いながら長門は何もなかったように言った。

「情報連結解除、開始」

 いきなりだ。

 教室のすべてのものが輝いたと思うと、その一秒後にはキラキラした砂となって崩れ落ちていく。俺の横にあった机も細かい粒子に変じて、崩壊する。

「そんな……」

 天井から降る結晶の粒を浴びながら、今度こそ朝倉は驚愕の様子だった。

「あなたはとても優秀」

 長門の体中に刺さった槍も砂になる。

「だからこの空間にプログラムを割り込ませるのに今までかかった。でももう終わり」

「……侵入する前に崩壊因子を仕込んでおいたのね。どうりで、あなたが弱すぎると思った。あらかじめ攻性情報を使い果たしていたわけね……」

 同じく結晶化していく両腕を眺めながら朝倉は観念したように言葉を吐いた。

「あーあ、残念。しょせんわたしはバックアップだったかあ。膠着状態をどうにかするいいチャンスだと思ったのにな」

 朝倉は俺を見てクラスメイトの顔に戻った。

「わたしの負け。よかったね、延命出来て。でも気を付けてね。統合思念体は、この通り、一枚岩じゃない。相反する意識をいくつも持っているの。ま、これは人間も同じだけど。いつかまた、わたしみたいな急進派が来るかもしれない。それか、長門さんの操り主が意見を変えるかもしれない」

 朝倉の胸から足はすでに光る結晶に覆われていた。

「それまで、涼宮さんとお幸せに。じゃあね」

 音もなく朝倉は小さな砂場となった。一粒一粒の結晶はさらに細かく分解、やがて目に見えなくなるまでになる。

 さらさら流れ落ちる細かいガラスのような結晶が降る中、朝倉涼子という女子生徒はこの学校から存在ごと消滅した。

 とすん、と軽い音がして、俺はそっちへ首をねじ曲げ、長門が倒れているのを発見して慌てて立ち上がった。

「おい! 長門、しっかりしろ、今救急車を、」

「いい」

 目を見開いて天井を見上げながら長門は、

「肉体の損傷はたいしたことない。正常化しないといけないのは、まずこの空間」

 砂の崩落が止まっていた。

「不純物を取り除いて、教室を再構成する」

 見る間に一年五組が見慣れた一年五組へと、元通りに、そうだな、まるでビデオの逆回しだな、いつもの教室に戻っていく。

 白い砂から黒板が、教卓が、机が生まれて、放課後教室を出た時と同じ場所に並んでいく光景は、何と言えばいいんだろうな。こうして生で見ていなければ良く出来たCGだと思ったろうな。

 壁だったところに窓枠が出来て、すうっと透明化した窓ガラスとなる。西日がオレンジ色に俺と長門を彩色した。試しに自分の机の中を調べてみたら、ちゃんと入れたままにしておいたものがそのまま入っている。俺の体中に散った長門の血もいつしか消えている。たいしたもんだ。魔法としか思えない。

 俺はまだ寝ている長門の脇に屈み込んだ。

「本当にだいじょうぶなのか?」

 確かにどこにもケガがあるように見えない。あれだけ突き刺さっていたら制服も穴だらけと思ったが、そんなものは一つもなかった。

「処理能力を情報操作と改変に回したから、このインターフェイスの再生は後回し。今やっている」

「手を貸そうか」

 俺の伸ばした手に、案外素直にすがりついた。上体を起こしたところで、

「あ」

 わずかに唇を開いた。

「眼鏡の再構成を忘れた」

「……してないほうが可愛いと思うぞ。俺には眼鏡属性ないし」

「眼鏡属性って何?」

「何でもない。ただの妄言だ」

「そう」

 こんなどうでもいい会話をしている場合ではなかったのである。後々俺は、とことん悔やむことになる。長門を置き去りにしてでも、さっさとこの場を立ち去るべきだったかと。

「ういーす」

 ガサツに戸を開けて誰かが入ってきた。

「わっすれーもの、忘れ物ー」

 自作の歌を歌いながらやって来たそいうは、よりにもよって谷口だった。

 まさか谷口もこんな時間に教室に誰かがいるとは思わなかっただろう。俺たちがいるのに気づいてギクリと立ち止まり、しかるのちに口をアホみたいにパカンと開けた。

 この時、俺はまさに長門を抱き起こそうとするモーションに入ったばかりだった。その静止画をみたら、逆に押し倒そうとしているとも思えなくもない体勢なわけで。

「すまん」

 聞いたこともない真面目な声で谷口は言うとザリガニのように後ろへ下がり、戸も閉めないで走り去った。追うヒマもなかった。

「面白い人」と長門。

 俺は盛大なため息をついた。

「どうすっかなー」

「まかせて」

 俺の手にもたれ掛かったまま動くことなく長門は言った。

「情報操作は得意。朝倉涼子は転校したことにする」

 そっちかよ!

 などとツッコンでいる場合ではない。唐突に俺は愕然とした。よく考えたら俺はとんでもない体験をしてしまったんじゃないか? この前に長門が延々と語ったデンパ話、トンチキな妄想語りを信じるとか信じないとかいう問題ではない。半信半疑とも言ってられん。さっきの出来事は本気のヤバさとは何かを俺に実感させてくれた。マジで死ぬかと思った。長門が天井から落ちてこなければ、確実に俺は朝倉によって強制|昇天させられていただろう。ぐにゅぐにゃした教室の光景も、バケモノじみた姿になった朝倉も、それをどうやってか消滅させてしまった長門の無感動さも、それらはすべてリアルに俺の身へと降り注いだことだった。

 これじゃ、長門が本格的に宇宙人か何かの関係者であることを納得せざるを得ないではないか。

 おまけに、このままでは俺はこのイカレタ状況の当事者になってしまう。冒頭に言ったとおり、俺は巻き込まれ型の傍観者でいたいのだ。脇役で充分なのだ。なのに、これではまるで俺が主人公みたいじゃねえか。確かに俺は宇宙人みたいな奴が出てくる物語の登場人物になりたいとかつて思っていたが、本当に自分がそんなキャラになってしまうとなると話は別だ。

 はっきり言や、困る。

 何かしらの問題に直面して困っている奴に横から半笑いで適当なアドバイスをするような、そんな役割を俺は望んでいたのだ。こんな俺自身がクラスメイトに命を狙われるような、不条理な展開は願い下げにしたい。本当の話、俺はまだ人生に執着があるのだ。

 オレンジ色に染められた教室で、俺はしばし唖然としたまま硬化していた。長門の体重を感じさせない身体を支えたままで。

 これは……いったいどうしたものだろう? 俺は何を思えばいいんだ? 呆けていたおかげで俺は、とっくに再生とやらが終了した長門が無表情に見上げていることにも気付かずじまいだった。

 翌日、クラスに朝倉涼子の姿はなかった。

 当たり前と言えば当たり前のことなのだが、それを当たり前だと思っているのはどうやら俺だけであり、岡部担任が、

「あー、朝倉くんだがー、お父さんの仕事の都合で、急なことだと先生も思う、転校することになった。いや、先生も今朝聞いて驚いた。なんでも外国に行くらしく、昨日のうちに出立したそうだ」

 と、あまりにも嘘くさいことをホームルームで言ったときも、「えーっ?」「何でーっ?」と主に女子どもが騒ぎ立て、男子連中も、ザワ……ザワ……と顔を見合わせ、岡部教師も首をひねっていたわけなのだが、もちろんこの女も黙っていたりはしなかった。

 ごん、と俺の背中を拳で突いて、

「キョン。これは事件だわ」

 すっかり元気を取り戻した涼宮ハルヒが目を輝かせていた。

 どうする? 本当のことを言うか?

 実は朝倉は情報統合思念体なる正体不明の存在に作られた長門の仲間で、なんか知らんが仲間割れして、その理由が俺を殺すか殺さないかで、なぜ俺かと言うとハルヒの情報がどうのこうので、あげくの果てに長門によって砂に変えられてしまいました、とさ。

 言えるわけねえ。つーか俺が言いたくない。あれはすべて俺の幻覚だったと思っていたいくらいなのだ。

「謎の転校生が来たと思ったら、今度は理由も告げずに転校していく女子までいたのよ。何かあるはずよ」

 勘の良さを誉めてやるべきなのだろうか。

「だから親父の仕事の都合なんだろ」

「そんなベタな理由は認めらんない」

「認めるも認めないも、転校の理由で一番ポピュラーなのはそれだろうよ」

「でもおかしいでしょ。いくら何でも昨日の今日よ。転勤の辞令から引っ越しまで一日もないって、どんな仕事よ、それ」

「娘に知らせてなかったとか……」

「あるわけないわよ、そんなの。これは調査の必要ありね」

 仕事の都合というのは言い訳で本当は夜逃げだったんじゃないかと言おうとしたがやめておいた。それが真実でないのは俺が一番よく知っている。

「SOS団として、学校の不思議を座視するわけにはいかないわ」

 やめてくれ。

 昨日の事件は俺に徹底的な変革を要求せしめた。なにしろ、マジモノの超常現象を目の当たりにしてしまったのだから、それをなかったことにするには、俺の目か頭かのどちらかがどうにかしていたか、この世界そのものが実はおかしかったのか、実は俺は長々と夢を見続けているのかの、どれかを選ばなくてはならなくなってしまった。

 そして俺はこの世界が非現実のシロモノだとは、どうしても思うことが出来ないでいるのだ。

 まったく、人生の転機が訪れるには、十五年と数ヶ月は少々早すぎの気がしやしないか?

 なんで俺は高一にして、世界の在り方などという哲学的な命題に直面しなければならないのだろう。そんなもん、俺が考える事ではないはずだ。これ以上、余計な仕事を増やさないで欲しい。

 そうでなくとも、俺はまたまた懸案事項を抱えているんだからな。

 

第六章

 

 その懸案事項は封筒の形をして昨日に引き続き俺の下駄箱に入っていた。なんだろう、下駄箱に手紙を入れるのが最近の流行なのか?

 しかし今度のブツは一味|違うぞ。二つに折ったノートの切れ端の名無しではない。少女マンガのオマケみたいな封筒の裏にちゃんと名前が記入されている。几帳面なその文字は、俺の目がどうにかしているのでもない限り、

 朝比奈みくる

 と、読めた。

 封筒を一動作でブレザーのポケットに収めた俺が男子トイレの個室に飛び込んで封を切ったところ、印刷された少女キャラのイラストが微笑む便箋の真ん中に、

『昼休み、部室で待ってます みくる』

 昨日あんな目にあったおかげで、俺の人生観と世界観と現実感はまとめてバレルロールを描きつつ現在アクロバット中だ。

 ほいさと出かけて行って、また生命の危機に直面するのは御免こうむりたい。

 しかしここで行かないわけにはいくまい。誰あろう、朝比奈さんの呼び出しである。この手紙の主が朝比奈さんであると断言する根拠はないが、俺はさっぱり疑わなかった。いかにもこんな回りくどいことをしそうな人だし、可愛らしいレターセットにいそいそとペンを走らせている光景はまさしく彼女に似つかわしいじゃないか。それに昼休みの部室なら、長門もいるだろうし、何かあればあいつがなんとかしてくれるさ。

 情けないとか言わんでくれ。こちとら一介の通常な男子高生に過ぎないんだからよ。

 四時限が終わるや俺は、休み時間の間から意味深な視線を送ってくる谷口に話かけられたり一緒に弁当を食べようと国木田が近寄ったり職員室行って朝倉の引っ越し先を調べようとかハルヒが言い出す前に、弁当も持たずに教室から脱出した。部室まで早歩き。

 まだ五月だと言うのに照りつける陽気はすでに夏の熱気、太陽は特大の石炭でもくべられたみたいに嬉しそうにエネルギーを地球へ注いでいる。今からこれじゃ夏本番になると日本は天然サウナ列島になるんじゃないだろうか。歩いているだけで汗でパンツのゴムが濡れてくる。

 三分とかからず、俺は文芸部の部室前に立つ。とりあえずノック。

「あ、はーい」

 確かに朝比奈さんの声だった。間違いない。俺が朝比奈さんの声を聞き間違えるわけがない。どうやら本物だ。安心して、入る。

 長門はいなかった。それどころか朝比奈さんもいなかった。

 校庭に面した窓にもたれるようにして、一人の女性が立っていた。白いブラウスと黒のミニタイトスカーとをはいている髪の長いシルエット。足許は来客用のスリッパ。

 その人は俺を見ると、顔中に喜色を浮かべて駆け寄り、俺の手を取って握りしめた。

「キョンくん……久しぶり」

 朝比奈さんじゃなかった。朝比奈さんにとてもよく似ている。本人じゃないかと錯覚するほど似ている。実際、本人としか思えない。

 でもそれは朝比奈さんではなかった。俺の朝比奈さんはこんなに背が高くない。こんなに大人っぽい顔をしていない。ブラウスの生地を突き上げる胸が一日にして三割増になったりはしない。

 俺の手を胸の前で捧げ持って微笑んでいるその人は、どうやったって二十歳前後だろう。中学生のような朝比奈さんとは雰囲気が違う。そかしそれでもなお、彼女は朝比奈さんとウリ二つだった。何もかもが。

「あの……」

 俺はとっさに思いつく。

「朝比奈さんのお姉さん……ですか?」

 その人は可笑しそうに目を細めて肩を震わせた。笑った顔まで同じだ。

「うふ、わたしはわたし」と彼女は言った。

「朝比奈みくる本人です。ただし、あなたの知っているわたしより、もっと未来から来ました。……会いたかった」

 俺はバカみたいな顔をしていたに違いない。そうだ、確かに目の前の女性が今から何年後かの朝比奈さんだと言われると一番すっきりする。朝比奈さんが大人になったらこんな感じの美人になるだろうなというそのまんまな美人がここにいた。ついでに言うと身長も伸びてさらにグラマー度がアップしている。まさかここまでになるとは。

「あ、信用してないでしょ?」

 その秘書スタイルの朝比奈さんはいたずらっぽく言うと、

「証拠を見せてあげる」

 やにわにブラウスのボタンを外しだした。第二ボタンまでを外してしまうと、面食らう俺に向けて胸元を見せつけ、

「ほら、ここに星形のホクロがあるでしょう? 付けボクロじゃないよ。触ってみる?」

 左胸のギリギリ上に確かにそんな形のホクロが艶かしく付いていた。白い肌に一つだけ浮かんだアクセント。

「これで信じた?」

 信じるも何も、俺は朝比奈さんのホクロの位置なんか覚えちゃいない。そんな際どい部分まで見ることが出来たのは、バニーガールのコスプレをしていた時と、不可抗力で着替えを覗いてしまった時くらいだが、どっちにしたってそこまで細かいところを観察などしていない。俺がその旨を伝えると、魅惑の朝比奈さんは、

