ミステリックサイン

【Misuterikku Sain】

 予想通り、ハルヒは期末試験期間中にステイタスをメランコリー状態から回復させて、また好き勝手に振る舞うようになっていた。俺はと言えばその反作用で押し出されたブルー色をバトンタッチされたような鬱々真っ盛りだ。答案用紙が配られるたびにどんどん悪化していくような気がするね。この俺の憂鬱を共有できるのは谷口くらいだろう。中間テストでは赤点レーダーに引っかかるかどうかというギリギリ低空ラインを仲良く飛び回った戦友である。人はせめて自分よりアホな奴がいて欲しいよなと思いがちな動物だ。いてくれたら相対的に安心できるからな。絶対的に見ると安心している場合ではないのだが。

 俺の後ろの席でテストを受けていたハルヒは、なぜかいつも時間が余るようで試験終了三十分前にはたいてい机で寝息を立てていた。

 いまいましい。

 テスト期間中にはすべての部活動は中止され、今日あたりに再開されるのが普通なのだが、なぜかSOS団は頼まれたわけでもないのに年中無休で昨日も一昨日も営業していた。学校お仕着せの理論はSOS団的部活動には通用しないようである。当たり前だ、最初の第一歩から間違っている。この謎の団は部活でも何でもないので問題ないのだ。それがハルヒ理論である。

 先日もそうだ。せっかく俺が勉強意欲を限界まで高めたちょうどいいタイミングだったのに、俺はハルヒに袖を引っ張られて部室へと連れて行かれた。

「ちょっとこれを見なさい」

 そう言ってハルヒが俺に示したのは、いつぞや他部から強奪してきたパソコンのディスプレイだった。

 しかたがないので見た。何かわけの解らない落書きをドローイングソフトが表示していた。円の中に酔っぱらったサナダムシがクダを巻いているような絵とも文字とも絵文字ともつかないものである。幼稚園児が描いたとしか思えない。

「なにこれ」

 正直に言った。

 途端、ハルヒはアヒルのような口をして、

「見て解らないの?」

「解らんね。全然解らん。これに比べたら昨日の現国の試験のほうがまだ解るくらいだな」

「何言ってんの? 現国のテスト、すごく簡単だったじゃないの。あんなのあんたの妹でも満点取れるわ」

 実に腹立たしいことを発言し、

「これはね、あたしのSOS団のエンブレムよ」

 と答えて、立派なことを成し遂げた直後のような誇らしげな顔をした。

「エンブレム?」と俺。

「そう。エンブレム」とハルヒ。

「これが? 徹夜明けで休日出勤を二ヶ月連続やって万年係長候補が迎え酒をしながら歩いた跡にしか見えないけどな」

「ちゃんと見なさいよ。ほら、真ん中にSOS団って描いてあるでしょう」

 そう言われてみるとそんな気がしないでもないようなあるようなでも大声では言いかねるくらいには見えないでもないね。さて俺はいくつ否定後を連ねたかな。自分でも数える気がないので誰かヒマな奴が数えてくれ。

「一番ヒマなのはあんたでしょう。どうせ試験勉強もしないくせに」

 さっきまではする気満々だったんだ。が、言われてみれば今は確かにねえな。

「これをSOS団サイトのトップページに載せよう思ってるの」

 そう言えばそんなもんもあった。トップページしかないショボクレサイトだが。

「訪問者が増えないのよ。遺憾を覚えるわ。不思議なメールもちっとも来ないしね。あんたが邪魔したせいよ。みくるちゃんのエロ画像で客を呼ぼうと思ったのに」

 朝比奈さん懸命のメイド画像のすべては俺の物であり、他の誰にも見せる気はない。はした金で買えない物はこの世にちゃんとあるものさ。

「あんたの作ったこのサイトだけど、ほんっと、しょうもないわよね。賑やかすものが全然ないのよ。だからあたしは考えたの。SOS団のシンボルみたいなものを貼り付けたらどうかって」

 とっととネットから撤退しろよ。こんなアホなHPを間違って見てしまった奴が気の毒だ。コンテンツが何もないので更新されることもなく、あるのは『SOS団サイトにようこそ!』という画像データとメールアドレス、アクセスカウンタくらいである。そのカウンタは三桁に達していない上に、そのうちの九割はハルヒが自分で回しているみたいなもんだぞ。

 俺はハルヒが起動したブラウザに手作りサイトが出てるのを眺めながら、

「お前が日記でも書いたらどうだ? 業務記録を付けるのは団長の仕事だろ。宇宙船の船長だって航海日誌をつけるんだぜ」

「いやよ、めんどくさい」

 俺だってそんな面倒なことをしたくない。ここでの一日を描写しても、長門がどんな本を読んでたとか古泉と五目並べで勝利したとか朝比奈さんは今日も可愛いとかハルヒは口を閉じて黙って座ってろとか、それくらいのことしか書くこともなかろう。書いていて楽しくないものが読んでも楽しいとは思えない。ゆえに俺はそんな誰にとっても娯楽とほど遠いことはしないのさ。

「さ、キョン。このシンボルマークをサイトの頭に表示するようにしなさい」

「お前が自分でしろ」

「やり方わかんないもん」

「だったら調べろ。解らんからって他人任せにしてたら永遠に解らんままだぜ」

「あたしは団長なの。団長は命令するのが仕事なのよ。それにあたしが全部やっちゃったらあんたたちのする事がなくなるでしょう? 少しはあんたも頭を使いなさいよ。言われたことをやってるだけじゃ人間進歩しないわよ」

 お前は俺にやれと言っているのか、するなと言っているのかどっちなんだ。日本語は正しく使ってくれ。

「いいからやんなさい。そんな詭弁じゃあたしは騙されないからね。有り難がるのは紀元前のヒマなギリシャ人くらいよ。ほら早く!」

 これ以上夜明けのカラスみたいにやかましく鳴くハルヒの声を聞いているのも夥しく耳障りだったので、俺はしぶしぶHTMLエディタを起動すると、子供が暇つぶしで描いたようなハルヒ画伯イラストを適当なサイズに縮小してからファイルに貼り付け、そのままアップロードした。

 確認のためブラウザをリロードしてみる。必要のないSOS団エンブレムは、ちゃんとネット世界にその足跡を残しているようだった。チラリと見たアクセスカウンタの数字は、やはりまだ二桁のままだった。このままハルヒしか見ないサイトでいたらいい。こんなマヌケサイトを作ってるのが俺だと知られたくないからな。


