肩の痛みも忘れるほど唖然とした。
現在の俺は腹這いの姿勢から身体を起こすこともできず、自分の目に映った光景にただ驚愕しているところだ。俺が動けないのは背中に余計な錘が乗っていて、そいつが退かないからである。しかしそんなことは気にならないくらいだ。扉をぶち破った勢いのまま俺に覆い被さっている古泉も、やはりこの部屋の光景を目にして俺同様の驚きに打たれているのだろうな、さっさと降りろ----とも、俺は考えることができなかった。それほど俺は愕然としていたのだ。
まさかである。まさか本当に起きてしまうとは、これはもうシャレだと言って笑ってすませられないぞ、どうすんだ。
窓の外が光った。数秒後、雷の鳴る重低音が俺の腹に届く。本格的な嵐が、昨日から引き続き島全域を覆っている。
「……そんな」
呟きが聞こえた。俺や古泉と一緒にこの部屋のドアに体当たりを敢行し、開いた拍子にもつれ合って転がり伏せった新川さんの声だった。
ようやく古泉が俺の上から退いて、俺は横に転がるようにして半身を起こす。
そして、今もってなお信じがたい光景を改めて凝視した。
扉近くの絨毯の上だ。そこに人間が一人、さっきまでの俺みたいに転がっている。朝になってもダイニングルームに降りてこなかった館の住人、かつ主人でもある壮年男性。昨夜、リビングで俺たちと別れて、階上に向かったときと同じ格好をしているからすぐ解る。この真夏の島で、かっちりした背広なんぞを必然性もなく着込んでいたのは彼一人だ。先ほど呟き漏らした新川さんの雇い主、この島と館の所有者である……。
多丸圭一氏だった。
圭一氏は、驚愕の表情を顔に張り付かせて倒れている。ぴくりとも動かない。動かないはずだな、どうやら彼は死んでしまっているようだから。
なぜ俺にそんなことが解るのか? 見れば解るだろう。胸の上に突き立っている物が何か、見覚えがある。晩飯に出てきたフルーツ籠に大量の果物と一緒になって混じっていた果物ナイフの柄だ。
賭けたっていい。その柄の下には、金属製の刃が続いているに違いない。でなければ、目と口を開きっぱなしのまま動かない人間の胸にそんなもんが直立するわけはないからな。つまりナイフが圭一氏の胸に突き刺さっているというわけだ。
たいていの人間は心臓を刃物で抉られたら死ぬだろうと俺は思っている。
今の圭一氏の状態がまさにそれだった。
「ひえっ……」
脅えきった小さな悲鳴が、破壊されたドアの向こうから聞こえた。振り返って見る。朝比奈さんが両手で口元を押さえていた。よろめくように後ずさるその肩を、背後にいた長門が押さえてやっている。いつでもどこでもどんな時でも無表情な長門は、ちらりと俺に視線を向けて、考え込むように顎を引いた。
もちろん、俺たちのいるところにはこいつもいるに決まっている。
「キョン、ひょっとしてさ……この人」
ハルヒも驚いているようだった。朝比奈さんの横から部屋の中に頭を突っ込んでいたハルヒは、どうやら永眠中の圭一氏を暗闇の中の猫みたいな瞳で見つめていた。
「死んでるの……?」
珍しく小声で、さらに珍しく緊張したような声である。俺は何か言おうとして振り返った。古泉がいつもの微笑みをどこかにやってしまった難しい顔で立ちつくしている。廊下にはメイドの森さんの顔もあった。
唯一、昨夜まで館にいたのにこの場にいない人がいる。
圭一氏の弟、多丸裕さんがいなかった。
こじ開けた部屋の内部に物言わぬ館の主人が一人、失踪者が一人。これは何を意味するのだろうか。
「ねえ、キョン……」
ハルヒがまた言った。今にも俺にすがりつくんじゃないかと錯覚したほど、見慣れない不安な表情で。
また、稲妻が光って部屋を照らし出した。昨日から嵐は佳境に入っている。雷の音とともに、荒れた波が島肌を削る効果音までついてきた。
ここは孤島だ。それから嵐。おまけに密室で、そこにはナイフで刺された館主人が転がっているというこの情景。
俺は思わずにいられない。
なあ、おいハルヒ。
この状況を作り上げたのは、お前なのか?
俺はSOS団団員が総出でこんな場所に立ち会うハメになった、そもそもの原因へとフラッシュバックした。
まだ夏休みになっていなかった。あの日のことを………。
………
……
…
それは夏真っ盛りの七月中旬頃であった。太陽に有給休暇をやりたいくらいの酷暑が今日も続いている。
俺はいつものようにアジト代わりの文芸部室で、朝比奈印の熱いお茶を飲んでいた。返ってきた期末テストの結果からなんとか立ち直ろうとしていたのだが、来るべき補習のことを考えるとどうしたって気楽に構えることはできない。こういうときは現実逃避をするに限る。
俺はすべての現実が嘘っぱちに過ぎないという理屈を瞬時にいくつか考えて、さてどれを選ぼうかと迷っている最中だった。
「あの、どうかしました?」
追試の前日に月の裏側から極悪なエイリアンが集団で降下して国会議事堂を叩き潰すという嘘ストーリーへの耽溺を中止し、俺は我に返った。
「難しい顔をしてますけど……。お茶、美味しくなかった?」
「とんでもない」
俺は答えた。相変わらずの甘露でしたよ。茶葉は安物ですが。
「よかったぁ」
夏服メイド姿の朝比奈さんは、くすりと小さな吐息を漏らした。その安心し切ったような微笑みに俺もまた微笑み返した。あなたの喜びは俺の喜びでもあるのです。朝比奈さんの微笑みに勝る万能薬はたとえ徐副が蓬莱山に到達していたとしても入手できなかったことでしょう。俺の心は今や摩周湖の透明度よりも澄み切り脳内に天の御使いたちが管楽器を吹き鳴らす光景すら幻視するありさまなのですよ……。
と、小鳥を前にした聖フランチェスコのような熱意を込めて説こうとしたのだがやめておいた。意味のない修飾語の連続が面倒になったわけではなく、邪魔な野郎が無駄に軽快な声で割り込んだからだ。
「やあどうも。期末テストはどうでしたか?」
古泉がテーブルに広げたモノポリーのルーレットを回しながら訊かなくてもいいことを訊いてきた。おかげで俺は再び月の裏へとワープしかけ、衛星軌道でなんとか意識を静止した。お前はそこで一人モノポリーでもおとなしくやっていればいいんだ。部屋の隅っこで静かに読書している長門の爪から垢でも分けてもらえ。
パイプ椅子の上に百科事典みたいなハードカバーを広げている長門は、夏服セーラーを着たガラス製仮面みたいな顔のまま息もしないような雰囲気でページに視線を落としている。どっちかといえばデジタルっぽい存在のくせに、アナログな情報入力が好きなのは何か理由でもあるのだろうか。
「…………」
それにしても全員ヒマだな。
とっくに短縮授業になっていて学校の営業も午前で終わりだってのに、なんだってこんな所に集まっているんだ? それは俺もだが、俺にはちゃんとした理由があるぜ。一日一杯、朝比奈さんのお茶を飲まないと俺は死ぬ身体になってしまっているのだ。おかげで土日は禁断症状で苦しんでいる。
というのは冗談だ。断るまでもないのだが、一応言っておかないと冗談の通用しない奴がいることを俺は高校に入学して学んでいるんでね。この数ヶ月で学んだことがそれだけという俺が言うんだから間違いない。冗談と本気の線引きはちゃんとしておいた方がいい。でないとロクでもない目にあう恐れがあるからな。
今の俺みたいに。
俺は通学鞄を開けると購買部から身請けしたハムパンを取り出して、お茶請けにすることにした。
夏休みまでのカウントダウンをするくらいしかないこの時期に、俺たちが部室で猫溜まりの猫のようにダマっているのには理由がある----わけがない。自信を持って言えるね。理由もなく発足したようなSOS団だ、そんなもん最初からねえ。強いて言うならばその理由のなさこそが理由だな。理由があっては困るのだよ。どうせ唐変木なことしかしないのなら、まだ無意味であったほうが頭も痛まないというものだ。考える必要もないからさ。
「あたしもお弁当にしますね。今のうちに」
いそいそと自分の分のお茶を用意した朝比奈さんは、実に可愛らしい弁当箱を出してきてテーブルの俺の向かいに着席した。
「僕ならお構いなく。学食で済ませてきましたから」
尋ねてもいないのに古泉が爽やかに断りを入れ、長門は食い気より読書欲をもっぱらとしているらしい。
朝比奈さんはふりかけでスマイルマークを描いて白いご飯をつつきながら、
「涼宮さんは? 遅いですね」
俺に訊かれても。どっかその辺でバッタでも捕ってるんじゃないですか。夏ですし。
古泉が代わりに答えた。
「先ほど学食でお見かけしましたよ。感嘆すべき健啖でした。食べた分がすべて栄養に回るのだとして何エルグになるのか想像もつきません」
そんなもん計算する気にもならんね。何ならこのまま夕食まで食堂に篭もっていればいい。
「そうもいかないでしょうね。今日は何か重大な発表があるみたいですよ」
どうしてお前がそんなに朗らかでいられるのか俺には解らん。あいつの重大発表とやらが有益であったためしはないからな。お前の記憶容量は五インチFD以下なのか?
「だいたいなんでお前がそんなことを知ってるんだよ」
古泉はバックレ顔で、
「さて、それはなぜでしょうね。お答えしてもいいのですが、涼宮さんは自分の口から言いたいのではないでしょうか。僕がフライングして彼女の興を殺ぐようなことになれば大問題です。黙っておきますよ」
「俺だって聞きたくもなかったね」
「そうですか?」
「ああ、そのお前の口ぶりで、あのアホがまたアホなことを企画しているらしいと知れたからな。俺の心の平和があと何分の命だったかは解らんが、たった今平和じゃなくなったのは確か、」
だ、と続けようとした俺のセリフは、どかんと開いたドアの音にかき消された。
「よし、みんなそろってるわね!」
ハルヒがスペクトル分光器みたいに目を輝かせて立っていた。
「今日は重要な会議の日だからね。あたしより遅れて来た奴は空き缶蹴りで永遠に鬼の役の刑にしようと思っていたところよ。あなたたちにもそろそろ団員魂が芽生えてきてるみたいで、それはとてもいいことよ!」
今日が会議の日などであることを俺が聞いていないのは言うまでもない。
「ずいぶんのんびりだったな」
イヤミのつもりだったのだが、
「いい? 学食でたらふく食べるコツはね、営業終了間際に行くことよ。そしたらおばちゃんが余りそうな分もオマケしてくれるのね。でもタイミングが重要なの。待っているうちに売り切れちゃってたら目も当てられないからね。今日はアタリの日だったわ」
「そうかい」
食堂なんぞ滅多に利用しない俺からしたら、そんなどうでもいい情報を得意満面に聞かされてもそれくらいしか言うことない。
ハルヒは団長机の上にとすんと腰を降ろした。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」
「お前が言い出したことだろ」
しかしハルヒは俺を無視して、行儀良く箸を使っている朝比奈さんを名指しで呼んだ。
「みくるちゃん、夏と言えば何?」
「えっ」
口を隠してモゴモゴしていた朝比奈さんは、本人の手作りらしきオカズを飲み下した。
「夏ですか……。うーんと、盂蘭盆会……かなあ」
いやに古風な答えに、ハルヒは目を瞬かせた。
「ウランボン? 何それ。クリムボンの間違いじゃないの。そうじゃなくて、夏と言えば即座に連想する言葉があるでしょう」
何だろう。
ハルヒは当然だと言わんばかりの口調で、
「夏休みよ夏休み。決まってるじゃない」
そのまんま過ぎる。
「じゃあ、夏休みと言えば?」
第二問を出題し、ハルヒは腕時計を見ながら「カッチ、コッチ」と口効果音。
つられた朝比奈さんも慌てて考えているようだ。
「えーと、あーと、う……海っ」
「そうそう、かなり近付いてきたわ。では海と言えば?」
何なんだこれは。連想ゲームか?
朝比奈さんは頭のカチューシャを斜めにしながら、
「うみ、うみ、えーと……あっ、お刺身?」
「全然違うわよ。夏からどんどん離れてるじゃないの。あたしが言いたいのは、夏休みには合宿に行かなければならないってことよ!」
俺は見れば見るほどムカの入る古泉の微笑を睨んだ。お前の言っていた重大発表ってのはこれのことか。
「合宿だと?」
ハテナマーク付き呟きに、ハルヒは大きく首肯した。
「そ、合宿」
部活持ちの奴なら合宿の一つもするだろうが、我々がそんなもんをして何になると言うんだろう。まさかどっかの山奥で見つかるはずのないUMAを俺たちに捕獲させようってんじゃないだろうな。
朝比奈さんと古泉と長門を順に見て、それぞれに驚きと微笑みと無を見出してから言った。
「合宿ね……何のだ?」
「SOS団の」とハルヒ。
「だから何しに行くんだよ」
「合宿をするために」とハルヒ。
はあ?