「あれ? でもここにホクロがあるって言ったのはキョンくんだったじゃない。わたし、自分でも気づいていなかったのに」

 不思議そうに首を傾げ、次に彼女は驚きに目を見開き、それから急激に赤くなった。

「あ……やだ、今……あっ、そうか。この時はまだ……うわっ、どうしよっ」

 シャツの前をはだけたまま、その朝比奈さんは両手で頬を包んで首を振った。

「わたし、とんでもない勘違いを……ごめんなさい! 今のは忘れて下さい!」

 そう言われてもなあ。それより早くボタンとめてくれないかなあ。どこ見たらいいのか迷います。

「解りました。とにかく信じますから。今の俺はたいていのことは信じてしまえるような性格を獲得したので」

「は?」

「いえ、こちらの話です」

 まだ赤らむ頬を押さえていた年齢不詳の朝比奈さんは、どうしてもそっちに吸い寄せられてしまう俺の目線に気づいて、慌ててボタンをとめた。居住まいを正し、こほんと乾いた咳を一つ落として、

「この時間平面にいるわたしが未来から来たって、本当に信じてくれました?」

「もちろん。あれ、そしたら今、二人の朝比奈さんがこの時代にはいるってことですか?」

「はい。過去の……わたしから見れば過去のわたしは、現在教室でクラスメイトたちとお弁当中です」

「そっちの朝比奈さんはあなたが来ていることを……」

「知りません。実際知りませんでした。だってそれ、わたしの過去だもの」

 なるほど。

「あなたに一つだけ言いたいことがあって、無理を言ってまたこの時間に来させてもらったの。あ、長門さんには席を外してもらいました」

 長門のことだから、この朝比奈さんを見ても瞬き一つしなかったことだろう。

「……朝比奈さんは長門のことを知ってるんですか?」

「すみません。禁則|事項です。あ、これ言うのも久しぶりですね」

「俺は先日聞いたばかりですが」

 そうでした、と自分の頭をぽかりと叩いて朝比奈さんは舌を出した。こんなところは間違いようもなく朝比奈さんである。

 が、急に真面目な顔になると、

「あまりこの時間にとどまれないの。だから手短に言います」

 もう何でも言ってくれ。

「白雪|姫って、知ってます?」

 俺は今や背丈のそう変わらない朝比奈さんを見つめた。ちょっと潤みがちの黒い瞳。

「そりゃ知ってますけど……」

「これからあなたが何か困った状態に置かれたとき、その言葉を思い出して欲しいんです」

「七人の小人とか魔女とか毒リンゴとかの、あれですか?」

「そうです。白雪姫の物語を」

「困った状態なら昨日あったばかりですが」

「それではないんです。もっと……そうですね。詳しくは言えないけど、その時、あなたの側には涼宮さんもいるはずです」

 俺と? ハルヒが? 揃ってやっかいごとに巻き込まれるって? いつ、どこで。

「……涼宮さんはそれを困った状況とは考えないかもしれませんが……あなただけじゃなくて、わたしたち全員にとって、それは困ることなんです」

「詳しく教えてもらうわけには----いかないんでしょうね」

「ごめんなさい。でもヒントだけでもと思って。これがわたしの精一杯」

 大人朝比奈さんはちょっと泣きが入っている顔をした。ああ、確かに朝比奈さんだな、これは。

「それが白雪姫なんですか」

「ええ」

「覚えておきますよ」

 俺がうなずくと朝比奈さんは、もうちょっとだけ時間があります、と言って、懐かしそうに部室を見渡し、ハンガーラックにかかっていたメイド服を手にして愛おしげに撫でた。

「よくこんなの着れたなあ、わたし。いまなら絶対ムリ」

「いまの格好もOLのコスプレみたいですよ」

「ふふ、制服を着るわけにはいかなかったから、ちょっと教師風にしてみました」

 何を着ても似合う人というのはいるものだ。試しに訊いてみる。

「ハルヒには他にどんな衣装を着せられたんです?」

「内緒。恥ずかしいもん。それに、そのうち解るでしょう?」

 スリッパをペタペタ鳴らしながら朝比奈さんは俺の目の前に立つと、妙に潤んだ目とまだ少し赤い頬で、

「じゃあ、もう行きます」

 もの問いたげに、朝比奈さんは真正面から俺を見つめ続ける。唇が何かを求めるように動き、俺はキスでもしたほうがいいのかなあと思って朝比奈さんの肩を抱こうとして----逃げられた。

 ひょいと身をひねった朝比奈さんは、

「最後にもう一つだけ。わたしとはあまり仲良くしないで」

 鈴虫のため息のような声。

 入り口に走った朝比奈さんに、俺は声をかけた。

「俺も一つ教えてください!」

 ドアを開こうとしてピタリと止まる朝比奈さんの後姿。

「朝比奈さん、今、歳いくつ?」

 巻き毛を翻して朝比奈さんは振り返った。見る者すべてを恋に落としそうな笑顔だった。

「禁則事項です」

 ドアが閉まった。多分、追いかけていっても無駄なんだろうな。

 はー、それにしても朝比奈さんがあんなに美人になるとは、と考えて、俺は先ほど彼女が最初に行ったセリフを思い出した。何と言った? 「久しぶり」。この言葉が表す意味は一つしかない。つまり朝比奈さんは長らく俺に会っていなかったのだ。と言うことは。

「そうか。そうだよな」

 未来人であるところの朝比奈さんは、遠からず元いた時代に戻ってしまうのだ。それから何年も経って再び相まみえたのが、つまり今さっきなのだ。

 いったい彼女にとってどれくらいの時間が経過していたのだろうか。あの成長ぶりから見ると、五年……三年くらいか。女ってのは高校を出ると劇的に変化するからな。それまで秀才タイプの目立たない女だったのに大学に入った途端にサナギから羽化したブラジル蝶みたいになってしまった従姉妹を思い浮かべて、そういやそもそも朝比奈さんの実年齢を知らないな。本当に十七ってことはないと思うのだが。

 腹が減った。教室に戻ろう。

「…………」

 長門有希が冷凍保存したような普段通りの顔で入ってきた。ただし、眼鏡はない。ガラス越しではない生の視線が直接俺を射抜く。

「よお、来るとき朝比奈さんに良く似た人とすれ違わなかったか」

 冗談混じりに言った言葉に長門は、

「朝比奈みくるの異時間同位体。朝に会った」

 衣擦れの音をまったく立てずに長門はパイプ椅子に座りテーブルの上で本のページを広げた。

「今はもういない。この時空から消えたから」

「ひょっとしてお前も時間移動とか出来るのか? その情報ナントカ体も」

「わたしには出来ない。でも時間移動はそんなに難しいことではない。今の時代の地球人はそれに気づいていないだけ。時間は空間と同じ。移動するのは簡単」

「コツを教えてもらいたいね」

「言語では概念を説明できないし理解も出来ない」

「そうかい」

「そう」

「そりゃ、しょうがないな」

「ない」

 山彦と会話しているようなむなしさを感じ、俺は今度こそ教室に戻ることにした。飯食う時間あるかな。

「長門、昨日はありがとよ」

 無機質な表情がほんの少しだけ動いた。

「お礼ならいい。朝倉涼子の異常動作はこっちの責任。不手際」

 前髪がわずかに動いた。

 ひょっとして頭を下げたのだろうか。

「やっぱり眼鏡はないほうがいいぞ」

 返答はなかった。

 なんとか超特急でオカズだけでも食おうと弁当の待ちわびる教室の前で、俺はハルヒの妨害にあい、ついに食いっぱぐれることになった。これも運命というやつなのだろう。すでに諦観の域に達しつつある俺である。

 どうやら廊下で俺を待っていたらしいハルヒは、苛立ちげに、

「どこ行ってたのよ! すぐ帰ってくると思ってご飯食べないで待ってたのに!」

 そんな心から怒るんじゃなくて幼馴染みが照れ隠しで怒っている感じで頼む。

「アホなことほざいてないで、ちょっとこっち来て」

 俺の腕をとって関節|技を決めたハルヒはまた俺を薄暗い階段の踊り場へと拉致した。

 とにかく腹が減っていた。

「さっき職員室で岡部に聞いたんだけどね、朝倉の転校って朝になるまで誰も知らなかったみたいなのよ。朝イチで朝倉の父親を名乗る男から電話があって急に引っ越すことになったからって、それもどこだと思う? カナダよカナダ。そんなのあり? 胡散臭すぎるわよ」

「そうかい」

「それでわたし、カナダの連絡先を教えてくれって言ったのよ。友達のよしみで連絡したいからって」

 まともに口をきいたこともないくせに。

「そしたらどうよ、それすら解らないって言うのよ? 普通引っ越し先くらい伝えるでしょ。これは何かあるに違いないわ」

「ねえよ」

「せっかくだから引っ越し前の朝倉の住所を訊いてきた。学校が終わったら、その足で行くことにするわ。何か解るかもしれない」

 相変わらず人の話を聞かない奴だ。

 ま、別に止めないことにする。無駄骨を折るのはハルヒであって、俺ではない。

「あんたも行くのよ」

「なんで?」

 ハルヒは肩を怒らせて、火炎を吹く前の怪獣のように呼気を吸い上げ、廊下にまで届くような大声で叫んだ。

「あんたそれでもSOS団の一員なの!」

 ハルヒの伝言を仰せつかった俺はその場を這々の体で退散し、部室へと取って返すと長門に今日は俺もハルヒも部室には来ないことを伝え、それを朝比奈さんと古泉が放課後に来たら教えるように言い、しかしこの寡黙な宇宙人だけではどんな伝言ゲームが結果になるか知れたものではなかったので、部室に余っていた藁半紙のビラの裏に「SOS団、本日自主休日 ハルヒ」とマジックで書いてドアの画鋲で留めた。

 古泉はともかく朝比奈さんがメイド服に着替える手間くらいは省いてあげるべきだろう。

 そんなことをしていたおかげで、俺は徹底的に空腹のまま、五限の始まりの鐘を聞く羽目になった。合間の休み時間に食ったけどな。

 女子と肩を並べて下校する、なんてのは実に学生青春ドラマ的で、俺だってそういう生活を夢に見なかったかと言うと嘘になる。俺は現在その夢を実現させているわけなのだが、ちっとも楽しくないのはどうしたことだろう。

「何か言った?」

 俺の左隣でメモを片手に大またで歩いているハルヒが言った。俺には、「何か文句あるの?」とでも言っているように思える。

「いや何も」

 坂をずんずんと下がって私鉄の線路沿いを歩いている。もう少し行けば光陽園駅だ。

 そろそろ長門の住んでいるマンションだなと思ったら、ハルヒは本当にその方角を目差し、ついに見覚えのある新築の分譲マンションの前で止まった。

「ここの505号室に住んでいたみたい」

「なるほどね」

「何がなるほどよ」

「いや何でも。それよりどうやって入るつもりだ。玄関も鍵付だぜ」

 と、俺はインターフォン横のテンキーの存在を教えてやる。

「あれで数字を入力して開ける仕組みだろ。お前ナンバー知ってるのか?」

「知らない。こういうときは持久戦ね」

 何を待つというのか、と思っていたら、そう待つこともなかった。買物に行くらしいオバサンが中から扉を開けて、棒立ちしている俺たちを気味悪そうに眺めながら出て行き、その扉が閉まりきらないうちにハルヒがつま先を押し込んでストッパー代わりにする。

 あまりスマートな手口とは言えないな。

「早く来なさいよ」

 引きずり込まれるようにして俺はマンションの玄関ホールに立っていた。ちょうど一階に止まっていたエレベータに乗り込む。黙って階数表示を見つめるのがマナーだ。

「朝倉なんだけど」

 どうやらハルヒはそんなマナーなどおかまいなしのようだ。

「おかしなことがまだあるのよね。朝倉って、この市内の中学から北高に来たんじゃないらしいのよ」

 そりゃまあそうだろうが。

「調べてみたらどこか市外の中学から越境入学したわけ。絶対おかしいでしょ。別に北高は有名進学校でもなんでもない、ただのありふれた県立高校よ。なんでわざわざそんなことするわけ?」

「知らん」

「でも住居はこんなに学校の近くにある。しかも分譲よ、このマンション。賃貸じゃないのよ。立地もいいし、たかいのよ、ここ。市外の中学へここから通っていたの?」

「だから、知らん」

「朝倉がいつからここに住んでいたのか調べる必要があるわね」

 五階に到着し、505号室の前で俺たちはしばらく物言わぬ扉を眺めた。あったかもしれない表札は今は抜き取られ、無言で空き部屋であることを示している。ハルヒはノブを捻っていたが、当然開くはずもなく。

 どうにかして中に入れないかしらと腕を組むハルヒの横で俺はあくびをかみ殺していた。我ながら時間の無駄なことをしていると思う。

「管理人室に行きましょう」

「鍵貸してくれるとは思えないけどな」

「そうじゃなくて、朝倉がいつからここに住んでいたのか聞くためよ」

「あきらめて帰ろうぜ。そんなん解ったところでどうしようもないだろ」

「ダメ」

 俺たちはエレベータで一階に取って返し、玄関ホールの脇の管理人室へと向かった。ガラス戸の向こうは無人だったが、壁のベルを鳴らすと、ややあって白髪をふさふさとさせた小さな爺さんがゆっくりゆっくり現れた。

 爺さんが何かを言うより早く、

「あたしたちここに住んでいた朝倉涼子さんの友達なんですけど、彼女ったら急に引っ越しちゃって連絡先とか解んなくて困ってるんです。どこに引っ越すとか聞いてませんか? それからいつから朝倉さんがここに入ってたのかそれも教えて欲しいんです」

 こういう常識的な口調も出来るのかと俺が感嘆していると、耳の遠いらしい管理人に何度も「えっ?」「えっ?」と訊き返されながら、ハルヒは朝倉一家の突然の引っ越しは管理人たる自分にも寝耳に水だったこと(引っ越し屋が来た様子もないのに部屋が空っぽになっておって度肝を抜かれたわ)、朝倉がいたのは三年ほど前からだったこと(めんこいお嬢さんがわしんとこに和菓子の折り詰めをもってきたから覚えておる)、ローンではなく一括ニコニコ現金|払いだったこと(えれえ金持ちだと思ったもんだて)、などを首尾良く聞き出していた。探偵にでもなればいい。

 爺さんはうら若き乙女と会話することがよほど楽しいらしく、

「そう言えばお嬢さんのほうはたびたび目にしたが、両親さんとはついぞ挨拶した覚えもないのー」

「涼子さんと言うのかね、あの娘さんは。気だての好い、いい子だったのー」

「せめて一言別れを言いたかったのに、残念なことよのー。ところであんたもなかなか可愛い顔しとるのー」

 とか、もはやジジイの繰り言の様相を呈してきて、ハルヒもこれ以上の情報提供は得られないと判断したのか、

「ご丁寧にありがとうございました」

 模範的なお辞儀をして、俺をうながした。うながされるまでもなく、俺はハルヒに遅れてマンションを後にする。

「少年、その娘さんは今にきっと美人になる。取り逃がすんじゃないぞー」

 追ってくるジジイの声が余計だ。ハルヒの耳にも届いたはずで、それに何かのリアクションがあるかとビクビクしていたがハルヒは何をコメントすることもなくずんずんと歩き続け、見習って俺もノーコメントを選択し、玄関から数歩歩いたところで、コンビニ袋と学生|鞄を提げた長門に出くわした。いつもは下校時間まで部室に残っているのが通例なのにこの時間にここにいるということは、あれから間もなくこいつも学校を出たのだろう。