 そんなことがあったりした俺の憂鬱を誘う日々も、何とか今日で第一段階を終了し、つかの間の休息が明日から始まろうとしていた。その休息の名を試験休みという。夏休みまでの準備期間であり、俺の解答用紙に教師がバツマークを朱入れするための時間でもあることだろう。

 くそいまいましい。

 くさくさしていてもしかたがないので、俺はSOS団が巣くった上にアジト化している文芸部部室へと足を運んだ。せめて朝比奈さんを眺めて安らぎを得ようとしたのである。

 長門は黙って本を読み、古泉はニヤつきながら一人で詰め将棋をし、朝比奈さんはメイド姿で給仕をしてくれ、ハルヒは何かわけの解らないことを言ったり喋ったり喚いたり叫んだりしていて、俺はうんざりとその言葉に耳を傾けるという構図がここ最近のパターンだった。

 最近も何も、最初からこうだったような気もするが。

 俺は沈んだ気持ちでドアをノックした。舌足らずな朝比奈ボイスで「はぁい」と返答があることを期待したのだが、部屋から湧き出したのは、

「どうぞ!」

 投げやりなハルヒの声であり、入ってみるとハルヒしかいなかった。団長机に肘をついて、コンピュータ研を脅迫して手に入れたパソコンをなにやら操作している。

「なんだ、お前だけか」

「有希もいるわよ」

 確かに長門はテーブルの隅で本を広げ、いつものように置物となっていた。あいつはこの部室の付属物みたいなものだから人数に入れなくていいのさ。SOS団に入るという言質もなかったし、正式には文芸部員だ。だがここは言い直しておくべきだろう。

「なんだ、お前と長門だけか」

「そうだけど、なんかクレームでもあるわけ? なら聞いてあげるわ、あたしはここの団長だもんね」

 俺のお前に対するクレームを箇条書きにしたらそれだけでA4ノート両面はびっしり埋め尽くされることになるぞ。

「あたしこそがっかりよ。ノックなんかするから、てっきりお客が来たんじゃないかと思ったじゃない。ややこしい真似しないでよね」

 朝比奈さんの生着替えをうっかり目撃しないように気をつけているんだよ。あの迂闊で愛らしいかたは、ドアに施錠することをなかなか覚えないからな。

 それにお客って何だ? どんな客がこの部屋を訪れるって言うんだ。

 するとハルヒは、俺を蔑みの表情で見つめた。

「あんた、覚えてないの?」

 思わずギクリとした。三年前の七夕がどうとか言うつもりじゃないだろうな。

「あんたがやったことじゃないの。あたしの許可も得ずにね」

 何のことかなぁ。

「部室棟の掲示板に、あんたが貼ったポスターのことよ」

 ああ、あれか。俺は安堵の息を吐く。

 生徒会に何とかSOS団を認可させようとして俺がでっち上げた架空の活動方針がある。不思議探し団では話になるまいと判断した俺は、よろず悩み相談所としてSOS団を存続させるべく生徒会に働きかけたのだ。執行部の連中にはアホかと言われてあっけなく終了したが。

 しかし俺はすでにポスターまで手書きで作っていた。何と書いていたかよく覚えていないが「相談ごと受け付けます」くらいだったと思う。せっかくだからと目に付いた掲示板に貼っておいたのだ。どうせ誰か見たとしてもSOS団に悩みを相談しに来るような気の違った奴はいまいと踏んだわけである。どうやら正解だったらしく、今のところ依頼人は皆無であり、とてもいいことだ。

 にしても、ハルヒはそんなことを覚えていて、実際に客が来るのを待っているのか? 今日の帰り際にでも剥がしておいたほうがよさそうだな。本当に変な悩みを持つ生徒が来たらややこしいことになるだろうから。

 俺が心の片隅で決意していると、ハルヒがマウスをぐるぐる回しながら、

「それより、これ見てよ。何か変なの。パソコンの調子が悪いのかしら」

 ハルヒの髪の横から覗き込む。ディスプレイが嫌々のように映しているのは、我等がSOS団ホームページだ。だが俺が作ったものとは微妙に違っていた。ハルヒの手によるヘタクソな落書きエンブレムが、ギャザー処理されたみたいに歪んでいたし、カウンタやサイトロゴも吹っ飛んでいる。試しにリロードしてもそのままだ。まるでモザイクでもかけたみたいな異常なデータ表示。

「こっちのパソコンじゃないな。サーバに置いてるファイルが狂ってるみたいだ」

 ネットには詳しくないが、その程度は解る。ひょっとしてと思いローカルに置いてあるサイトをブラウザで見ると正常に表示されるからな。

「いつからこの状態なんだ?」

「さあ。この何日かメールチェックだけでサイトは見てなかったから。今日見たらこんなんになってたのよ。どこにクレーム付ければいいの?」

 クレームを付けるまでもない。修正は簡単だ。俺はハルヒから奪ったマウスを操作して、保存していたトップページのファイルをサーバにある同名のデータにすべて上書きした。再表示してみる。

「うむ?」

 サイトはクラッシュしたままだった。何度か繰り返してみても同じ結果。どうやら俺では手に負えない電脳技術的異常が発生しているようだった。

「おかしいでしょう? アレかしら、噂に聞くハッカーとかクラッカーとか言うやつ?」

「まさか」と俺は否定する。どこからもリンクされず誰も見ないようなサイトをクラッキングするようなヒマ人がいるとも考えにくい。何かのエラーだろ。

「ムカツクわ。誰かがSOS団にサイバーテロを仕掛けているんじゃないかしら。いったいそれは誰? 見つけたら裁判なしで三十日間の社会奉仕活動を宣告するわ」

 ぷんすかしているハルヒから目を離し、俺は不透明光学迷彩をまとっているような長門に視線を向けた。こいつなら何とかしてくれるんじゃないだろうかと思う。俺の中には勝手にコンピュータに詳しそうな長門のイメージが構築されているが、パソコンをいじっているところを見たことがない。いやむしろ、読書シーン以外がほとんどないと言うべきか。