合宿をするために合宿に行く。
それは頭痛が痛いとか悲しい悲劇とか焼き魚を焼くとかいうのと同じではないだろうか。
「いいのよ。この場合、目的と手段は同一のものなわけ。それに頭痛ってのは痛いものでしょ? 頭痛が甘いじゃおかしいもんね。だいたいあってるわ」
日本語が乱れようと標準語が河内弁になろうと知ったとこではないが、それより問題は合宿とやらだろう。
「どこに行こうと言うつもりだ」
「孤島に行くつもりよ。それも絶海のっ、ていう形容詞がつくくらいのとこ」
さて、夏休みの課題図書に『十五少年漂流記』があるとは聞いていないが、いったい何を読んだらそんなことを言い出せるんだろう。
「候補地を色々と考えてみたんだけどね」
ハルヒは喜色満面である。
「山か海かどっちにしようと悩んだのよ。最初は山のほうが行きやすいかなって考えたんだけど、吹雪の山荘に閉じこめられるのは冬しか無理だし」
グリーンランドにでも行けばいい……ではなく、なんでまたそんなことする必要があるのかが疑問だ。
「閉じこめられるためにわざわざ山荘に行くのか?」
「そうよ。そうじゃないと面白くないからね。でも雪山はいったん忘れなさい。冬の合宿に取っておくから。この夏休みは海に、いいえ! 孤島に行くわよっ!」
やけに孤島にこだわるな、とは思ったが、それはまあ反対する気はない。反対したところで無駄であることもさることながら、この季節柄、海はなかなか魅力的な場所である。それで、その絶海の孤島とやらにはちゃんと海水浴場があるんだろうな。
「もちろん! そうだったわよね、古泉くん」
「ええ、あったと思いますよ。監視員も焼きトウモロコシの屋台もない自然の海水浴場ですが」
さっそうとうなずく古泉を俺は疑問形の視線で眺めた。なんでお前がそこで出てくるんだ。
「それはですね」
古泉が言いかけるのをハルヒが遮った。
「今回の合宿場所は古泉くんが提供してくれるからよ!」
机の中に手を突っ込んだハルヒはごそごそまさぐったのち、無地の腕章を出してきた。そこにマジックで「副団長」と書き入れて、
「この功績によって古泉くん、喜んでちょうだい、あなたを二階級特進してSOS団副団長に任命されることになったわ!」
「拝領します」
うやうやしく腕章を受け取る古泉は、俺に横目を流し込んでウインクしやがった。言っておくが羨ましくもなんともないぞ。そんなもんノベルティとして作ったとしても誰も欲しがりやしない。
「というわけ。三泊四日の豪華ツアーよ! 張り切って準備しときなさい!」
ハルヒはそれだけで話は終わったと言いたげな顔で、俺たちの理解を誘ったと思い込んでいるようだった。もちろん違うぞ。
「いやちょっと待てよ」
俺は朝比奈さんと長門を代表するために一歩ほど前に出た。
「それはどこの島だ。招待だぁ? なんだそれは。古泉がどうして俺たちを招待なんぞするんだ?」
謎の転校生としてハルヒに定義された古泉だって怪しい奴だが、その背後にいるらしい『機関』というアホっぽい組織はもっと怪しい。俺たちを連れて行った先がどこかの研究所で、ハルヒや長門あたりを生体解剖しようという罠ではないだろうな。
「僕の遠い親戚に、けっこうな富豪である人がおられましてね」
と、古泉は人畜無害な笑顔を見せた。
「無人島を買い取ってそこに別荘を建てるくらいの金を余している人です。実際に建ててしまいましてね。その館が先日落成式を迎えたんですが、誰もそんな遠いところまでわざわざ行こうという知り合いはおらず、親類中から訪問者を募った結果として僕にお鉢が回ってきたというわけです」
そんな怪しい島なのか。俺は遠い昔に読んだ気のするロビンソン・クルーソーのジュブナイルを思い出した。
「いえ、元はただの小さな無人島です。僕たちはこれから夏休みですし、どうせならSOS団全員で出かけたほうが何かと楽しそうですしね。その別荘の持ち主も、喜んで迎えてくれるそうですよ」
「そういうことよ!」とハルヒ。
俺たちを困惑させるときによく浮かべる絶頂の笑いを浮かべている。
「孤島なのよ! しかも館よ! またとないシチュエーションじゃないの。あたしたちが行かずに誰が行くって感じだわ。SOS団合宿inサマーにふさわしい舞台よね!」
「なんで?」と俺。「お前の好きな不思議探しと孤島の館に何の関係があるんだ」
しかしハルヒは一人で自分の世界に入り込んでいた。
「四方を海に囲まれた絶海の孤島! しかも館つき! 古泉くん、そのあなたの親戚の人はとてもよく解ってるわ! うん、話が合いそうな気がする」
ハルヒと話が合うような人間は例外なく変態だから、きっとその館とやらの主人も変態なんだろう。こいつと話が合ったらの場合だけど。
ハルヒの主張を聞いているのか長門は不明だが、朝比奈さんは昼食を中止して軽く驚いているようだ。
「だいじょうぶよ、みくるちゃん。お刺身なら新鮮なのが食べ放題だから。そうよね?」
「計らいましょう」と古泉。
「そういうわけだからね」
ハルヒは再び団長机から無地の腕章を取り出した。どんだけ予備があるんだ。
「行くわよ孤島! きっとそこには面白いことがあたしたちを待ち受けているに決まってるの。あたしの役割も、もう決まっているんだからね!」
そう言いながら腕章にマジックで書き込んでいる。その乱暴な文字は、俺の目には「名探偵」という三字の漢字に見えた。
「何を企んでいるのか聞かせてもらおう」
「何も」
しれっと否定する。
重大発表を終えて満足したハルヒが退散し、朝比奈さんと長門も部室から出て帰宅の途についている。残っているのは俺と古泉だけだった。
古泉は長めの前髪を指で弾き、
「本当ですよ。僕が言い出さなくても涼宮さんはどこかに出かけるつもりだったでしょう。夏休みは短いようで長いですからね。あなたは海より山でツチノコを探すほうがよかったですか?」
「何だ、ツチノコって----いや、いい。ツチノコの説明はするな。それくらいは解ってる」
「三日ほど前ですが、駅前の本屋でたまたま涼宮さんと出くわしましてね。熱心に日本地図を眺めていましたよ。もう一冊、未確認生物を特集したオカルト雑誌も広げていましたっけ」
UMA探索合宿旅行か、それはそれでぞっとしないな。ハルヒのことだ、本当に何かを発見しそうで怖い。
「でしょう? 涼宮さんはどうやら何かを捕まえに行くつもりのようでした。僕が感じた限りでは比婆山脈が第一候補のようでしたね。だったらまだ海辺で日光浴をしているほうが、我々全員にとって最大公約数的幸福ではないかと考えたのです。そのアテもあったことですし」
よくもそんな都合のいいアテがあったものだ。まあ確かに炎天下の山歩きよりは、浜辺で水着の女子部員を鑑賞しているほうが地獄とユートピアくらいの差はあるな。
「決め手となったのは個人所有の無人島だってことらしいです。クローズドサークルが、とか言っていましたね」
当然、俺は尋ねる。知らないことは素直に訊くのが一番だ。
「クローズドサークルって何だ?」
古泉はまったくイヤミでない、これがイヤミなのだとしたら見るほうの目がどうにかしていると俺でさえ解るような笑みを広げた。
「やや意訳気味かもしれませんが」
微笑んだまま古泉は一拍置いて、
「閉鎖空間と言っていいでしょうね」
俺の表情のどこが面白いのか解らないが、古泉はくっくっと笑い、
「それは冗談です。クローズドサークルというのはミステリ用語ですよ。外部との直接的な接触を絶たれた状況のことです」
もっとまともな日本語を喋れ。
「古典的な推理劇において登場人物たちが置かれることになる舞台装置の一つですね。一例を挙げますと、たとえば我々が真冬にスキーに出かけたとします」
そういやハルヒも雪山が何とか言っていたな。
「その雪山で宿泊するところまではいいのですが、そこで記録的な大雪が降ったとしましょう」
んなとこ行くんだったらあらかじめ天気予報には注意しそうだが。
「さて困りました。吹雪と積雪に阻まれて下山することができません。また、誰かが新たに山荘に来ることもできません」
なんとかしろ。
「なんともできないからクローズドなのです。そしてそのような状況下で事件が起きます。最もポピュラーなものが殺人事件ですね。ここで舞台が生きてくるというわけです。犯人もその他の人物も建物から逃げ出すことはできません。また、外部からも新たな登場人物が来ることもありません。特に警察がやってくるなどもってのほかです。科学捜査などで犯人が判明してもちっとも面白くありませんからね」
毎度のことだが、こいつは何を言ってるんだろう。
「おっと失礼。つまりではですね。涼宮さんの今回のテーマは、そのようなミステリ的状況の当事者となることなのです」
それが島なのか。
「そう、孤島です。島に何らかの理由で閉じ込められ脱出不可能となった中での連続殺人でも夢想しているのではないでしょうか。クローズドサークルとして、吹雪の山荘か嵐の孤島かという、公権力の介入をキャンセルする舞台としては双璧を誇っていると言ってもいいでしょうね」
「俺はお前が妙に楽しそうなのが気がかりだがな」
ハルヒが熱暴走するのは夏に限ったことでもないだろうが、お前まで奴の傍若無人を後押しすることはないだろう。別に俺が副団長の座をもらえなかったからむくれているんじゃないぞ。
「実は僕もそのような舞台が好きなものですから」
人の好みにイチャモンをつける気はないが、一つだけ言わせてくれ。俺は全然好きじゃない。
だが、古泉も俺の好みに頓着せず、論文を読むような口調で続けた。
「名探偵について考えてみましょう。普通に一般的な人生を送っている人々は、そのまま普通にしていれば奇妙な殺人事件に巻き込まれることは稀ですね」
「そりゃそうだ」
「しかしミステリ的創作物の名探偵たちは、なぜか次々に不可解な事件の数々に巻き込まれることになっています。何故だと思いますか?」
「そうしないと話にならないからだろう」
「まさしくね。大正解です。そのような事件はフィクション、非現実的な物語の世界にしかありません。ですがここでそんなメタフィクショナルなことを言っていては身も蓋もありませんね。涼宮さんは、まさにフィクションの世界に身を投じようと考えているようですから」
そういえばSOS団はそのためにあいつが作ったんだな。
「そのような非現実的なミステリな事件に遭遇するには、それにふさわしい場所に出かけなければならない。なぜなら創作上の名探偵たちは、そうやって事件に巻き込まれるからです。いわば事件の当事者となる必要があるわけですよ。放っておいても事件が向こうからやってくるには、肉親か関係者に警察のお偉いさんがいるとか、主人公が警察官そのものとか、シリーズを経て数作目を待たなければなりません」
なるほどな。長門がSF好きなのは解っていたが、お前はミステリ好きだったんだな。そんでハルヒはどっちも好きなんだろう。
「素人が探偵役をしようとしたら、まず周囲に発生した事件に意図せずして巻き込まれ、かつ明快に解決しなければならないのです」
「そんな都合よく事件が身近で起きるわけないだろ」
古泉はうなずいた。
「ええ。現実は物語のようにはいきません。この学校内で興味深い密室殺人が発生する確率は低い。ならば、発生しやすそうな場所に行けばいい、と涼宮さんは考えたに違いありません」
本末転倒という熟語が俺の脳裏で点滅した。
「それが合宿の舞台となる、今回の孤島です。なぜか知りませんが、そういう場所は殺人事件の劇場としてうってつけだと世間的に考えられているのです」
どこの世間だ、それは。えらく狭い世間もあったものだ。
「言い換えれば名探偵の現れる所に、奇怪な事件は発生するのですよ。たまたま出くわすのではなく、名探偵と呼ばれる人間には事件を呼ぶ超自然的な能力があるのです。そうとしか思えませんね。事件があって探偵役が発生するのではなく、探偵役がそこにいるから事件が生まれるのですよ」
俺は誤ってウミウシを踏んづけた時のような目を古泉に向けた。
「正気か?」
「僕はいつでもほどほどに正気のつもりです。名探偵やクローズドサークル云々は僕がそう考えているわけではなく、涼宮さんの思考パターンをトレースしてみただけです。つまりですね、解りやすく言うと彼女は探偵役になってみたいんですよ。合宿の目的がそれなんです」
どうやったらあいつが名探偵なんぞになれるんだ。事件を自作自演して犯人役と探偵役を兼ねるんならできるだろうが。
「それでも僕はツチノコ狩りや猿人探しよりはいいと思いましたね。僕は涼宮さんには知り合いが島に別荘を建てていて招待客を募集しているとしか提言しませんでしたよ。もちろん殺人事件を期待しているわけでもありません。僕はね」
古泉の爽やかな笑みは、いつ見ても腹立たしい。ひょいと肩をすくめる動作もな。
「涼宮さんにささやかな娯楽を提供しているだけです。そうでもしないと、彼女が退屈を紛らわすためにどんなことを考えるか解りませんから。だとしたら、あらかじめこちら側で舞台を調えているほうが幾らか対処のしようもあるということです」
「こちら側ね」
憮然とする俺に、古泉は取り繕うように返した。
「この件に『機関』は無関係ですよ。一応報告はしましたけど。僕は超能力者の一員でありますが、それ以前に一人の高校生なのです。いいじゃないですか、合宿も。実に高校生らしい世界です。親しい友人たちとの旅行は心躍るイベントでしょう?」
ハルヒが単なる旅行に心を躍られているだけならいいんだがな。これが普通の温泉地とか陸続きの海岸とかならいいのだが、なんせ孤島だぜ? ハルヒのことだ、台風の二つくらいを呼び寄せちまうかもしれない。
……まあ、いくらあいつでも殺人事件を起こすほど狂気に侵されてはいないだろう。でなけりゃ北高はとっくに死体の山になっているだろうからな。それよりも重要なことがあるような気がして、俺は沈思黙考する。
夏で海で三泊四日。そこには白い砂浜があり、太陽も好調に炎上してくれていることだろう。ならば今の酷暑も少しは勘弁してやろうじゃないか。がんばれ太陽。
さて、今から朝比奈さんの水着姿を拝む準備をしておかないといけないな。
気前のいいことに宿泊費用はタダなのだと言う。食費もロハでいいらしい。俺たちが払うのは往復のフェリー代くらいであった。
そして俺たちは、港のフェリー乗り場に集合して乗船時間をいまや遅しと待ちわびているのだ。
ハルヒはよほど急いで合宿に行きたかったようだった。一学期の終業式は昨日であり、つまり今日は夏休み初日である。古泉とその親類はいつでもいいみたいだったが、休みに入るなり早速遠出しようとは、いかにもせっかちなハルヒの性格をよく表していると言える。ハルヒの顔を見ずにすむ日々をゆっくり過ごせると思ったのだが、それすら許さないのが涼宮ハルヒという存在そのものであり、その意義でもあった。
「フェリーに乗るなんて久しぶりだわ」
サンバイザーを斜めに被り、ハルヒは波止場の際で鉛色の海面を眺めている。ベタつく潮風に黒髪を遊ばせながら乗降口の先頭に並んでいる。
「おっきい船ですね。これが水に浮かぶなんて不思議」
両手でバッグを持つ朝比奈さんが、船体を見上げて感嘆するように言っている。白いサマードレスに麦わら帽子をかぶっている姿がとことん愛らしい。ちゃんと顎の下で帽子のヒモを結んでいるのも朝比奈さんらしいね。彼女の子供みたいな双眸は、中古のフェリーがまるで遺跡から発掘された古代の葦舟であるかのような輝きを見せていた。彼女の時代には船は水に浮いていないのかもな。
「…………」
その後ろでは長門がぼんやりした顔で船の横腹に書いてある企業名を見つめている。珍しいことに、長門は制服を着ていなかった。クロスチェックのノースリーブで黄緑色の日傘を差して薄い影を落としている。病弱な少女が久しぶりに退院してきたばかりのような雰囲気だった。どっかでインスタントカメラでも買ってきて撮っておきたい。谷口あたりに高く売れそうだ。
「晴天に恵まれてよかったですね。絶好の航海日和と言えるでしょう。船室は二等ですが」と、古泉は言う。
「相応だろ」
パーティションもろくにない大部屋である。何時間もの長旅だったが個室なんか俺たちには十年早いさ。たかだが高校生の合宿旅行である。
本質的に問題なのは、これが合宿でもなんでもないということだな。合宿のための合宿なんざ、意味のある行動とは言えまい。だいたい通常のクラブ合宿には引率の顧問教師が必要なんではないだろうか。SOS団にそんなもんはいない。学校から認可されていない部活なのだから、いたらかえって驚くね。北高では顧問がいないと同好会すら認められないことになっているわけで、これは俺の勘だがSOS団の顧問になろうとする教師がいたとしてもハルヒが必要とするとも思えない。必要なんだったらとっくにどこからか拉致して来ているだろうからな。俺たちがそうであったみたいに。
俺が大あくびをする横に、朝比奈さんがとことこと近寄ってきた。丸い目をさらに丸くしている彼女は、
「あんな大きな船がどうやって浮いているんですか?」
どうやってって、浮力以外の何で浮くんでしょう。朝比奈さんがいた時代には理科の授業はなかったのだろうか。
「あっ、そうか。浮力。そ、そうですよね。なるほどー灯台もと暗しってやつですね」
いったい何をそんなに納得したのか、朝比奈さんは今にもユーレカと叫んで風呂桶から飛び出しそうな顔でうんうんうなずいている。
試しに質問してみよう。訊くだけなら害になるまい。
「あのー朝比奈さん、未来の船は何か画期的な方法で浮いているんですか?」
「うふ。あたしが言えると思う?」
訊き返され、俺は首を振った。ぜんぜん思いません。突っつき先をちょっと変えて再度の質門。
「海はあるんでしょうね」
朝比奈さんは帽子の縁をちょいとつまんで傾けた。
「ええ。あります。海はあるわ」
「そりゃよかった」
近未来か遠未来かも知れないが、地球がオール砂漠化していないようで何よりだ。そこの海の成分が今よりマシになっているといいんだけど。
俺が未来人からさらなる有益な情報を聞き出そうと意気込んでいたというのに、
「キョン! みくるちゃん! 何してんの、時間よ!」
ハルヒの叫びが乗船時間を知らせた。
ところで集合時間に俺は遅れて来てしまっていた。朝、自宅から出ようとしたところ、持ち上げたスポーツバッグがやけに重い。不審を覚えて開けてみたら、着替えや洗面用具の代わりに俺の妹が入っていたのである。昨夜うっかり口を滑らせたおかげで俺がハルヒたちと旅行に出かけることに感づいた妹は「あたしも行く」と喚き散らしており、おとなしくさせるまで二時間くらいかかったのだが、ついに密入国を計画したらしい。俺はバッグから妹を叩き出すと、中身をどこに隠したのかを問いつめ、黙秘権を行使する妹を宥めたりすかしたり絞めたりしているうちに時間を喰ったのだった。お前には土産を買ってやらん。そのための金は、他のSOS団が喰っているフェリー内売店の弁当に化けたからな。
二等客室、フラットルームの一角を陣地としたSOS団の面々は、俺が買わされた幕の内弁当を食べながら歓談をおこなっていた。喋っているのはもっぱらハルヒと古泉だけだったが。
「あとどれくらいで着くの?」
「このフェリーで約六時間ほどの旅になります。到着した港で知り合いが待っていてくれる手筈になっていまして、そこから専用クルーザーに乗り換えて三十分ほどの航海ですね。そこに孤島とそびえ立つ館が待っているというわけです。僕も行ったことがないので、どのような立地なのかはよく知りませんが」
「きっと変な建物なんでしょうね。設計した人の名前は解る?」とハルヒはワクワクという擬音を背景にして尋ねた。
「そこまでは聞いていませんね。それなりに有名な建築家に頼んだというようなことは言っていたような」
「楽しみだわ。すっごく」
「期待に添えることができればいいのですが、僕も下見をしたわけではないのではっきりとは解りかねます。しかし、無人島に個人所有の別荘を建てようなどと考える人間の建てた代物ですし、どこか特殊なのではないですかねえ。だといいですねえ」
古泉はそう言うが、俺は別にそうであって欲しくない。もしハルヒの望み通りに図面を引いたとする。それは多分、三日くらい徹夜続きの上にアル中で朦朧としたガウディが居眠りしながら設計したような建物になるだろう。俺はそんな奇怪な屋敷で宿泊したいとは思わない。普通の旅館がいい。朝飯に焼き海苔と生卵が出てくるような純和風のやつがさ。ナントカ館なんて名前が付いていたら、それこそハルヒは自分が殺人犯になってでも事件を起こそうとするかもしれないだろ?
