エンドレスエイト

【Endoresu Eito】



 何かがおかしい。

 そう気付き始めたのは、お盆を過ぎた夏の盛りの日のことだった。

 その時、俺は家の居間でダラダラしながら別に見たくもない高校野球をテレビで眺めていた。うっかり午前中なんかに起きてしまったせいで、ヒマではあるが山と積まれた夏休みの課題に立ち向かうほど気力に満ちあふれているわけでもない、という程度には時間を持て余していたのである。

 テレビに映る試合は俺とはまったく縁もゆかりも行ったこともない同県同士の闘いだが、判官贔屓的精神により7対0で負けているほうをなんとなく応援していると、何故だか解らないがそろそろハルヒが騒ぎ出すような気が、これもなんとなくした。

 ここしばらくハルヒとは顔を合わせていない。俺は妹を連れて母親の実家がある田舎まで避暑と先祖供養を兼ねて遠出しており、昨日帰ってきたばかりだ。それは毎年の行事だからであったわけなのだが、そもそも夏休みなんだからそうそうSOS団の連中とも会う機会はなく、当たり前と言えばその通りである。それに休みに入るや否や変な島に行って変な目に遭うというSOS団夏季合宿はとっくにすんでいる。いくらハルヒでも小旅行第二弾を言い出したりはしないだろう。それなりに満足している頃合だ。

「それにしても」

 俺は呟き、どういうわけだか俺は鳴ってもいない携帯電話を、ふと----本当にふと、ストラップに指を引っかけて手元に引き寄せた時、部屋のどこかに隠しカメラでも仕込んであるのかと疑うべき事態が発生した。

 まさにベストタイミングとしか言いようのない無駄のなさ、電話が着信音をがなり立て始めやがったのだ。予知能力に目覚めてしまったのかと一瞬考え、頭を振って放棄する。バカらしい。

「何だってんだ」

 表示されている電話の主は、まさしく涼宮ハルヒに相違ない。

 俺はスリーコールほど間を持たせた後、これまたなんとなくゆっくりと通話ボタンを押した。ハルヒが何を言い出すのか、すでに解っているような気分がして俺は自分を訝る。

『今日あんたヒマでしょう』

 というのが第一ハルヒ声だった。

『二時ジャストに駅前に全員集合だから。ちゃんと来なさいよ』

 と、言ったきり、あっさり切っちまいやがった。時候の挨拶も抜きならハローもなしだ。ついでに出たのが俺かどうかの確認すらしやがらねえ。さらに言えば、俺が今日がヒマだと何で解るんだ。これでも俺は……まあ、まったく何の予定もないわけだが。

 再び電話が鳴り出す。

「なんだ」

『持参物を言い忘れてたわ』

 早口な声が持ってくるべきものを告げて、

『それとあんたは自転車で来ること。それから充分なお金ね。おーばー♪』

 切れた。

 俺は電話を放り出して首を傾げた。何だろう、この夢の続きみたいな変な感覚は。

 涼しげな音がテレビから響いて目を遣ると、心情的敵チームの得点はとうとう二桁に達しているところだった。金属バットに硬球が当たる音が容赦なく俺に告げる。

 夏の終わりが近い。

 クーラーをガンガンに効かせた閉めきった部屋に、アブラゼミの大合唱が壁からしみ出すように漏れ届いていた。

「しょうがねえな」

 しかしハルヒの奴、夏休みが始まるや否や合宿と称して俺たちを変な島に連れて行っただけでは不十分だったのか。このクソ暑いのにいったい何をしようと言うんだ? 俺は冷房の効いている場所から動く気は全然しないぜ。

 そう思いつつ、俺は言われた通りのブツを出すために洋服箪笥へと向かった。

 

「遅いわよ、キョン。もっとやる気を見せなさい!」

 涼宮ハルヒがビニールバッグを振り回して、ご機嫌さんな顔で俺に人差し指を突きつけた。こいつは何も変わっちゃいない。

「みくるちゃんも有希も古泉くんも、あたしが来る前にはしっかり到着していたわよ。団長を待たせるなんて、あんた、何様のつもり? ペナルティよ、ペナルティ」

 集合場所に現れた最後の人物は俺だった。ちゃんと十五分前に来たってのに、他のメンツは急なハルヒの呼び出しをあらかじめ解っていたような速度で集合したらしい。おかげで毎回俺が奢るハメになるんだが、もう慣れたしあきらめたね。しょせん一介の一般人たる俺が、この特殊な背後関係を持つ三人を出し抜くことなどできはしないのさ。

 俺はハルヒを無視して、生真面目な団員たちに向けて片手を上げた。

「待たせてすみませんね」

 他の二人はともかく、この人にだけは言っておかないといけない。上品なリボン付き帽子の下で、朝比奈みくるさんはまろやかに微笑んで俺にぺこりと頭を下げた。

「だいじょうぶです。あたしも今来たとこ」

 朝比奈さんは両手でバスケットを持っていた。何か期待していいようなモノが入っていそうな気配を感じ、俺はなんとなく楽しい気分になる。いつまでもそんな気分に浸っていたかったのだが、横から邪魔者が声を割り込ませてきた。

「お久しぶりですね。あれからまた旅行にでも出かけられたんですか?」

 古泉一樹が輝かんばかりに白い歯を見せつつ俺に向かって指を立てた。胡散臭い笑顔は夏休み半ばになってもそのまま代わり映えしないようだ。お前こそどこぞに旅行へ行っていればいいものを、なんでまたホイホイとハルヒの呼び出しに素早く応じるのか疑問は尽きない。たまには断れ。