 そこにノックの音。

「どーぞっ!」

 ハルヒの返答に扉を開けたのは、古泉だった。いつもの清涼感を極めたスマイルで、

「おや珍しい。朝比奈さんはまだですか?」

「二年は余分に試験があるんじゃない?」

 俺たち一年の期末最終日は三限までだった。さっさと帰宅すればいいのに、なんで揃いも揃ってこんなところに集まりたがるんだろ。俺ってこんな友達少なかったか? それとハルヒ、ノックに対するツッコミを古泉に入れないのはどういうわけだ。

 古泉は鞄をテーブル横に置くと、戸棚からダイヤモンドゲームの盤を取り出して、俺に誘いの目を向けた。俺は首を振り、古泉は肩をすくめて一人ダイヤモンドを開始した。

 朝比奈さんのお茶が待ち遠しいね。

 こんこん。

 またノックの音がする。その時、俺は団長机の前に座らされてFTPソフトと格闘していた。背後にはハルヒがいて、見当違いかつ思いつきのような注文をあれこれ発しており、その無理難題に俺が答えさせられているというわけである。

 だからそのノックは俺には救いの鐘の音だった。

「どーぞっ!」

 ハルヒがまた大声で言い、扉が開かれる。順番からみて来たのは朝比奈さんだろう。

「あ、遅れちゃってごめんなさい」

 控えめ謝辞を告げながら現れたのは、無翼の天使、朝比奈さんに違いなかった。

「四限までテストがあって……」

 言わなくてもいい言いわけを言いながら、ためらうようにドア付近で佇んでいる。なぜかそのまま入ってこようとせず、ためらうように、

「ええと、その……ですね」

 俺たちの視線が朝比奈さんに集中した。長門までが自分を見ていることに気付いた朝比奈さんは、たじろいだように後ずさり、それから思い切ったようにこう言った。

「あ、あの……お客さんを連れてきました」


 そのお客さんは喜緑江美里さんと言う、おとなしく清楚な感じの二年生だった。

 彼女は今、朝比奈さんの淹れたお茶の表面に視線を固定し、顔を上げずに座っている。その横に朝比奈さんが付き添いのように並んで椅子に腰掛けていた。さすがにメイド衣装には着替えてはいない。少し残念。

「するとあなたは」と、ハルヒが面接官みたいな顔をしてボールペンをくるくる回していく。二人の二年生の正面を陣取り、横柄な口調で、

「我がSOS団に、行方不明中の彼氏を捜して欲しいと言うのね?」

 ハルヒは唇の上にペンを挟んで腕組みをした。まるで何かを考えているような仕草だが、俺には解っていた。こいつは今にも笑い出しそうになるのを堪えていやがるのだ。

 何と言うことか、来るわけないと楽観していたのに、悩み相談者第一号が来てしまったのである。ハルヒ的には小躍りしたいような状況だろう。

「はい」と、喜緑さんは湯飲みに向かって話しかけている。

 その様子を俺と長門と古泉は、端のほうで見守っていた。二人の二年生を前にしたハルヒは、

「ふうむ」

 わざとらしく唸って俺に目配せをした。

 俺はつくづく自分が恨めしくなる。あんなポスターを作るんじゃなかったよ。なんて書いたっけ、人に言えない悩み相談受付けます……だったかな。でもな、まさか本気にする生徒がいるとはなあ、普通思わないだろ?

 にもかかわらず本気なのかどうなのか、喜緑さんはポスターを見てSOS団の活動目的を、よろず悩み相談所か便利屋稼業と誤認してしまったようだ。確かに文字通りに解釈すればそうなるかな。ああ思い出した、俺のでっち上げ活動内容は「学園生活での生徒の悩み相談、コンサルティング業務、地域奉仕活動への積極参加」だった。今のところどれ一つとしてSOS団には無縁のものだ。草野球大会を掻き回した以外、なーんもしてねえもんな。

 しかし、たまたまそんなことが書いてあるポスターを目にしていたせいで喜緑さんは我々の存在に思い至ったようで、悩んだあげく同学年である朝比奈さんに声を掛け、ともどもにここを訪れたと、そういうことになるらしい。

 で、その悩み事なんだが。

「彼がもう何日も学校に来ないんです」

 喜緑さんは誰とも目を合わせることなく、湯飲みの縁を見つめてそう言った。

「めったに休まない人なのに、テストの日まで来ないなんておかしすぎます」

「電話してみた?」とハルヒ。口元が笑い出すのを止めるためか、ボールペンの尻を噛んでいる。

「はい。携帯にも家の電話にも出なくて。家まで行ってみたんですけど、鍵がかかったままで。誰も出てきてくれませんでした」

「ふふふーん」

 他人の不幸を喜ぶ奴はロクデナシなのは事実だが、ハルヒは今にも歌い出しそうな上機嫌オーラを発していた。つまり、こいつはロクでもない奴なのである。証明終わり。

「その彼氏の家族は?」

「彼は一人暮らしなんです」

 喜緑さんはお茶に喋りかける。人と目を合わせて話すことの出来ない性質があるようだ。

「ご両親は外国にいらっしゃると前に聞きました。私は連絡先を知りません」

「へー。外国ってカナダ?」とハルヒ。

「いいえ。確かホンジュラスだったと思います」

「ほほーう。ホンジュラスね。なるほど」

 何がなるほどだ。どこにある国か知っているのか疑わしいね。えーと……メキシコの下くらいだっけ?

「部屋にいる気配もなくて。夜中に訪ねても真っ暗でしたし。わたし、心配なんです」

 喜緑さんはわざとのように淡々と言って、両手で顔を覆った。ハルヒは唇をうねうねさせながら、

「むう。あなたの気持ちは解らないでもないわ」

 嘘吐け。恋する少女の気持ちがお前に解るわけがない。

「それにしてもよく我がSOS団のところに来たわね。まずその動機を教えてよ」

「ええ。彼がよく話題にしていたんです。それで覚えていました」

「へえ? その彼氏って誰?」

 ハルヒの問いに、喜緑さんはその男子生徒の名前を呟いた。どっかで聞いたような気もするが、知り合いにいないような気もする。ハルヒも眉を寄せて、

「誰だっけ? それ」

 喜緑さんは微風のような声で、

「SOS団とは近所付き合いをしているように言っていましたけど」

「ご近所さん?」

 ハルヒは天井を見上げる。喜緑さんは、首を傾げる俺と朝比奈さん、それから古泉と長門へと首を巡らせ、ただし視線を合わせないようにして、また湯飲みを見つめた。そして、

「彼は、コンピュータ研の部長を務めていますから」

 と言った。


 まったく忘れていた。あの気の毒な部長氏か。朝比奈さんへのセクハラ写真を撮られ(無理矢理に)、それを盾としたハルヒに最新機種を譲渡させられ(強引に)、泣く泣く配線までしていたコンピュータ研究部の憐れむべき上級生だ。いや、憐れむ必要はないか。こんないい雰囲気の彼女がいるんだったら、たいていのことはチャラになるだろう。そういや、あんときの使い捨てカメラはどこに仕舞っておいたかな。