「島! 館! SOS団の夏季合宿にふさわしいったらないわね。これでこの夏休みの第一歩は完璧な出だしだわ」
浮かれているハルヒを中心にして、俺たち団員はただただ無言を押し通すしかなかった。
波に揺られる以外することもないので、俺たちは古泉発案によるババ抜きをひとしきり楽しんで、全敗した古泉が買ってきた人数分の缶ジュースを受け取り、ひたすらに黙々と飲んでいた。
なんだか行く手に待ち受ける孤島だとか館だとかに、正体不明な不吉な響きを感じずにはいられず、それは朝比奈さんとも共有すべき予感であるようだ。
二口くらいで飲み干したハルヒは、
「みくるちゃん、顔色悪いわね。船酔い?」
「いえ……その……。あ、そうかも」
答える朝比奈さんに、ハルヒは、
「それはよくないわね。外に出たほうがいいわ。デッキに上がって潮風を浴びてくればすぐ直るわよ。ほら、行きましょう」
そう言って朝比奈さんの手を取った。ニヤリと微笑みながら、
「心配しなくてもいいわよ。海に突き落としたりしないから。んん……それもいいかしら。船上から忽然と消え失せる女の乗船客」
「ひ」
固まる朝比奈さんの肩をどやしつけ、
「嘘よ、うそうそ。そんなのちっとも面白くないもんね。せめて船ごと流氷に激突するとか、巨大イカに襲われるとかしなきゃね。事件なんて言えないわ」
後で救命ボートの位置を確認しに行こう。この真夏に流氷がこんな日本近海まで出張してくるとは思えないが、未知の水棲怪獣がどこからか浮上するくらいはやりそうだ。出てきたら退治してくれよ、というメッセージの篭もった俺の視線をどう受け取ったのか、古泉は微笑み返して長門は壁を見つめたままだった。
ハルヒは一人でまくしたてている。
「やっぱ事件は孤島で起きるものよね! 古泉くん、このあたしの期待を裏切らないわよね!?」
「どのような出来事を事件というのかは定かではありませんが」
古泉は柔和に答えた。
「愉快な旅行になることを僕も願っていますよ」
心にもないことを言っている奴特有の、あやふやな微笑を古泉は浮かべていた。いつもの表情と言えばそうなのだが、俺はスマイル仮面の真の顔を見極めようと超能力野郎をじろじろ眺め、すぐにあきらめた。こいつの笑顔は長門の無表情と同じで、何の情報も持たないのだ。まったく、少しは喜怒哀楽をはっきりさせて欲しい。ただしハルヒほどはっきりしなくてもいい。
でたらめなハミングを歌いながら、ハルヒは朝比奈さんをせっついて船底から出て行った。朝比奈さんが何度も振り返りつつ、俺について来て欲しそうな顔をしていたが、俺の錯覚かもしれないし調子に乗って後をつけるとハルヒが気分を害しそうな気もするのでやめておいた。
いくらハルヒでも朝比奈さんが海に落っこちようとする前には助けるだろう。俺は天井を見上げてそう願い、鞄を枕にして横たわった。朝も早かったことだし、少し眠らせてもらうことにする。
夢の中では何かファンタジーなことをしていたような気がするのだが、記憶に定着させる前に俺は叩き起こされ、ハルヒからの命令電波を受信した。
「何寝てんのよバカ。さっさと起きなさいよ。あんたは真面目に合宿するつもりあんの? 行きの船の中でそんなことじゃこれからどうするつもり?」
寝ているうちに乗り継ぎの島に到着したようで、俺は何か取り返しのつかない損をしてしまったような気になった。
「初めの一歩が重要なのよ。あんたは物事を楽しもうっていう心意気に欠けているの。見なさい、みんなを。合宿に向ける気持ちが瞳の輝きとなって溢れているじゃない」
ハルヒが指差す先には、下船に向けて荷物を抱え始めている三名の下僕たちがいた。
そのうちの一人、スマイル少年が、
「まあまあ涼宮さん。彼は合宿のための英気をやしなっておいでだったのですよ。おそらく今日は徹夜で我々を楽しませてくれるようなことを考えているのではないでしょうか」
古泉のしなくてもいいフォローを聞きながら、俺はどこに瞳の輝きがあるのかと自動人形のような長門の顔を観察し、朝比奈さんの小動物のような瞳を拝見し、
「もう着いたのか」と呟いた。
何時間もの船旅。ここにいるのはSOS団のメンツたち。いや、他の連中はどうでもいいが、朝比奈さんと優雅な船底での何かをおこなうまたとない機会を、俺はみすみす欲求に赴くままの睡眠によって消し去ってしまったわけだ。
うお。いきなりケチがついた。俺の夏休みはこんなんでいいのか。本日現時点での思い出はババ抜きくらいしかないぞ。潮風に冷やかされつつ二人して語らう憩いの時間は?
いぎたなく眠ってしまった数時間前の俺の胸ぐらつかんで蹴りを入れたい気分だよ。
俺が半分寝ぼけながら自己批判を脳内で繰り広げていると、
ぱしゃん。
フラッシュの光に目が眩んだ。
音がした方向に視線をやれば、そこには朝比奈さんがいてカメラを構えている。可憐に微笑む童顔の天使は、
「ふふー。寝起きの顔撮っちゃいました」
悪戯を成功させたおしゃまな幼稚園児のような顔で、
「寝顔も撮っておきました。よく寝てましたよ?」
途端に俺は元気になった。朝比奈さんが俺を隠し撮りする理由とはなんだろう。ひょっとしたらどうしても俺の写真が欲しかったからではないか。可愛らしい写真立てに入った俺の写真を枕元に置いて夜ごと「おやすみなさい」を言うためではなかろうか。それがいい。そうしよう。
いやだなあ、言ってくれたら写真なんかいくらでも差し上げるのに。何なら自宅のどこかに仕舞われているアルバムごと進呈しても何ら差し支えない。
しかし、俺がそう申し出ようとした時だ。朝比奈さんは持っていたインスタントカメラをハルヒに手渡した。
「キョン、何あんたニヤニヤしてんの? バカみたいだからよしたほうがいいわ」
ハルヒは事故現場のスクープ写真をどこの新聞社に売りつけようか考えているような顔をして、カメラを自分の荷物にしまい込んだ。
「みくるちゃんには今回、SOS団臨時カメラマンになってもらうことにしたの。遊びの写真じゃないのよ。我がSOS団の活動記録を後世に残すための貴重な資料とするわけ。でもこの娘に好きなように撮らせたらしょうもないものばっかり撮りそうだから、あたしが指示するってわけよ」
それで、俺の寝顔と寝起き顔のどこに資料的価値があるってんだ?
「合宿の緊張感を持たずにマヌケ面で寝ているあんたの写真を晒すことによって後の世の戒めとすんの! いい? 団長が起きてんのに下っ端がぐうぐう寝てるなんて、モラルと規律と団則に違反するんだからね!」
ハルヒは怒ってるのか笑ってるのかどっちかにしろと言いたくなる表情で俺を睨みつけていて、どうやら団則なんかいつ作ったんだという俺の疑問をぶつけても無駄のようであた。どうせ明文法ではないだろうし、ここは小川の水のように流されておこう。
「わかったよ。寝顔にイタズラ描きされたくなかったら、お前より早く寝るなってことだろ? その代わり、俺がお前より遅く起きていたらお前の顔に髭くらい描いてもいいんだろうな」
「なによそれ。あんたそんな子供みたいなことするつもりなの? 言っとくけど、あたしは気配に鋭いほうだから眠ってても反撃するわよ。それから団長にそんなアホなことをする団員は死刑だから」
なあハルヒ、いまどき先進国じゃあ死刑制度を採用している国のほうが少ないみたいだぞ。その点に関してはどう思う?
「なんであたしがよその国の刑法なんかを論評しないといけないのよ。問題は外国で起こってるんじゃないの。これから行く不思議な島で起こるの!」
起こす、の間違いでないことを祈りながら、俺は自分の鞄を引き寄せた。
船がぐらりと揺れる。波止場に停まる準備段階に入ったようだ。他の乗船客たちもぞろぞろと通路を出口付近に向かいつつある。
「不思議な島ね……」
俺たちが向かうのはパノラマ島か何かか? せめて突然浮き上がったり泳ぎだしたりする島じゃなければいいのだが。
「だいじょうぶですよ」
古泉が俺の心中を察したような顔でうなずいた。
「何の変哲もない、単なる離れ小島です。そこには怪獣も狂気におかされた博士もしません。僕が保証します」
こいつの保証はいまいちアテにならない。俺は長門の白い顔に無言をして問いかけた。
「…………」
長門も無言で返してくれた。いざとなれば怪獣退治くらいならこいつがしてくれるだろう。頼むぞ、宇宙人。
船がもう一度大きく揺れ、
「きゃ」
朝比奈さんがバランスを崩してよろけるのを、長門は静かに支えてやっていた。
フェリーを降りた俺たちを、執事とメイドが待ち受けていた。
「やあ、新川さん。お久しぶりです」
と言って、朗らかに片手を上げたのは古泉だった。
「森さんも。出迎えごくろうさまです。わざわざすみませんね」
そして古泉はあっけに取られている俺たちを振り返り、舞台俳優が二階席の客まで届かせんとするばかりの大袈裟な動作で両手を広げて、いつもの微笑みを四倍に広げた。
「ご紹介します。これから我々がお邪魔することになる館でお世話になるだろうお二人が、こちらの新川さんと森さんです。職業はそれぞれ執事と家政婦さん、ああ、まあそれは見れば解りますか」
解ろうとも言うものだ。俺は改めて御辞儀したまま固まっている二つの異形の主を見た。ここは、まじまじ、という擬音とともに描かれる状況だろう。
「お待ちしておりました。執事の新川と申します」
三つ揃いの黒スーツを着た白髪白眉白髭の老紳士が挨拶して再び一礼。
「森園生です。家政婦をやっております。よろしくお願いします」
その横の女性もぴったり同じ角度で頭を下げ、何度も練習していたのかと疑いたくなるほどぴったり同じタイミングで顔を上げた。
新川氏は、歳をとっておられるのは解るが実年齢不詳の容貌で、森園生なるメイドさんはこっちはこっちで年齢不詳なかたである。俺たちと同年代に見えるのは若作りのなせるわざか、単なるファニーフェイスなのか。
「執事とメイド?」
ハルヒが虚をつかれたように呟いているが、俺も同じような心境だ。よもやそんな職業がマジで日本に現存していたとは知らなかった。てっきりとっくに概念上の存在になって化石化しているものだとばかり。
なるほど、古泉の後ろで腰を低くしているお二人は、確実に執事とメイドに見えた。少なくとも、そう紹介されて「ああ……そうっすね。確かに」とうなずかされてしまう程度にはハマっている。特にメイドさんのほう、森さんとかいったか。その女性はどこから見てもメイドだった。なぜならメイドの衣装を着込んでいるからである。毎日のように文芸部室でメイドな朝比奈さんを見ている俺が言うのだからここは信用しといてくれ。しかも新川氏と森さんの衣装はハルヒの意味のないプレイの賜物ではなく、どうも純粋に職業的な必要性からそのような恰好をしているらしい。
「ふぁ……」
気の抜けた声を出したのは朝比奈さんで、彼女はビックリ眼で二人----どちらかと言えば森さん----を見つめていた。驚き半分、戸惑い三十%とといったところだ。残り二十%は、さて何だろうね。どことなく羨望のような気がしたが、ハルヒの強制に従っているうちに本物のメイドに対する憧れでも生じているのかもしれないな。
その頃長門は、何一つ感想を言うこともなければ顔色一つ変えずに、旧石器時代の黒曜石製鏃のような瞳を大時代的な職業に就いているらしい出迎えの二人に注いでいた。
「それでは皆様」
新川氏がオペラ歌手みたいな豊かなテノールで俺たちを誘った。
「こちらに船を用意してございます。我が主の待つ島までは半時ほどの船旅になりますでしょう。なにぶん孤島でございますので、不便かと存じますがご容赦のほどを」
また森さんともども御辞儀をする。俺は何かムズ痒い。こんな丁寧な対応をされるほど俺たちは偉い人間ではないと教えてあげたいくらいだ。それとも古泉はどっかの御曹司の息子か何かなのか? こいつの特技は不定期エスパーだけだと思っていたが、まさか自宅に帰れば「坊ちゃん」とか呼ばれているような家柄なのだろうか。
「全然かまわないわっ!」
俺の頭の中を回りだしたクエスチョンマークの数々を一気に離散させるような声でハルヒが豪語している。見れば、ハルヒはトンマなスポンサーから莫大な資金を搾り取ることに成功したインチキ映画プロデューサーのような笑顔になっていた。むむ。
「それでこそ孤島よね! 半時と言わず、何時間でも行っちゃっていいわ。絶海の孤島があたしの求める状況だもの。キョン、みくるちゃん、あんたたちももっと喜びなさい。孤島には館があって、怪しい執事とメイドさんまでいるのよ。そんな島は日本中探してもあと二つくらいしかないに違いないわ!」
二つもねえよ。
「わ、わあ。すごいですね……楽しみだなあ」
棒読みで口ごもる朝比奈さんはいいとして、本人を目の前にして「怪しい」という形容詞をつけるハルヒの口は無礼極まる。しかし言われたほうもニコヤカに微笑んでいるので、もしや本当に怪しいのかもしれない。
まあ、怪しいのはこのシチュエーション全体であるし、怪しさにかけてはこっちのSOS団も人後に落ちないのでお前が言うなの世界なのかもしれないが、何もそこまでハルヒを有頂天にさせるような筋書きにならなくてもよさそうなものだ。
俺は新川執事と何事か談笑している古泉を眺め、両手を揃えて控えめに立つ森メイドさんを見つめ、それからなんとなく気になって彼方の海へと目をやった。波穏やかにして無事快晴。今のところ台風は来ていないようである。
果たして俺たちはもう一度本土の地を無事踏むことができるだろうか。
長門のひんやりした無表情が、とても頼もしく見えた。情けないことに。
新川氏と森さんが俺たちを案内したのは、フェリー発着場からほど近い桟橋の一つだった。てっきりポンポン船あたりを想像していたのだが、俺たちが足を止めた所で波に揺られているのは、地中海にでも浮いているのが絵になりそうな自家用クルーザーである。値段を聞く気にならないくらいの豪華そうなシロモノで、乗ったからにはカジキマグロの一本でも釣り上げないといけないような気分に襲われる。
ぼやぼやしているのが悪かった。ひょいと飛び乗ったハルヒは放っておくとして、おっかなびっくりの朝比奈さんと、淡々とぼーっとしている長門は古泉のエスコートで船に乗り込み、その役は俺がやりたかったのにと呻いても失われた時間は戻ったりはしなかった。
キャビンに通された俺たちが、なぜ船の中にこんな洋式応接間があるのかと感じる前に、クルーザーが緩やかに動き出した。近年の執事は船舶免許も持っているようで、操縦しているのは新川さんだ。
ちなみに森園生さんは俺の真向かいに座って、柔らかな微笑みで船内の調度品のようになっていた。シックでクリティカルなメイドスタイルである。ハルヒが部室で朝比奈さんに着せているのよりも若干過剰さが薄いような気もするが、あいにくメイド衣装業界に詳しくないのでよく解らない。
落ち着かないのは俺だけでなく朝比奈さんものようで、さっきからメイドの衣装をチラチラ眺めつつそわそわしている。メイドさんのなんたるかを実地に見聞きして、部室でのおこないの参考にしようとでもしているのだろうか。変なところで真面目な人だからな。
長門は真正面を向いたままじっと固まっているし、古泉は悠然たる面持ちで余裕の笑顔を保ったままで、
「いい船ですね。魚釣りもスケジュールに組み込んだほうがいいでしょうか?」とかいうことを誰に言っているのか提案していた。
それで、ハルヒは----。
「それで、その建物はなんて呼ばれているの?」
「と言いますと?」
「黒死館とか斜め屋敷とかリラ荘とか纐纈城とか、そんな感じの名前がついているんでしょ?」
「いえ、特に」
「おかしな仕掛けがいっぱい隠されていたりとか、設計した人が非業の死を遂げたとか、泊まると絶対死んでしまう部屋があるとか、おどろおどろしい言い伝えがあるとか」
「ございません」
「じゃあ、館の主人が仮面かぶってるとか、頭の中がちょっと爽やかな三姉妹がいるとか、そして誰もいなくなったり」
「しませんな」
執事氏の声が付け加えた。
「今のところは、まだ」
「じゃあこれから起こる可能性はかなり高いわね」
「そうであるのかもしれません」
適当に返事してないか、この執事さん。
出発と同時にハルヒは操縦席へとよじ登り、上記のような会話を新川氏と繰り広げているという案配である。エンジンと波切り音にまじって聞こえてくる話を小耳に挟んだところ、どうもハルヒは過剰な期待を孤島の館に持っているようだ。それにしても、なんでまたたかだか離れ小島にいちいち怪奇性を求める奴なんだ。あいつは。泳いで飯食ってダラダラして仲間内の友愛をひとしきり深めたところで気持ちよく帰途につく、ってな感じで充分だろうに。俺はそう思い、切実に願った。
手遅れだったかもしれない。
まさか執事とメイドが出てくるとは市民プールでヨシキリザメに噛まれる以上に思わなかったから、仮面の主人や妙に怪しい言動を取る他の客がいたりしても、とっくに驚けない境地に近付こうとしている。古泉め、次はどんなビックリ箱を披露するつもりなのか。
「わっ! 見えてきた! あれが館?」
「別荘でございます」
一際デカいハルヒの嬌声が轟き、俺の心に雷鳴となって突き刺さるのであった。
その別荘とやらは、見た目、実に普通であった。
太陽はそろそろ斜めに傾いでいるものの夕方になるにはまだ時間がある。日中に日差しを浴びて、どこか光り輝いているように思えた。なんせ別荘なんざ俺とは生涯無縁の存在だと思っていたことだし。
切り立つ崖の上に鎮座しているその建築物は、金持ちが避暑地あたりに建てそうないかにもな造りで別段不審なところもなく、ヨーロッパの古城を移築してきたわけでもなく、蔦が絡まるレンガ色の洋館でもなく、変な塔がにょきにょき付属しているわけでもなく、ましてや忍者屋敷のようなギミックが隠されているわけでもなさそうである。
案の定、ハルヒはトンカツだと思って食べたらタマネギフライであったような顔つきとなって、その別荘(ハルヒ的には館)を遠望していた。
「うーん。思ってたのとかなり違うわね。見かけも重要な要素だと思うんだけど、この屋敷を設計した人はちゃんと資料を参考にしたのかしら」
俺はハルヒと並んでデッキにて島の風景を観賞した。ハルヒによってキャビンから引きずり出されたのである。
「どう思う? キョン、あれ。孤島なのに普通に建ってるわよ。もったいないと思わない?」
思うさ。何もこんな所に別荘を持たなくてもいいだろう。コンビニに行くまで自家用船に乗って往復一時間もかかるんじゃあ、夜中に腹減ったときどこに行けばいいんだ? ジュースの自動販売機もなさそうだしさ。
「あたしが言ってるのは雰囲気の問題よ。もっとオドロオドロした館だと信じてたのに、これじゃあまるっきりの閑静な行楽地じゃないの。あたしたちはお金持ちの友達の別宅に遊びに来たわけじゃないのよ」
俺は風になびいて頬をちくちく刺しているハルヒの髪の毛を払いのけ、
「そういや合宿だったな。何の特訓をするんだよ。冒険家の真似事か? 無人島に漂流したときのシミュレーションでもするつもりか」
「あ、それいいわね。島の探検を日程に入れておくわ。ひょっとしたら新種の動物の第一発見者になれるかもよ」
いかん、ハルヒの目が輝きを増すようなことを言ってしまった。頼むからいらんもんが出てくるなよ、島。
俺が緑に覆われた小島に向けて念を送っていると、
「ここいらの島々は、大昔に海底火山爆発による隆起によってできたものらしいですね」
言いながら古泉がのっそりと出てきた。
「新種の動物はさておき、古代人の残した土器のかけらくらいは出てくるかもしれません。原日本人が航海の途上で立ち寄った形跡があるやもです。ロマンを感じますね」
古代のロマンと、真新しそうな別荘にはどうも連続性がないような気もするが、俺はツチノコ探しも穴掘りもごめんだぜ。二手に分かれようじゃないか。ハルヒと古泉は島で冒険家、俺と朝比奈さんと長門とで海辺でたわむれる。ナイス・アイディーア。
「あれ、誰かいるわ」
ハルヒが指差したのは、これも新造されたばかりと思しき小さな波止場だった。どうもこのクルーザー専用のハーバーらしく、他の船の姿はない。その防波堤みたいな場所の先端に、一つの人影がこっちに向かって手を振っていた。男性のように見える。
反射的に振り返しているハルヒが、
「古泉くん、あの人が館のご主人? ずいぶん若いけど」
古泉も手を振りつつ、
「いえ、違います。僕たち以外の招待客ですよ。館の持ち主の弟さんでしょう。前に一度だけ会ったとこがあります」
「古泉」と俺は口を挟んだ。「そういうことは先に言っておけよ。俺たち以外に呼ばれている人がいるなんて初耳だぞ」
「僕も今知りましたから」
しれっと古泉はかわして、
「でも心配することはありません。とても良いかたですよ。もちろん、館の持ち主の多丸圭一さんも含めてね」
その多丸圭一氏というのがこんな僻地に別荘を建て、夏の仮住まいとしている酔狂な人物であるとは聞かされていた。古泉の遠縁の親戚筋で、こいつの母親の従兄弟くらいに相当するとかなんとかだった。何だかよく知らないが、バイオ関係の分野で一山当てて、今は悠々自適の生活なんだとか。きっとどう使っていいのか解らないくらいの金を持っているに違いない。でなければこんなもん建てるとは思いがたいからな。
専用のハーバーに向けてクルーザーが減速している。人影の表情がつかめるまでに近付いてくる。若い感じの恰好をしていた。二十歳過ぎくらいだろうか。これが多丸圭一氏の弟であるらしい。
執事が新川氏で、メイドが森園生さん。
残すは、真打の館の主人、多丸圭一氏その人だけだ。
登場人物はこれで打ち止めってことでいいか?