 俺は古泉の明るい偽善者面を経由して、視線をその横に転進させた。まるで古泉の影みたいに立っているのは、長門有希の無情に無機質な姿である。高校の夏服を着て、汗一つかかずに直立しているのも最早お馴染みの光景だ。汗腺があるのかどうかも疑わしい。

「…………」

 動かないネズミのオモチャを見るような目つきで長門は俺を見上げ、ゆるりと首を傾けた。会釈のつもりだろうか。

「それじゃあ、全員も揃ったことだし、出発しましょ」

 ハルヒが声を張り上げる。俺は一応の義務感にかられて訊いた。

「どこに?」

「市民プールに決まっているじゃないの」

 俺は自分の右手がつかんでいるタオルと海パン入りのスポーツバッグを見下ろした。まあ、どこかのプールが行き先だとは思っていたさ。

「夏は夏らしく、夏じみたことをしないといけないの。真っ冬に水浴びして喜べるのは白鳥とかペンギンくらいなのよね」

 奴らなら年中水浴びしてるだろうし、それも別に喜んでやってるわけじゃないだろう。そんな比較対象として相応しくない動物を挙げられてまんまと言いくるめられる俺ではないぞ。

「失った時間は決して取り戻すことは出来ないのよ。だから今やるの。このたった一度きりの高一の夏休みに!」

 いつもの調子で、ハルヒは誰の意見にも耳を貸すつもりがないようだった。基本的に俺以外の三人はハルヒに意見するなどという無駄な行為をしないので、毎度耳を貸されないのは俺の意見だけということになる。常識的に考えて理不尽そのものなのだが、確かに常識的な人間なのは俺だけだからそうなる運命なのかもしれん。いやな運命だな。

 俺が運命と宿命の違いについて考えていると、

「プールまでは自転車で行くわよ」

 ハルヒ宣言が発せられ、誰も賛同していないのに勝手に実行されることになった。

 聞けば古泉も自転車で来させられたのだと言う。女三人組は徒歩でここまでやって来たのだそうだ。ちなみに自転車は合計二台。SOS団のメンツは五人。さてどうするつもりなのか。

 ハルヒは明るく言い放った。

「二人乗りと三人乗りでちょうどいいじゃない。古泉くん、あなたはみくるちゃんを乗せてあげなさい。あたしと有希はキョンの後ろに乗るから」

 

 そんなわけで、俺は必死にペダルを踏みしめている。暑くて汗ダラダラであるのはまだしも、俺の頭の後ろでさっきから音量調節機能が故障したスピーカーみたいな声がずっと響いているのはどうにかして欲しい。

「ほらキョン! 古泉くんに置いてかれるわよ! しっかり漕ぎなさい! もっと速く、追い抜くのっ!」

 俺の霞みつつある視界に、古泉の自転車の荷台にて横座りしている朝比奈さんが控えめに片手を振っているお姿が映った。どうして古泉はアレで、俺がコレなんだ。不公平という言葉の語源は今の俺の状況なのではないかと思えてくるくらいだ。

 俺の自転車と両脚は、襲い来る負荷に耐え難きを堪え忍んでいるところである。荷台にちょこんと座っているのが長門で、後輪のステップに足を乗せて俺の両肩をつかんでいるのがハルヒという、曲芸じみた三人乗りだ。いつからSOS団は雑技団を目指すようになったのか。

 ちなみに走り出す前、ハルヒはこう言った。

「有希はちっこいし、体重なんてあってなきがごとしだわ」

 確かにその通りだった。まるで自重をゼロにしているのか、反重力でも使っているのかは不明だが、漕いでいる感覚ではハルヒ分の重みしか感じられない。まあ、長門が重力制御してくれているのだとしてももはや驚きはない。こいつに出来ないことが何なのか、逆に知りたい。

 ハルヒの体重もどうにかしてくれたら言うことないのだが、俺の背中と肩はしっかりと重みを感じているようだ。

 朝比奈さんの頭越しにチラリと振り返る古泉の腹立たしい微笑が見え隠れして、俺はこの世のさらなる無常さを感じ、バルザック的に自らを嘆いた。くそ、帰りは絶対、朝比奈さんとの二人乗りを満喫してやりたい。この俺のママチャリだってきっとそう思っているはずさ。

 

 市民プールはいっそのこと庶民プールと看板を書き換えたほうがいいのではないかというくらいのチャチな所で、なんせ五十メートルプールが一つと、お子様用の水深十五センチくらいのでっかい水たまりしかない。

 こんなプールに泳ぎに来ようという高校生はよほど行く場所に困った奴だけであり、すなわち我々だけであった。見事にジャリどもとその親----特に母親----しか存在していない。俺はプールを埋め尽くすかのように浮いている浮き袋付きの年齢一桁台たちを一見し、すぐさまげんなりとした。どうも俺の視神経を楽しませてくれるのは朝比奈さんだけのようである。

「うん、この消毒液の匂い。いかにもって気がするわ」

 太陽光の下、深紅のタンキニを身体に貼り付かせたハルヒが目を閉じて鼻をくんくん鳴らしている。朝比奈さんの手を引くようにして更衣室から出てきた。バスケット片手の朝比奈さんは、まるで子供用みたいなヒラヒラつきワンピースで、長門は地味で飾り気のない競泳用みたいな水着である。この二人の水着もハルヒが選んだものだろう。自分の衣装には無頓着なくせに、他人の(特に朝比奈さんの)衣装にはうるさい奴だからな。