「うん、わかった!」とハルヒは簡単に請け負った。「あたしたちが何とかするわ。喜緑さんあなたツイてるわよ。依頼人第一号として、特別にタダで事件を解決してあげるから」

 金を取っていたら学内奉仕活動にならないな。しかし、これは本当に何かの事件なのか? 例の部長が単にヒキコモリになってるだけじゃないだろうか。喜緑さんみたいな恋人がいて何の不満があるのか知らんが、そんな奴は放っておいて自然治癒を待つのがいいと思うぞ。

 もちろん俺はそんなことは言わず、喜緑さんは彼氏の住所をメモ用紙に残して、実体化した幽霊のような歩調で部室から出て行った。

 廊下まで見送った朝比奈さんが戻ってくるのを持って、俺は口を開いた。

「おい、そんな簡単に引き受けちまっていいのか? 解決できなかったらどうするつもりだよ」

 ハルヒは、だが機嫌良くボールペンを回している。

「できるわよ。きっとあの部長は二ヶ月遅れの五月病で引きこもっているんだわ。部屋に乗り込んで二、三発ぶん殴って引きずり出せばいいだけの話よ。すんごく簡単」

 本気でそう思っているようだ。まあ俺もそう思うけど。

 俺は新しいお茶を淹れ直している朝比奈さんに訊いた。

「喜緑さんとは親しいんですか?」

「ううん、一回も話したことなかったです。隣のクラスだから合同授業の時に顔を見るくらい」

 俺たちに相談するくらいなら教師か警察に言えばいいのに。や、すでに言った後なのかな。それで相手にされずに朝比奈さんに声をかけたのか。そんなところだろうと思うね。

 のんきに茶を啜る俺たちに何の緊張感もなかった。ハルヒは無闇に高揚して、もっと大々的

に依頼を募集し片端から解決することを考えているようだ。一学期が残り少ないことを嘆きつつも、チラシ配布計画第二弾を強行しかねない調子である。それはやめとけ。

 長門がパタリと本を閉じ、俺たちはハルヒ言うところの調査に赴くことになった。


 部長氏の一人住まいは、ワンルームマンションだった。立地から考えて大学生がメイン住人だろう、可もなく不可もなさそうな三階建ての建物で、新しいとも古いとも言えないちょうどよさげな色合い。見た目は非常に普通である。平凡。

 住所を書いたメモを手に、ハルヒは階段をたかたか上がっていく。俺と他三人も、黙ってセーラー夏服の背中を追いかけた。

「ここね」

 鉄扉の前でハルヒは表札の名前を確認している。喜緑さんの告げた彼氏の名前がプラケースに差し込まれていた。

「何とか開けられないかしらね」

 ノブをガチャガチャして施錠を確認してから、ハルヒがインターホンを押した。順序が逆だろう。

「裏からベランダに上がったらどう。ガラスを叩き割れば入れるじゃない?」

 冗談で言っていることを祈らせてもらう。この部屋は三階だし、俺たちは空き巣狙いの少年犯罪グループではない。俺はまだ前科は欲しくないぞ。

「そうね。管理人さんとこ行って鍵を借りましょう。友達が心配して来たって言えば貸してくれるわ」

 お前は友達のフリが得意だからな。しかしこの部長、一人暮らしなんかしときながら彼女に合い鍵も渡していなかったのか。ナスビのヘタだけ取って実を捨てているようなもんだろそれじゃ。

 カシャン。

 涼しい音がして振り向くと、長門が無言でノブを握っていた。

「…………」

 液体ヘリウムみたいな長門の目が俺を見つめている。ゆっくりと長門はドアを引き、部屋への入り口が口を開いた。停滞していた内部の空気が、なぜか冷気を伴って俺たちの足元にわだかまる----ような気がした。

「あら」

 ハルヒは目を丸く、唇を半円にして、

「開いてたの? 気付かなかったなあ。ま、いいわ。さあ上がりましょ。きっとベッドの下とかに隠れてるから、みんなで引っ張り出して捕獲するの。抵抗が激しければ最悪、息の根を止めていいわ。依頼人には蜜蝋に漬けた首を届けましょう」

 パソコンをぶんどった自責の念など微塵も感じていないらしい。サロメじゃあるまいし、首だけもらっても置き場に困るだけだ。

 勇躍、部屋に押し入った俺たちは、そこに無人のワンルームを見ることになった。ゴキブリ一匹いやしない。ハルヒはバスルームやベッドの下も覗いていたが、少なくとも人間の姿はどこにもなかった。長門の部屋、それも客間一つ分のさらに四分の一程度の広さだが、あの殺風景な何もなさと比べると生活レベル四倍増だ。本棚と衣装ケース、卓袱台みたいな机とパソコンラックがきっちり整理整頓して置いてある。窓を開けてベランダを確認しても洗濯機しか隠れていない。

「おっかしいな」

 ベッドの上で跳ねながら、ハルヒは首を傾げている。

「部屋の隅で膝を抱えて丸くなっていると思ったのに、コンビニに行ってるの? キョン、あんた他にヒキコモリが行きそうな所って知ってる?」

 コンピュータ研部長はヒキコモリ確定か。中南米あたりを旅行中なんじゃないか? それか本気で行方をくらましているのか、だ。ここに来る前に部長のクラス担任教師に話を訊いてくるべきだったな。

 俺が本棚に並ぶパソコン関連の書籍を眺めていると、不意にシャツの背中を引く者がいた。

「…………」

 長門が無表情に俺を見上げていて、ついっと顎を横に振った。何の意思表示だ?