思えば朝から何時間も船に揺られっぱなしだった。おかげで今も地面が揺れているような気がする。
クルーザーから大地に一時帰還を遂げた俺たちを、その青年が快活な笑みとともに出迎えた。
「やあ、一樹くん。しばらくぶりだったね」
「裕さんも。わざわざご苦労様です」
会釈する古泉は、続いて俺たちの紹介に入った。
「こちらの皆さんは僕が学校でとてもお世話になっているかたがたです」
お前の世話なんかした覚えはないが、古泉は横一列となった俺たちを一人一人指差して確認しながら、
「この可憐なかたが涼宮ハルヒさん。僕の得難い友人の一人です。いつも自由闊達としていて、その行動力を僕も見習いたいくらいですよ」
なんて紹介文だ。背筋に汗が浮いてくる。ハルヒも、おいお前。何猫被って如才なく殊勝に御辞儀しているんだ。船酔いで脳組織が欠落でもしたのか?
しかしハルヒは目も眩みそうなよそ行きの笑みで、
「涼宮です。古泉くんはあたしの団……いえ、同好会に欠かせない人材です。島に誘ってくれたのも古泉くんだし、頼りになる副団……いえ、副会長なんです。えへん」
俺の寒気を無視し、古泉は続いて他メンツの紹介を続行する。いわく、
「こちらが朝比奈みくるさん。見ての通りのかたでして、愛らしく美しい学園のアイドルな先輩です。彼女の微笑みはもはや世界平和を実現するレベルですね」
とか、
「長門有希さんです。学業にすぐれ、僕の知らないような知識の宝庫と言えるでしょう。やや無口ですが。そこがまた彼女の魅力であるとも言えます」
という歯の浮きそうなプロフィールを並べ立て、もちろん俺もまた古泉の結婚相談所に登録するような誇張文句の餌食となったがここでは割愛させていただく。
さすが古泉の親類と思いたくなる良くできた微笑で聞いていた裕さんとやらは、
「どうぞいらっしゃい。僕は多丸裕。兄貴の会社を手伝っているしがない雇われ者だ。キミたちのことは一樹くんから何度か聞かされたよ。急な転校で心配していたんだが、いい友達ができたようで何よりだ」
「皆様」
新川氏の朗々たる渋い声が背後で発せられた。
振り向くと大きな荷物を抱えた執事氏と、森園生さんが船から降り立っていた。
「ここでは日差しがきつうございます。まずは別荘のほうに足を運ばれてはいかがでしょう」
新川氏の言葉に、裕さんがうなずいた。
「そうだね。兄貴も待っているし、荷物を運び込もうか。僕も手伝おう」
「僕たちなら大丈夫です。裕さんは新川さんと森さんを手伝ってください。本島で買い込んだ食材がたんまりあるそうですよ」
古泉の笑みに裕さんも笑みで返した。
「それは楽しみだね」
そのような当たりも障りもしやしない一幕の後、俺たちは古泉の先導のもとに崖の上の別荘へと向かった。
思えばこの時から、何か変な気分がしていた。
とまあ、これはアトヅケのイイワケだが。
富士山八合目の登頂路みたいな階段を登り切った所に別荘はあった。ハルヒには悪いが館とか屋敷と言うよりはまさに別荘と言いたい佇まいである。
三階建ての白っぽい建築物だが平べったい印象を受けるのは、とにかく無駄に横幅があるせいだろう。どんだけ部屋数があるのか数えてみたい気もする。おそらくサッカーチームが二つ同時に宿舎にできるくらいはありそうだ。生い茂る木々を切り開いて土地を確保したようだが、どうやってこんなところまで建築資材を運び込んだのだろう。ちょっとした規模のヘリンボーン作戦が必要なんじゃないだろうか。金持ちのすることは解らん。
「どうぞこちらへ」
古泉が執事見習のように俺たちを玄関へと招く。ここで一同、整列。いよいよ館の主人との対面が果たされようとしているのだ。緊迫の一瞬である。
ハルヒは折り合いのつかない差し馬みたいに前がかりになっていた。胸の内では形容しがたい期待がトグロをまいて舌をしゅるしゅる出しているのが解る。朝比奈さんは可愛らしく髪の毛を撫でつけて第一印象を良くする配慮に余念がなく、長門は普段通り陶器製の招き猫のように汗一つかかずぼんやりと立っていた。
古泉は一度俺たちを振り返り、浅薄な笑みを浮かべつつドア付近のインターフォンを無造作に押した。
応答があり、古泉が挨拶の文句を述べている。
待つこと数十秒、扉がゆっくりと開かれた。
言うまでもなく、そこに立っていた人物は鉄仮面を被っているわけでもなければ目出し帽にサングラスを掛けているわけでもなく、突然俺たちを襲撃することもなければ面妖な薀蓄をいきなり吐いて戸惑わせることもなく、ごく普通のオッサンに見えた。
「いらっしゃい」
多丸圭一さんと言うらしい何成金か何長者かは知らないが、その普通のオッサンはゴルフシャツにカーゴパンツというさばけた恰好で、俺たちを迎え入れるように片手を広げた。
「待ってたよ、一樹くん。と、その友人の皆さん。まったく正直なところ、ここは酷く退屈な場所でね。三日目となればすぐ飽きる。誘って来てくれたのは裕以外では、一樹くんだけなんだよね。おおっ」
圭一さんの視線は俺の顔を上滑りして朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に固定され、
「これはこれは。なんとも可愛らしい友達もいたものだね。一樹くん。なるほど噂には聞いていたが噂に違わぬ美人揃いだ。この殺風景な島も、さぞ華やかになるな。素晴らしいよ」
ハルヒはにっこりと、朝比奈さんはぺこりと、長門はじっと、おのおの三者三様の反応をして、心底歓迎しているようなジェスチャーを交えて笑う圭一さんを、世界史の時間なのに教室に現れた音楽教師を見るような目でみていたが、やがてハルヒが一歩進み出て、
「今日はお招きいただき、まことにアリガトウございます。こんな立派なお屋敷に泊まれるなんて、物凄くありがたいと思います。全員を代表し、ここにお礼申し上げます」
まるで作文を読み上げているような口調、かつ普通より一オクターブ高い声で言った。こいつはこの猫かぶりを合宿中ずっと続けるつもりなのか? ボロが剥がれて牙を剥が出しになる前に頭上の透明猫を捨てたほうがいいと思うのだが。
多丸圭一さんもそう思ったのか、
「キミが涼宮さんかい? あれま、聞いていた噂とは随分違うね。一樹くんによるとキミももっと……。ええ、何と言ったかな? 一樹くん」
話をいきなり振られても古泉は慌てず狼狽せず、
「フランクな人、でしょう。そう伝えた覚えがありますから」
「そういうことにしておこう。そう、そのフランクな少女だとばかり」
「あっそう?」
ハルヒは見えない猫の仮面をあっさり剥いだ。部室以外の教室では滅多に見せないとびきりの笑顔で、
「初めまして館のご主人! さっそくですけど、この館、何か事件が起こったことある? それにこの島、現地の人たちからナントカ島とか呼ばれて恐れられている言い伝えとかない? あたしはそういうのが趣味なのよ」
初対面の人間に奇矯な趣味を披露するな。と言うか、家の持ち主を捕まえて事件があったほうがいいようなことを言うな。追い返されたりしたらどうするんだ。
だが、多丸圭一氏はどうにも太っ腹なことにおかしそうに笑っただけで、
「キミの趣味には大いに同調するけど、事件はまだ起こったことがないよ。つい先日完成したばかりの建物だからね。島の来歴については私も知らないな。特に不吉とも聞いていないが。無人島だったしね」
おおらかに人間味を見せつけて、「さあ」と奥へと手を差し伸べた。
「立ち話もなんだからどうぞ中へ。洋風だから土足のままでかまわないよ。まずは部屋へ案内したほうがいいかな。本当なら新川にガイドを申しつけるところだが、まだ荷物運びの途中のようだ。やむを得まい。私が自分をもってその役を任じよう」
そう言って、圭一氏は自ら俺たちを導いてくれた。
さて、ここいらでこの別荘内の見取り図や部屋割り表を提供したいところだが俺に絵心がないのは小学校低学年時代に判明しているので遠慮しておく。簡単に説明すると、俺たちが宿泊する部屋はすべて二階にあり、多丸圭一さんの寝室と裕さんが寝起きする客間は三階である。それだけ等親が近いという表れかもしれない。執事の新川さんと家政婦森さんは一階に小部屋を構えている……。
ということになっていた。
「この家、名前か何かはついてるの?」
ハルヒの問いに圭一さんは苦笑い。
「とりたてて考えてはいないな。いいのがあるんであれば募集するよ」
「そうね。惨劇館とか恐怖館ってのはどうかしら。それでもって部屋一つ一つにもコジャレた名前を付けるのがいいわ。血吸いの間とか、呪縛の部屋とか」
「お、それはいいね。次までにネームプレートを用意しておこう」
そんなうなされそうな名前の部屋で眠りたくないんだが。
俺たち一行はロビーを通り抜け、高級木材製の階段を上がって二階に到達する。ホテルかと思うような造りで扉がズラズラ並んでいた。
「部屋の大きさはさほど変わらないがシングルとツインがある。どの部屋でも好きに使ってくれたらいいよ」
さてどうするか。俺は誰と相部屋になってもいいが、メンバーは五人なので二つに分けると一人余りが出てしまい、どう考えても長門がひっそりと取り残されそうだった。かと言って俺がルームメイトに名乗りを上げたところで、長門は気にしないだろうがハルヒの逆突きパンチによって瞬殺されるのがオチだ。
「まあ、一人一部屋ということでいいではないですか」
古泉が最終結論を出した。
「どうせ部屋にいるのは寝るときだけでしょう。部屋間の移動は各自の自由意思ということで。ちなみに、鍵はかかりますよね?」
「もちろんだ」
多丸圭一さんは微笑ましくうなずいた。
「部屋のサイドボードに置いてある。オートロックじゃないから鍵を忘れて出ても閉め出されることはないだろうけど、なくさないようにしてくれたらありがたい」
俺なら鍵なんか不要だ。就寝時にだって開け放しておくさ。皆が寝静まってから朝比奈さんが何らかの理由で忍び込んでくるかもしれないからな。それに盗られて困るようなもんは持ってきてないし、わざわざこんな犯人特定のしやすい状況で窃盗を試みる奴なんかいないだろう。いたとしたらそのコソ泥はハルヒで間違いない。
「では私は新川たちの様子を見てくるよ。今のうちに邸内を自在に散策してくれたらいい。非常口の確認を怠らないようにね。それでは」
それだけ言って圭一さんは階下へ向かった。
多丸圭一氏の印象を、ハルヒはこう語った。
「怪しくないのが逆に怪しいわ」
「じゃあ見るからに怪しかったらどうなんだよ?」
「見たままよ。怪しいに決まっているじゃないの」
つまりこいつの主観では、この世に怪しくないものなどなくなるのである。ISOもびっくりの判断基準だ。将来JAROに勤めるといい。仕事しまくりの生活を送れることだろう。
適当に部屋割りして荷物を置いた俺たちは、ハルヒが自室に選んだツインルームに集合していた。一人でツインを独占しようとするのは非常にハルヒ的な振る舞いで、つまりこいつは遠慮とか奥ゆかしさとは無縁の性格をしているのだ。
ベッドに腰掛ける女性陣三人組と化粧台に座る俺、古泉は泰然と、腕を組み壁にもたれて立っていた。
「解ったわ!」
やおらハルヒが雄叫びを上げ、俺はいつものように脊髄反射のツッコミを入れた
「何がだ」
「犯人」
そう断言するハルヒの顔は、なんか知らんがミステリアスな確信に満ちあふれている。
しぶしぶ、俺は他の三人の意見を代表して言った。
「何の犯人だ。まだ何も始まってなどいないぞ。到着したばかりだろうが」
「あたしの勘では犯人はここの主人なのだわ。たぶん、一番最初に狙われるのはみくるちゃんね」
「ひいっ」
朝比奈さんはマジでビビっているようだった。鷹の羽音を聞いた仔ウサギのように、ピクピクとして隣にいた長門のスカートをつまんでいる。長門は何もコメントせず、
「…………」
音もなく視線を空中に据えているのみだ。
「だから何の犯人なんだ」俺は重ねて尋ねる。「というか、お前はあの多丸圭一さんを何の犯人にしたてあげるつもりだ」