「とりあえず荷物置く場所を確保して。それから泳ぎましょ。競争よ、競争。プールの端から端まで誰が一番速く泳げるか」

 実に子供っぽいことを言い出して、準備運動もせずにざぶんとプールに飛び込んだ。あちこちに書いてある「飛び込み禁止」という言葉が読めないのか、こいつは。

「早くきなさーい! 水が温くて気持ちがいいわよ!」

 俺は肩をすくめて朝比奈さんと目を合わせ、手近な日陰に敷布やバッグを置くために歩き出した。

 

 ガキどもが異常発生したアメンボみたいに水面を覆っているため、真っ直ぐ泳ぐことは不可能であった。そのような劣悪な状況の中で実施された団員対抗五十メートル自由形競争だが、意外と思うべきかそうでないのか、どちらにしても一着になったのは長門である。

 どうやらこいつは息継ぎすることなくずっと潜水でプールの底ぎりぎりを泳いでいたらしい。顔に貼り付いたままのショートヘアから水滴を落としつつ、ゴール地点で俺たちの到着を黙って見守っていた。言うまでもないがビリは朝比奈さんである。彼女は息継ぎのたびに立ち止まり、近くに飛び込んできたビーチボールを投げ返してやったりしていて、長門の十倍くらいの時間をかけてようやく対岸までたどり着き、着いたときにはすでにフウフウ言っていた。

「スポーツで悩み事が発散されるなんて大嘘よね。身体と頭は別物なのだわ。だって身体は考えなくても動くけど、頭は考えないと回らないもの」

 ハルヒは、いかにも良いこと言ってるでしょ? 的な表情で、

「だから、もう一勝負よ。有希、今度は負けないからね!」

『だから』という接続詞はそういう場合に使うのではないということを誰かこいつに教えてやる大人はいなかったのか。何が、だから、だ。単なる負けず嫌いだろ。それも勝つまで挑戦し続けるつもりの持久力勝負だ。

 だから、俺は長門が空気を読んでくれることを期待して、プールから身体を上げた。勝負ならサシでやってくれ。俺はプールサイドで外馬をやらせてもらう。俺は長門に賭けるが、誰かハルヒにベットする奴はいないかい?

 五十メートルプールを五往復したハルヒと長門だったが、そのうちSOS団の女子ユニット三人は、たまたま居合わせた小学生グループと一緒になって水球ごっこを始めていた。すっかり手持ちぶさたとなった俺と古泉は、プールサイドに座り込んで水と戯れる彼女たちの様子を、他にすることもないので眺めている。

「楽しそうですね」

 古泉はハルヒたちを見つめて、

「微笑ましい光景です。それに平和を感じます。涼宮さんも、けっこう常識的な楽しみ方を身につけてきたと思いませんか?」

 俺に言っているらしいので、答えてやることにする。

「いきなり電話かけてきて一方的に用件だけ言って切っちまうような誘い方はあまり常識的とは言えないだろ」

「思い立ったが吉日という言葉もあることですし」

「あいつが何かを思い立って、それで俺たちが凶以外のクジを引いたことなんてあったか?」

 俺の脳裏には、アホみたいな草野球とかバカみたいに巨大なカマドウマの姿が去来していた。

 古泉はスマイリーな口調で、

「それでも、僕から言わせてもらえばこんなのは充分以上に平和ですよ。ああやって楽しげに笑っている涼宮さんは、この世を揺るがすようなことはしないでしょうからね」

 だといいのだが。

 俺がわざとらしく溜息をついたのをどう取ったか、軽く鼻を鳴らすように笑い……、

 ----その時、古泉は奇妙な表情を見せた。見慣れない表情である。つまり、薄ら笑い以外の顔つきになったのだ。

「ん?」

 と、古泉は眉を寄せるような仕草を取る。

「どうした」と俺は訊いた。

「いえ……」

 珍しく歯切れ悪く、古泉は言いよどむ態度を作ったが、すぐに微笑を取り戻した。

「たぶん僕の気のせいです。春先から色々あったせいで、ちょっと神経質になっているだけでしょう。あ、上がってこられましたよ」

 古泉が指した方向から、雛の元にエサを運ぶ皇帝ペンギンのような勢いでハルヒが歩いてくるのが見えた。満面の笑顔。その後から、城から出奔した姫君に付き従うような雰囲気で、朝比奈さんと長門がついてくる。

「そろそろゴハンにしましょう。なんと! みくるちゃんの手作りサンドイッチよ。時価にしたら五千円くらい、オークションに出せば五十万円くらいで売れるわ。それをあんたにタダで喰わせてあげるんだから、あたしに感謝なさい」

「あいがとうございます」

 と俺は言った。朝比奈さんに。

 古泉も俺に倣って頭を下げていた。

「恐縮です」

「いえ、いえ」

 朝比奈さんは照れ気味にうつむき、指先をもじもじさせながら、

「うまくできたかどうか解らないけど……美味しくなかったらごめんなさい」

 そんなことがあり得るはずもないね。朝比奈さんのたおやかな指先がしめやかに調理した飲食物はいつどこで何をどうしようと美味しいのさ。この際、5W1Hで最も重要なのはフーダニットの部分だからな。