「出たほうがいい」

 小さく、長門は俺に囁いた。今日初めて聞く長門の声だった。ハルヒと朝比奈さんは気付いていないが、古泉だけが俺の耳元に顔を寄せた。

「僕も同感です」

 真面目な声を出すな、気色悪い。しかし古泉は取り繕った笑顔で、目だけを笑わせずに、

「この部屋には奇妙な違和感を感じます。これに近い感覚を僕は知っている。近いだけで根本的に違うような気もするのですが……」

 ハルヒは冷蔵庫を勝手に開けて、「ワラビ餅発見! これ、賞味期限昨日になってるわ。もったいないから食べましょ」などと言いながら袋を破っている。朝比奈さんはおろおろしながら、ハルヒに差し出されたコンビニ菓子を毒見させられていた。

 俺も自然と小声になった。

「何に近いって?」

「閉鎖空間です。この部屋はあそこと同じような香りがする。いえ、香りというのは比喩表現です。肌触りといいますか、そういう五感を超えた感触です」

 お前は超能力者かと反射的にツッコミを入れそうになって自制した。こいつはマジな超能力者だったな、そう言えば。

 長門が空気をほとんど震動させない声で呟いた。

「次元断層が存在。位相変換が実行されている」

 わかるかっての。

 そうも言いたかったんだけどな。もし長門が不意打ちのように悲しそうな顔でもしたら俺はこの場で腰をぬかすかもしれないので言わないほうが吉だ。やれやれ。

 ともあれ、さっさと撤退したほうがよさそうだな。俺は古泉と長門に合図をしてから、半透明な餅を貪りくっているハルヒへと顔を向けた。


 全員でマンションから出ると、ハルヒは空腹を理由に本日解散を宣告し、一人で帰っていった。喜緑さんから持ち込まれた事件は一時棚上げ、「そのうちなんとかなるでしょ」という無責任な発言によって思考も停止、今日のところは宙に浮くこととなった。

 もう飽きたらしい。

 昼飯がまだなのはハルヒだけではないが、俺は帰宅するように見せかけて、いったん全員と別れたのち、十分経過をイライラしながら待って再び部長氏のマンション前に舞い戻る。

 三人の団員たちはすでに揃いぶみで俺を待っていた。物知り宇宙人と理屈っぽいエスパー野郎は、なんかすでに解ったような顔をしていたが、朝比奈さんは、

「あの……どうしたんですか? 涼宮さんに見つからないように再集合って……」

 きょとんと俺を見上げてくる。長門と古泉を見る目が不安の色を強めていた。俺を一番待っていてくれたのは朝比奈さんだ、そう思うことにしよう。

「この二人はさっきの部屋が気になるみたいです」と俺は応えた。

「そうなんだろ?」

 微笑と無表情が同時にうなずく。

「もう一度行けば解ると思いますよ。ねえ、長門さん?」

 何も言わずに長門はフラリ歩き出した。俺たちもついていく。足音もなく階段を移動する長門は、音もなく部長宅のドアを開け、音もなく靴を脱いで部屋の中央に進んだ。

 決して広くないワンルームは、四人が立って並んだだけでもう満員だ。

「この部屋の内部に」

 長門が切り出した。

「局地的非浸食性融合異次元空間が制限条件モードで単独発生している」

 …………。

 しばらく待ってみたが、説明はそれだけだった。そんな適当に辞書引いて目に付いた単語を並べただけのような語句で言われても辞書を持っていない俺にはどうすることもできないんだが。

「感覚としてはあの閉鎖空間に近いものですね。あれは涼宮さんが発生源ですが、こちらはどうも違う匂いがします」

 古泉が長門をフォローするようなことを言った。いいコンビだ。付き合うといい。長門に読書以外の趣味も教えてやれ。

「その件に関しましては後で考えさせていただきます。それより今はする事がありそうですね。長門さん、部長さんの行方不明はその異常空間のせいですか?」

「そう」

 長門は片手を挙げると、目の前の空間を撫でるような仕草をした。

 嫌な予感が背骨を上って俺の脳を刺激する。おそらく俺は「待て」と言うべきだったんだろう。しかし俺がそのたった二音を発声する前に、長門はテープの早回しニ十倍速みたいな音で何かを囁いて、途端、目の前の光景が瞬きする間に変化を遂げていた。

「はひっ!?」

 飛びついてきたのは朝比奈さんで、俺の左腕を両手で抱きしめてくれた。しかし俺はせっかくの感触を味わうヒマもなく、自分の居場所を必死で確認しようとしていた。

 ええと、俺がいたのは部長の手狭なワンルームマンションだ。決してこんな薄気味悪い場所じゃない。黄土色の靄がたなびき、地平線が見えないくらいだだっ広い平坦な空間ではないのだ。誰だ、俺をこんな所につれてきたのは。

「侵入コードを解析した。ここは通常空間と重複している。位相がズレているだけ」

 長門が解説している。まあ、こんなことができそうなのはこいつくらいか。そんな長門とまともに会話できるのは古泉くらいで、

「涼宮さんの閉鎖空間ではないようですが」

「似て非なるもの。ただし空間データの一部に涼宮ハルヒが発信源らしいジャンク情報が混在している」

「どの程度です?」

「無視できるレベル。彼女はトリガーとなっただけ」

「なるほど。そういうことですか」

 俺と朝比奈さんは仲良く蚊帳の外である。全然困らない。むしろ有り難い。このまま俺たちを元の世界に戻してくれたらもっと有り難がってやるのだが。

 朝比奈さんは俺にくっついて恐々と周囲を見回している。彼女にとってこの空間は予期しないものだったらしい。俺も同様に、八方に視線を飛ばして観察してみた。呼吸はできるが、この黄土色の霞みたいなものは吸い込んでも大丈夫なんだろうか。靴下越しにひんやりとした床の温度が足裏に伝わる。床なのか地面なのか、黄土色の平面がどこまでも続いていた。六畳くらいのあの部屋にこんな収納スペースが付帯しているとはね。異次元空間化。まあ、そろそろそんな雰囲気のものが出現するとは思っていた。我ながら冷静である。

「ここにコンピュータ研の部長がいるのか」

「そのようですね。この異空間が自室に発生してしまい、どのようにしてか閉じこめられてしまったのでしょう」

「どこにいるんだ? 姿が見えないが」

 古泉はただ微笑んで長門に顔を向けた。それが合図だったのか、長門はまた片手を挙げた。

「待て!」

 今度は間に合った。俺は生真面目にも固まってくれた長門に、

「何をするか教えておいてくれないか? せめて心の準備期間は欲しいぜ」

「何も」

 長門は喋るガラス細工のように回答し、斜め上七十五度くらいを指していた手の指を握りしめ、改めて人差し指だけを伸ばした。それから一言、

「お出まし」

 俺は長門の指先が指す先へと視線を向けた。

「うーん」

 思わず唸るね。

 黄土色の靄がゆっくりと渦を巻いている。靄を構成する粒子の一粒一粒が一箇所に集合しようとしているような渦巻きだ。俺は人体に侵入してきた病原体みたいな気分になってきた。どうもこの黄土色の渦は白血球的な役目を自らに課しているのではないかというイメージがどこかから湧いてくる。朝比奈さんの手が温かいのだけが俺の心の慰めだ。