「そんなの知るわけないじゃないの。あれは何かを企んでいる目つきだわ。あたしの勘は良く当たるのよ。きっとそのうち、あたしたちをサプライズな出来事に巻き込んでくれるに違いないわ」
単なるサプライズパーティーならいいんだが、ハルヒの期待するものはチャラけたオチの付く誕生会のごとき居心地の悪くなるような寒い演出ではなさそうだ。
想像してみる。突如として人好きのする笑顔を剥ぎ取り、狂気に目をギラつかせながら肉切り包丁片手に宿泊客たちを切り刻まんとする圭一氏。おそらく島の森林奥にあった古代人のドルメンをうっかり傾けたなんかして封じられた太古の悪霊に取り憑かれてしまい命じられるままに俺たちを供物にせんとドアを叩くオッサンの姿。
「んなアホな」
俺は差し上げた片手を水平移動して、何もない空中にセルフツッコミを入れた。
いくらなんでもこの古泉の知り合いがそんなことにはなりそうにないな。『機関』とやらもそうそうバカ揃いではあるまい。事前に現場検分くらいはしているはずだ。古泉もいつもの無害スマイルを絶やさないし、新川執事や森園生さん、多丸裕さんもホラーの住人とはほど遠い印象だ。だいたい今回のハルヒの願望はスプラッタではなく推理物ではなかったのか。
起こるのだとしたら連続殺人の一つや二つくらいだろう。それだって、こうも都合よく発生するとは思えない。外は快晴だし波浪注意報も出ていない。別にこの島は閉ざされた空間になっているわけでもないしさ。
それにいくらハルヒでも、心底人死にがでることを望んでいるわけではないだろう。もしハルヒがそんな奴なら、たいていのことには付き合ってきた俺でも、そろそろ満タンになりつつある容量の小さな堪忍袋がパンクするぜ。
俺のささやかな心配を、まったく読み取ることもなくハルヒは無邪気な声を上げた。
「まずは泳ぎね。海に来たら泳ぐ以外の何もすることはないと言っても過言ではないわ。みんなでばーっと沖をどこまでも泳いでいきましょ。誰が一番最初に潮にさらわれるか、勝負よ!」
やってもいいけどな。海難救助隊がすぐ横でスタンバイしてくれているのならさ。
しかし到着したばかりだと言うのに、もう行動するのか。少しは船旅の疲れを癒そうとは考えないのだろうかね。もっともハルヒは疲れていないかもしれないが、自分を基準にして物事を進行するのは少しでいいから遠慮してくれい。
「なーに言ってんのさ。たとえアポロン神殿に貢ぎ物を捧げたとしても太陽は立ち止まってくれたりはしないのよ。水平線に沈む前に行動を起こさなきゃ時間がもったいないじゃん」
ハルヒは両腕を伸ばして朝比奈さんと長門の首を抱え込んだ。
「あわふ」と目を白黒させる朝比奈さんと、「…………」と無反応の長門。
「水着よ水着。着替えてロビーに集合ね。うふふふひひひ。この娘たちの水着はあたしが選んであげたのよ。キョン、楽しみでしょう?」
あんたの考えている事なんてまるっきりお見通しよ、みたいな顔でハルヒは薄気味悪く白い歯を見せる。
「その通りだとも」
開き直って胸を張った。半分以上、それが目的で来たからな。誰にも異議を唱えさせたりはしないぞ。
「古泉くん、ここのプライベートビーチは貸し切りなんだったよね!」
「ええ、そうです。見物人は浜辺の貝殻くらいのものでしょう。人跡未踏の砂浜ですよ。ただし潮の流れは速いので、あまり沖合いには出ないほうがいいと言っておきましょう。先ほどの勝負が本気なのだと仮定しての話ですけど」
「まっさか。冗談よ冗談。みくるちゃんなんかあっと言う間に黒潮に乗ってカツオのエサになっちゃいそうだもんね。みんな、いい? 調子に乗って遠くまでいっちゃたらダメよ。あたしの目の届く範囲で遊びなさい」
一番調子に乗っているハルヒに保護者役を任せていいものかね。ここは俺が一肌脱いでしかるべきだろう。少なくとも朝比奈さんから二秒以上視線を外すことのないように気をつけるとしよう。
「そこ! キョン!」
ハルヒの人差し指が俺の鼻先に突きつけられ、
「ニマニマ顔は気持ち悪いからやめなさい。あんたはせいぜい半分口開けた仏頂面がお似合いよ。あんたにはカメラは渡さないからね!」
あくまでハイテンション、傍若無人エクスプレスなハルヒは笑いながら宣言した。
「さあ、行くわよ!」
ということで、やっと来た。
海岸であり、砂浜だった。日差しは傾きかけているが熱光量は確実に夏のそれである。押し寄せる波が砂を洗い、綿菓子みたいな白い雲が彼方の紺碧の背景をゆっくりと移動していた。むうっと鼻をつく潮風が俺たちの髪をなびかせ、おいでおいでをせんばかりに海面上を緩やかに吹き進む。
プライベートビーチと言えば耳触りがいいが、要するにわざわざ貸し切るまでもない人里離れた単なる島の浜辺であり、海水浴にこんなところまで来ようなどという人間がいるとしたらインチキ旅行雑誌に騙された外国人観光客くらいのものだろう。言うまでもなく、見渡す限り俺たち五人以外の人影は皆無であり、水鳥の一羽も飛んでいない。
そのようなわけなので、ハルヒたち女性組の水着姿を目に入れる栄誉に浸れるのは、岩場に貼り付いているフジツボくらいのものであった。俺と古泉を除けば。
ビーチパラソルの影にゴザ敷いて、俺が朝比奈さんの照れくさそうな仕草に目を細めていると、ハルヒが横から朝比奈さんをすばやく掠め取り、
「みくるちゃん、海では泳いでこそナンボの世界よ。さあ行きましょう。光を浴びないと健康にも悪いからね!」
「いやあのあたしあんまり日焼けはその、」
尻込みする朝比奈さんに構わず、ハルヒは白く小柄な上級生とともに波打ち際に突進し、ダイブ。
「わっ、辛い」
そんな当たり前のことに驚く朝比奈さんにバシャバシャ海水を浴びせかけるのだった。
そのとき長門は。
「…………」
ゴザの上に正座して、水着姿のまま広げた文庫本を黙々と読んでいた。
「楽しみかたは人それぞれですよ」
ビーチボールに息を吹き込んでいた古泉が口を離して俺に微笑みかけた。
「余暇の時間は自分の好きなように過ごすべきです。でないとリフレッシュの意味がないでしょう。三泊四日、せめてゆっくりのどかな合宿生活を楽しもうではありませんか」
好きなように過ごしているのはハルヒだけではないだろうか。一方的にじゃれつかれている朝比奈さんがのどかな気分を味わっているとは到底思えないが。
「こらキョン! 古泉くん! あんたらも来なさい!」
ハルヒのサイレンみたいな声が俺たちに投げかけられ俺は立ち上がった。告白すると、決して嫌々ではない。ハルヒはともかく、朝比奈さんの側に近づけるのは俺の本望である。膨らませたビーチボールをポンと弾いた古泉からパスを受け、俺は灼けた砂の上を歩き始めた。
適度な肉体的疲労を覚えながら別荘に戻り、一風呂浴びて部屋で休んでいたら空は星空が支配する時間となって、森さんが我々を食堂に案内した。
晩餐の時間である。
その日の夕食はそりゃもう豪華なもんだった。別に朝比奈さんが特に望んだというわけでもないだろうが、刺身盛り合わせが一人につき一舟あるだけでも貧乏性の俺は思わず居住まいを正してしまう。これで食費宿泊料無料? 本当にいいのだろうか。
「全然けっこう」
と多丸圭一氏は笑顔で請け負ってくれる。
「こんなところまで足を運んでくれたねぎらいだと思って欲しいね。なんたって私は退屈だからね。いや私だって人を選ぶよ。だが一樹くんの友人なら大いに歓迎だ」
出迎えてくれたときと違い、圭一氏はなぜか正装をしていた。ダークスーツに身を包み、ネクタイをウィンザーノットに結んでいる。出てくる料理は和洋折衷、何かのカルパッチョだかムニエルだかナントカ蒸しだかがじゃかすか出てくるが、器用にナイフとフォークで口に運んでいるのは圭一氏ただ一人だ。俺たちは最初から箸を使わせて貰っている。
「すんごく美味しい。誰が作ってるの?」
ハルヒが大食い選手権に推薦したくなるほどの食欲を見せながら訊いた。
「執事の新川が料理長も兼ねている。なかなかのものだろう?」と圭一氏。
「ぜひお礼を言いたいわね。後で呼んでちょうだい」
すっかり高級料理店に出向いた食通気取りになっているハルヒである。
一口食べるたびに目を丸くしたりする朝比奈さんや、小食に見えて意外と食い続ける長門、爽やかに裕さんたちと談笑する古泉を眺めていると、
「お飲物はいかがですか?」
給仕係りに徹していたメイド姿の森さんが、細長い瓶を手にして微笑みかけていた。どうやらワインらしい。未成年に酒を勧めるのもどうかと思うが、俺は試しに一杯所望することにした。ワインなんか飲んだことないが、人間、多少の冒険心は必要だ。それに森さんの蠱惑的な微笑を見ていると断るのは気分的に悪いような気になったし。
「あ、キョン一人で何もらってんの? あたしも欲しいわよ、それ」
ハルヒの要求により、葡萄酒に満たされたグラスが全員に行き渡った。
何となく、それが悪夢の始まりだったような気がする。
この日、俺が発見したのは、朝比奈さんがまったくアルコールに耐性がないということと、長門が恐ろしいばかりのウワバミであるということと、ハルヒがどうしようもない酒乱であることだった。
調子に乗って杯を傾けた俺の記憶もけっこうあやふやだったが、最後の方でハルヒは瓶をつかんで放さずラッパ飲みしながら圭一氏の頭をバンバン叩きつつ、
「いやーあんた最高! 呼んでくれたお礼にみくるちゃんを置いていくわ! もっとちゃんとしたメイドに教育してやってよ。もう、てんでダメなのこの娘」
というようなことを叫んでいたような覚えがあるようなないような。
本物メイドの森園生さんは、卓上に酒瓶をボーリングのピンのように並べると、フルーツ籠のリンゴや梨を器用に剥いてデザートを振る舞ってくれていて、部室オンリーの偽メイド、朝比奈さんはすでに真っ赤な顔をしてテーブルに突っ伏していた。
長門は森さんが持ってきた酒類をバッカバッカと空けているが、体内でいったいどんなアルコール分解処理がなされているのか、長門の顔色は何一つ変化せず、鯨が海水を飲むように次々と瓶の中身を空にしていた。
興味深そうな顔をした裕さんが、
「本当に大丈夫なのかい?」
そう心配して長門に話しかけていたことは記憶の端っこに引っかかっている。
その夜、すっかり前後不覚になった俺は古泉に付き添われてベッドに辿り着くことができたようだ。後で古泉が苦笑混じりに言っていた。他にも俺はハルヒとともに何か恥ずかしい醜態を演じていたようなのだが、なんせ記憶にはないし、聞かなかったことにして記憶することも拒否した。古泉得意の冗談だったということにしておこう。
それどころではないことが翌日にあったからな。
二日目の朝。天気はいきなり嵐になった。
横殴りの雨が建物の壁を叩き、強風の吹きすさぶ音が耳に不吉な音となって聞こえている。別荘の周囲の森が、妖魔でも棲んでいそうな具合に鳴動していた。
「ついてないわねえ。こんなときに台風が来るなんて」
窓の外を見ながらハルヒがこぼすように言っている。ハルヒの部屋だ。全員が集まり今日は何をして過ごそうかと密談の最中だった。
朝食後のことである。朝の食卓に圭一さんはいなかった。なんでも、氏は特に朝に弱く、寝起きが最悪のため午前中にベッドから起きあがるのはほとんど不可能である、というのが新川さんの説明だ。
ハルヒは俺たちを振り返り、
「でもさ。これで本当に嵐の孤島になったわ。一生もんの状況よ。やっぱり起こるかもしれないわね、事件」
びくんとする朝比奈さんは不安そうに目を泳がせているが、古泉と長門の顔は平常営業だ。
昨日あれほど凪いでいた海は波浪警報状態で、とても船を出せる許容範囲を超えている。明後日もこのままだと、俺たちは不本意にもハルヒの本位によってこの島に閉じこめられる。クローズドサークル。まさか。
古泉は安心させるような笑みで、
「足の速い台風のようですし明後日までには何とかなるでしょう。突然やって来たように、去ってしまうのも突然ですよ」
天気予報ではそうらしいな。だが、昨日の時点で台風が来るなんて情報はどこからも入っていなかったぞ。この嵐はどいつの頭から湧いて出てきたものなんだ?