 そういうわけで朝比奈さんハンドメイドのミックスサンドは感動的な味で、おかげで美味いのかどうかも解らないくらいだ。もう何でもいい。手ずから注いでくれたポットの熱い日本茶も、サンドイッチには全然合っていなかったがまるっきりのノープロブレム、吹き出す汗も心なしか清々しくすらあった。

 自分の分をあっと言う間にたいらげたハルヒは、身体中にたぎる熱量を発散させようかという勢いで、

「もう一泳ぎしてくるわ。みんなも食べ終わったら来るのよ」

 と言葉を残して、再びプールにダイブした。

 よくもまあこんな障害物だらけの所でスイスイ泳げるものだ。人類海中進化説もあながち誤りではないかもしれない。もっともハルヒの遠い祖先となったような人類なら、着の身着のままで月面に飛ばされてもそこに順応しそうだが。

 それからややあって、ゆっくりゆっくり黙々と喰い続ける長門を残し、俺たち三人は求愛中のオットセイのように水中を踊るハルヒを目指した。その頃には、ハルヒは今度は女子小学生の集団とたちどころに仲良くなっていて、水中ドッジボールに参加していた。

「みくるちゃんも、ほらこっちこっち!」

「はぁい」

 のんびりうなずいたばっかりに、直後、朝比奈さんはハルヒの放った剛速ビーチボールに顔面を直撃されて水面下に沈んだ。

 

 それから一時間ほど後、水から上がった俺と古泉は、陽気な幼児たちの金切り声に押し出されるようにプールサイドで腰掛けている。

 どうにも場違いだ。ハルヒは何を思ってこんな何もない市民プールを選んだのだろう。ウォータースライダーくらい増設してろとは言わないが、もっと快活な高校生グループが出かけそうな場所がありそうなものだが。

 じりじりと焼き付く陽光に、肌が大急ぎでメラニン色素を増強しようとしているのが解る。そういや長門も日に焼けたりするのかなと思って姿を探すと、小柄な短髪無言娘はさっきの日陰にぺたんと座り込んだまま、怜悧な瞳を宙に固定させていた。

 いつもの姿だ。どこに行っても変わりなく、土偶のように静止している長門の姿である----のだが、

「うん?」

 不可解な風が俺の心を上滑りして消えた。また、あの妙な感じだ。何だか長門が退屈そうにしているような感覚が一瞬流れる。そして既視感。次に何が起こるのか、俺はどっかで経験した。そうだ、ハルヒがこんなことを言い出すのだ----。

「この二人があたしの団員よ。何でも言うことを聞くから、何でも言っちゃいなさい」

 目をプールに戻した俺は、女子児童の群れを引き連れて俺たちの足元までやってきたハルヒを発見した。

 元気溌剌な小学生たちの相手に疲れたのか、朝比奈さんは顎まで水面に付けて軽く目を閉じている。小学生以上に悩みなく絶好調なハルヒはキラキラ輝く瞳を俺と古泉に向けて、

「さあ、遊ぶわよ。水中サッカーをするの。男二人はキーパーやってちょうだい」

 それはどんなルールのどんなスポーツだ、と聞き返す前に俺の感じたデジャブは消え失せた。

「……ああ」

 おざなりに答えながら、俺たちは立ち上がる。古泉が微笑を振りまきつつ子供たちの輪に加わっている。

 さっきの違和感は、今はもうない。

 ふむ。ま、よくあることさ。日常のある一瞬を夢で見ていたような感覚なんてのはな。それにこのプールは俺も子供時代に来たことがある。その記憶が不意に浮上したのかもしれない。あるいは脳の情報伝達に小難しいプロセスの齟齬があったのかもしれん。

 俺は近くに浮いていたイルカ型の浮き輪を押し返しつつ、ハルヒがオーバーヘッドキックの要領で蹴り飛ばした、ビーチボールを追いかけた。

 

 ふんだんに遊び果たして、ようやく俺たちは市民プールを後にした。帰りも俺は曲芸三人乗り、古泉は青春タンデムである。こうやって人の心って荒むんだな。

 荷台に女座りする朝比奈さんは、もともと色白だったためか、顔の部分部分が上気した感じに赤くなっている。その片手がサドルに跨る運転手の腰に回されているのを見て、俺の心はますます荒みゆく。耳を傾ければびゅうびゅうという荒野を吹き抜ける空っ風のまく音さえ聞こえそうな気配だよ。

 ハルヒが気ままに示す方角に自転車を漕いでいたら、集合場所の駅前に舞い戻ることになった。

 ああ、そうだったな。俺は全員に奢らなければならないのだったな。

 喫茶店に落ち着いた俺は冷たいおしぼりを頭に載せて椅子にもたれ込んだ。すかさず、

「これからの活動計画を考えてみたんだけど、どうかしら」

 テーブルに一枚の紙切れが厳かに降臨し、俺たちに見ろとばかりに人差し指が突きつけられる。破いたノートのA4紙切れ。

「何の真似だ」

 俺の質問に、ハルヒは自慢たらしい表情で、

「残り少ない夏休みをどうやって過ごすかの予定表よ」

「誰の予定表だ」

「あたしたちの。SOS団サマースペシャルシリーズよ」

 ハルヒはお冷を飲み干して、おかわりを店員に要求してから、

「ふと気付いたのよ。夏休みはもうあと二週間しかないのよね。愕然たる気分になったわ。ヤバイ! やり残したことがたくさんあるような気がするのに、それだけしか時間が残っていないわけ。ここからは巻きでいくわよ」