「明確な敵意を感じますね」

 のんびり言う古泉の声には緊張したところがなく、故障中のアンドロイドのように突っ立っている長門も手を伸ばしたまま無反応。だからと言って俺は安心できない。こいつらは自分の身を守るすべがありそうだが、俺にはない。朝比奈さんにもないみたいで、俺の後ろに隠れている。こういう時こそ未来的なアイテムでも出してもらいたいんですけど。光線銃とか持ってないんですか?

「武器の携帯は厳禁です。あぶないです」

 震える声の朝比奈さん。それは解るね。『この』朝比奈さんに武器を持たせても、役に立たないだけならまだしも電車に忘れてきたりするかもしれない。大人になったら少しは改善されるのかと思いきや、考えてみれば『あの』朝比奈さんもけっこう粗忽者だったし、根っからのオッチョコチョイなのかもな。

 そんなことを考えていると、靄の形が徐々に固形物の様相を呈してきた。たぶんこれにも何かの理屈があるんだろう。知りたくもないが、しかしなぜか俺は黄土色の塊がどんな形を取ろうとしているのかが解りかけてきた。

「……ひ」

 朝比奈さんだけが脅えていた。確かにあまり気持ちのいい外見ではないし、街中では滅多に見かけない。俺だって田舎のばーちゃん家の縁の下で見かけたのを最後にもう何年もご無沙汰だ。

 カマドウマという虫をご存じであろうか。

 知らんというかたには、ぜひこの目の前の光景を見せてあげたい。細部に至るまでよく解るぞ。

 なんせ、全長三メートルはありそうなカマドウマだからな。

「なんだ、こいつは?」と俺。

「カマドウマでしょう」と古泉。

「それは解ってる。俺は幼稚園時代に昆虫博士として有名だったんだ。実物を見たことはないがウマオイとクツワムシの区別だってつくぞ。そんなことはいい、これは何だ?」

 長門がポツリと漏らした。

「この空間の創造主」

「こいつがか?」

「そう」

「まさか、こいつもハルヒの仕業か」

「原因は別。でも発端は彼女」

 どういうことかと訊きかけて、俺は長門が俺の言いつけを愚直に守っていることに気付いた。

「……もう動いてもいいぞ」

「そう」

 するりと手を下ろし、長門は実体化しつつある巨大カマドウマを見つめた。焦げ茶色をした便所コオロギが、俺たちから数メートル離れてた場所に降り立とうとしている。

「おや。不完全ながら僕の力もここでは有効化されるようですね」

 古泉が片手に持っているのは、ハンドボール大の赤い光球だった。どっかで見て以来、二度と見たくないと思っている紅玉だ。掌から出してきたらしい。

「威力は閉鎖空間の十分の一といったところですか。それに僕自身が変化することはできないようですね」

 なぜか古泉は、見飽きた爽快スマイルを長門に向けて、

「これで充分だと判断されたのでしょうか?」

「…………」

 長門はノーリアクション。重ねて俺が尋ねた。

「それより長門よ。あの昆虫の正体は何だ。部長はどこにいる?」

「あれは情報生命体の亜種。男子生徒の脳組織を利用して存在確立を高めようとしている」

 古泉が眉間に指を当てている。考えているようにも見えたし、なんかの思念集中の様にも見えた。顔を上げた古泉は、

「ひょっとして、部長さんは巨大カマドウマの中ですか?」

「そのもの」

「このカマドウマは……そうか、部長氏がイメージする畏怖の対象なのですね? これを倒せば異空間も崩壊する。違いますか?」

「違わない」

「解りやすいメタファーで助かりますね。ならば、ことは簡単です」

 解りやすくもなければ簡単でもなさそうだが。俺と朝比奈さんにも解るように言え。

「その時間は今はないようですが?」

 語尾を上げるな、優しく微笑むな、その赤い球をどこかにやれ、それから俺の腰にしがみついている朝比奈さんを何とかしてくれ。このままでは俺がナントカなりそうだ。

「ひょええ」

 朝比奈さんは震えるばかりか、俺の行動範囲をも奪っている。これでは俺が逃げられないじゃないか。

「その必要はないでしょう。すぐ済みますよ。そんな確信がなぜかするんです。<神人>を狩るよりも楽そうだ」

 実体化を終えたカマドウマは、今にも飛び上がらんとせんばかりだ。何メートル飛ぶかな。測ってみたい気も……やっぱりしない。

 俺はぶっきらぼうに言った。

「さっさとやれ」

「了解しました」

 古泉は紅玉を放り上げると、バレーボールのサーブのように叩きつけた。正確無比に飛んだ赤いハンドボールは、化けカマドウマの真正面から激突し、紙風船が破裂したような音を立てた。攻撃の仕方もマヌケだが、相手も相当マヌケだな。少しは反撃するかと覚悟していたのに、カマドウマは逃げも跳びも怪音を轟かすこともなく、ただ静かにそこでじっとしていた。

「終わりですか?」

 古泉の質問に、長門が首肯。ほんとにさっさと終わってくれたもんだ。

 巨大カマドウマは元の霧状態へと拡散して、さらにどんどん薄くなっていく。四方で揺らめく黄土色の靄も消えていく。足裏の冷たい感触もだ。

 その代償のつもりか、見慣れた制服姿の男が登場した。仰向けに倒れ伏すコンピュータ研の部長氏。

 パソコンラックの前で椅子からずり落ちたみたいな格好で目を閉じている。生きてはいるようだな。脇に屈み込んだ古泉が首筋に手を当てて、俺にうなずいて見せた。

 ワンルームマンションの一室である。どこにあの広大な空間があったのかと思うね。

 何はともあれ、よかったことだ。灰色だろうが黄土色だろうが、広いところに閉じこめられるのはもうけっこう。


「約二億八千万年前のことになる」

 そう言って説明し出した長門の宇宙的怪電波を、かみ砕いて煎じ詰めれば次のようになる。

 二だか三畳紀だかに地球に降下した『そいつ』にとって、当時の地上には依り代となるものがなかった。存在基盤を失ったそいつは自己保存のために冬眠に就くことにした。地球に自分が存在できるような情報集積体が生まれるまで。