「あら、ひょっとしてあんたもこのマンションなの? 奇遇ねえ」

 白皙の表情で長門はうなずいた。どう考えても奇遇じゃないだろ。

「だったら朝倉のこと、何か聞いてない?」

 否定の仕草。

「そう。もし朝倉のことで解ったら教えてよね。いい?」

 肯定の動作。

 俺は缶詰や惣菜のパックが入っているコンビニ袋を見ながら、こいつも飯食うんだなとか考えてた。

「眼鏡どうしたの?」

 その問いには直接答えず、長門はただ俺を見た。見られても困る。ハルヒもまともな回答が返ってくるとはハナから思っていなかったようだ。肩をすくめ後も見ずに歩き出す。俺は片手をヒラヒラと振って長門に別れの意を表明し、すれ違いざま、長門は俺にだけ聞こえる小声で言った。

「気をつけて」

 今度は何に気をつければいいんだか、それを訊こうと振り返る前に、すでに長門はマンションに吸い込まれていた。

 ローカル線の線路沿いを歩いていくハルヒの二、三歩あとに俺は位置し、目的地不明のウォーキングに付き従っている。このままでは俺の自宅から離れるばかりなので、ハルヒにこれからどこに行くつもりなのかを尋ねてみた。

「別に」

 答えが返ってきた。俺はハルヒの後頭部を眺めたまま、

「俺、もう帰っていいか?」

 いきなり立ち止まるもんだから、もう少しでつんのめるところだった。ハルヒは長門みたいな無感動な白い顔を俺に向け、

「あんたさ、自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」

 何を言い出すんだ。

「あたしはある。忘れもしない」

 線路沿いの県道、そのまた歩道の上で、ハルヒは語り始めた。

「小学生の、六年生の時。家族みんなで野球を見に行ったのよ球場まで。あたしは野球なんか興味なかったけど。着いて驚いた。見渡す限り人だらけなのよ。野球場の向こうにいる米粒みたいな人間がびっしり蠢いているの。日本の人間が残らずこの空間に集まっているんじゃないのかと思った。でね、父親に聞いてみたのよ。ここにはいったいどれだけ人がいるんだって。満員だから五万人くらいだろうって親父は答えた。試合が終わって駅まで行く道にも人が溢れかえっていたわ。それを見て、わたしは愕然としたの。こんなにいっぱいの人間がいるように見えて、実はこんなの日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって。家に帰って電卓で計算してみたの。日本の人口が一億数千ってのは社会の時間に習っていたから、それを五万で割ってみると、たった二千分の一。あたしはまた愕然とした。あたしなんてあの球場にいた人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見た普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやっている普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。そして、世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送っている人もいるんだ、そうに違いないと思ったの。それがあたしじゃないのは何故? 小学校を卒業するまで、あたしはずっとそんなことを考えてた。考えていたら思いついたわ。面白いことは待っててもやってこないんだってね。中学に入ったら、あたしは自分を変えてやろうと思った。待ってるだけの女じゃないことを世界に訴えようと思ったの。実際あたしなりにそうしたつもり。でも、結局は何もなし。そうやって、あたしはいつの間にか高校生になってた。少しは何かが変わるかと思ってた」

 まるで弁論大会の出場者みたいにハルヒは一気にまくしたて、喋り終えると喋ったことを後悔するような表情になって天を仰いだ。

 電車が線路を走り抜け、その轟音のおかげで俺は、ここはツッコムべきなのか何か哲学的な引用でもしてごまかしたほうがいいのか、考える時間を得た。ドップラー効果を残して遠くへ去っていく電車を意味もなく見送って、

「そうか」

 こんなことくらいしか言えない自分がちょっと憂鬱だ。ハルヒは電車が巻き起こした突風で乱れた髪を撫でつけ、

「帰る」

 と言って、もと来た方向へ歩き出した。俺もどっちかと言えばそっちから帰ったほうが早く帰れるんだが。しかしハルヒの背中は無言で「ついてくんな!」と言っているような気がして、俺はただひたすらに、ハルヒの姿が見えなくなるまで----その場に立ちつくしていた。

 何やってるんだろうね。

 自宅に戻ると、門の前で古泉一樹が俺を待っていた。

「こんにちは」

 十年前からの友人みたいな笑顔がそらぞらしい。制服に通学|鞄という完璧な下校|途中スタイルで、馴れ馴れしく手を振りながら、

「いつぞやの約束を果たそうかと思いまして。帰りを待たせてもらいました。意外に早かったですね」

「俺がどこに行ってたか知ってるみたいな話し方だな」

 スマイルゼロ円みたいな笑みをたたえる古泉は、

「少しばかりお時間を借りていいでしょうか。案内したいところがあるんですよ」

「涼宮がらみで?」

「涼宮さんがらみで」

 俺は自宅の扉を開けると玄関に鞄を置き、ちょうど奥から出てきた妹に、ちょっと遅くなるかもしれないことを告げ、また古泉のところへ取って返し、その数分後には車上の人となっていた。

 ありえないくらいのタイミングの良さで通りかかったタクシーを古泉が止め、俺と奴を乗せた車は国道を東へと向かっている。乗り際に古泉が口にした地名は、県外にある大都市のものであり、電車で行ったほうが遥かに安上がりに違いないのだが、どうせ払いはこいつ持ちだ。

「ところで、いつぞやの約束って何だっけ」

「超能力者ならその証拠を見せてみろとおっしゃったでしょう? ちょうどいい機会が到来したもんですから、お付き合い願おうと思いまして」

「わざわざ遠出する必要があるのか?」

「ええ。僕が超能力者的な力を発揮するには、とある場所、とある条件下でないと。今日これから向かう場所が、いい具合に条件を満たしているというわけです」

「またハルヒが神様だとか思ってんのか」

 後部座席に並んで座っている古泉は、俺に横目をくれて、

「人間原理という言葉をご存知ですか?」

「ご存知でないな」

 ふっと息継ぎみたいな笑い声を上げて、古泉は言った。

「煎じ詰めて言えば『宇宙があるべき姿をしているのは、人間が観測することによって初めてそうであることを知ったからだ』という理論です」

 ちっとも解らん。

「我観測す。ゆれに宇宙あり。とでも言い換えましょうか。要するに、この世に人間なる知的生命体がいて物理法則や定数を発見し、宇宙はこのようにして成り立っていると観測出来て初めて宇宙そのものの存在が知られるわけです。ならば宇宙を観測する人類がもし地球でここまで進化することがなかったら、観測するものがいない以上、宇宙はその存在を誰にも知られることがない。つまりあってもなくても同じことになってしまう。人類がいるからこそ宇宙は存在を認められている。という人間本位的な理屈のことです」

「そんな無茶な話があるか。人類がいようがいまいが、宇宙は宇宙だろ」

「その通りです。だから人間原理は科学的とは言えません。思索的な理論にすぎない。しかし面白い事実がここから浮上します」

 タクシーが信号で止まる。運転手は前を見たまま、俺たちを一顧だにしない。

「なぜ宇宙は、こうも人類の存在に適した形で創造されたのか。重力定数がわずかでも小さいか大きいかしていたなら、宇宙がこのような世界になることはなかったでしょう。あるいはプランク定数が、あるいは粒子の質量比が、まさに人間にとってうってつけとしか言いようがない値をとっているゆえに世界はあり、人類もある。不思議なことだと思いませんか?」

 俺は背中がむず痒くなるのを感じた。何だか科学かぶれした新興宗教のパンフレットにありそうな謳い文句だ。

「ご安心を。僕は全知全能たる絶対神が人間の創造物である、などと信仰しているわけではありません。僕の仲間たちもね。ただし疑ってはいます」

 何をだ。

「僕たちは、崖っぷちで爪先立ちしている道化師のごとき存在なのではないかとね」

 俺がよほど変な顔をしていたのだろう。古泉は喘息にかかった鶏のオスみたいな笑い声を響かせ、

「冗談です」

「お前の言ってることは何一つとして理解出来ん」

 俺はハッキリ言ってやった。笑えないコントに付き合っているヒマはない。ここで俺を下ろすか、さったとUターンしろ。出来れば後者がいい。

「人間原理を引き合いに出したのは、ものの例えですよ。涼宮さんの話がまだです」

 だから、どうしてお前も長門も朝比奈さんもハルヒがそんなに好きなんだ。

「魅力的な人だとは思いますが。それは置いときましょう。覚えていますか、僕が、世界は涼宮さんによって作られたのかもしれないと言ったこと」

 いまいましいことだが記憶には残っているようだな。

「彼女には願望を実現する能力がある」

 そんなことを大真面目に断言するな。

「断言せざるを得ません。事態はほとんど涼宮さんの思い通りに推移していますから」

 そんなはずがあるか。

「涼宮さんは宇宙人はいるに違いない、そうであって欲しいと願った。だから長門有希がここにいる。同様に未来人もいて欲しいと思った。だから朝比奈みくるがここにいる。そして僕も、彼女に願われたからというただそれだけの理由でここにいるのですよ」

「だーかーら、なんで解るんだよ!」

「三年前のことです」

 三年前はもういい。聞き飽きた。

「ある日、突然僕は自分に、ある能力が備わったことに気付いた。その能力をどう使うべきかも何故か知っていた。僕と同じ力を持つ人間が僕と同様に力に目覚めたこともね。ついでにそれが涼宮ハルヒによってもたらされたことも。これは説明出来ません。解ってしまうんだから仕方がないとしか」

「一億歩|譲ったとして、ハルヒにそんなことが出来るとは思えん」

「そうでしょうね。我々だって信じられなかった。一人の少女によって世界が変化、いや、ひょっとしたら創造されたのかもしれない、なんてことをね。しかもその少女はこの世界を自分にとって面白くないものだと思い込んでいる。これはちょっとした恐怖ですよ」

「なぜだ」

「言ったでしょう。世界を自由に創造出来るのなら、今までの世界をなかったことにして、望む世界を一から作り直せばいい。そうなると文字通りの世界の終わりが訪れます。もっとも僕たちがそれを知るすべもないでしょうが。むしろ我々が唯一無二だと思っているこの世界も、実は何度も作り直された結果なのかもしれません」

 信じられるか、と言う代わりに俺は別の言葉を作っていた。

「だったらハルヒに自分の正体を明かしたらいい。超能力者が実在すると知ったら、喜ぶぞ、あいつ。世界をどうにかしようとは思わなくなるかもしれん」

「それはそれで困るんですよ。涼宮さんが超能力なんて日常に存在するのが当たり前だと思ったなら、世界は本当にそのようになります。物理法則がすべてねじ曲がってしまいます。質量保存の法則も、熱力学の第二法則も。宇宙全体がメチャクチャになりますよ」

「どうにも解らないことがある」

 俺は言った。

「ハルヒが宇宙人や未来人や超能力者を望んだから、お前や長門や朝比奈さんがいるんだって言ったな」

「そうです」

「なら、なぜハルヒ自身はまだそれに気付いていないんだ。お前たちや、俺までが知っているのに。おかしいだろう」

「矛盾だと思いますか。ところがそうではないのですよ。矛盾しているのは涼宮さんの心のほうです」

 解りやすく言え。

「つまるところ、宇宙人や未来人や超能力者が存在して欲しいという希望と、そんなものがいるはずないという常識論が、彼女の中でせめぎ合っているんですよ。彼女の言動こそエキセントリックですが、その実、まともな思考形態を持つ一般的な人種なんです。中学時代は砂嵐のようだった精神も、ここ数ヶ月は割に落ち着いて、僕としてはこのまま落ち着いていて欲しかったんですけどね、ここに来てまた、トルネードを発生させている」

「どういうわけだ」

「あなたのせいですよ」

 古泉は口だけで笑っていた。

「あなたが涼宮さんに妙なことを思いつかせなければ、我々は今もまだ彼女を遠目から観察するだけですんでいたでしょう」

「俺がどうしたって?」

「怪しげなクラブを作るように吹き込んだのはあなたです。あなたとの会話によって彼女は奇妙な人間ばかりを集めたクラブを作る気になったのだから、責任のありかはあなたに帰結します。その結果、涼宮ハルヒに関心を抱く三つの勢力の末端が一堂に会することになってしまった」

「……濡れ衣だ」

 我ながら力のこもらない反論。古泉は薄く笑いながら、

「まあ、それだけが理由ではないのですが」

 それだけ言って口を閉ざした。俺が続きを言えと言い出す前に、運転手が言った。

「着きました」

 車が止まり、ドアが開かれる。雑踏の中に俺と古泉は降り立った。料金を受け取ることもなくタクシーは走り去ったが、俺は全然|驚かなかった。

 周辺地域に住む人間が、街に出る、と言えばたいていこの辺りのことを差す。私鉄やJRのターミナルがごちゃごちゃと連なり、デパートや複合建築物が立ち並ぶ日本有数の地方都市。夕日がせわしなく道行く人々を明るく彩色するスクランブル交差点。どこから湧いたのかと思うほどの人間が青信号と同時に動き出した。その長い横断歩道の際で車を降りた俺たち二人は、たちまちのうちに雑踏に紛れた。

「ここまでお連れして言うのも何ですが」

 ゆっくりと横断歩道を渡りつつ、古泉は前を見たまま、

「今ならまだ引き返せますよ」

「いまさらだな」

 すぐ横を歩く古泉の手が俺の手を握った。何のマネだ、気持ち悪い。

「すみませんが、しばし目を閉じていただけませんか。すぐすみます。ほんの数秒で」

 肩がぶつかりそうになった会社員風のスーツ姿を身体をよじって避ける。青信号が点滅を始める。

 いいだろう。俺は素直に目をつむった。大量の靴音、車のエンジン音、一時も途絶えることのない人声、喧噪。

 古泉に手を引かれて、一歩、二歩、三歩。ストップ。

「もうけっこうです」

 俺は目を開いた。

 世界が灰色に染まっていた。

 暗い。思わず空を見上げる。あれほど目映い橙色を放っていた太陽はどこにもなく、空は暗灰色の雲に閉ざされている。雲なのだろうか? どこにも切れ目のない平面的な空間がどこまでも広がり、周囲を陰で覆っている。太陽がない代わりに灰色の空は薄ボンヤリとした燐光を放って世界を暗黒から救っている。

 誰もいない。

 交差点の真ん中に立ちつくす俺と古泉以外、横断歩道を埋め尽くすまでだった人の群れは、存在の名残もなく消え失せていた。薄闇の中で、信号機だけがむなしく点滅し、今、赤になった。車道側の信号が青に変わる。しかし走り出す車も一台もなかった。地球の自転すら止まったのではないかと思うほどの静寂。