 ハルヒの手書き計画書には、次のような日本語が書いてある。

 

○「夏休み中にしなきゃダメなこと」

 ・夏季合宿。

 ・プール。

 ・盆踊り。

 ・花火大会。

 ・バイト。

 ・天体観測。

 ・バッティング練習。

 ・昆虫採集。

 ・肝試し。

 ・その他。

 

 夏休み熱。

 たぶん、そんな熱病がどっかの密林からチョロチョロ出てきたんじゃないだろうか。蚊だか何だかを媒介にしてウツるんだきっと。ハルヒの血を吸ったその蚊に同情するね。食あたりで落下しているだろうからな。

 上記のうち、夏季合宿とプールには大きなバッテンマークが重なっていた。どうやら終了済みという印らしい。

 するとだ、あと以下これだけのメニューを二週間足らずでこなさないといけないわけか。しかも「その他」って何だ。まだ何かするというのか。

「何か思いついたらするけどね。今んところはこれくらいよ。あんたは何かしたいことある? みくるちゃんは?」

「えーと……」

 真面目に考え始める朝比奈さんに、俺は横目を使ってメッセージを送る。あまり突飛なことは言わないほうが……。

「あたしは金魚すくいがいいです」

「オッケー」

 ハルヒの持つボールペンがリストに新たな一項目を付け加えた。

 さらにハルヒは長門と古泉の要望も聞こうとしたが、長門は黙って首を振り、古泉も微笑みながら固辞した。正しい選択だな。

「ちょっと失礼」

 はやばやとアイスオーレを空にした古泉が、用紙をつまみ上げてしげしげ見つめ始めた。考えているような、何かを追い出そうとしているような風情だが、こんなイベント列挙に思い当たるフシでもあるのか。

 長門が音もなくソーダ水をストローで吸っているだけの光景がしばし続き、

「どうも」

 古泉はハルヒ称するところの計画表を卓上に戻して、かすかに首をひねった。何のつもりだ。

「明日から決行よ。明日もこの駅前に集まること! この近くで明日に盆踊りやってるとこってある? 花火大会でもいいけど」

 せめて調べてから決行してくれ。

「僕が調べておきましょう」

 古泉が買って出た。

「おって涼宮さんに連絡します。とりあえずは盆踊り。または花火大会の開催場所ですね」

「金魚すくいも忘れないでね、古泉くん。みくるちゃんのたっての希望なんだから」

「盆踊りと縁日がセットになっているところを探したほうがよいでしょうね」

「うん、おねがい。任せたわよ古泉くん」

 上機嫌にハルヒはコーヒーフロートのアイスを一口で飲み込み、宝島の在処を示す地図でも仕舞うような手つきでノートの紙を畳んだ。

 

 俺に支払いさせている間に、ハルヒは大会間近のジョガーのように走り去っていった。明日に備えてたぎる思いを溜め込んでおくつもりなのかもしれない。どうせ爆発するならじわじわじゃなくて一発ドカンといってもらいたいね。破片を回収する手間がはぶけていい。

 団員四人もそれぞれにばらけて解散し、ほどよく離れたところを見計らって俺は一人の背中を呼び止めた。

「長門」

 俺の声に、夏用セーラー服を着た有機ヒューマノイドが振り返る。

「…………」

 無言の無表情が俺を見つめ返す。拒絶することも受け入れることも知らない、無機の双眸が白い顔の上で開かれていた。

 変な感じに気になった。長門がノーエモーショナルなのはいつでもどこでもだが、具体的に指摘はできないものの今日の長門は何かおかしいものがあるように思ったのだ。

「いや……」

 呼び止めたのはいいが、よく考えたら言うべき言葉がないのに気付いて俺は少しばかり狼狽した。

「何でもないんだけどな。最近どうだ? 元気でやってるか?」

 なんてバカなことを訊いてるんだ俺は。

 長門はパチリと瞬きをして、分度器で測らないと解らないくらいのうなずきを返した。

「元気」

「そりゃよかった」

「そう」

 ほんの少ししか動かないほぼ凝固顔が、ことさらに固まっているような……いや逆か、変に緩んでいるような……。なんでそんな矛盾する意見が出てくるのか俺にも解らん。人間の認識力なんかそんなもんじゃないか? と言って逃げておこう。

 結局それきり言葉は続かず、俺は適当な別れの言葉を漏らすように言って、なぜか逃げるように長門から背を向けた。

 なんだか解らないが、そうしたほうがいいように思えたからだった。そして自転車に乗って家まで戻り、晩飯喰って風呂入ってテレビを観ているうちに寝た。

 

 翌朝、俺から惰眠を奪い去ったのはまたしてもハルヒからの電話である。

 盆踊り大会が見つかった。時間は今夜。場所は市内の市民運動場。

 だそうだ。

 よくもそうタイミングよく見つかったものだ。俺が感心半ばでいるとハルヒがまず言い出したのは、

「みんなで浴衣を買いに行くの」

 スケジュールの手始めはそうなっているらしい。

「ホントは七夕の時に着せたかったんだけどウッカリ忘れてたのよ。あの時のあたしはどうかしてたわ。日本に二ヶ月連続で浴衣着る風習があって大助かり」

 誰が助かったんだろう。

 ちなみに今はまだ真っ昼間である。夜に集まればいいのに早すぎるだろうと思っていたらそういうことだったらしい。昨日に引き続き、ハルヒは威勢良く、朝比奈さんはふわふわと、長門は無言で古泉はニヘラ笑いで、言わずと知れた駅前大集合である。