「地球にはそれにとっての存在手段がなかった。それは活動を凍結し、眠りに就いた」

 やがて地上に人間たちが生まれ、人間たちはコンピュータネットワークを生み出した。この稚拙な(と長門は言った)デジタル情報網は、不完全ながら苗床として利用することが可能だった。ただし充分ではなく、そいつは半覚醒状態に留まった。しかし目覚めを促す出来事が起こる。そいつにとっての目覚まし時計代わりになったのは、ネットに流された一つの起爆剤。それは通常の数値では測ることの出来ない情報を持っていた。この世界には存在しないデータである。異界の情報データ。そいつにとって、それこそが待ち望んでいた依り代だったのだ……。

 長門は淡々と語り終えた。

 話しながら部長宅のパソコンをいじっていた長門が、SOS団オンラインサイトを表示させ、破損したSOS団エンブレムをモニタに映し出す。

「涼宮ハルヒの描いたインヴォケーションサインがきっかけ。扉となった」

「……このSOS団エンブレムは、さっきの、そのアレか、召還魔法円か何かになってたのか」

「そう」と長門は首を縦に動かした。「このSOS団紋章は、地球の尺度に換算すると約四百三十六テラバイトの情報を持っている」

 そんなことはない。十キロバイトもなかったぞ。あの画像データは。しかし長門は平然と、

「地球上のいかなる単位にも該当しない」

「すごい確率ですね。たまたま描いたシンボルマークがそっくりそのまま該当したのですから。まさに涼宮さんです。天文学的数字をものともしません」

 古泉は本気で感心しているらしい。だが、俺は本気で恐怖しかけていた。何を恐怖するかって?

 ハルヒは大概の事を単なる思いつきでおこなっている。SOS団結成もそうだろうし、メンバー集めだってそうだ。朝比奈さんはマスコットキャラにうってつけだからで、古泉は転校してきたからで、長門は最初から居た。でもって、朝比奈さんは未来人で古泉は超能力者で長門は宇宙人モドキだった。出来すぎている。実際、古泉は偶然ではないと言い、ハルヒがそう望んだからだなんていうタワゴトをほざいている。俺だってもう少しで信じるところだったがそうはいかん。なぜなら俺自身は単なる普通人だからだ。それだけで充分反証になるだろう。古泉の理屈では俺にだって秘められた電波プロフィールがないとおかしいことになる。なるはずなのだが……。

 無意味だと思っていたハルヒの行動のすべてに裏があるとしたらどうだろう。それは本人も知らない意味だ。たまたま頭に思い描いた自作文字がどこかの宇宙人へのメッセージになっているような。猫にキーボードを叩かせて意味の通る文章が生み出されるような。そんなのの確率はいかほどのものだ?

 確率統計の壁をやすやすと突破して無意識のうちに正解に辿り着く涼宮ハルヒという迷惑女、こいつが俺をパシリか何かと考えてSOS団に参入させたのならまだマシだ。ああ、そうだとも。俺自身にバカくさい謎の裏設定があることになっている、と考えるよりも全然いい。それで、あるのか? 俺になんか知らん素っ頓狂な変な能力かあるいは素性が。

 だから俺を選んだのか? 俺の知らない俺の秘密なんてのが、実はあったりするんじゃないだろうな。

 俺が恐れるのは次の一点だ。


 俺は何者なんだ。

 俺は古泉を真似て肩をすくめてみた。やれやれ、ってやつだ。自分の役割は自分が一番よく解っている。早い話、俺はSOS団唯一の良心なのだ。そうに違いない。他の団員三人とは本質からして異なるのさ。ハルヒを説得してまっとうな高校生活を送らせるために俺はSOS団にいるのだ。あいつに非合法な部活をやめさせ、自主解団させることが俺の任務なのだ。よくよく考えれば、それが平和な世界へと辿り着くための早道だ。いや、一本道なのだ。

 世界をハルヒの思うとおりに変えるより、ハルヒの内面世界を変えるほうがまだ簡単で誰も困ることがないだろう。

 もっとも、俺があいつに妙なインスピレーションを与えなければSOS団もなかったのかもしれんけどさ。そこはほら、ええと、ケースバイケースだよ。なんとかやってみせるって。いつの日のことになるかとか、なんで俺がそんなことをせにゃならんのかとか、俺にも解らないけどな。

 それはいったん横に置いておく。

「それで結局あのカマドウマは何だったんだ」

 とりあえず尋ねておかないと話が終わりそうにない。長門はいかにも二酸化炭素を吐くついでだというような口調で、

「情報生命体」

「お前のパトロンの親戚か?」

「遠い昔に枝分れした。起源は同一だか異なる進化を遂げ、滅亡した」

 と思ったら、ここに生き残りがいたわけだ。よりによって地球で冬眠することはないだろう。海王星あたりで寝ていたらいいのに。凍ったように眠れただろうに。

 インターネットの発達が邪神モドキの温床になるとはね。ふと思いついた。俺は床にへたり込んでいる小柄な上級生に、

「朝比奈さん、未来のコンピュータはどの程度まで進化しているんですか?」

「え……」

 朝比奈さんは唇を開きかけて止まる。どうせ禁則とやらだろうから期待していなかったが、応えたのは別人だった。

「このような原始情報網は使用されていないはず」

 長門が空気を読まずに言った。パソコンを指差し、

「地球人類程度の有機生命体でも、記憶媒体に頼らないシステムを生み出すことは容易」

 長門は視線を横にずらした。そこには朝比奈さんがいて、青ざめていた。

 そうなんですか?