「次元断層の隙間、我々の世界とは隔絶された、閉鎖空間です」

 古泉の声が静まりかえった大気の中でやけに響いた。

「ちょうどこの横断歩道の真ん中が、この閉鎖空間の <壁> でしてね。ほら、このように」

 伸ばした古泉の手が抵抗を受けたように止まった。俺も真似してみる。冷たい寒天のような手触り。弾力のある見えない壁はわずかに俺の手を受け入れたが、十センチも進まないうちにビクともしなくなった。

「半径はおよそ五キロメートル。通常、物理的な手段では出入り出来ません。僕の持つ力の一つが、この空間に侵入することですよ」

 タケノコのように地面から生えているビルの数々には明かり一つ灯っていない。商店街に並ぶ店にも。人工的な光を放っているのは信号機と、弱々しく輝く街灯だけだ。

「ここはどこだ」

 むしろ、何だ、と言うべきだろうか。

 歩きながら説明しましょう、と古泉はどうということもなさそうに、

「詳細は不明ですが、我々の住む世界とは少しだけズレたところにある違う世界…………とでも言いましょうか。先ほどの場所から次元断層が発生し、我々はその隙間に入り込んだ状態になっています。今この時でも、外部は何ら変わらない日常が広がっていますよ。常人がここに迷い込むことは……まあ滅多にありません」

 道路を渡り切り、古泉は目的地が決まっているのか、確かな足取りで歩を進める。

「地上に発生したドーム状の空間を想像して下さい。お椀を伏せたようなと言いますか。ここはその内部ですよ」

 雑居ビルの中に入る。人の気配どころかホコリ一つ落ちていない。

「閉鎖空間はまったくのランダムに発生します。一日おきに現れることもあれば、何ヶ月も音沙汰なしのこともある。ただ一つ明らかなのは、」

 階段を登る。ひどく暗い。前を歩く古泉の姿がわずかでも見えていなければ足を取られるところだ。

「涼宮さんの精神が不安定になると、この空間が生まれるってことです」

 四階建ての雑居ビルの屋上に出る。

「閉鎖空間の現出を僕は察知することが出来ます。僕の仲間も。なぜそれを知ってしまうのかは僕らにも謎です。なぜだか出る場所と時間が解ってしまう。同時にここへの入り方もね。言葉では説明出来ません、この感覚は」

 屋上の手すりにもたれて空を見上げる。そよとも風が吹いていない。

「こんなものを見せるために、わざわざ連れてきたのか? 誰もいないだけじゃないか」

「いえ、核心はこれからですよ。もう間もなく始まります」

 もったいぶるな。しかし古泉は俺の仏頂面に気付かないふりをして、

「僕の能力は閉鎖空間を探知して、ここに入るだけではありません。言うなれば、僕には涼宮さんの理性を反映した能力が与えられているのです。この世界が涼宮さんの精神に生まれたニキビだとしたら、僕はニキビ治療薬なんですよ」

「お前の比喩は解りにくい」

「よく言われます。しかしあなたもたいしたものだ。この状況を見て、ほとんど驚いていませんね」

 俺は消えた朝倉とゴージャスな朝比奈さんを思い出した。すでに色々あったからな。

 不意に古泉は顔を上げた。相対した俺の頭の向こう側に、遠くに焦点を合わせた目を向ける。

「始まったようです。後ろを見て下さい」

 見た。

 遠くの高層ビルの隙間から、青く光る巨人の姿が見えた。

 三十階建ての商業ビルよりも頭一つ高い。くすんだコバルトブルーの痩身は発光物質ででも出来ているのか、内部から光を放っているようだ。輪郭もはっきりしない。目鼻立ちといえるものもない。目と口があるらしき部分がそこだけ暗くなっている他はただののっぺらぼうだ。

 何だ、アレは。

 挨拶でもするように、巨人は片手をゆるゆると上げ、鉈のように振り下ろした。

 かたわらのビルの屋上から半ばまで叩き割り、腕を振る。コンクリートと鉄筋の瓦礫がスローモーションで落下、轟音とともにアスファルトに降り注ぐ。

「涼宮さんのイライラが具現化したものだと思われます。心のわだかまりが限界に達するとあの巨人が出てくるようです。ああやって周りをぶち壊すことでストレスを発散させているんでしょう。かと言って、現実世界で暴れさせるわけにもいかない。大|惨事になりますかね。だからこうして閉鎖空間を生み出し、その内部のみで破壊行動をする。なかなか理性的じゃないですか」

 青い光の巨人が腕を振るたびにビルたちは半分からへし折られて崩壊し、崩壊したビルの残骸を踏みつぶしながら巨人は足を踏み出した。建物がひしゃげる鈍い音は聞こえても、巨人の足音は不思議と響いて来ない。

「あれくらいの巨大な人型になると、物理的には自重で立つことも出来ないはずなんですがね。あの巨人はまるで重力がないかのように振る舞うんです。ビルを破壊出来るということは質量を持っているはずなんですが、いかなる理屈もあれには通用しませんよ。たとえ軍隊を動員したとしても、あれを止めることは出来ないでしょう」

「じゃ、あれは暴れっぱなしなのか」

「いいえ。僕がいるのはそのためでもあるのですから。見てください」

 古泉は指を巨人に向けた。俺は目を凝らす。さっきまではなかった、赤い光点がいくつか巨人の周りを旋廻していた。高層ビルと伍する雲つく青い巨人に比べると、ゴマ粒みたいな矮小な球状の赤い光。五つまでは数えられたが、動きが速すぎて目で追いきれない。衛星のように巨人を周回する赤い点は、まるで巨人の行く手を遮るような動きを見せていた。

「僕の同志ですよ。僕と同じように涼宮さんによって力を与えられた、巨人を狩る者です」

 赤い光の粒は、淡々と街並みを破壊する青い巨人が振り回す両腕を巧みに回避しながら、急激に軌道を変えて巨人の身体に突撃を仕掛けていた。巨人の身体はまるで気体で出来ているようだった。やすやすと貫通する。

 だが巨人は自分の顔の前を飛び回る赤い球体など目に入らない様子で、攻撃を無視、義務的な動作でまた一つのデパートビルに手刀を振り下ろした。

 複数の赤光が一斉に突撃してもその動きは変わらない。巨人は体中を速すぎてレーザーのようにも見える赤い光に貫かれていたが、遠目からではどんなダメージを受けているのかはまったく解らなかった。巨人の身体には穴すら開いていないようにも見える。

「さて、僕も参加しなければ」

 古泉の身体から赤い光が滲み出していた。オーラが可視光線なんだとしたら、まさにそんな感じだ。発光する古泉の身体はたちまちのうちに赤い光の球体に飲み込まれ、俺の目の前に立っているのは、もはや人間の姿ではなく、ただの大きな光の玉だった。

 デタラメだな、もう。

 ふわりと浮き上がった赤い光球は、俺に目配せでもするように二三度ばかり左右に揺れると、残像すら残らないスピードで飛び去った。一直線に、巨人へ向けて。

 古泉のなれの果てを加えた赤い光群は一秒もじっとしていないため総数を数える気にもならないが、二|桁ってことはないだろう。果敢に巨人への体当たりアタックをかましているものの突き抜けるばかりで何かの効果を上げているようには思えない、と俺が傍観していると、赤い玉の一つが巨人の青い腕、肘の辺りに取りついて、そのまま腕に沿って一周した。

 ゆらあり、と巨人の片腕が肘から切断され、主を失った巨腕が地面に落下していく、と思いきや、青い光がモザイク状に煌きながら、腕は厚みを失って、日向に置いた雪の欠片のように消えた。肘を失った切断部から気体のような青い煙がゆっくりと滴っているのは、あれは巨人の血液だろうか。幻想的と言えなくもない光景である。

 赤い玉たちは猪突猛進から切り刻み攻撃に宗旨変えをしたようで、犬にたかるノミみたいに一斉に巨人の身体にピタリと身を寄せると、青い光を切り刻み始める。巨大な顔に赤い線が斜め走り頭部がずり落ちる。肩が崩落し、たちまちのうちに上半身は奇怪なオブジェと化した。切断された部位はモザイクとなって広がり、そして消滅する。

 青い光が立つ辺り一面が荒野になっているおかげで遮蔽物がなく俺は一部始終を観劇することが出来た。身体の半分以上を失ったと同時に巨人、崩壊。塵よりも小さく分解し、後には瓦礫の山が残されるばかりだった。

 上空を旋廻していた赤い点々は、それを見届けると、四方に散った。大半はすぐに見えなくなったが一つが俺に向かって飛んできて、雑居ビルの屋上に軟着陸を決めると赤い光がパトランプからコタツ強、弱へと明るさを弱め、すっかり光の放出をやめたとき、そこに立っているのは、気取った手つきで髪をなでつけているいつもの微笑みを浮かべた古泉なのだった。

「お待たせしました」

 息一つ乱れていない。

「最後に、もう一つ面白いものが観られますよ」

 空を指さした。これ以上何があるんだと思いながら、俺はダークグレー一色に染まった天空を見上げ、それを見た。

 最初に巨人を見かけた辺り、その上空に亀裂が入っていた。卵から孵化しようとしている雛鳥がつついたようなひび割れ。亀裂は蜘蛛の巣状に成長していった。

「あの青い怪物の消滅に伴い、閉鎖空間も消滅します。ちょっとしたスペクタクルですよ」

 古泉の説明口調が終わるかどうかのうちに、亀裂は世界を覆い尽くしていた。まるで金属製の巨大なザルをすっぱりかぶせられた気分だ。網の目が細かくなっていき、ほぼ黒い湾曲としか思えなくなったその直後、

 パリン。

 音はしなかった。だが俺はガラスが砕けるような擬音を脳裏に感じた。天頂の一点から明るい光が一瞬にして円形に広がる。光が降ってくる、と思ったのは間違いで、ドーム球場の開閉式の屋根が数秒もしないで全開にされた、というのが近い。ただし屋根だけではなく建物すべてが。

 つんざくような騒音が鼓膜を打って、俺は反射的に耳を押さえた。だがその音は無音の世界でしばらく過ごしたことによる単なる錯覚、日常の喧噪。

 世界は元の姿を取り戻している。

 崩れ去った高層ビルも灰色の空も空飛ぶ赤い光もどこにもない。道路は車と人の山でごった返し、ビルの合間には見慣れたオレンジ色の太陽が輝き、世界をあまねく照らすその光は恩恵を受ける物体すべてに長い影を生じさせていた。

 風が吹いていた。

「解っていただけましたか?」

 雑居ビルを後にした俺たちの前に嘘みたいに止まったタクシーに乗り込みながら古泉が訊いた。見覚えのある無口な運転手。

「いいや」と俺は答えた。本心から。

 そう言うと思いました。と古泉は笑いを含んだ声で、「あの青い怪物----我々は <神人> と呼んでいますが----は、すでにお話したとおり涼宮さんの精神活動と連動しています。そして我々もまたそうなんです。閉鎖空間が生まれ、 <神人> が生まれるときに限り、僕は異能の力を発揮出来る。それも閉鎖空間の中でしか使えない力です。例えば今、僕には何の力もありません」

 俺は黙って運転手の後頭部を眺めていた。

「なぜ我々だけにこんな力が備わったのかは不明ですが、多分|誰でもよかったんでしょう。宝くじに当たったみたいなものです。到底当たりそうにない低確率でも、誰かには命中する。たまたま僕に矢が刺さっただけなんですよ」

 因果な話です、と言って古泉は微苦笑を浮かべ、俺は黙り続けた。何と言っていいものやらさっぱりだ。

「 <神人> の活動を放置しておくわけには行きません。なぜなら、 <神人> が破壊すればするほど、閉鎖空間も拡大していくからです。あなたがさっき見たあの空間は、あれでもまだ小規模なものなのです。放っておけばどんどん広がっていって、そのうち日本全国を、それどころか全世界を覆い尽くすでしょう。そうなれば最後、あちらの灰色の空間が、我々のこの世界と入れ替わってしまうのですよ」

 俺はようやく口を開いた。

「なぜそんなことが解る」

「ですから、解ってしまうのだからしょうがありません。『機関』に所属している人間はすべてそうです。ある日|突然、涼宮さんと彼女が及ぼす世界への影響についての知識と、それから妙な能力が自分にあることを知ってしまったのです。閉鎖空間の放置がどのような結果をもたらすのかもね。知ってしまった以上はなんとかしなければならないと思うのが普通ですよ。僕たちがしなければ、確実に世界は崩壊しますから」

 困ったものです、と呟いて、古泉も黙り込んだ。

 それきり俺の自宅に到着するまで、俺たちは窓を流れる日常の風景を眺め続けた。

 車が止まって俺が降りる際になって、

「涼宮さんの動向には注意しておいて下さい。ここしばらく安定していた彼女の精神が、活性化の兆しを見せています。今日のあれも、久しぶりのことなんですよ」

 俺が注意しててもどうこうするもんでもないんじゃないのか?

「さあ、それはどうでしょうか。僕としてはあなたにすべてのゲタを預けてしまってもいいと思っているんですがね。我々の中でも色々と思惑が錯綜しておりまして」

 半分ほど開いたドアから身を乗り出していた古泉は俺が言い返すよりも早く頭を引っ込めた。ドアが閉まる。都市伝説にありそうな幽霊タクシーのように走り去る車を見送るのもバカらしく、俺はさっさと自宅に戻った。

 

第七章

 

 自称、宇宙人に作られた人造人間。自称、時をかける少女。自称、少年エスパー戦隊。それぞれに自称が取れる証拠を律儀にも俺に見せつけてくれた。三者三様の理由で、三人は涼宮ハルヒを中心に活動しているようだが、それはいい。いや、ちっともよくないが、百光年ほど譲っていいことにしてみても、さっぱり解らないことがある。

 なぜ、俺なのだ?

 宇宙人未来人エスパー少年がハルヒの周りをうようよするのは、古泉いわくハルヒがそう望んだからだと言う。

 では、俺は?

 なんだって俺はこんなけったいなことに巻き込まれているんだ? 百パーセント純正に普通人だぞ。突然ヘンテコな前世に目覚めでもしない限り履歴書に書けそうもない謎の力もなんにもない普遍的な男子高校生だぞ。

 これは誰が書いたシナリオなんだ?