「偶然ですよ」
古泉は余裕をかましている。
「一般的な自然現象です。夏の風物詩と言えるでしょう。大型台風の一つくらい、毎年やってくるものですよ」
「今日は島の探検をしようと思ってたのに、これじゃ中止ね」
ハルヒは恨めしそうに言った。
「仕方ないわ。屋内でできそうなことして遊びましょう」
どうやら合宿のことはハルヒの脳裏から吹っ飛んで行っているようで、すっかり遊び方面にシフトしているらしかった。そのほうがありがたい。島の反対側に行ったら岸壁に巨大生物の死体が打ち上げられているのを見つけたくはないからな。
古泉が意思表明をしだした。
「確か遊戯室があったはずです。圭一さんに言って使わせてもらいましょう。麻雀とビリヤードと、どちらがいいですか? 卓球台も言えば出してくれるでしょう」
ハルヒも同意して、
「じゃあピンポン大会。リーグ戦総当りでSOS団初代ピンポンチャンピオンを決めましょう。ビリの人は帰りのフェリーでジュース奢りだからね。手抜きは許さないわよ」
遊戯室は地下一階にあった。広々としたホールに雀卓とビリヤード台、ルーレットやバカラの台まである。古泉の親類は裏でカジノでもやってんのか。ここはその賭場になってるんじゃないだろうな。
「さて?」と古泉はとぼけた笑みで答え、壁際で折りたたまれていた卓球台をスライドさせてきた。
ちなみに俺との激戦のすえハルヒが優勝を飾ったピンポン大会の後は、麻雀大会が開催の運びとなった。古泉以外のSOS団メンバーはやり方を知らなかったので教わりながらのプレイである。途中で二人の多丸氏も参加して、なんとも賑やかな麻雀となったことは確かだ。ルールを曲解したハルヒは自分で勝手な役を考案し『二色絶一門』『チャンタモドキ』『イーシャンテン金縛り』などの謎の役で次々と俺たちからアガり続けた。まあ笑えたから許してやる。ノーレートだったしさ。
「ロン! たぶん一万点くらい!」
「涼宮さん、それ役満ですよ」
俺は密かに息を吐いた。前向きに考えることのほうがよかったかもしれん。普通に旅行を楽しむのが一番だ。この展開では胡乱な大海獣が出てくることも森の奥から原住民が出てくることもないだろう。何といっても絶海の孤島だ。外から変なもんがやってくることはない。
そう思い、俺は安堵することにした。多丸圭一氏も裕さんも、新川・森の使用人さんコンビも古泉の知り合いにしては普通の人間に見える。妙な事件が発生するには、ちょっと登場人物が足りないだろう。
そういうことにしておきたい、と俺は思ったのだ。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。この場合の問屋がどんな業種で何を取り次いでいるのかは解らないが、もしどこの問屋かが解っていたら俺はそこに一年くらいの業務停止命令をくだしたい。
事件は三日目の朝に起こった。
遊んで喰っての二日目は滞りなく進み、ますます天候の悪化した夜、録画再生したみたいに一日目と同様の宴会が催された。三日目、俺はガンガンに痛む頭を持てあましながら起床するハメになり、古泉が起こしに来なければ俺もハルヒも朝比奈さんもそのまま昏々と眠り続けただろう。
カーテンを開ける。その三日目の朝、豪雨と暴風雨はひっきりなしに続いていた。
「明日、帰れるんだろうな」
フラフラする思考を冷水洗顔で真っ直ぐな歩行が可能なまでにし、俺は階段を転げ落ちないように注意しながら降りていった。
食堂には俺と似たような表情をしているハルヒと朝比奈さん、いつもの表情の長門と古泉が揃ってテーブルに着いていた。
多丸圭一、裕さんの兄弟はまだ来ていない。連日の二日酔いがピークに達しているのかもしれないな。二人のグラスの上で瓶を逆さにしていたハルヒの姿が頭に蘇る。普段でも傍若無人なのに酒の力によって無敵となったハルヒの暴挙の数々に俺の頭痛はさらに二段階ほどパワーアップし、金輪際酒を飲むのは止めておこうと決心を固めた。
「あたし、ワインはもうやめておくわ」
昨夜の反省から、ハルヒもしかめ面で表明した。
「なぜかしら、夕ご飯以降の記憶が全然ないのよね。それってすごくもったいないことじゃない? 時間を損したような気分がするの。うん、あたしは二度と酔っぱらったりはしないからね。今晩はノンアルコールデーよ」
通常に言って高校生が飲んだくれてていいはずはないから、ハルヒにしてはまともな提言をおこなったと褒めてやるべきだろう。ただまあ、ほろ酔いでポワポワしている朝比奈さんはとても色っぽかったので、その程度ならいいのではないかと考えなくもない。
「では、そうしましょう」
太鼓持ちみたいにすぐさま賛同する古泉が首肯して、ちょうど朝食の載ったワゴンを押してきた森さんに、
「今晩は酒抜きでお願いします。ソフトドリンクオンリーでよろしく」
「解りました」
うやうやしく森さんは一礼し、テーブルにベーコンエッグの皿を並べていた。
俺たちが食い終える頃になっても、多丸氏兄弟は食堂に現れることがなかった。寝起きが極端に悪いらしい圭一さんはともかく、裕さんまで登場しないのはどうしたことかと思っていると、
「皆様」
新川氏が森さんを伴って俺たちの前に進み出た。その執事的な落ち着いた顔からは、読み取りにくいが若干の困惑の色が混じっているような気がして、何だか嫌な予感がした。
「どうしました?」
訊いたのは古泉である。
「何か問題でも?」
「はい」と新川氏。「問題と呼べることがあったのかもしれません。先ほど森を裕様の部屋へやったのですが」
森さんがこっくりとうなずいて執事氏の言葉を継いだ。
「部屋に鍵がかかっていなかったものですから、勝手ながら開けさせていただいたのですが、裕様がどこにもおられません」
鈴の鳴るような声でそうおっしゃる。森さんはテーブルクロスを見つめつつ、
「部屋はもぬけの殻でした。ベッドで眠られた形跡もありませんでした」
「しかも、主人の部屋へ内線で連絡を試みたところ、返答がございません」
新川さんのセリフに、ハルヒはオレンジジュースのグラスから手を離して、
「何それ。裕さんが行方不明で、圭一さんが電話に出ないってこと?」
「端的に申しますと、そういうことでございます」と新川さん。
「圭一さんの部屋に入れないの? 合い鍵くらいあるんでしょう?」
「他の部屋のスペアキーは私が管理しておりますが、主人の部屋だけは別でございまして、予備の鍵も主人しか持っておりません。仕事関係の書類等も持ち込まれておりますので、用心のために」
嫌な予感が暗雲となって俺の心の三分の一ほどを覆い始めた。起きてこない館の主人。いなくなったその弟さん。
新川氏は上体をわずかに折りながら、
「これから主人の部屋まで赴こうと私は考えております。よろしければ皆様もご同行願えないでしょうか。なにやら不穏な気配を感じるのでございます。杞憂であればよいのですが」
ハルヒは素早く目配せを俺に送った。何のアイコンタクトだろう。
「行ったほうがよさそうですね」
あっさりと古泉が立ち上がる。
「もしや、病気か何かで起きあがれない状態にあるのかもしれません。ひょっとしたらドアを破る必要があるかも」
ハルヒがぴょんと椅子から立ち上がり、
「キョン、行きましょう。胸騒ぎがするわ。さあ、有希も、みくるちゃんも!」
この時のハルヒは、いつになく生真面目な表情をしていた。
手短に語ろう。
三階の一室、圭一氏の寝室をいくら叩いても返答はなく、古泉がドアノブを回しても鍵が開くこともなく、樫でできた重い扉は一枚の壁となって俺たちの前に立ちはだかった。
ここまで来る間に多丸裕さんの部屋も覗いてみたのだが、確かに森さんの言うとおり、ベッドのシーツも乱れておらず、誰かがここで一晩を過ごした雰囲気には到底見えない。彼はどこに行ってしまったのか? 二人して圭一さんの部屋に篭もってでもいるのか?
「内側から鍵がかかっているということは、部屋の中に誰かがいるということです」
古泉が顎に指を当てて思案顔をし、いつになく緊張感のこめられた声で、
「最終手段です。このドアを体当たりして破りましょう。一刻を争う事態になっていないとも限りません」
そうして俺たちはドアに向けてスクラムを組み、タックルを繰り返すことになったのだ。俺と古泉、そして新川さんの三人で、だ。長門ならピッキングの一つくらいやってのけてくれそうだったが、こうも衆人環視の中でインチキマジックを発動させるわけにもいかない。SOS団の女子三人とメイド森さんが見守る中、俺たち男衆三人は何度となく体当たりを敢行し、俺の肩の骨がそろそろ悲鳴を上げようとした時----。
やっと扉が弾けるように開いた。
雪崩をうって俺、古泉、新川さんはそのままの勢いで室内に倒れ込み、そして----。
そう、かくて冒頭のシーンに戻るわけだ。やっとタイムテーブルが現在に追いついた。ではそろそろ時間をリアルタイムに戻すとするか。
………
……
…
というような回想を終え、俺は床から身を起こした。目の前に横たわるナイフ付き圭一さんから目を逸らし、鍵の部分が弾け飛んだ扉を眺めた。この屋敷も新築なら扉もぴかぴかだな……なんて、現実から目を逸らすようなことを考える。
新川さんが主人の身体に屈み込み、指先を首筋に当てた。そして俺たちを見上げ、
「亡くなられておられます」
職業意識から来るのか、落ち着いた声で言った。
「ひえ、えええ……」
朝比奈さんが廊下にへたり込んでいる。そうだろうとも。俺だってそうしたい。長門の無表情が今は救いに思えるくらいだ。
「大変なことになりましたね」
古泉が新川さんの反対側から圭一氏に歩み寄った。しゃがんだ古泉は、慎重な手つきで背広姿の圭一氏に手を伸ばし、そっと上着の襟をつまみ上げる。
白いワイシャツに赤黒い液体が染みこみ、不恰好な模様を形作っていた。
「おや?」
怪訝そうな声を出す。俺もそれを見た。ワイシャツのポケットに手帳が入っている。ナイフはスーツの上から手帳を貫通し、さらに体内へ到達しているようだった。この凶行を実行した人間は、よほどの腕力で事に及んだらしい。ここにいる女性たちの仕事ではなさそうだ。ああ、ハルヒのバカ力なら可能かな。
古泉は沈痛なオーラを声に滲ませて、
「まずは現場保存が第一です。とりあえずこの部屋を出ましょう」
「みくるちゃん、あなた大丈夫?」
ハルヒが心配そうに言っているのもむべなるかな、朝比奈さんはどうやら気絶していた。長門の細い足にもたれるように、座り込んだままぐったりと目を閉じている。
「有希、みくるちゃんをあたしの部屋まで運びましょう。そっちの手を持って」
ハルヒが妙に常識的なことを言っているのも動転の表れかもしれない。長門とハルヒに両側から抱えられた朝比奈さんは、ずるずる引きずられて階段へと姿を消した。
俺はそれを確認し、とりあえず周囲を観察した。
新川さんは苦渋に満ちた顔で主人の躯に合掌し、森さんも悲しげな顔をひっそりと伏せている。そしてやはり、多丸裕さんはどこにもいない。外は嵐。
「さて」と古泉が俺に話しかける。「ちょっと考えるべき事態が発生したようですよ」
「何だ」と俺。古泉はふっと唇を笑みに戻した。
「気付いていないのですか? この状況は、まさしくクローズドサークルですよ」
そんなもんとっくに知っている。
「そして、一見すると殺人事件でもあります」
自殺には見えないからな。
「さらに、この部屋は密室になっていました」
俺は首を巡らせて鍵のかかっている窓を眺めた。
「出入り不能な部屋で、犯人はどうやって犯行をおこない、出て行ったのでしょうか」
そんなもん犯人に訊けよな。
「まったくです」と古泉は同意した。「その辺りのことは裕さんに訊かねばなりませんね」
古泉は新川さんに警察への連絡を依頼して、改めて俺に向き直る。
「先に涼宮さんの部屋に行っておいてください。僕も後で行きますので」
そうしたほうがよさそうだ。ここで俺にできることはあまりない。
ドアをノックする。
「誰?」
「俺だ」
扉が細く開き、ハルヒの顔が覗いた。なにやら複雑な表情で俺を招き入れる。
「古泉くんは?」
「もうすぐ来るだろ」
ツインベッドの片方に朝比奈さんが寝かされている。通りすがりの王子でなくてもキスしないといけないような気分になる寝顔だが、やや息苦しそうな表情なのは絶賛気絶中なので仕方がない。
その傍らでは、長門が墓守のような顔をして椅子に座っている。そうしておいてくれ。朝比奈さんから離れないように頼むぞ。
「ねえ、どう思う?」
ハルヒの問いは俺に向けられているようだ。
「どうって?」
「圭一さん。これって殺人事件なの?」
客観的に己の置かれた立場を見つめてみたら答えも自ずと導き出されるであろう。俺はそうしてみた。鍵のかかった部屋をぶち破って入ったらピクリともせずに倒れている館の主人がいて、その胸からはナイフの柄が生えていた。嵐の孤島に密室殺人。できすぎだ。
「どうやらそうらしい」
数秒間のタイムラグ、俺の答えにハルヒはほわっとした息を吐いた。
「うーん……」
ハルヒは額に手を当てて、自分のベッドに腰を落とした。
「まさかなあ。こんなことになっちゃうなんて、思いもよらなかった」
呟いているが、それこそまさかだな。さんざんお前は事件を熱望するようなことを言ってたじゃないか。
「だって、本当になるとは思わないもん」
ハルヒは唇を尖らせ、すぐに表情をあらためた。こいつはこいつでどういう顔をしていいか悩んでいるようだ。喜んではいないようで一安心だ。俺が第二の被害者の役割を押しつけられるようなことになったらたまらんからな。
俺は天使の寝顔を見せている上級生を見つめた。
「朝比奈さんの調子はどうだ」
「だいじょうぶでしょ。気絶しただけよ。なんだかすごく素直な反応で感心するわ。みくるちゃんらしいわよね。ヒステリーを起こされるよりマシだけどさ」
どこか上の空っぽくハルヒは言った。
嵐の島で発生した密室殺人。旅行先で、たまたまそんなもんに出くわしてしまう確率はいかほどのもんだろう。しかし俺たちはSOS団であってミステリ研究会でも推理小説同好会でもない。まあ確かに、不思議を探し求めるのがハルヒ的SOS団の活動理念だから、今現在の俺たちの境遇はそれなりにマッチしているのかもしれないが、実際に出くわしてしまうとなると話は別の方向にスライドする。
これもハルヒが望んだから起きた事件だと言うのか?
「ううむむむ。困ったことになったわね……」
ベッドから足を下ろし、ハルヒはうろうろと部屋の中を行ったり来たり。
どうもだが、エイプリルフールのつもりで言った冗談が本当になってしまって困惑する悪戯小僧のような風情を感じさせる。カラだと思って逆さにした瓢箪から特大の駒が転げ落ちてきてしまったような雰囲気だ。俺にとってもあまり気分のいい雰囲気ではないな。
さて、どうするか。
できれば俺も朝比奈さんの隣で添い寝したかったが、ここで現実逃避をしていてもしかたがない。善後策を講じなければならないだろう。古泉はどうやるつもりなのか。
「うん、やっぱりじっとなんかしてられないわ」
やはりと言うべきか、ハルヒは力強く断言して俺の前に立ち止まる。真面目な表情で、ハルヒは俺に挑みかかるような視線を向けてきた。
「確認しておきたいことがあるの。キョン、あんたもついてきなさい」
朝比奈さんをこのままにして部屋を出たくないんだが。
「有希がついてるから平気よ。有希、ちゃんと鍵を閉めて、誰が来ても空けちゃダメよ。わかった?」
長門は沈着冷静な顔で俺とハルヒをじっと見つめ、
「わかった」
起伏のない声で返答をよこした。
ツヤ消し処理された瞳が一瞬、俺の視線と直線を結んだとき、長門は俺にしか解らないような角度でうなずいた----ような気がする。
おそらく俺とハルヒに危険が降りかかることはないんだろう。もし何かさらに異常な事態になるようなら、長門だって黙って座っていたりはしない。俺は先だっての、コンピュータ研部長の部屋に行ったときのことを記憶から引っ張り出して、そう思うことにした。
「行くわよ、キョン」
俺の手首をひっつかみ、ハルヒは部屋から廊下へと第一歩を踏み出した。
「それで、どこに行くんだ?」
「圭一さんの部屋よ。さっきは観察する余裕がなかったから、もう一回確認しておくの」
ナイフを胸に突き立てて転がる圭一さんと、白いシャツにべったりついた血糊を思い出して、俺は躊躇するものを感じる。あまりしげしげと見るべき光景ではないぞ。
ハルヒは歩きながら言った。
「それから裕さんがどこ行ったのかも調べないと。ひょっとしたらまだ建物の中にいるかもしれないし、それに……」
これだけの騒ぎだ。もし裕さんが事件と何の関係もないのであれば、姿を現していないとおかしい。現れないということは二つの可能性が考えられる。
ハルヒに引かれるまま、俺は階段を上りながら、
「裕さんが犯人でとっくに別荘から出て行ったか、あるいは裕さんも被害者になっちまってるか……だな」
「そうよね。でも裕さんが犯人じゃなかったら、ちょっぴりイヤな展開よね」
「誰が犯人でも俺はイヤだがな……」
ハルヒは俺を横目で見る。
「ねえキョン。この館には多丸さん兄弟を除けば、新川さんと森さん、それからあたしたち五人しかいないのよ。その中に犯人がいるってことになるじゃないの。あたしは自分の団員を疑いたくなんかないし、警察に突き出したりしたくはないわよ」
しんみりした声に聞こえた。
なるほど、仲間内に殺人犯がいることを懸念しているのか。そんな可能性を俺はまったく考慮していなかった。朝比奈さんは問題外として、長門だったらもっと上手くやるだろうし、古泉なら……。そういえば、多丸さんに最も近いところにいるのは古泉だ。親戚だとか言っていた。まるっきり赤の他人である俺たちより立場的に親しいのは間違いない。
「いや」
俺は自分の頭を小突いた。
古泉だってバカではない。こんな状況でわざわざギリギリなことはしやせんだろう。状況がクローズドサークルになったからといって、その状況に合わせるように殺人事件を起こしたりするほど頭がすっ飛んでいるわけではないと思う。
そんなことを考えつくのは、ハルヒくらいでいい。
三階、圭一さんの部屋の前では、新川執事氏が歩哨よろしく仁王立ちに待ちかまえていた。
「警察に連絡しましたところ、誰の立ち入りも許可しないようにとのことでございます」
慇懃に頭を下げる。部屋の扉は俺たちがぶち破った状態で開け放たれ、新川さんの身体の脇からわずかに圭一さんの爪先が見えるのみだった。
「いつ来るの? 警察」
ハルヒが質問し、新川さんは丁寧に答えてくれた。
「嵐が収まり次第とのことでございます。予報によれば、明日の午後には天候の回復が見込まれるようですから、その頃あたりになるのではないでしょうか」
「ふーん」
ハルヒは扉の向こうにチラチラとした視線を送っていたが、
「ちょっと訊きたいんだけど」
「何でございましょう」
「圭一さんと裕さんって仲悪かったの?」
新川さんはザッツ執事と言いたくなるような立ち振る舞いをわずかに変化させた。
「正直申し上げまして解りかねますな。なんとなれば、私がここに仕えるようになりましたのは、この一週間程度のことでございますので」
「一週間?」と俺及びハルヒ。
新川さんはゆったりとうなずいた。
「左様です。執事であることには変わりはございませんが、私はパートタイム、臨時雇いの執事でございます。夏のホンのひととき、二週間ばかりの契約でございました」
「つまり、この別荘のみってことなの? 昔から圭一さんのとこにいたんじゃないのね?」
「左様で」
新川執事は圭一さんがこの島で過ごす期間だけの期限付き執事だったわけだ。したらば、もしや。
俺の疑問はハルヒの疑問でもあったようで、
「森さんもそうなの? あの人も臨時雇われメイドなのかしら」
「おっしゃるとおり、彼女も同時期に採用を受け、ここに来ましてございます」
なんとも豪毅なことだ。圭一さんは、サマーバカンスのためだけに執事とメイドを雇ったことになる。なんか金の使い方を間違えているような気もするが、それにしても執事とメイドね……。
心の端で微細な引っかかりが転げ落ちようとした。俺はそいつをすくい上げてやる。そして新川さんの顔を注意深く観察してみた。生真面目という単語に鎧われた老紳士にしか見えない。おそらくそれは正しいのだろうが、しかし……?