「みくるちゃんも有希も浴衣持ってないんだって。あたしも持ってない。この前商店街を通りかかったら下駄とセットで安いやつが売ってたわ。それにしましょう」

 朝比奈さんと長門の立ち姿を眺めつつ、俺は女連中の浴衣姿を夢想する。

 まあ、夏だしな。

 俺と古泉は普段着で行かせてもらうことになった。浴衣を着るのは旅館くらいで充分だ。男の浴衣姿なんか見ても楽しいもんじゃない。

「そうね。古泉くんなら似合いそうだけど、あんたはね」

 ふふんとハルヒは笑って俺の上から下までを見回し、

「さ、行きましょう」

 持参していた団扇を振り回しつつ号令をかけた。

「いざ、浴衣売り場に!」

 

 婦人物衣料の量販店に飛び込んだハルヒは、朝比奈さんと長門の分も勝手に選んでずかずか試着室へと向かった。

 長門以外の二人は着付けの仕方を知らなかったため、女の店員に着せてもらうことになったのだが、これがやけに時間がかかる。俺と古泉はただあてどもなく女物の洋服が立ち並ぶ棚の周囲をウロウロとしてようやくのこと、三人が鏡の前に出そろった。

 ハルヒは派手なハイビスカス柄で、朝比奈さんは色とりどりの金魚柄、長門はそっけなく地味な幾何学模様柄であった。それぞれの浴衣姿はそれぞれに趣があって、俺はなぜだか視線を向ける先に困った。

 女店員は「どっちがどの娘の彼氏なのかしら」と言いたげな表情で俺と古泉をちらりちらーりと眺めているが、おあいにく様と言っておきたい。古泉はともかく、俺は単なる付き添いさ。ここは残念だと思うべきところなのかね。

 まあ俺は朝比奈さん浴衣バージョンを拝見できるだけでもういいや。ハルヒも長門も似合ってて、それはそれで風情があったけどな。別に言葉に出して言うべきものでもないさ。

「みくるちゃん、あなた……」

 ハルヒは朝比奈さんを見て我がごとのように喜んでいるようだった。

「可愛いわ! さすがはあたしね。あたしのやることに目の狂いはないのよね! あなたの浴衣姿にこの世の九十五%の男はメロメロね!」

 残りの五%は何なのかと訊いてみた。

「この可愛さはガチなゲイの男には通用しないの。男が百人くらいいたら五人はゲイなのよ。よおく覚えておきなさい」

 覚える必要性があるとも思えない。

 朝比奈さんもまんざらではないらしく、フィッティングルームの鏡の前でくるりと回りながら自分の衣装を確認している。

「これがこの国の古典的な民族衣装なんですね。ちょっと胸が苦しいけど、でも素敵……」

 ハルヒ押しつけのコスチュームの中ではトップクラスにマシな代物だ。バニーほど露出しているわけでもなければメイドほど普遍性がないわけでもないから、この季節に限っては町中を歩いていても別段問題視される衣装でもない。夏の風物詩みたいなものだ。おまけに激似合ってるし。まるで俺の妹が浴衣着ているような雰囲気すら漂っていて、それにしては帯の上部分がアンバランスに膨らみすぎているが可愛ければ何でもアリだ。すべてを許してしまえる神々しさが朝比奈さんの体躯から放出されている。たとえ彼女が銀行強盗の主犯となったとしても、俺は弁護側の席に座るね。ハルヒだとどうかは解らないが。

 

 時間配分能力皆無のハルヒが早速と招集をかけたおかげで、盆踊り大会までえらく時間が余った。仕方なく駅前公園で暇つぶしのためにたむろして、その間にハルヒは朝比奈さんと長門の髪を結ってやっていた。人形のようにおとなしくベンチに座っている二人と、刻々と形を変える彼女たちの髪型は、そのまま連続写真で撮っておきたいくらいに絵になっていたことを申し添えつつ、夕暮れ時を迎えた俺たちは市民グラウンドへと隊列を組む。

 日没前なのにすでに賑わっている盆踊り会場には、どこからともなく市民たちが湧き溢れ蠢きあっていた。よくまあこれだけ集まるものだ。

「わあ」

 素直に感嘆しているのが朝比奈さんで、

「…………」

 どうやったって無反応なのが長門である。

 盆踊りで本当に踊っている奴をあんまり見たことがないのだが、今回もそうだった。しかし盆踊りね。なんだかすごく久しぶりに見るな----。

「ん?」

 まただ。デジャブっぽい感覚が偏頭痛のように登場した。ここに来るのは久しぶりのはずなのに、つい最近来たような気もする。グラウンド中央に組まれた櫓や、周囲に連なる縁日の出店の数々を見たことがあるようなないような……。