 それとも誰かに怪しいクスリでも嗅がされて幻覚でも見ているのか。毒電波を受信しているだけなのか。俺を踊らせているのはいったい誰だ。

 お前か? ハルヒ。

 なーんてね。

 知ったこっちゃねえや。

 なぜ俺が悩まなくてはならんのだ。すべての原因はハルヒにあるらしい。だとしたら悩まなくてはならないのは俺ではなくハルヒだろう。俺がその困惑を肩代わりしなければならない理由がどこにある。ない。ないと言ったらない。俺がそう決めた。長門も古泉も朝比奈さんも、俺にあんなことを告白するくらいなら本人に直接何もかも話してやればいいのだ。その結果、世界がどうなろうとそれはハルヒの責任であって、俺は無関係だ。

 せいぜい走り回ればいいさ。俺以外の人間がな。

 季節は本格的に夏の到来を前倒しすることを決めたに違いない。俺は汗をダラダラ垂らしながら坂道を登りながら脱いだブレザージャケットで汗を拭いながらネクタイも外してシャツの第三ボタンまでを開けながらノロくさく足を動かしていた。朝にこんなに暑ければ昼にはどんなことになるのか解らないというくらい暑い。ナチュラルハイキングコースが学校への通学路になっている虚しさをかみしめる俺の肩が後ろから叩かれた。触るな、余計に暑くなるだろ、と振り返った先には谷口のにやけ面。

「よっ」

 俺の横に並んだ谷口もさすがに汗まみれだった。うっとおしいよなあ、せっかくキメた髪型が汗でベタベタになっちまう、などと言いながらも元気そうな奴である。

「谷口」

 一方的に興味ゼロの飼っている犬の話を始めた口を遮って俺は訊いた。

「俺って、普通の男子高校生だよな」

「はあ?」

 そんな面白い冗談は初めて聞いたと言わんばかりのわざとらしい顔をする谷口。

「まず普通の意味を定義してくれ。話はそっからだな」

「そうかい」

 訊かないほうがマシだった。

「嘘嘘、冗談。お前が普通かって? あのな、普通の男子生徒は、誰もいなくなった教室で女を押し倒したりはしねえ」

 当たり前だが、覚えていたらしい。

「俺も男だ。根ほり葉ほり訊いたりしないだけの分別とプライドを持っている。だがな、解るだろ?」

 全然。

「どうやっていつのまにああなったんだ。え? しかも俺様的美的ランクAマイナーの長門有希と」

 Aマイナーだったのか。そんなことより、

「あれはだな……」

 俺は釈明した。谷口が考えていると思われるストーリーは妄想、夢想、完全フィクションである。長門は気の毒にも部室を根城にしてしまったハルヒの被害者であり、文芸部の活動に支障をきたすようになった彼女は困りあぐねたあげく、俺に相談した。なんとか涼宮さんをここから退去させるわけにはいかないだろうか。真摯な訴えに同調すること大だった俺は気の毒な彼女を救うべく、ハルヒの目の届かない場所で共々に善後策を協議することにし、ハルヒの帰ったあとの教室でアイデアを出し合っていると、長門は持病の貧血を起こして倒れとっさに俺が彼女と床との衝突を防ごうとしたまさにその時|闖入してきたのがお前、谷口である。まこと、真実とは明らかになってみれば下らないものであることよなあ。

「嘘つけ」

 一蹴された。くそ、ところどころに真実を交えた完璧な作り話だと思ったのに。

「その嘘話を信じたとして、あの誰とも接点を持ちたがらない長門有希から相談を持ちかけられた時点でもうお前は普通じゃねえよ」

 そんなに有名人だったのか、長門は。

「なにより涼宮の手下であるしな。お前が普通の男子生徒ってんなら、俺なんかミジンコ並に普通だぜ」

 ついでに訊いておこう。

「なあ、谷口、お前、超能力を使えるか?」

「あーん?」

 マヌケ面が第二段階に進行する。ナンパに成功した美少女がアブナイ宗教の勧誘員だったと知ったときのような顔をして、谷口は、

「……そうか。お前はとうとう涼宮の毒に侵されてしまいつつあるんだな……。短い間だったが、お前はいい奴だった。あんまり近づかないでくれ。涼宮が移る」

 俺は谷口を小突き、谷口はぷふぅと吹き出してから表情を崩して笑い出した。こいつが超能力者と言うのなら、俺は今日から国連事務総長だ。

 校門から校舎へと続く石畳を歩きながら、まあ一応感謝しておく。少なくとも話している間は暑さが少しは紛れたからな。

 さしものハルヒも熱気にだけはいかんともしがたいらしく、くたりと机に寄りかかってアンニュイに彼方の山並みを見物していた。

「キョン、暑いわ」

 そうだろうな、俺もだよ。

「扇いでくんない?」

「他人を扇ぐくらいなら自分を扇ぐわい。お前のために余分に使うエネルギーが朝っぱらからあるわけないだろ」

 ぐんにゃりとしたハルヒは昨日の弁舌さわやかな面影もなく、

「みくるちゃんの次の衣装なにがいい?」

 バニー、メイドと来たからな、次は……ってまだ次があるのかよ。

「ネコ耳? ナース服? それとも女王様がいいかしら?」

 俺の頭の中で朝比奈さんを次々と着せ替えさせ、恥ずかしそうに顔を赤らめる小さな姿を想像して眩暈を感じた。可愛すぎる。

 真剣に悩み始めた俺を、ハルヒは眉をひそめて睨めつけて耳の後ろの髪を払い、

「マヌケ面」

 と決めつけた。お前が話を振ったんだろうが。多分その通りだろうから抗議するつもりはないが。セーラー服の胸元から教科書で風を送り込みながら、

「ほんと、退屈」

 ハルヒは口を見事なへの字にした。まるでマンガのキャラクターみたいに。

 輻射熱でこんがり焼けそうな午後の時間を丸まる使った地獄の体育が終わり、二時間も使ってマラソンさせんじゃねえよバカ岡部などとののしりながら俺たちは六組で濡れ雑巾になった体操着を着替えて、五組に戻ってきた。

 早めに体育を切り上げていた女子どもの着替えは終わっていたが、後はホームルームを残すだけとあって運動部に直行する数人は体操着のままであり、運動部とは無縁のハルヒもなぜか体操着を着ていた。

「暑いから」

 というのがその理由である。

「いいのよ、どうせ部室に行ったらまた着替えるから。今週は掃除当番だし、このほうが動きやすい」

 頬杖をついた卵形の顔を外に向けたままハルヒは流れる入道雲を目で追っていた。

「そりゃ合理的だな」

 朝比奈さんのコスプレは体操着でもいいな。コスプレと言わないか。正体不明でも一応は高校生をやってんだし。

「なんか妄想してるでしょ」

 心を読んだとしか思えない的確なツッコミを放って俺をじろりと睨む。

「あたしが部室に行くまで、みくるちゃんにエロいことしちゃダメよ」

 お前が来てからならいいのか、という言葉を飲み込んで、俺は新米の保安官に拳銃を突きつけられた西部時代の指名手配犯のようにぞんざいな仕草で両手を広げた。

 いつものようにノックの返事を待って部室に入る。テレーズ人形のようにちょこんと椅子に座ったメイドさんが草原のヒマワリのような笑顔で出迎えてくれた。安らぐ。

 テーブルの隅でページを繰る長門はさしずめなんかの間違いで春に咲いてしまったサザンカである。いやもう自分でも何の例えなんだが解らん。

「お茶煎れますね」

 頭のカチューシャをちょいと直し朝比奈さんは上履きをパタパタ鳴らしてガラクタが溢れているテーブルに駆け寄った。急須にお茶っ葉を慎重な手つきで入れている。

 俺はどっかりと団長机に腰を下ろして、いそいそとお茶の用意をする朝比奈さんを眺めて一人|悦に入っていたが、その姿をみているうちに天啓が閃いた。

 パソコンのスイッチを入れ、OSの起動を待つ。ポインタから砂時計マークが消えたのを見計らって、俺はフリーソフトのビューワを立ち上げると、自分で設定したバスワードを入力してフォルダ「MIKURU」の中身を表示させた。さすがコンピュータ研が泣きながら手放した新機種だけあってたちどころにサムネイルが表示、朝比奈さんのメイド画像コレクション。

 朝比奈さんが湯飲みを用意している様子を片目で確認しながら、俺はその中の一枚を拡大し、さらに拡大。

 ハルヒによって無理矢理取らされた雌豹ポーシング。大きくはだけた胸元から豊満な谷間がギリギリまで覗いている。左の白い丘に黒い点があった。もう一段階拡大表示。だいぶドットが荒れてきたが、確かにそれは星形をしていた。

「なるほど、これか」

「何か解ったんですか?」

 机に湯のみが置かれるより前に俺は手際よく画像を閉じていた。このへん、抜かりはない。朝比奈さんがモニタを横から覗き込む。何もないんですよん。

「あれ、これ何です? このMIKURUってフォルダ」

 ぐあ、抜かった。

「どうして、あたしの名前がついてるの? ね、ね、何が入ってるの? 見せて見せて」

「いやあ、これはその、何だ、さあ何なんでしょうね。きっと何でもないでしょう。うん、そうです、何でもありません」

「嘘っぽいです」

 朝比奈さんは楽しそうに笑ってマウスに手を伸ばし、後ろから覆い被さるように俺の右手を取ろうとする。させるまじ、とマウスをつかむ俺。背中に柔らかい身体を押しつけてくれながら朝比奈さんは俺の肩の上に顔を出した。甘やかな吐息が頬にかかる。

「あの、朝比奈さん、ちょっと離れ……」

「見せて下さいよー」

 左手を俺の肩にかけ、右手でマウスを追いかける朝比奈さんの上半身が背中でつぶれている感触に、俺はほとほと参るしかなかった。

 クスクス笑いが耳朶を打ち、そのあまりの心地よさに俺はマウスを放しそうになり----、

「何やってんの、あんたら」

 摂氏マイナス273度くらいに冷え切った声が俺と朝比奈さんを凍り付かせた。通学|鞄を肩に引っ掛けた体操服のハルヒが父親の痴漢現場を目撃したような顔で立っていた。

 止まっていた朝比奈さんの時間が動いた。メイド服のスカートをぎこちなく揺らせて俺の背中から離れた朝比奈さんはロボット歩きで後ずさり、バッテリー切れ寸前の|ASIMOのように、カクンと椅子に座り込んだ。蒼白の顔が今にも泣きそうになっている。

 ふん、と鼻息を吹いて、ハルヒは足音高く机に近寄って俺を見下ろし、

「あんた、メイド萌えだったの?」

「なんのこった」

「着替えるから」

 好きにしたらいい。朝比奈さんが煎れてくれた番茶を飲んでくつろぐ俺。

「着替えるって言ってるでしょ」

 だから何だ。

「出てけ!」

 ほとんど蹴飛ばされるように俺は廊下へ転がり、鼻先で荒々しくドアが閉められた。

「なんだ、あいつ」

 湯飲みを置くヒマもなかった。俺は茶色の液体で濡れたシャツを指でつまみ上げて、ドアに背をあずけた。

 この違和感はなんだろう。何か日常と違うところが感じられてならない。

「あー、そうか」

 教室でも堂々と着替えをおっぱじめるハルヒが、わざわざ俺を部室から放りだしたのが引っかかっているのだ。

 はて。どういう心境の変化だろ。それともいつしか恥じらいを覚えるお年頃になったのか。相変わらず五組の男は体育の時間前には脱兎のごとく教室から飛び出すのが習慣になっているから解りようもない。そういえばその習慣を植え付けた朝倉ももういないんだな。

 持ったままの湯飲みをリノリウムの廊下に置いて、俺は片あぐらをかいた。

 しばらく待って、部室でごそごそする気配が止まっても中に入れという声がかからず、俺がぼんやり膝を抱えて待つこと十分、

「どうぞ……」

 朝比奈さんの小さな声がドア越しに聞こえた。本物のメイドよろしく扉を開けてくれた朝比奈さんの肩越しに、たいして面白くもなさそうに机に肘をついたハルヒの白く長い脚が見える。頭で揺れるウサ耳。懐かしのバニーガール姿。面倒くさいのか、カラーやカフス抜き、網タイツなしの生足で、しかし耳だけはしっかりつけたバニースタイルのハルヒが足を組んで座っていた。

「手と肩は涼しいけど、ちょっと通気性が悪いわね。この衣装」

 と言って、ハルヒはずるずると湯飲みの茶をすする。長門がページをパラリとめくった。

 バニーガールとメイドさんに囲まれ、どうしていいものやら見当もつかない。どっかでこの二人を客引きのバイトにでも斡旋したら儲かりそうだなと考えていると、

「うわ、なんですか」

 笑顔のままで素っ頓狂な声をあげるという愉快な反応をしつつ、古泉が現れた。

「あれ、今日は仮装パーティの日でしたっけ。すみません。僕、何も準備してなくて」

 話をややこしくするようなこと言うな。

「みくるちゃん、ここに座って」

 ハルヒが自分の前のパイプ椅子を指し示す。朝比奈さんは明らかにおどおどと、おっかなびっくりハルヒに背を向けて椅子に座った。何をするのかと思ったら、おもむろにハルヒは朝比奈さんの栗色の髪を手にとって、三つ編みに結い始めた。

 この場面だけを切り取れば、まるで妹の髪をセットしてやっている姉、みたいな美しい風情だが、いかんせん朝比奈さんは表情をこわばらせているし、ハルヒは仏頂面だ。単に三つ編みメイドにしたかっただけだろう。

 底の浅い笑みでその風景を見ている古泉に俺は問い掛けた。

「オセロでもやるか」

「いいですね。久しぶりです」

 俺たちが黒と白の争覇戦をひたすら繰り返している間(光の玉に変化出来るくせに古泉はやたら弱かった)、ハルヒは朝比奈さんの髪を結ったりほどいたりツインテールにしたり団子にしたりして遊び(ハルヒの手が触れるごとに小さく震える朝比奈さん)、長門は一瞬たりとも面を上げずに読書に浸っていた。

 なんの集まりなんだか、ますます解らなくなってきた。

 そう、その日、俺たちは何の変哲もないSOS団的活動をしてすごした。そこには空間を歪める情報がどうとか言う宇宙人も未来からの訪問者も青い巨人と赤い球体も何も関係なかった。やりたいことも取り立てて見当たらず、何をしていいのかも知らず、時の流れに身をまかすままのモラトリアムな高校生活。当たり前の世界、平凡な日常。

 あまりの何もなさに物足りなさを感じつつも、「なあに、時間ならまだまだあるさ」と自分に言い聞かせてまた漫然と明日を迎える繰り返し。

 それでも俺は充分楽しかった。無目的に部室に集まり、小間使いのようによく動く朝比奈さんを眺め、仏像のように動かない長門を眺め、人畜無害な微笑みの古泉を眺め、ハイとローの間を忙しく行き来するハルヒの顔を眺めているのは、それはそれで非日常の香りがして、それは俺にとって妙に満足感を与えてくれる学校生活の一部だった。クラスメイトに殺されそうになったり、灰色の無人世界で暴れる化け物に出会ったりなんぞ、そうそうありやしないだろうしな。あれが幻覚や催眠術や白昼夢でないとは断言しきれないが。

 涼宮ハルヒとその一味みたいに呼ばれるのは業腹だが、色んな意味でこんな面白い連中と一緒にいられるのは俺だけだ。なぜ俺だけなのかという疑問はこの際|脇に置いておく。そのうち俺以外の人間の参加もあるかもしれん。