「それは……その……」

 口ごもり、朝比奈さんはうつむいた。

「言えません……」

 呻くような声で、

「否定も肯定することも、あたしには権限が与えられていません。ごめんなさい」

 いやそんな。謝ることでもないっすよ、マジで。別にどうしても知りたいと思いませんし----こら古泉、何でお前が残念そうな顔をしていやがるんだ。

 俺は朝比奈さんを救うべく、話題を変えることにした。えーと、何があったっけな、そうだ。

「おかしなことがある」

 自分に全員の注目が集まるのを待って、

「俺はハルヒがアホ絵を映しているときに居合わせたが、何も起こらなかったぞ。だいたいハルヒが絵を完成させたときになんでそいつは出てこなかったんだ?」

 答えたのは古泉だった。

「あの部室ならとっくに異空間化していますからね。何種類もの様々な要素や力場がせめぎ合い打ち消しあって、かえって普通になってしまっているくらいです。飽和状態と言ってもいいでしょうね。すでに限界まで色んなものが溶けて容量を満たしているわけですから、それ以上溶け込む余地はないというわけです」

 なんて理屈だ。というか文芸部室はそんな恐ろしげな魔窟になっているのか。まったく気付かなかったぞ。

「常人には余計なセンサーが付いていませんから。そうですね、そのままでも無害だと思いますよ。多分ね」

 やれやれだ。夏でも体感気温が涼しくなるくらいならいいのだが、知らないうちに気がヘンになってるとか首吊り用ロープを探しているとか、俺は嫌だぜ。

「心配しなくとも大丈夫ですよ。そうならないように、僕や長門さんや朝比奈さんも心を砕いてがんばっていますから」

 三人ががんばっているから、そんなことになってるんじゃないだろうな。

 古泉は微笑み、「さて?」とでも言うように首を傾げて両掌を上向けた。

 俺はパソコンの画面へ目を戻す。壊れたSOS団のシンボルマークを見ているうちに、なぜか気になった。マウスを操作してカーソル移動、画面の下へ、

「げっ」

 アクセスカウンタが映っている。なぜかそれだけは正常化して、ビジター数を叩き出している。俺が最後に見たそこの数字は三桁なかった。今、我がSOS団サイトのカウンタは、一十百千……なんと三千近く回っていた。なんだこれは。どこかに晒されているのか?

「ハイパーリンクがあちこちに張られている」

 長門が静かに言う。

「この情報生命体はそうやって増殖する。とても稚拙。サインを見た人間の脳へ自情報を複写し、限定空間を発生させる仕組み。なるべく大勢の人間が必要」

「では、これを見た人間……三千人近くが、部長と同じことになってるのか」

「そうでもない。この召還紋章はデータが破損している。正しい情報元を参照した人数はそれほど多くない」

 たぶんサーバ異常だと思うが、それで助かったな。

「何人くらいだ? 怪しいリンクをクリックして、まともに模様を見ちまったアホは」

「八人。そのうち五人は北高の学生」

 ならばその八人も、黄土色時空に引き込まれているんだな。カマドウマとは限らない、何かのメタファーとやらが支配する空間にさ。助け----まあ、行く必要があるだろう。古泉が長門にそいつらの住所を訊いているし(なぜそんなことを長門が知っているのか俺はもう驚いたりはしないぜ)、朝比奈さんも二人についていくつもりのようだ。なら、俺も行かないとダメだろうな。一番悪いのはハルヒだが、この魔法円みたいなのをネットに垂れ流してしまったのはこの俺なんだし、その尻ぬぐいくらいはしてやったほうがいい。

 俺の寝覚めが気分のいいものになるためにも。

 北高の被害者たちはともかく、他の三人を救い出すには、どうやら新幹線に乗らないといけないみたいだけどな。


 さて。

 テスト休み明けのことだ。後は夏休みを待つばかりとなった部室での一幕。

 ハルヒは、部長氏が学校に来ていることを教えてやると、

「ふうん。あっそ」

 といっただけで教室を飛び出し、今頃学食でたらふく喰ってることだろう。古泉と朝比奈さんはまだ来てない。

 ちなみに例のハルヒ考案SOS団シンボルマークは、長門がリテイクしてくれたものを貼り付け直した。今度は上手くアップロードできたのは、さて、なんでだろうね。これから見る奴はよーく目を凝らすといい。ハルヒのヘタクソ絵とほとんど違わないが、注意深く比べると「ZOZ団」と描いてあるのが解るはずだ。たったそれだけの違いで、変な物が出るか出ないかの瀬戸際なのだ。

 今回の警句は、見知らぬアドレスのリンクをほいほいクリックするなってことにしたいと思うのだがどうだろう。

 そんなことを考えつつ、俺はテーブルの端で数字が羅列した専門書を読んでいる長門をぼんやりと眺めていた。

 こうして長門の顔を見ていると、ひょっとしてと思えてくることがある。

 ハルヒの召還画像にこいつがいつ気付いたのかは解らないが、データを破壊してくれたのはこいつなのではないか?

 もう一つ、この事件を持ち込んでくれた喜緑江美里さんのこともある。ついさっき、コンピュータ研の部室で尋ねたところ、ここの部長には彼女はいないはずなのだそうだ。数日間の記憶喪失に悩んでいたものの、元気そうになっていた本人がそう言った。どうも嘘を吐いている様子はなかったし、ズバリ喜緑さんの名前を出してもポカンとするだけだった。こんなリアルな演技ができるほど部長氏は芸達者ではないよな。

 俺は疑う。

 喜緑さんがSOS団に来たのは、果たして本当に依頼のためだったのだろうか。考えてみれば、あまりにもタイミングが良すぎた。ハルヒがイタズラ描きをして、俺がサイトに貼り付ける。それを見た何人かが情報生命体とやらに異次元に連れて行かれる。訪れた喜緑さんに話を訊き、俺たちが部長宅へ向かう。そして、何とか退治する。

 絵に描いたようなシナリオだ。その中心にいたのはいつも長門だ。この万能宇宙人端末が喜緑さんをどうにかすることで俺たちに事件をもたらしたのだとしても、クドいようだが俺たちはちっとも驚かない。

 依頼人ごっこを演じることで、ハルヒの退屈をほんの少しでも解消させてやろうと考えたのかもしれない。この程度の事件なら、俺たちを巻き込まなくても長門一人で終わらせることができたはずだ。いつもはそうなのか? 誰にも言うことなく陰でひっそりと、何かおかしなモノを未然に防いだりしているんじゃないだろうな。

 窓から吹き込む風が長門の髪と本のページを巻き上げた。白い指がそっと本の端を押さえ、白い顔は伏せられたまま目だけが文字を追っている。

 それとも。俺たちを巻き込んだのは長門の希望だったのだろうか。殺風景な部屋で何年も暮らす宇宙人製の有機アンドロイド。無感情に見えるだけで、やはりこいつにもあるのだろうか。

 一人でいるのは寂しい、と思うことが。