 しかし、千切れて空を舞う蜘蛛の糸をつかもうとしたように、そんな感覚もするりと消えた。

 ハルヒの声が聞こえる。

「みくるちゃん、あなたがやりたがっていた金魚すくいもあるわよ。じゃんじゃんすくいなさい。黒い出目金はプラス二百ポイントだからね」

 勝手なルールを決めて、ハルヒは朝比奈さんの手を引いて金魚すくいの水槽へとダッシュしていく。

「僕たちもやりましょうか。何匹すくえるか、一勝負いかがです?」

 ゲーム好き古泉が提案し、俺は首を振った。金魚なんか連れ帰っても入れる鉢がない。それよりも、そこかしこで食欲増進を後押しする芳香漂う屋台のほうに興味があるね。

「長門はどうだ? 何か喰うか?」

 笑わない目が俺を見つめ、ゆるやかに視線を移動。そこにあったのはお面売り場である。そんなもんに興味があるのか。こいつの趣味も解らないな。

「まあいいか。とりあえず一周してみようぜ」

 スピーカーが唸るように響かせているイージーリスニングみたいな祭囃子。それに誘われるように、俺は長門をお面の屋台へと連れて行くことにした。少しばかり古泉が邪魔だと感じつつ。

 

「大漁だったけど、たくさんもいらないって言うから一匹だけ貰ってきたわ。みくるちゃんは全然すくえなかったんだけどね。あたしの分をあげたの」

 朝比奈さんの指にぶら下がっている小さなビニール袋では、何の変哲もないオレンジ色の小魚が何も考えていないような顔で泳いでいた。紐をしっかり握りしめている朝比奈さんの仕草がいちいち可愛らしい。もう片手に握りしめているのはリンゴ飴で、俺は妹にも買って帰ってやろうかと考えた。たまには妹のご機嫌取りもいいだろう。

 一方ハルヒは、左手で水風船をポンポンさせながら右手にタコヤキのトレイを捧げ持ち、

「一個だけなら食べてもいいわよ」

 といって差し出してくる。俺がソースでベタベタのタコヤキを味わっていると、

「買った」

 長門はタコヤキから生えている爪楊枝をじっと見つめながら呟く。長門が頭に横掛けしているのは光の国出身の銀色宇宙人のものだ。何代目なのかは俺も知らないが、宇宙人だけに何か波長の重なるものがあったんだろ。浴衣の袂からガマ口を出して所望したのがそれだった。

 なんとなく長門には世話になっているような気がしたのでそれくらい買ってやってもよかったのだが、無言のうちに長門は拒絶して自分の金を出していた。そういや、こいつの収入事情はどうなっているんだろう。

 櫓の周りでは炭鉱節にあわせて浴衣婦人と子供たちがユラユラと踊っている。どこかの老人会と婦人会と子供会のメンツばかりのように見えた。単に遊びに来た奴は盆踊りで生真面目に躍るなんてことはしないだろうからな。もちろん、俺たちもしない。

 朝比奈さんは、どこか未開のジャングルに行って現地人から歓迎の踊りを披露されたような顔で踊る人間たちを見つめ、

「へぇー。はぁー」

 感心するような小声を出していた。未来には盆に踊る風習はないのかね?

 ハルヒを先頭とする俺たち一団は、それから縁日の冷やかしを専らとし、後はハルヒの「あれ食べよう」とか「これやってみましょう」と言う言葉にただ付き従う従僕となった。ハルヒはやたらに楽しそうで、朝比奈さんもそのようだったから俺も楽しいことではあった。長門が楽しがっているかどうかは俺には解らず、古泉が楽しかろうがどうだろうが知ったことではない。

 古泉は時折、妙に押し黙ったり、かと思えばやにわに微笑んだりして、こいつはこいつで最近情緒不安定なんじゃなかろうか。SOS団なんぞに入った人間は誰でもそうなってしまう運命なのかもしれないが。

 

 夏で、夏休みだった。

 

 浴衣姿の三人娘を眺める俺は、それだけですべてを許してしまえる気がしていた。

 だからハルヒが、

「花火しましょう花火。せっかくこんな恰好してるんだし、まとめて今日やっちゃいましょう」

 そう言い出したときも、ほとんど全面的に賛同したくらいだ。露店で売っていた子供向けのチャチな花火セットを購入した我々は、月と火星くらいしか見えない淀んだ夏の夜空の下を近くの河原へと移動を開始し、途中で百円ライターとインスタントカメラも買い求めた。水風船と団扇を振り回して歩くハルヒについていく。いつも以上にハルヒはハイになっているようだ。なぜか馬子にも衣装なんていう言葉が俺の脳裏を通り過ぎた。

 ハルヒの跳ねる後ろ髪を見ていると、浴衣姿での大股歩きを注意しようという気にもならない。丈夫で頑丈なのがハルヒの取り柄なのだ。

 それから一時間後、線香花火に目を丸くする朝比奈さんや、ドラゴン花火を両手に持って走り回るハルヒ、にょろにょろとのたくるヘビ玉をいつまでも見つめ続ける長門などなどの写真をカメラで撮りまくって、今日のSOS団的サマーイベントは終了した。

 川の水を浴びせかけた花火の残骸をコンビニ袋へ片付けている古泉を横目に、ハルヒは指で唇の端を押さえるようにしていたが、

「じゃあ、明日は昆虫採集ね」

 何が何でもリストに挙げた項目は消化するつもりらしい。

「ハルヒよ。遊ぶのもいいんだが、夏休みの宿題は終わってるのか?」

 まるっきり終わっていない俺が言うのも何だがな。ハルヒは一瞬ぽかんとした表情を浮かべて、

「なにあんた。あれくらいの宿題なんて、三日もあればぜんぶできるじゃん。あたしは七月に片づけちゃったわよ。いつもそうしてるの。あんな面倒なものは先にちゃっちゃと終わらせて、後顧の憂いなく遊び倒すのが夏休みの正しい楽しみ方」

 ハルヒにとっては真剣にその程度のものでしかないらしい。なんでこんな奴の頭がいいのか、人に対する天のパラメータ配分はずいぶん適当なんだな。

 ハルヒは俺たちをキッと睨みつつ、

「虫網と虫カゴ持って全員集合のこと。いいわね。そうね、全員で採った数を競うの。一番多く虫を捕まえた人は一日団長の権利を譲ってあげる」

 まったく欲しくない称号だな。それで、虫ならなんでもいいのか?