 そうさ、俺はこんな時間がずっと続けばいいと思っていたんだ。

 そう思うだろ? 普通。

 だが、思わなかった奴がいた。

 決まっている。涼宮ハルヒだ。

 夜になって、晩飯だの風呂だの明日の英語で和訳を当てられそうなところの予習だのを適当に済ませ、もう後は寝るしかない時間を時計の針が指したあたりで、俺は自室のベットに寝ころんで長門から押しつけられた厚い書物をひもといていた。たまには読書もいいかなと思って何の気なしに読み始めたのだが、これが存外面白くてすいすいページが進む進む。やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。いいね、読書は。

 ただし一夜で読み切るにはあまりに文字量が多いので、俺は登場人物の一人が長々とした独白をちょうど終えたキリのいいところで本を置いた。そろそろ睡魔の野郎が目蓋の上でキャンプを張った頃合だ。長門の文字が刻まれた栞を挟んで本を閉じ、電気を消して布団に潜り込む。まどろみ数分、俺は寝付きよく眠りに落ちた。

 ところで人が夢を見る仕組みをご存知だろうか。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類があって周期的に繰り返されるわけなのだが、眠りばなの数時間は深い眠り、ノンレム睡眠が多く訪れる。このときの脳は活動を休止しており、身体は眠っているが脳が軽く活動しているレム睡眠時にわれわれは夢を見るのである。朝方になってレム睡眠の構成比は増えていき、つまり夢というものはほとんど寝起き直前に続けて見るものなのだ。俺は毎日のように夢を見るが、ギリギリまで寝床にいていざ起きたら慌ただしく登校の用意をしなくてはならないからすぐに忘れてしまう。ふとしたきっかけで何年か前の見たことも忘れていた夢の内容を思い出すころもあって、いや人間の記憶の仕組みってのはまだ不思議で満ちているんだな。

 閑話休題。そんなことはどうでもいいんだ。

 頬を誰かが叩いている。うざい。眠い。気持ちよく眠っている俺を邪魔するな。

「……キョン」

 まだ目覚ましは鳴ってないぞ。何度鳴ってもすぐ止めてしまうけどな。お袋に命じられた妹が面白半分に俺を布団から引きずり出すにはまだ余裕があるはずだ。

「起きてよ」

 いやだ。俺は寝ていたい。胡乱な夢を見ているヒマもない。

「起きろってんでしょうが!」

 首を絞めた手が俺を揺り動かし、後頭部を固い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。……固い地面?

 上半身を跳ね上げる。俺を覗き込んでいたハルヒの顔がひょいと俺の頭を避けた。

「やっと起きた?」

 俺の横で膝立ちになっているセーラー服のハルヒが、白い顔に不安を滲ませていた。

「ここ、どこだか解る?」

 解る。学校だ。俺たちの通う県立北高校。その校門から靴脱ぎ場までの石畳の上。明かりひとつ灯っていない、夜の校舎が灰色の影となって俺の目の前にそびえ----。

 違う。

 夜空じゃない。

 ただ一面に広がる暗い灰色の平面。単一色に塗り潰された燐光を放つ天空。月も星も雲さえない、壁のような灰色空。

 世界が静寂と薄闇に支配されていた。

 閉鎖空間。

 俺はゆっくりと立ち上がった。寝間着がわりのスウェットではなく、ブレザーの制服が俺の身体をまとっている。

「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんな所にいて、隣りであんたが伸びていたのよ。どういうこと? どうしてあたしたち学校なんかにいるの?」

 ハルヒが珍しくか細い声で訊いている。俺は返事の代わりに自分の身体にあちこち手を触れてみた。手の甲をつねった感触も、制服の手触りも、まるで夢とは思えない。髪の毛を二本ばかり引っ張って抜くと確かに痛い。

「ハルヒ、ここにいたのは俺たちだけか?」

「そうよ。ちゃんと布団で寝ていたはずなのに、なんでこんな所にいるわけ? それに空も変……」

「古泉を見なかったか?」

「いいえ。……でもどうして?」

「いや何となくだが」

 ここが例の次元断層がどうのこうのしたとかの閉鎖空間なら、光の巨人と古泉たちもいるはずだ。

「とりあえず学校を出よう。どこかで誰かに会うかもしれない」

「あんた、あんまり驚かないのね」

 驚いているさ。特にお前がここにいることにな。ここはお前が作り出す巨人の遊び場じゃなかったのか? それともやはりこれは異常にリアル感のある俺が見ている夢か。人気のない学校でハルヒと二人きり。フロイト博士ならなんと分析してくれるだろう。

 ハルヒと付かず離れず並んで門扉から足を踏み出そうとした俺の鼻先が見えない壁に押された。ねっとりした感触には記憶がある。力を込めればある程度は進めるものの、すぐに固い壁にぶち当たる。透明な壁が校門のすぐ外に立ちはだかっていた。

「……何、これ」

 ハルヒが両手を盛んに突き出しながら、目を見開いている。俺は学校の敷地ぞいに歩いて確認する。不可視の壁は歩いた範囲内では途切れることなく続いていた。

 まるで、俺たちを学校に閉じ込めるように。

「ここからは出られないらしい」

 風がそよとも吹いていない。大気すら動きを止めたようだ。

「裏門へ回ってみるか」

「それより、どこかと連絡が取れない? 電話でもあればいいんだけど、携帯は持ってないし」

 ここが古泉が説明したとおりの閉鎖空間なら電話があっても無駄だろうが、俺たちはいったん校舎へ入ることにした。職員室に行けば電話くらいあるだろう。

 電気のついていない、暗い校舎というのはなかなかに不気味なものだ。俺たちは土足のまま下駄箱の列を通り抜け、無音の校舎を歩く。途中、一階の教室のスイッチを入れてやると瞬きながら蛍光灯がついた。味も素っ気もない人工の光だが、それだけでも俺とハルヒは、ほっとした顔を見合わせた。

 俺たちはまず宿直室へと向かい、誰もいないことを確認してから職員室へ、当然|鍵がかかっていたので消火栓扉から消火器を取り出してその底を窓ガラスに叩きつけ、窓から部屋に侵入した。

「……通じてないみたい」

 ハルヒが差し出す受話器を耳に当てる。何の音もしない。試しにダイヤルボタンを押してみたが反応なし。

 職員室を後にした俺たちは、教室の電気を次々点灯させながら上を目差した。われらが一年五組の教室は最上階にある。そこから下界を覗けば、周囲がどうなってんのか解るかもしれない、とハルヒは言った。

 校舎を歩いている間、ハルヒは俺ブレザーの裾をつまんでいた。頼りにしてくれるなよ、俺には何の力もないんだからな。それに怖いならいっそ腕にすがりついてくれよ。そっちのほうが気分が出る。

「バカ」

 ハルヒは上目|遣いで俺にきつい視線を送ったものの、指を離そうとはしなかった。

 一年五組の教室に変わるところは何もない。出てきたときのままだ。黒板の消し跡も、画鋲の刺さったモルタルの壁も。

「……キョン、見て……」

 窓に駆け寄ったハルヒはそう言ったきり絶句した。その隣で、俺もまた眼下の世界を見下ろした。

 見渡す限りダークグレーの世界が広がっていた。山の中腹に建っている校舎の四階からは遠くの海岸線までを目にすることが出来る。左右百八十度、視界が届く範囲に、人間の生活を思わせる光はどこにもない。すべての家々は闇に閉ざされ、カーテン越しにでも光を漏らす窓が一つもなかった。この世から人間が残らず消えてしまったかのように。

「どこなの、ここ……」

 俺たち以外の人間が消えたのではなく、消えたのは俺たちのほうだ。この場合、俺たちこそが誰もいない世界に紛れ込んだ闖入者になるのだろう。

「気味が悪い」

 ハルヒは自分の肩を抱くようにして呟いた。

 行く当てもない。そんなわけで俺たちは夕方に後にしたばかりの部室にやって来た。鍵は職員室からガメてきたので問題ない。

 蛍光灯の下、俺たちは見慣れた根城に戻った安心感からどちらともなく安堵の息を漏らした。

 ラジオをつけてみてもホワイトノイズすら入らず、風の音一つしない静まりかえった部室にポットから急須に注がれる湯の音だけがこだました。茶葉を入れ替える気にもならないので出がらしのお茶だ。煎れているのは俺。ハルヒは半ば呆然と灰色の外界を眺めている。

「飲むか?」

「いらない」

 俺は自分のぶんの湯飲みを持ってパイプ椅子を引き寄せた。一口飲んでみる。朝比奈さんのお茶のが百倍|美味い。

「どうなってんのよ、何なのよ、さっぱり解らない。ここはどこで、なぜあたしはこんな場所に来ているの?」

 ハルヒは窓の前に立ったまま振り返らずに言った。後ろ姿がやけに細く見えた。

「おまけに、どうしてあんたと二人だけなのよ?」

 知るものか。ハルヒはスカートと髪を翻し、俺を怒ったような顔で見ると、

「探検してくる」と言って、部室を出ようとする。腰をあげかけた俺に、

「あんたはここにいて。すぐ戻るから」

 言い残してさっさと出て行った。うむ、そういうところはハルヒらしいな。溌剌とした足音が遠ざかるのを聞きながら一人|不味い茶を飲む前に、やっと奴が現れた。

 小さな赤い光の玉。最初、ピンポン球くらいの大きさ、次いで除々に輪郭を広げた光は蛍のような明滅を繰り返して、最終的に人型を取った。

「古泉か?」

 人の形をしていても人間には見えない。目も鼻も口もない、赤く輝く人の形。

「やあ、どうも」

 能天気な声は、確かに赤い光の中から届く。

「遅かったな。もうちょっとまともな姿で登場すると思っていたが……」

「それも込みで、お話することがあります。手間取ったのは他でもありません。正直に言いましょう。これは異常事態です」

 赤い光が揺らめいた。

「普通の閉鎖空間なら僕は難なく侵入出来ます。しかし今回はそうではありませんでした。こんな不完全な形態で、しかも仲間のすべての力を借り受けてやっとなんです。それも長くは持たないでしょう。我々に宿った能力が今にも消えようとしているんです」

「どうなってるんだ? ここにいるのはハルヒと俺だけなのか?」

 その通りです、と古泉は言い、

「つまりですね、我々の恐れていたことがついに始まってしまったわけですよ。とうとう涼宮さんは現実世界に愛想を尽かして新しい世界を創造することに決めたようです」

「…………」

「おかげで我々の上の方は恐慌状態ですよ。神を失ったこちらの世界がどうなるのか、誰にも解りません。涼宮さんが慈悲深ければこのまま何もなく存続する可能性もありますが、次の瞬間に無に帰することもありえます」

「何だってまた……」

「さあて」

 赤い光が炎のようにふらふらと、

「ともかく涼宮さんとあなたはこちらの世界から完全に消えています。そこはただの閉鎖空間じゃない。涼宮さんが構築した新しい時空なんです。もしかしたら今までの閉鎖空間もその予行演習だったのかも」

 面白い冗談だが、それのどこで笑っていいのか教えてくれ。はっはっはっ。

「笑い事じゃないですよ。大マジです。そちらの世界は今までの世界より涼宮さんの望むものに近づくでしょう。彼女が何を望んでいるかまでは知りようがありませんが。さあどうなるんでしょうね」

「それはいいとして、俺がここにいるのはどういうわけだ」

「本当にお解りでないんですか? あなたは涼宮さんに選ばれたんですよ。こちらの世界から唯一、涼宮さんが共にいたいと思ったのがあなたです。とっくに気付いていたと思いましたが」

 古泉の光は今や電池切れ間近の懐中電灯並に光度が落ちていた。

「そろそろ限界のようです。このままいくとあなたがたとはもう会えそうにありませんが、ちょっとホッとしてるんですよ、僕は。もうあの <神人> 狩りに行くこともないでしょうから」

「こんな灰色の世界で、俺はハルヒと二人で暮らさないといかんのか」

「アダムとイヴですよ。産めや増やせばいいじゃないですか」

「……殴るぞ、お前」

「冗談です。おそらくですが、閉ざされた空間なのは今だけでそのうち見慣れた世界になると思いますよ。ただしこちらとまったく同じではないでしょうが。今やそちらが真実で、こっちが閉鎖空間だと言えます。どう違ってしまうのか、それを観測出来ないのは残念です。まあそっちに僕が生まれるようなことがあれば、よろしくしてやってください」

 古泉はもとのピンポン球に戻りつつあった。人間の形が崩れ、燃え尽きた恒星のように収縮していく。

「俺たちはもうそっちに戻れないのか?」

「涼宮さんが望めば、あるいは。望み薄ですがね。僕としましては、あなたや涼宮さんともう少し付き合ってみたかったので惜しむ気分であります。SOS団での活動は楽しかったですよ。……ああ、そうそう、朝比奈みくると長門有希から伝言を言付かっていたのを忘れてました」

 完全に消え失せる前に、古泉はこう言い残した。

「朝比奈みくるからは謝っておいて欲しいと言われました。『ごめんなさい、わたしのせいです』と。長門有希は、『パソコンの電源を入れるように』。では」

 最後はあっさりしたものだった。蝋燭の火を吹き消したような。

 俺は朝比奈さんの伝言とやらに頭をひねった。なぜ謝る。朝比奈さんが何をしたと言うんだ。考えるのは後にして、俺はもう一つの伝言に従ってパソコンのスイッチを押した。ハードディスクがシークする音を立てながらディスプレイにOSのロゴマークを浮かび上がらせ……なかった。ものの数秒で立ち上がるはずのOSがいつまでたっても表示されず、モニタは真っ黒のまま、白いカーソルだけが左|端で点滅していた。そのカーソルが音もなく動き、そっけなく文字を紡ぐ。

 YUKU.N > みえてる?