俺は何も言わず、その小さな引っかかりを胸にしまい込んだ。後であいつに会ったときに投げつけてやる言葉だな、これは。
「なるほどねえ。使用人にも正社員と派遣があるわけね。なんだか参考になったわ」
何の参考にするつもりか、ハルヒは合点がいったようでうなずき、
「部屋に入れないんじゃしょうがないわ。キョン、次に行くわよ、次に」
また俺の腕を取って、ずかずかと歩き始めた。
「今度はどこに行くんだよ?」
「外。船があるかどうか確かめるの」
この台風の中でハルヒと二人でそぞろ歩きってのは気が進まないな。
「あたしはね。自分の目で見たものしか信用しないの。往々にして伝聞情報には余計なノイズが混じっているものなのよ。いい? キョン。重要なのは一次情報なわけ。誰かの目や手を通した二次情報は最初から疑ってしかるべきなの」
そりゃまあ、ある意味もっともな意見と言えるだろうが、それでは自分の視界に入る以外のものほとんどが信じられないことになっちまうな。
俺が情報メディアの有用性について考えているうちに、ハルヒは俺を一階へと運び込んでいて、降りたところに森園生さんがいた。
「外に出られるのですか?」
森さんは俺とハルヒに言って、ハルヒも言い返した。
「うん。船があるかどうか調べようと思って」
「ないと思われますが」
「どうして?」
うっすらと微笑して、森さんは答える。
「昨晩のことです。裕様の姿をお見かけしたのは。その時、裕様は何かにせき立てられるようなお急ぎのようで、玄関口へと向かっておられたのです」
俺はハルヒと顔を見合わせ、
「裕さんが船をかっぱらって島を出て行ったと言うんですか?」
森さんは薄い微笑みをたたえた唇を動かし、
「廊下ですれ違っただけですし、裕様が実際に出て行ったところを見たわけでもありません。でも、わたしが裕様を見たのは、それが最後です」
「何時頃?」とハルヒ。
「午前一時前後だったと思います」
俺たちがへべれけとなって熟睡していた時間帯だ。
圭一さんがスーツ姿で床に転がるハメになったのも、その頃であると当確サインを出していいものだろうか。
扉を開けると散弾のような雨粒が叩きつけてきた。風雨に押されて重くなったドアをなんとかくぐり抜けて外に出た途端、俺とハルヒは数秒と保たずに濡れ鼠となっている。水着で来ればよかったかな。
暗灰色の雲に覆われた空が水平線まで切れ目なく続き、俺はいつぞやの閉鎖空間を思い出した。どうもこういうモノクロの世界は好きになれそうにない。
「行くわよ」
雨のせいで髪とTシャツを身体に張り付けながら、ハルヒは雨中行軍を敢行する。俺もついて行かざるを得ない。ハルヒの手はやはり俺の手首を握りしめていた。
羽根を付ければ高く舞い飛ばされそうな風の中、俺たちは豪雨の恰好の餌食となりつつ、波止場の見える位置までじわじわ進んでいった。、うっかりすれば崖の下へと転落する恐れがある。さすがの俺もこりぁヤバイと感じるようになってきた。自分だけ落っこちるのもシャクなので、俺はハルヒの手首を握りかえしてやる。こいつとなら、落ちても生還の確率が上昇するように思ったのでね。
やっとの思いで俺たちは階段の頭頂にたどり着いた。
「見える? キョン」
風に紛れがちのハルヒの言葉に、俺はうなずき返した。
「ああ」
波止場はほとんど冠水状態で、打ち寄せる巨大な浪波だけが岸辺で動くすべてだった。
「船がない。流されてたんでなければ、誰かが乗って行っちまったんだろ」
俺たちが島から脱出できる唯一の交通手段。あの豪勢なクルーザーは眼下に広がる海面のどこを探しても見あたらない。
なんともはや。
かくして、俺たちは孤島に隔離されたってわけだ。
俺たちは再び這うような速度で別荘まで戻り、ようやく扉の内側に入れたときには全身まんべんなく濡れネズミとなっていた。
「お使いください」
気を利かせて待機していたらしく、森さんがバスタオルを差し出してくれた。控えめな口調で、
「どうでしたか?」
「あなたの言う通りみたい」
黒髪をタオルで擦っていたハルヒは憮然とした面持ち。
「クルーザーはなかったわ。いつからないのかは解んないけど」
森さんはそれが地顔なのか、蛍に光みたいな微笑みをずっと浮かべている。多丸圭一氏殺傷事件に何らかの動揺を感じているのだとしても、彼女の穏やかな顔からはプロフェッショナルなまでに覆い隠されていた。短期のメイドの雇い主に対してだから、それが普通なのかもな。
廊下に水滴を落として歩くことを森さんに詫びつつ、俺とハルヒはそれぞれの自室に着替えのために戻ることにした。
「後であたしの部屋に来てよね」
階段を上がっている途中でハルヒは言った。
「こういうときはみんなで一塊りになっていたほうがいいわ。全員の姿が目に入っていないと落ち着かないもの。それに万一……」
言いかけてハルヒは口を閉ざす。何が言いたかったのか、なんとなく解ったような気がして俺もツッコミを封印する。
そのまま二階に到着すると、廊下に古泉が立っていた。
「ごくろうさまです」
古泉はいつもの微笑で俺たちに目礼を送ってよこした。ハルヒの部屋の前である。
「何してんの?」
ハルヒが訊くと、古泉は微笑を苦笑に変化させ、ひょいと肩をすくめた。
「今後のことをご相談しようと涼宮さんの部屋を訪問したのですが、長門さんが中に入れてくれないのです」
「どうして?」
「さあ」
ハルヒは扉をガンガンとノックした。
「有希、あたしよ。開けてちょうだい」
短い沈黙の後、長門の声が扉越しにこう告げた。
「誰が来ても空けるなと言われている」
朝比奈さんはまだ失神中のようだ。ハルヒは首にかけたタオルを指先で弄ぶ。
「もういいわ。有希、開けてったら」
「それでは誰が来ても開けるなという命令に反することになる」
唖然とした顔でハルヒは俺を見て、また扉に向かった。
「あのさ有希。誰もってのは、あたしたち以外の誰もってことよ。あたしとキョンと古泉くんは別なの。同じSOS団の仲間でしょ?」
「そうは言われなかった。わたしが言われたのは誰に対してもこの扉を開けてはいけないという意味の指示だと、わたしは解釈している」
長門の静かな口調は、筆記係に託宣を教える女神官のようであった。
「おい、長門」
たまりかね、俺は口を挟んだ。
「ハルヒの命令はたった今解除された。なんならその命令は俺が上書きする。いいから開けろ。頼むからさ」
木戸の向こうにいる長門はコンマ数秒ほど考えたようだ。かしょんと内側の鍵を捻る音がして、ドアがしずしずと開き始めた。
「…………」
長門の瞳が俺たち三人の上を通り過ぎ、無言のまま奥へと退いた。
「もう! 有希、少しは融通をきかせなさいよ。そのくらい意味をちゃんと把握してちょうだい」
古泉に着替えるまで待つように言って、ハルヒは部屋に引っ込んだ。俺も乾いた服が恋しくなっていた。いったん退散させてもらおう。
「じゃあな、古泉」
歩きながら俺は考えていた。
さっきのやり取りは、もしや長門流のジョークだったのではないだろうか。言葉の意味をはき違えた、解りにくく面白くもないジョーク。
頼むぜ長門。お前は表情も顔色も変化なしだから、いつも本気だとしか思えないんだよ。冗談を言うときくらい笑顔の一つくらいしてもいいんだぞ。なんなら古泉のように意味もなく笑ってろ。絶対その方がいい。
今は笑っている場合ではないけど。
濡れた服を脱ぎ捨て下着まで替えて再び廊下に出ると、古泉の姿はすでになかった。ハルヒの部屋まで来てノックする。
「俺だ」
開けてくれたのは古泉だった。俺が足を踏み入れて扉を閉めると同時に、
「クルーザーが消えているそうですね」
古泉は壁にもたれて立っている。
ハルヒがベッドに上で胡座を組み替えた。さすがにハルヒもこの事態を喜んでいるわけではなさそうで、むっつりとした顔を物憂げに上げ、
「なかったわよね、キョン」
「ああ」と俺。
古泉は言った。
「誰かに乗り逃げされたようですね。いや、もう誰かなどと言っても仕方がないでしょう。逃げたのは裕さんですよ」
「なぜ解る?」と俺は問い、
「他にいませんから」
古泉は冷然と答えた。
「この島には僕たち以外の人間は招かれていませんし、その招待客の中で館から姿を消したのは裕さんだけです。どう考えても、彼が乗り逃げ犯で間違いないでしょう」
古泉は滑らかな口調で続ける。
「つまり、彼が犯人なんです。おそらく夜のうちに逃げ出したのでしょうね」
眠った痕跡のない裕さんのベッドと、森さんの証言。
ハルヒが先ほどの会話を古泉に教えてやると、
「さすが涼宮さん。すでにお聞き及びでしたか」
古泉はべんちゃらを言い、ふうむと俺は無意味に唸った。
「裕さんは何かに脅えるような急ぎようだったということですが、それが裕さんを見た最後の目撃証言で合ってます。新川さんにも確認しました」
それにしたってさ、真夜中に台風の来ている海に乗り出すなんて、ほとんど自殺行為じゃないか?
「それほど急ぎの用が発生したのでしょう。たとえば殺人現場から逃げ出す、というような」
「裕さんはクルーザーの運転ができるのか?」
「未確認ですが、結果から考えてできたのでしょう。現に船はなくなっているのですから」
「ちょっと待ってよ!」
ハルヒは挙手して発言権を得た。
「圭一さんの部屋の鍵は? 誰がかけたの? それも裕さんなわけ?」
「そうではないようです」
古泉はやんわりと否定の仕草。
「新川さんが言っていた通り、あの部屋の鍵はスペアを含めて圭一さんが管理していました。調べたところ、すべての鍵は室内にありましたよ」
「合い鍵を作っていたのかもしれん」
俺が思いつきを言うが、古泉はそれにも首を振った。
「裕さんがこの別荘に来たのも、今回が初めてのはずです。合い鍵を作る余裕があったとも思えません」
古泉は両手を広げて、お手上げのジェスチャー。
室内に無言が停滞し、暴風と豪雨が島を削る不協和音が小さく遠くの出来事のように空気を振動させている。
俺とハルヒがコメントする言葉もなく沈黙していると、古泉がそれを破った。
「ただし、裕さんが昨夜に犯行に及んだとしたら、おかしなことになります」
「何が?」とハルヒ。
「さきほどの圭一さんですが、僕が触った彼の肌はまだ温もりを失っていませんでした。まるで、ついさっきまで生きていたように」
不意に古泉は笑みを浮かべた。そして朝比奈さんの侍女のように控えている沈黙の精霊みたいな姿に言った。
「長門さん、僕たちがあの状態の圭一さんを発見したとき、彼の体温は何度でした?」
「三十六度三分」
間髪入れず、長門は答える。
待て、長門。触れてもいないのにどうして解る? それも質問を予期していたような反射速度でさ……などと俺は言わない。
この場で疑問を持つだろう唯一の人間はハルヒだが、考え込むのに忙しいのか、そこまで頭が回っていないようで、
「それじゃほとんど平熱じゃないの。犯行時間はいつになるのよ」
「人間は生命活動を停止すると、およそ一時間につき一度弱ほど体温を低下させていきます。そこから逆算した圭一さんの死亡推定時刻は、発見時からだいたい一時間以内ってことでしょう」
「待て、古泉」
さすがにここはツッコムところだ。
「裕さんがどっかに行ったのは夜の事じゃないのか?」
「ええ、そう言いました」
「だが、死亡推定時刻はさっきから一時間以内くらいだって?」
「そういうことになりますね」
俺はこめかみを押さえた指に力を込める。
「すると、裕さんは台風の夜に別荘を出て、いったんどこかに潜んでおいてから朝に戻ってきて、圭一さんを刺して船で逃げたのか」
「いえ、違います」
古泉は余裕でかわした。
「仮に死亡推定時刻に幅を取り、俺たちが発見するまでに一時間少々かかったと推定しましょう。ですが、その頃、僕たちはとっくに起きだして食堂に揃っていました。その間、僕たちは裕さんの姿はおろか物音一つ聞いていません。いくら外が台風とは言え、それでは不自然ですよ」
「どういうことなのよ」
ハルヒが不機嫌そうに言った。腕組みをして、睨むような視線を俺と古泉に向けている。俺を睨んでも何も出てこないぞ。教えを請うのならこっちの微笑みくんに言え。
古泉は言った。軽く、世間話でもするような口調で。
「これは事件でもなんでもないです。単なる悲しむべき事故なんですよ」
お前の態度は悲しんでいるように見えないが。
「裕さんが圭一さんを刺したのは間違いないと思われます。出ないと裕さんが逃げ出す理由が解りません」
まあ、そうなんだろうな。
「どのような事情や動機があったか知りませんが、裕さんはナイフで圭一さんに襲いかかりました。おそらく、背後に握った手を隠しておいて正面からいきなり突き刺したのでしょう。圭一さんは身構える時間もなく、ほぼ無抵抗に刺されたのです」
見てきたようなことを言う。
「しかしその時、ナイフの切っ先は心臓まで達していなかったのですよ。肌に触れていたかどうかも怪しいですね。ナイフは圭一さんが胸ポケットに入れていた手帳に突き立ち、そして手帳しか傷つかなかったのでしょう」
「え? どういうこと?」
ハルヒが眉の間に皺を刻んで言った。
「じゃあなんで、圭一さんは死んじゃってたのよ。別の人が殺したの?」
「誰も殺してはいません。この事件に殺人犯はいないんですよ。圭一さんがああなったのは、単なる事故なのです」
「裕さんは? あの人はなぜ逃げたの?」
「殺したと思い込んでしまったからです」
古泉は悠然と答え、人差し指を立てた。こいつはどこぞの名探偵になったつもりなのか。
「僕の考えをお教えします。経緯はこうですよ。昨夜、殺意を持って圭一さんの部屋を訪れた裕さんは、圭一さんをナイフで刺す。しかしナイフは手帳に阻まれ、致命傷にはなりえなかった」
何を言い出すのかと思ったが、しばらく聞いておいてやろう。
「しかしここでややこしいことが発生します。圭一さんはてっきり自分の身体が刺されたと思い込んだんですよ。ナイフが手帳にぶつかっただけでも相当な衝撃があったことでしょう。加えて、刃物が自分の胸から生えている様を見て、精神的なショックがあったことも類推できます」
俺は古泉の言いたいことが段々理解できるような気になってきた。おいおい、まさか。
「その思い込みの力により、圭一さんは気を失ってしまいます。くたくたと、この時は横向きか後向きに倒れたんですね」
古泉は息を継ぎ、
「それを見た裕さんも、殺したと信じ込みました。後は簡単、逃げ出すだけです。どうも計画性はなさそうですから、何かの拍子に殺意が芽生え、とっさにナイフを振るってしまったのでしょう。それで、嵐の夜だというのにクルーザーを奪取したのです」
「え? でもそれじゃあ……」
言いかけたハルヒを古泉は制して、
「説明を続けさせてください。意識を失った圭一さんのその後の行動です。彼は朝までそのまま気を失い続けていました。起きてこないのを不審に思った僕たちが、部屋の扉を叩くまでね」
あのときまで生きていたのか……?
「ノックの音で目を覚ました圭一さんは、起き上がりドアへ近付きます。しかし極度の寝起きの悪さで、彼は朦朧としていたことでしょう。意識がはっきりしていなかったのですよ。半ば無意識のうちに扉に近寄り、そこでようやく思い出しました」
「何を?」と、ハルヒ。古泉は微笑みを返し、
「弟に殺されかけたことをです。そして目蓋の裏にナイフを振りかざす裕さんが蘇った圭一さんは、とっさに扉に鍵を掛けてしまったのです」
我慢できず、俺は口を挟んだ。
「それが密室状態の真相だと言うんじゃないだろうな」
「残念ながら言うつもりです。気絶したまま眠りに就いた圭一さんには時間の感覚が失せていたのです。裕さんが再び戻ってきたのではと思い込んだんですよ。たぶんタッチの差だったんでしょう。僕が通路側からノブを握ると、内側から施錠されたのはね」
「殺人犯がトドメをさしに来たとして、わざわざノックするわけないじゃないか」
「このときの圭一さんは何せ朦朧としていましたから、混濁した頭ではとっさの判断がくだせなかったんですよ」
なんて強引な理屈だ。
「さて、施錠を終えた圭一さんは扉から離れようとしました。本能的に身の危険を感じたのでしょうね。悲劇が起きたのはこの時です」
古泉は首を振り、さも悲劇を語るように、
「圭一さんは足をもつれさせ、転倒してしまいました。こう、倒れるようにです」
古泉は身体を折って前のめりのジェスチャー。
「その結果、胸の手帳に突き刺さっていただけのナイフは、床に倒れた勢いで柄を押し込まれることになったのです。刃は圭一さんの心臓を貫き、彼を死に至らしめた……」
俺とハルヒがバカみたいに口を開けるのを尻目に、古泉は力強く言った。
「それが真相ですよ」
なんだって?