 しばしほうけた後、俺はキーボードを引き寄せた。指を滑らせる。

『ああ』

 YUKU.N > そっちの時空間とはまだ完全には連結を絶たれていない。でも時間の問題。すぐに閉じられる。そうなれば最後。

『どうすりゃいい』

 YUKU.N > どうにもならない。こちらの世界の異常な情報|噴出は完全に消えた。情報統合思念体は失望している。これで進化の可能性は失われた。

『進化の可能性ってな結局なんだったんだよ。ハルヒのどかが進化なんだ』

 YUKU.N > 高次の知性とは情報処理の速度と正確さのこと。有機生命体に付随する知性は肉体から受ける錯誤とノイズ情報が多すぎて処理に制限がかかる。それゆえに一定以上のレベルで進化はストップする。

『肉体がなければいいのか』

 YUKU.N > 情報統合思念体は初めから情報のみによって構成されていた。情報処理能力は宇宙が熱死を迎えるまで無限に上昇すると思われた。それは違った。宇宙に限りがあるように進化にも限りがあった。少なくとも情報による意識体である以上は。

『涼宮は、』

 YUKU.N > 涼宮ハルヒは何もないところから情報を生み出す力を持っていた。それは情報統合思念体にもない力。有機体に過ぎない人間が一生かかっても処理しきれない情報を生み出している。この情報創造能力を解析すれば自立進化への糸口がつかめるかもしれないと考えた。

 カーソルが瞬いた。どこかためらう気配を感じさせて、次の文字が流れる。

 YUKU.N > あなたに賭ける。

『何をだよ』

 YUKU.N > もう一度こちらへ回帰することを我々は望んでいる。涼宮ハルヒは重要な観察対象。もう二度と宇宙に生まれないかもしれない貴重な存在。私という個体もあなたには戻ってきて欲しいと感じている。

 文字が薄れてきた。弱々しく、カーソルはやけにゆっくりと文字を生んだ。

 YUKU.N > また図書館に

 ディスプレイが暗転しようとしていた。とっさに明度を上げてみても無駄。最後に長門の打ち出した文字が短く、

 YUKU.N > sleeping beauty

 カカカ、ハードディスクが回り出す音に俺は飛び上がりそうになる。アクセスランプが明滅し、ディスプレイには見慣れたOSのデスクトップ表示。パソコンの冷却ファンが立てる唸りだけがこの世の音のすべてだった。

「どうしろってんだよ。長門、古泉」

 俺は腹の底からこみ上げるため息をついて、何気なく、本当に何気なく窓を見上げ、

 青い光が窓の枠内を埋め尽くしていた。

 中庭に直立する光の巨人。間近で見るそれはほとんど青い壁だった。

 ハルヒが飛び込んできた。

「キョン! なにか出た!」

 窓際に立ち尽くす俺の背中にぶつかるようにして止まったハルヒは隣に並んで、

「なにアレ? やたらでかいけど、怪物? 蜃気楼じゃないわよね」

 興奮した口調だった。先ほどまでの悄然とした様子が嘘のよう。不安など感じていないように目を輝かせている。

「宇宙人かも、それか古代人類が開発した超兵器が現代に蘇ったとか! 学校から出られないのはあいつのせい?」

 青い壁が身じろぎする。高層ビルを蹂躙する光景が脳裏でフラッシュバック、俺はとっさにハルヒの手を取ると部屋から飛び出した。

「な、ちょっ! ちょっと、何?」

 転がるように廊下に出る、と同時に轟音が大気を震動させ、俺はハルヒを廊下に押し倒して覆い被さった。びりびりと部室|棟が揺れる。硬く重たいものが地面に激突する衝撃と音が廊下を伝わって俺に届いた。その度合いからして巨人の攻撃目標になったのは部室棟ではない、多分向かいの校舎だ。

 俺は口をパクパク開閉させているハルヒの手を握って起こし、走り出した。ハルヒは以外におとなしくついてくる。

 汗ばんでいるのは俺の掌か、それともハルヒか。

 古びた部室棟の中は埃の匂いすらしない。階段目指して全力ダッシュする俺は二回目の破壊音を聞く。

 ハルヒの体温を掌に感じながら階段を駆け下り、中庭を横切ってスロープからグラウンドへ出た。横目でうかがったハルヒの顔は、俺の気の迷いなのかどうなのか、なぜか少し嬉しがっているように思える。まるでクリスマスの朝、枕元に事前に希望していた通りのプレゼントが置かれていることを発見した子供のように。

 校舎からとりあえずの距離をとるまで走り続ける。振り仰いで見ると、巨人の大きさがさらによく解った。だいたい古泉に連れられて行った場所では、あいつは高層ビルほどもあったのだ。

 巨人が手を振り上げ、拳を校舎に叩きつけた。最初の一撃によって縦に割れていた四階建ての安普請はいとも簡単に崩壊した。破片が四方八方に飛び散って耳障りな音を立てる。

 二百メートルトラックの真ん中まで進んで、俺たちは脚を止めた。薄暗いモノトーンのキャンパスにそこだけが冗談のように青い巨大な人型が浮かび上がっている。

 写真を撮るならこの情景だと俺は思った。朝比奈さんの胸をつかむコンピュータ研の部長ではなく、ましてや朝比奈さんのコスプレ姿でもなく、この映像こそをホームページに貼り付けるべきだろう。

 そんなことを考えている俺の耳にハルヒの早口が届いた。

「あれさ、襲ってくると思う? あたしには邪悪なもんだとは思えないんだけど。そんな気がするのね」

「わからん」

 答えながら俺は考えていた。最初に俺を閉鎖空間へと導いた古泉は説明した。 <神人> の破壊活動をほったらかしにしていれば、やがて世界が置き換わってしまう、と。この灰色世界が今までいた現実世界に取って代わってしまい、そうして……。

 どうなってしまうと言うのだろう。

 さっきの古泉によると、新しい世界がハルヒによって創造されるのだと言うことらしい。そこには俺の知っている朝比奈さんや長門はいるのだろうか。それか、目の前にいる <神人> が自在に闊歩し、宇宙人や未来人や超能力者やらが普通にそこらをブラブラしているような、非日常的な風景が常識として迎え入れられるような世界になるのか。

 そんな世界になったとして、そこで俺の果たす役割は何なのか。

 考えるだけ無駄のようにも思える。解るわけがないからだ。ハルヒが何を考えているのかなんて、他人の思考を読むほど俺は達者な人間ではない。俺には何の芸もない。

 考え込む俺の耳元でハルヒの朗らかな声が、

「何なんだろ、ホント。この変な世界もあの巨人も」

 お前が生み出したものらしいぜ、ここも、あいつもな。それより俺が訊きたいのは、なぜ俺を巻き込むんだかということだ。アダムとイヴだと? アホらしい。そんなベタな展開を俺は望めない。認めてたまるか。

「元の世界に戻りたいと思わないか?」

 棒読み口調で俺は言った。

「え?」

 輝いていたハルヒの目が曇ったように見えた。灰色の世界でも際だつ白い顔が俺に向く。

「一生こんなところにいるわけにもいかないだろ。腹が減っても飯食う場所がなさそうだぜ、店も開いてないだろうし。それに見えない壁、あれが周囲を取り巻いているんだとしたら、そこから出ていくことも出来ん。確実に飢え死にだ」

「んー、なんかね。不思議なんだけど、ぜんぜんそのことは気にならないのね。なんとかなるような気がするのよ。自分でも納得出来ない、でもどうしてだろ、今ちょっと楽しいな」

「SOS団はどうするんだ。お前が作った団体だろう。ほったらかしかよ」

「いいのよ、もう。だってほら、あたし自身がとっても面白そうな体験をしているんだし。もう不思議なことを探す必要もないわ」

「俺は戻りたい」

 巨人は校舎の解体作業の手を休めていた。

「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだたんだな。アホの谷口や国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含めてもいい」

「……何言ってんの?」

「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」

 ハルヒは少しうつむき加減に、

「会えるわよきっと。この世界だっていつまでも闇に包まれているわけじゃない。明日になったら太陽だって昇ってくるわよ。あたしには解るの」

「そうじゃない。この世界でのことじゃないんだ。元の世界のあいつらに、俺は会いたいんだよ」

「意味わかんない」

 ハルヒは口を尖らせて俺を見上げていた。せっかくのプレゼントを取り上げられた子供のような怒りと悲哀が混じった微妙な表情だ。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」

「思ってたとも」

 巨人が歩き出した。崩れ落ちることなく残っていた校舎の残骸を蹴り倒して中庭を進んでくる。渡り廊下に手刀をかまし、部室|棟にもパンチを入れる。吹き飛んでいく俺たちの学校。俺たちの部室。

 ハルヒの頭|越しに、その巨人とは別の方角にも青い壁が立ち上がってくるのが見えた。一つ、二つ、三つ……。五|匹目まで数えて、俺はカウントを放棄した。

 光の巨人たちは、赤い光玉に邪魔されることもなく、灰色の世界を好きなように破壊し始め、し続けていた。その姿がどこか喜々として見えるのは俺の精神上の問題だろうか。奴らが手足を振り上げるたびに空間が削り取られるように、そこに見えていた風景が消え去っていく。

 もう校舎の跡形は半分も残っていない。

 閉鎖空間が拡大しているのかどうか俺は感じ取ることが出来ないし、また拡大しまくったこの空間がやがて新たな現実空間に成り果てるのかどうかも知らん。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。今の俺は、電車の隣に座った酔っぱいのおっさんが「誰にも言うなよ、実はわしは宇宙人じゃ」と言ったところで信じてしまえる。すでに俺の経験値は一ヶ月前の三倍の数値くらいには膨れあがっているのだ。

 俺に出来ることは何か。一ヶ月前なら無理でも、今の俺になら出来ることだ。ヒントならすでにいくつも貰ってある。

 俺は決意して、そして言った。

「あのな、ハルヒ。俺はここ数日でかなり面白い目にあってたんだ。お前は知らないだろうけど、色んな奴らが実はお前を気にしている。世界はお前を中心に動いていたと言ってもいい。みんな、お前を特別な存在だと考えていて、実際そのように行動していた。お前が知らないだけで、世界は確実に面白い方向に進んでいたんだよ」

 俺はハルヒの肩をつかもうとして、まだ手を握りしめたままだったことに気付いた。ハルヒは、こいつは何か悪いものでも食べたのかと言いたそうな顔をしていた。

 つい、と視線をそらしてハルヒは校舎をめちゃくちゃに破壊している巨人を、そうするのが当然だと言うように眺めた。

 その横顔は、あらためて見ると年相応の線の柔らかさが浮き彫りになっている。長門は言った、「進化の可能性」と。朝比奈さんによると「時間の歪み」で、古泉に至っては「神」扱いだ。では俺にとってはどうなのか。涼宮ハルヒの存在を、俺はどう認識しているのか?

 ハルヒはハルヒであってハルヒでしかない、なんてトートロジーでごまかすつもりはない。ないが、決定的な解答を、俺は持ち合わせてなどいない。そうだろ? 教室の後ろにいるクラスメイトを指して「そいつは俺にとって何なのか」と問われてなんと答えりゃいいんだ? ……いや、すまん。これもごまかしだな。俺にとって、ハルヒはただのクラスメイトじゃない。もちろん「進化の可能性」でも「時間の歪み」でもましてや「神様」でもない。あるはずがない。

 巨人が振り向いた。グラウンドへと。顔も目もないのに、俺は確かに視線を感じた。歩き出す。その一歩は何メートルあるのか、緩慢な歩みの割に俺たちに近づく姿が巨大さを増してくる。

 思い出せ。朝比奈さんは何と言ったか。その予言を。それから長門が最後に俺に伝えたメッセージ。白雪|姫、スリーピング・ビューティ。いくら俺でもsleeping beauty の邦訳を何というのかは知っている。両者に共通することと言えば何だ? 俺たちが今置かれている状況と合わせて考えてみたら答えは明快だ。なんてベタなんだ。ベタすぎるぜ、朝比奈さん、そして長門。そんなアホっぽい展開を俺は認めたくはない。絶対にない。

 俺の理性がそう主張する。しかし人間は理性のみによって生きる存在にあらず。長門ならそれを「ノイズ」と言うかもしれない。俺はハルヒの手を振りほどいて、セーラー服の肩をつかんで振り向かせた。

「なによ……」

「俺、実はポニーテール萌えなんだ」

「なに?」

「いつだったかのお前のポニーテールはそりゃもう反則なまでに似合ってたぞ」

「バカじゃないの?」

 黒い目が俺を拒否するように見える。抗議の声を上げかけたハルヒに、俺は強引に唇を重ねた。こういうときは目を閉じるのが作法なので俺はそれに則った。ゆえに、ハルヒがどんな顔をしているのかは知らない。驚きに目を見開いているのか、俺に合わせて目を閉じているのか、今にもぶん殴ろうと手を振りかざしているのか、俺に知るすべはない。だが俺は殴られてもいいような気分だった。賭けてもいい。誰がハルヒにこうしたって、今の俺のような気分になるさ。俺は肩にかけた手に力を込める。しばらく離したくないね。

 遠くでまた轟音が響き、巨人がまた校舎に殴る蹴るをしているんだろ、とか思った次の瞬間俺は不意に無重力下に置かれ、反転し、左半身を嫌と言うほどの衝撃が襲って、いくらなんでも払い腰をかけることはないだろうと思いながら上体を起こして目を開き、見慣れた天井を目にして固まった。

 そこは部屋。俺の部屋。首をひねればそこはベッドで、俺は床に直接|寝転がっている自分を発見した。着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団が半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開いているという寸法だ。

 思考能力が復活するまでにけっこうな時間がかかった。

 半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をぐるぐる円を描いて歩き回った。

 夢か? 夢なのか?

 見知った女と二人だけの世界に紛れ込んだあげくにキスまでしてしまうという、フロイト先生が爆笑しそうな、そんな解りやすい夢を俺は見ていたのか。

 ぐあ、今すぐ首つりてえ!

 日本が銃社会化を免れていることに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲に自動小銃の一丁でもあれば、俺は躊躇なく自分の頭を打ち抜いていただろう。あれが朝比奈さんなら、まだ俺は自分の夢の内容について正しい自己|分析が出来ていたものを、なのによりにもよってハルヒとは、俺の深層意識はいったい何を考えているんだ?

 俺はぐったりとベッドに着席し、頭を抱えた。夢だったとすると、俺は未だかつてないリアルなもんを見たことになる。汗ばんだ右手、それに唇に残る温かくて湿った感触。

 ……か、ここはすでにもとの世界ではないとか。ハルヒによって創造された新世界なのか。だったとして、俺にそんなことを確かめるすべはあるのか。

 ない。あるのかもしれないが思いつかない。というか何も考えたくない。自分の脳ミソがあんな夢を見せたなどと認めるくらいなら、世界がぶっ壊れたと言われたほうがだんだんマシに思えてきた。今すぐ誰かに逆ギレしたい。

 目覚し時計を持ち上げて現時刻を確認、午前二時十三分。

 ……寝よう。

 俺は布団を頭まで被り、冴え渡った脳髄に睡眠を要求した。

 一睡も出来なかったけどな。

 そんなわけで俺は今、這うようにして今日も不元気に坂道を登っている。正直、ツライ。途中で谷口に会ってバカ話をされなかっただけマシと思おう。かんかん照りの太陽は律儀に核融合全開だ。少しは休めばいいのに。

 来て欲しいときに来なかった睡魔の野郎が今頃俺の頭の上を旋回している。一限を何分聞いていられるか、かなり疑問だ。

 校舎が見えてきた時、俺は不覚にも立ち止まってしみじみと古ぼけた四階建てを眺めてしまった。汗だらけになった生徒たちが巣穴に向かうアリの行列のように吸い込まれていく玄関も、部室|棟も、渡り廊下もちゃんとそのままだ。

 俺は足を引きずり引きずり、よたよたと階段を上がって懐かしむべき一年五組の教室へ向かい、開けっ放しの戸口から三歩歩いたところでまた立ち止まった。

 窓際、一番後ろの席に、ハルヒはすでに座っていた。何だろうね、あれ。頬杖をつき、外を見ているハルヒの後頭部がよく見える。

 後ろでくくった黒髪がちょんまげみたいに突き出していた。ポニーテールには無理がある。それ、ただくくっただけじゃないか。

「よう、元気か」

 俺は机に鞄を置いた。

「元気じゃないわね。昨日、悪夢を見たから」

 ハルヒは平坦な口調で応える。それは奇遇なことがあったもんだ。

「おかげで全然寝れやしなかったのよ。今日ほど休もうと思った日もないわね」

「そうかい」

 硬い椅子にどっかりと腰を下ろし、俺はハルヒの顔をうかがった。耳の上から垂れる髪が横顔を覆っていて表情が解りにくい。ただ、まあ、あんまり上機嫌ではなさそうだ。少なくとも、顔の面だけは。

「ハルヒ」

「なに?」

 窓の外から視線を外さないハルヒに、俺は言ってやった。

「似合ってるぞ」

 

エピローグ

 

 その後のことを少しだけ語ろう。

 ハルヒはその昼にはあっさり髪をほどいて元のストレートヘアに戻してしまった。飽きたのだろう。また髪が伸びた頃に、遠回しに薦めてみようと思っている。

 古泉とはトイレ行った帰りの休み時間に廊下で出会った。

「あなたには感謝すべきなんでしょうね」

 無駄に爽やかな笑顔で言う。

「世界は何も変わらず、涼宮さんもここにいる。僕のアルバイトもしばらく終わりそうにありません。いやいや、本当にあなたはよくやってくれましたよ。皮肉じゃありませんよ? まあ、この世界が昨日の晩に出来たばかりという可能性も否定できないわけですが。とにかく、あなたと涼宮さんにまた会えて、光栄です」

 長い付き合いになるかもしれませんね、と言いつつ、古泉は俺に手を振った。

「また、放課後に」

 昼休みに顔を出した文芸部部室では、長門がいつもの情景で本を読んでいた。

「あなたと涼宮ハルヒは二時間三十分、この世界から消えていた」

 第一声がそれである。そしてそれだけだった。素知らぬ顔で文字を黙読し続ける長門に、

「貸してくれた本な、今読んでるんだ。後一週間もしたら返せると思う」

「そう」

 視線を合わさないのはいつものことだ。

「教えてくれ。お前みたいな奴は、お前の他にどれだけ地球にいるんだ?」

「けっこう」

「なあ、また朝倉みたいなのに俺は襲われたりするのかな」

「だいじょうぶ」

 この時だけ長門は顔を上げ、俺を見つめた。

「あたしがさせない」

 図書館の話はしないことにした。

 放課後の部室にいた朝比奈さんは珍しくメイド服を着ておらずセーラー服姿で、俺を目にするや全身でぶつかってきた。

「よかった、また会えて……」

 俺の胸に顔を埋めて朝比奈さんは涙声で、

「もう二度と……(ぐしゅ)こっちに、も、(ぐしゅ)戻ってこないかと、思、」

 背中に手を回そうとした俺の動きを感じたのか、朝比奈さんは両手を俺の胸に当てて突っ張った。

「だめ、だめです。こんなとこ涼宮さんに見られたら、また同じ穴の二の舞です」

「意味|解らないですよ、それ」

 涙を溜めた大きな瞳が可憐を通り越している。思わず人生をやり直したくなるような、この素直な瞳に参らない男はいまい。

「今日はメイド服は着ないんですか」

「お洗濯中です」

 そのとき思いついた。俺は自分の心臓の上を指して、

「そう言えば朝比奈さん、胸のここんとこに星型のホクロがありますよね」

 目尻を指で拭っていた朝比奈さんは、目の前で散弾銃をぶっ放された旅行鳩みたいな顔になり、くるりと背を向けて、襟ぐりを広げて胸元を覗き込み、面白いようにみるみる耳を赤く染めた。

「どっ! どうして知ってるんですか! あたしも今まで星の形なんて気付かなかったのにっ! いいいいいつ見たんですか!」

 首まで赤くして朝比奈さんは幼児のように両手で俺をぽかすか殴りつける。

 もっと未来のあなたが教えてくれました。正直に言ったほうがいいのだろうか。

「なにやってんの、あんたら?」

 戸口のハルヒが呆れたように言った。握り拳を停止させた朝比奈さんがまた顔面|蒼白になる。しかしハルヒは、義理の娘は毒リンゴを齧って死にましたと報告を受けた継母のようなニマニマ笑いを顔中で表現しながら、提げていた紙袋を持ち上げた。

「みくるちゃん、メイド服もそろそろ飽きたでしょう。さあ、着替えの時間よ」

 古流武術の達人さながら、一瞬にして間合いを詰めたハルヒはいともやすやすと硬直中の朝比奈さんを取り押さえ、

「いっ、きゃ、なっ、やっ、やめ」

 悲鳴を上げる朝比奈さんの制服を脱がせにかかるのだった。

「暴れないの。抵抗は無駄よ。今度のはナースよナース、看護婦さん。最近は看護師って言うんだっけ? まあいいや。同じことだし」

「せめてドアは閉じてぇ!」

 ものすごく見物していたかったが、俺は失礼して部室を辞し、扉を閉めて合掌した。

 朝比奈さんには悪いが、扉を開ける時が実に楽しみだ。

 ああ、長門なら最初から最後までテーブルで本読んでた。

 さて長らく棚上げしていたSOS団設立に伴う書類|申請だが、このたび俺はようやくそれらしい文書をでっちあげて生徒会に提出してやった。「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」では賄賂でも包まない限り却下されること確実と思われたので、「生徒社会を応援する世界造りのための奉仕団体(同好会)」(略称・SOS団)と独断で改名し、活動内容も「学園生活での生徒の悩み相談、コンサルティング業務、地域奉仕活動への積極参加」ということにした。言葉の意味なんか俺にだって解りはしないが、首尾良く申請を受け付けられたら悩み相談|募集のポスターでも掲示板に貼り付けようかと思う。俺たちに相談してどうなるもんでもないような気もするけどな。

 一方で、ハルヒ指揮のもと、市内の「不思議|探索パトロール」も鋭意継続中で、本日は記念すべきその第二回目である。例によってせっかくの休みを一日|潰してあてどもなくそこいらをウロウロするという企画なのだが、どういう偶然だろう、朝比奈さんと長門と古泉が直前になって行けなくなった、どうしても外せない重要な用事が出来て、と言い出し、というわけで俺は今、駅の改札口で一人、ハルヒを待っている。

 三人が何か気をきかせたつもりでいるのか、それとも本当に急用が出来たのかは解らないが、それぞれ常人ばなれしている三人のことだから、また俺たちの知らないところで妙な事態になっててその対応に追われている気がしないでもない。

 俺は腕時計に目をやった。集合時間まであと三十分もある。俺がここに突っ立ってからすでに三十分が経過してて、つまり俺は待ち合わせの一時間前にここに到着したのであって、これは別段はやる心を抑えかねてというわけではなく、遅刻の有無にかかわらず最後に来た者は罰金という定めがSOS団にあるからであり他意はない。なんせ参加人数二人だからな。

 時計から目を上げると、すぐに遠くから歩いてくる見覚えのある私服姿が目に入った。よもや三十分前に来たのに俺がもう待っているとは思わなかったのか、ぎくりとしたように立ち止まり、また憤然と歩き始める。眉根を寄せるしかめっ面のゆえんが参加率の低さを嘆いたものか、俺に後れを取った不覚を嘆いたものなのかは解らない。後でゆっくり聞いてやろう。ハルヒの奢りの喫茶店で。

 その際に俺は色々なことを話してやりたいと思う。SOS団の今後の活動方針について、朝比奈さんへのコスプレ衣装の希望、クラスでは俺以外の奴とも会話してやれ、フロイトの夢判断をどう思うか、などなど。

 しかしまあ、結局のところ。

 最初に話すことは決まっているのだ。

 そう、まず----。

 宇宙人と未来人と超能力者について話してやろうと俺は思っている。

 

あとがき

 

 なんとなくですが、一人の人間が一生涯で書くことのできる文章量は、その人が生れ落ちた瞬間にすでに決定されているのではないかと思うことがあります。あらかじめ規定の文字数があるのだとすると、書けば書くほど目減りしていくわけなので、そうするとどんどん書くことがなくなっていく計算になりますが、実際問題として一日で四百字|詰め原稿用紙|換算三百枚くらい書いてしまおうと思っても書けたためしがないので案外正解なのかもしれません。もっとも一日で十二万字も書こうとしたら一秒で一文字をタイプしたとしても約三十三時間かかるため、そんなんできっこないのですが、どこかでやり遂げている人がいるかもしれないので確証を得ることができません。

 できないと言えば、この前振りから話題を膨らませることもできないのですが、それはいったん脇に置いておいて別の話に移行すると、猫は良い生き物です。可愛いしグンニャリしているしニャーと鳴きます。だからどうしたんだと思われても困るのですが、僕自身が困っているのでそのあたりはいいわけのしようもなく、「そのようなものである」と思っていただければ幸いです。

 ところで、この本は畏れ多くも有り難くもスニーカー大賞を授与された結果としてこの世に出ていると思うのですが、受賞した旨の連絡をいただいたとき、僕はまず自分の耳を疑い次に頭を疑い受話器を疑い現実を疑い地球が自転しているという事実を疑い始めて、ようやく「どうやら本当のことらしい」と思い当たり、意味もなく猫を振り回してみたりもして噛みつかれ、手の甲に残った歯形を眺めながら、もし人間が持っている運があらかじめ決定されているのならが、この時点ですべての幸運を使い果たしているに違いないと考えたところまでは覚えていますが、なにぶん、あまりの精神的|衝撃により部分的な記憶の欠如が見られますので自分でも確かなことが言えません。いろいろあったような気がします。

 そのようなわけで、この本が出るにあたっての作業工程過程決定にたずさわれた方々の苦労は書いた本人のそれをさらに二乗した以上のものだと思われます。現在私が感じている感謝の念を言語化しようとしても日本語にその感謝規模を表現できる語彙は存在しないくらいの途方もなさです。特に選考委員の方々には何とお礼申し上げればいいものか解らず、新しい形容詞を考案している最中なのですが、たぶんそんな自作言語で何か言われても意味不明となって終了するであろうことも容易に想像できます。とにかく有り難いことです。有り難うございました。心底から、そう思います。

 今ここに私は、なんとかスタート地点に立たせてもらったばかりの上に号砲と同時にコケるかもしれずゴールがどっちでどこらへんにあるのか、ひょっとしたら給水ポイントすらない道を走り出してしまったのかもしれませんが、迷走しつつも走り続けることができたらよいなとしみじみと思います。そんな他人事みたいに思っている場合でもないのですが。

 最後に、この本の製造制作出版に際し直接的間接的有形無形のかかわりを持っていただいた方々全員と、読んでいただけた方々全員に無限の感謝をささげつつ、今回はこれにて失礼いたします。

 谷川 流

 

解説

 

 本作『涼宮ハルヒの憂鬱』は、第8回スニーカー大賞の <大賞> を受賞した作品です。新しい才能を発掘するために設けられたスニーカー大賞は、設立以来、数多くの作家を見いだしてきましたが、最高の賞である <大賞> はこれまで2人しか受賞していませんでした。 <第2回> 吉田直(代表作『トリニティ・ブラッド』)、 <第3回> 安井健太郎(代表作『ラクナロク』)です。ご存知のとおり、この両名ともが大人気シリーズを発表し、大賞受賞という大きな看板にふさわしい活躍をしています。逆に言えば、大賞を受賞するためには、この両名と同じ、いやそれ以上の実力がある、と認められなければならないのですから大変です。だけどもついに、安井健太郎以来、5年ぶりに大賞を与えられるにふさわしい才能、作品が登場しました。それが谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』だったのです。

 スニーカー大賞の最終選考会では毎年、選考委員の熱い議論が交わされています。選考委員全員が、新しい才能を一人でも多くの世に送り出したい、という気持ちで選考にあたっているのですが、候補者に対して無節操に賞を与えるわけにはいきません。ちょっと選考会の裏話をすると、まずは選考委員の議論の過程でその作品の長所と短所を徹底的に指摘しあいます。それをふまえてなお魅力的なポイントがあるかどうかが、受賞の大きな分かれ目になるのです。そしてその作品が賞を受賞した場合、編集者はそこで指摘された短所を解消し、長所をさらに伸ばすべく、著者と作品づくりをしていくわけです。

 さてこの『涼宮ハルヒの憂鬱』は、その最終選考において選考委員全員|一致の上で大賞に推されました。涼宮ハルヒという破天荒なキャラクターを軸にした小説の、その根幹となるアイデアの料理の仕方、一人称というスタイルで最後まで飽きさせずに読ませるストーリーの運び方と文章力、登場するキャラクターのあふれる魅力、どれをとっても大賞にふさわしいと、それはもう同席した編集者もびっくりするぐらい、あっさりと大賞に決定したのでした。

 本作『涼宮ハルヒの憂鬱』とはどういった内容なのか。それは、涼宮ハルヒという美少女がとっぴな言動と行動で周りを振り回す学園物語なのです……かと思いきや、途中で明かされるハルヒ本人も知らない秘密のなんと大風呂敷なことか! ネタばれになりますのでその大風呂敷を解説するわけにはいきませんが、思わず「うそ!」と言ってしまう展開が進むにつれ、いつのまにかこの驚くべきハルヒ・ワールドに誰しもが納得させられてしまうところが、この作品の不思議な、そして大きな魅力なのです。現実というものが薄皮一枚であっというまに非日常になってしまう不思議さ、異常だと思っていた出来事が本当は通常だとわった瞬間の奇妙な感覚にぜひハマってください。

 登場するキャラクターたちも強烈な個性をもったヤツらばかりです。わがまま、自己中、ご意見無用なスーパーヒロイン・涼宮ハルヒは、自分が面白いと思えることを妥協せずに求め続ける、良く言えば超ポジティブ、悪く言うと迷惑感あふれる女の子。そんな彼女に振り回されるこの物語の語り部のキョンは、最初から最後まで本名を呼んでもらえないかわいそうな扱いの上に、SOS団の設立やその後のとんでもない騒動に巻き込まれてしまいます。それでもハルヒとつきあえるのですから、これは一種の才能でしょう。そして、いつもハルヒに無理矢理コスプレさせられてしまう朝比奈みくる。毎回イヤだイヤだと言いながら、実は彼女、コスプレを気に入っているんじゃないでしょうか? 雑誌|連載のほうでもさまざまなコスチュームにチャレンジしていますし。

 そう、この文庫発売と合わせて雑誌『ザ・スニーカー』での短編連載が始まっています。文庫版の後の物語が描かれているこの短編でも、ハルヒはわがままを言い、みくるはコスプレし、キョンはぶつぶつとぼやきつつ、右往左往しながら活躍しています。

 この『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んで、もしあなたが気に入っていただけたならば、ぜひお友達に本書を勧めてください。そして『ザ・スニーカー』の連載も読んでみてください。一人でも多くの人にこの物語が読まれること、それが作者と編集部の一番の願いであるのです。

 スニーカー文庫編集部