そんなアホみたいなことで圭一さんは死んでしまったのか? そんな都合良く何もかもが進むか? ナイフが丁度いい感じに刺さるのもアレだが、本当に殺したかどうか裕さんにだって解りそうなものだが。
俺が反論を頭で組み立てていると、
「あっ!」
ハルヒが大声を出したせいで俺は飛び上がった。何だ突然。
「古泉くん、でもさ……」
言いかけてハルヒは固まった。その面が驚きに彩られているが、何に驚いたんだ。古泉の話に納得できないところでもあったのか?
ハルヒの目が俺の方を見た。俺と目が合うと慌てたように逸らし、古泉を見ようとして思い留まるような仕草をして、なぜか天井を見上げ、
「んん……。なんでもないわ。きっとそうなのね。うーん。何て言うのかしら」
意味不明な呟きを漏らしたかと思うと、それきり黙り込んだ。
朝比奈さんは眠り続け、長門はぽつねんとした視線を古泉に注いでいた。
いったん解散。俺たちはそれぞれの部屋に戻ることにした。古泉の話によると嵐が収まりしだい警察が駆けつけるだろうということだったので、それまでに荷物をまとめておこうというわけだった。
俺は適当に時間を潰した後、思惑を一つならず抱いて、とある部屋を訪ねた。
「なんでしょうか?」
着替えのシャツを畳んでいた古泉が顔を上げ、俺に笑顔を向ける。
「話がある」
俺が古泉の部屋を訪れた理由はただ一つ。
「納得がいかん」
そうとも。古泉の推理では説明できない部分がある。それは致命的な欠陥だ。
「お前の説明では、死体は俯せで発見されるはずだ。しかし圭一さんは仰向けに倒れていた。これをどうフォローする?」
古泉は座っていたベッドから腰を上げ、俺と向き合うように立った。
微笑み野郎はあっけらかんと、
「それは単純な理由です。僕が皆さんに披露した推理は、偽りの真相ですから」
俺も大仰なリアクションはしない。
「だろうな。あんなもんで納得できるのは意識のなかった朝比奈さんくらいだ。長門に訊けば全部教えてくれそうだが、それはルール違反しているみたいで俺が気に入らん。本当にお前が考えていることを言ってみろ」
端整な顔を笑いの形に歪め、古泉は低く耳障りな笑い声を上げて、
「では言いますと、さきほど述べた真相ですがね、途中までは合っていますが最後の部分で違うのです」
俺は無言。
「圭一さんが胸にナイフを突き刺したまま扉に近付いてきた……それまではいいでしょう。反射的に鍵をかけたのもね。違うのはそこからですよ」
古泉は椅子を勧めるような仕草をしたが、俺は無視した。
「どうやら、あなたは気づいたようですね。おみそれしましたと言うべきでしょうか」
「いいから続けろ」
古泉は肩をすくめ、
「僕たちはドアを体当たりで破りました。正確には僕、あなた、新川さんです。そして扉は開かれた。勢いよく、内側に」
俺は黙って先を促す。
「それがどのような結果をもたらしたか、あなたはもうお解りでしょう。扉のすぐ側に立っていた圭一さんは、開け放たれたドアに身体の前面を打たれた。ナイフの柄も」
俺は脳裏にその光景を思い描いてみた。
「そうやって押し込まれたナイフが、圭一さんを死に追いやったのですね」
古泉は再びベッドに座り、挑むような目つきで俺を見上げた。
「つまり犯人は……」
古泉は囁くように微笑とともに言った。
「僕とあなたと新川さん、ということになります」
俺は古泉を見下ろしている。ここに鏡が有れば、俺はさぞ冷たい目つきをした自分の顔を見ることができるだろう。そんな俺を気にするようでもなく、古泉はまだ言っている。
「あなたが気付いたように、涼宮さんもこの真相に気付いている。だから言いかけてやめたんですよ。彼女は僕たちを告発しようとはしなかった。仲間を守ろうとしてくれたのかもしれませんね」
もっともらしい顔の古泉だった。だが、俺の納得はまだである。こんなトンチキな第二推理に惑わされるほど、俺の大脳新皮質はまだ耄碌していない。
「ふん」
俺は鼻を鳴らし、古泉を睨みつけてやった。
「悪いが、俺はお前を信用できねえな」
「どういうことでしょうか」
「チャチな推理に続く第二の真相を狙ってるんだろうが、俺はそんなもんに騙されたりはしないってことさ」
今の俺はちょっと格好良くないか? さらに言ってやろう。
「考えてみればいい。根本的な問題をだ。殺人事件そのものに着眼すればいいだけの話さ。いいか? そんなもんがこんな都合のいい状況で起きるわけはないんだ」
今度は古泉が黙って俺を促す番だ。
「台風が来たのは偶然か、でなければハルヒが何かしやがったんだろうが、それはこの際どうだっていい。問題となるのは、事件によって死体が一つ転がるってことなのさ」
ここで間を空け、俺は唇を舌で湿らせる。
「お前はこう主張するかもしれん。ハルヒが望んだから事件が起きたのだとな。だが、口で何を言おうとハルヒは死者の出るようなことは望みやしない。それくらいのことはあいつを見てれば解る。てーことは。この事件を起こしたのはハルヒじゃない。そして、いいか? 俺たちがその事件現場に出くわしたのも偶然じゃない」
「ほう」と古泉。「では何です?」
「この事件……と言うかこの小旅行。SOS団夏合宿と言ってもいいだろうが、今回の件で真の犯人として指摘されるべきはお前だ。違うか?」
虚をつかれたように笑い顔をフリーズドライさせた古泉の時間が数秒間停止した。しかし----。
くすくす笑いが古泉の喉からまろび出る。
「参ったな。なぜ解りました?」
そう言って俺を見る古泉の目は、文芸部室で見るものと同じ色を浮かべている。
俺の脳味噌も伊達に灰色をしていなかったらしい。俺は幾分ホッとしながら言った。
「あの時、お前は長門に死体の体温を訊いた」
「それが何か?」
「その体温で、お前は死亡推定時刻がどうのとか言い出したな」
「いかにも、言い出しました」
「長門はあの通り便利な奴だ。お前も知ってるとおり、たいていのことはあいつが教えてくれる。お前は長門に体温じゃなくて死亡推定時刻を訊くべきだった。いや、推定じゃない。あいつなら死亡時刻ジャストを秒単位で教えてくれるだろうさ」
「なるほど」
「もし死亡時刻を訊いていたなら、長門は死んでいないと答えたはずだ。それにお前はあの状態の多丸氏を一度も死体と呼ばなかったな」
「せめてものフェアプレイの精神です」
「まだあるぞ。俺はこれでも見るべき所は見ている。圭一さんの部屋のドアの内側だよ。お前の言い分では、扉はナイフの柄にかなりの力でぶつかったはずだよな。人間の体内にナイフをめり込ませるほどの威力でだ。そんな力が働いたら、ドアにだって少しは傷なり凹みなりが出来たはずだろ。だがそんなもんはなかった。傷一つない、まっさらな扉だったぜ」
「素晴らしい観察眼です」
「それからもう一つ。新川さんと森さんのこともあるな。あの二人はここに来てまだ一週間足らずだと言う話だ。一週間前に雇われて、それからこの島にいる。だったよな?」
「そうですよ。それが何かおかしなことになりますか?」
「なるね。なるとも。お前の態度がおかしいだろうが。ここに来た最初の日を思い出せ。フェリー乗り場に迎えに来てた新川さんと森さんを見て、お前が言った言葉だぞ」
「さて、僕は何と言いました?」
「久しぶり、と、お前は言ったんだ。おかしいだろ? どうしてあの二人に対してそんなセリフが出てくるんだ。お前はこの島に来るのは初めてだとも言っていた。彼らとも初対面のはずだ。何で新川さんと森さんを、あらかじめ知っていたような挨拶ができるんだ。そんなわけねえじゃねえか」
古泉はくっくっと笑った。
それは告白の笑みでもある。俺は脱力と同時にすべてを了解し、古泉は話し始める。
「そうです。今回の事件はすべて仕込でした。大がかりな寸劇だったんですよ。あなたに気付かれるとは思いませんでしたが」
「なめるな」
「これは失礼を。ですが、意外であったことは認めますよ。いずれ何もかも告白しようとは思っていましたけど、こうも早くつまびらかになってしまうとはね」
「てことは、多丸さんや森さんや他の全員がグルだったんだな。どうせ『機関』とやらの仲間だろう」
「そうです。素人にしては名演技だったと思いませんか?」
胸に刺さったナイフの刃は途中で折った細工がなされたもの、赤い染みは血に見せかけた塗料、もちろん圭一さんは死んだフリで、いなくなった裕さんとクルーザーは島の反対側に移動しただけ。
と、軽やかに古泉は真相を激白した。
「なぜこんなことを計画した?」
「涼宮さんの退屈を紛らわせるために。そして僕たちの負担を減らすために」
「どういうことだ」
「あなたには言っておいたはずですよ。つまり、涼宮さんに変なことを思いつかせないように、あらかじめ彼女に娯楽を提供しようと言うことです。当分、涼宮さんは今回の事件で頭がいっぱいになるでしょうから」
ハルヒは俺たちが犯人になってしまったと思い込んでいるようだが、それでいいのか?
あの後、ハルヒは妙におとなしくなっていた。何かを考え深げでもある。不気味だ。
「では予定を繰り上げますかね」と古泉は言う。「こっちの計画では、フェリーで本土の港に戻ったときに多丸圭一、裕氏の両名と新川さん、森さんの計四人が出迎えてニッコリ----というオチを用意していたのですが。もちろん『機関』のことは伏せて僕の親類というところはそのままですが」
マジでサプライズパーティだったわけだ。
俺は溜息をつく。その冗談がハルヒに通用するといいんだが、もしハルヒがマジギレしたらお前が押さえ込めよ。俺は逃げるからな。
古泉は片目を閉じて微笑んだ。
「それは大変ですね。早めに謝っておいたほうがよさそうです。多丸氏ともども、頭を下げに行くとしますか。死体役もそろそろ疲れる頃合いでしょう」
俺は黙って窓の外へ視線を飛ばした。
ハルヒはどうするだろう。騙されたことに怒り狂うか、素直に趣向を楽しんで笑い転げるか。いずれにしろ、今のどっちつかずな精神状態はもっと解りやすい方向に向かうだろうが。古泉の苦笑を滲ませた声で、
「刑事や鑑識役を演じる予定になっていた方々もいたんですが、せっかくの準備が無駄になりましたね。にしても、こんな淡泊な終わり方をするとは想定外でした。本来なら屋敷内の捜索とか現場検証とかも予定表にはあったのですが……。上手くいかないものです」
それだけ考えが足りなかったからだろうさ。
曇り空を眺めながら、この天気は数時間後にどのような晴れ模様になるだろうかと俺は考えていた。
結果として、古泉から副団長の肩書きが取られることはなかった。台風が大急ぎで一過した青空の下、帰りのフェリーの中でハルヒは終始ご機嫌さんであり、駅前で全員解散になるまでそれは持続していた。シャレをシャレとして楽しめるだけの頭がハルヒにあってよかったことだな。
その代わり、古泉は船内の売店で人数分の弁当と缶ジュースを買わされてはいたが、それですんで安いもんだと俺は思う。
おそらく最初からすべてを知っていたらしい長門は慎ましく無反応を守りきり、気絶から醒めた朝比奈さんは「ひどいですー」と可愛く拗ねて見せたが、古泉と多丸兄弟、及び使用人役の二人が頭を下げるのを見て、「あ、いいです。気にしてませんからっ」と慌てて謝り返していたことも挿話として付け加えておく。
ところで、本土を目指すフェリーのデッキで全員の集合写真を撮ろうと並んでいたとき、ハルヒはこんな注文を付けていた。
「冬の合宿も頼むわよ、古泉くん。今度はもっとちゃんとしたシナリオを考えておいてよね。今度は山荘に行くんだから。それから大雪が降らないとダメだからね。次こそはこれぞってくらい館っぽいのじゃないと今度は怒るからね。うん。今からとても楽しみだわ!」
「ええと……、どうしましょうね?」
まるで第二次世界大戦末期のヨーロッパ西部戦線に送り込まれたあげく一個分隊で連合軍の総大将を生け捕りにしてこいと総統直々に命令された新米ドイツ軍士官みたいなあやふやな笑みを形作り、古泉は救いを求めるような顔を俺に向けてきた。
俺は同点で迎えた優勝決定戦のロスタイムに味方ゴールへファインシュートを放ったディフェンダーを見るような目をしつつ、心にもないことを言うことにした。
「さあな。俺も期待してるぜ、古泉」
せめて俺に見抜かれるような、しょうもないオチでないことくらいは期待してやってもいいだろう。
日常に退屈したハルヒが、非日常な現象を発生させないためにも。
詳しい事情は解りかねますが巻末にあとがきが載るのは風が吹けば桶屋が儲かるくらいに疑念の余地もないほどデフォルト仕様のようであり、なおかつ「何ページ書いてもいいですよ」と狂喜乱舞するようなことまで言っていただけたのですが、それはまたの機会に譲るとして、今回はせっかくですので収録された各話ごとにあとがきじみたものを書いてページを埋めたいと思います。
全体的な感想としては、「一年が経つのは早いが二ヶ月が経過するのはもっと早い」という、死ぬほど当たり前のことに終始することになるので割愛し、以下つれづれなるままに。
「涼宮ハルヒの退屈」
表題作にしてSOS団の連中が最も早く活字となったのがこれでありました。確か「涼宮ハルヒの憂鬱」が世に出る二ヶ月ほど前にザ・スニーカーに掲載されたんじゃなかったでしょうか。
いくら何でも本編が出る前に後日談を載せるのはいかがなものかと一人不安になっていたのですが、そのような些末な心配をしていたのはまさに僕一人であったらしく他の誰も疑問を持っていなかったようなので一安心です。なにせひたすら勢いのままに書いてしまった話しなため、これまたいいのでしょうかと心配していたのですが、結局どこからも誰からもいいとも悪いとも言われず少なくとも僕の耳には届かず、じゃあまあいっかと自分を慰めている次第です。
ちなみに僕が人生で草野球に参加したのは、記憶にある限りでは十回もありません。フライの捕れないセカンドとしてザルの名を欲しいままにしていたのは言うまでもないでしょう。ヒット打った記憶もないことに今更気付き、遅まきながら愕然としています。
「笹の葉ラプソディ」
最初につけた仮題は「朝比奈みくるの困惑」というものでした。それじゃイマイチシリーズタイトルが解りにくいという話だったので、このようなサブタイトルになりました。この時はまさか読み切り短編の掲載が続くとも思っておらず、雑誌掲載時の最後のページに「次号に続く」みたいなことが書いてあって仰天した覚えは鮮明に残っています。
いちおう未来人がいるんだし、タイムトラベルの一つもしないと話になるまいと思いつつ書きましたが、このエピソードが次巻以降のなんとなく伏線っぽいことになりそうな気配に----なって欲しいとぼんやり考えています。
「ミステリックサイン」
わけあってアイデア出しから書き終えるまでの私的最短時間記録を作ったように思います。いったい連中に何させましょうかねえと言いながら、気付いたらこんな感じになっていました。この辺りからシリーズタイトルそのものを「がんばれ長門さん」にしようかと思い始めたのですが、それだとストーリーがまったく動きそうになかったので断念しました。でもまあ、メンツの中では一番活躍してくれそうなキャラではあります。我ながら期待しています。いやホント、頼むよ長門さん。ところで眼鏡はどうしましょう。あったほうがいいのでしょうか。
コンピュータ研部長にももうちょっと活躍していただきたいところですが、今のところ漠然とそう思っているだけなのでどうなることかと。
「孤島症候群」
本当は「ミステリックサイン」よりも前に書き始めてて、こっちが掲載される予定にまでなっていたのですが、書いているうちになぜかどんどん長くなってしまうという自己責任による諸事情で文庫のオマケ書下ろしという体裁になりました。そんなわけでこの本の収録作品で最も長いページ数を誇るという、なんとなく帯に短しタスキに長し的なオマケとなってしまい、反省するところ大であります。いつもどうにかしようと思ってるんですが、思うだけなら楽勝であって実際に思い通りになることなど人生振り返ってみても数えるほどしかありません。そのような理由により現在の僕は脳ミソがアメーバー状になっています。
誰か僕を孤島の豪華宿泊施設に一週間ほど泊めてくれないものでしょうか。証人の役くらいならなんとかこなせないこともないと思います。ほぼ一日中眠っていることでしょうが。
こんな感じで三巻目を出していただくことができました。これもひとえに皆様のおかげであると申せましょう。皆様のところには本当に様々な方々の名称や役職やニックネームをルビにして並び称したいのですが、とにかく不特定多数の読者様を含め僕が知ることのできた方々や名を知りようもない方々すべてを含む皆様ですので、とうてい記載し切れるものではなく、伏してお詫び申し上げつつ厚く御礼申し上げます。
角川源義
第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。