「うーんと……、セミ限定! そう、これはSOS団内セミ採り合戦なのよ。ルールは……種類はなんでもいいから、一匹でも多かった人の勝ち!」

 一人で言い出してやる気になっているハルヒは、団扇を捕虫網に見立てて虫を追うモーションをシャドープレイしている。網とカゴか。家の物置にあったかな。昔使ってたやつ。

 そうしてやっと自宅に帰り着いたとき、俺はリンゴ飴のテイクアウトを忘れていることに気付いた。

 

 翌日、雨でも降ればいいとテルテル坊主に五寸釘を刺していたのに、とんでもない日本晴れが到来し、この夏一番というくらいの気温にセミも大いに喜んでいるようだった。

「セミって食べられるのかしらね。てんぷらにしたら美味しいかも。あ。あたしタマに思うんだけど、ひょっとしたら衣が美味しいだけなんじゃない? だったらこのセミもそうかもよ」

 お前一人で喰ってろ。

 いい年した高校生が五人も集まって、それぞれ虫取り網とカゴ持参で歩いている図というのも異様だよ。

 昼前に集合した俺たちは、緑を求めて北高へ至るルートを踏破していた。なんせ我々の高校は山の中にあるので、無駄に木々が生えくさっており、森や林を根城とする昆虫たちの絶好の住処にもなっているのだ。俺の住む街はけっこうな都会だと思っていたのだが、そんなに悲観したものではなかった。

 木の幹にまるでセミのなる木みたいに、わんわん鳴く虫が溢れていた。入れ食い状態だ。わたわたこわごわ網を振り回す朝比奈さんでさえ収穫があったくらいだから、ここいらのセミは人間をこの世で最も警戒すべき動物だとは認識していないのかもしれない。今のうちに教えてやるべきだろう。

 そうやって捕獲しまくった俺は、虫カゴの中でじっとしているセミたちを眺めた。何年地中にいたのかは知らないが、ハルヒに油で揚げられるために成虫になったんじゃないよな。それでなくとも、俺は年々少なくなっているような気がする夏の虫の声にわびしいものと欺瞞的な罪悪感を覚えているんだ。すまないな、アスファルトなんか敷いちまってさ。人間の勝手さ加減を許して欲しいね。

 そんな俺のモノローグを感じ取ったわけではないだろうが、ハルヒもこう言った。

「やっぱキャッチアンドリリースの精神が必要よね。逃がしてあげたら将来、恩返しに来てくれるかもしれないし」

 俺は人間大のセミが家の扉をノックしている姿を思い描いてげんなりする。一方的に捕まえて逃がして、それで恩返しに来る奴がいたら、そいつはまさに虫なみの知能だ。どうせならリベンジに来るほうがまだいい。

 ハルヒは虫カゴのフタを開けると、前後に揺り動かした。

「ほら! 山に帰りなさい!」

 ジジジ----。何匹ものセミたちがカゴの中をアチコチぶつかりながら飛び出していく。朝比奈さんが可愛い悲鳴を漏らしてしゃがみ込み、その上で舞い踊り、棒立ちの長門の頭をかすめ、あるいは螺旋を描き、あるものは一直線に、夕焼けの空へと遠ざかっていく。

 俺もハルヒに倣った。湧き出るセミを見ているうちに、なんだか自分がヘルメスから与えられた箱をうっかり開けてしまったパンドラになったような気分になる。せめて最後に一匹を残しておこうかと考えたのは、すべてのセミが見えなくなるほど遠くに飛び去ってしまった後のことだ。

 またその次の日は、アルバイトが待ち受けていた。

 ハルヒがどこからか取り付けてきたアルバイトで、有り難くも俺たちに斡旋してくれたのである。その一日だけのアルバイト内容とは、

「い、いらっしゃいませー」

 朝比奈さんのギコチナイ声がくぐもって聞こえる。

「はぁい、みんな並んでくださぁい。あっあっ……押さないでえぇ」

 ハルヒがブローカーのように俺たちに押しつけたバイトは、地元スーパーマーケットの創業記念セールの集客業務だった。

 なんだか解らないうちに集められた俺たちは、なんだか解らないままに手渡された衣装を着込まされ、朝の十時からスーパーの店頭でデモンストレートなことをやらされていた。

 それも全員、着ぐるみの中に入ってだ。

 まったく意味が解らない。なんで俺までもがこんな恰好をしなくちゃならんのだ。コスチュームを取っ替え引っ替えするのは朝比奈さん担当じゃなかったのか……おい、古泉と長門。おまえらもクレームの一つくらい付けろよ。何を黙々と言いなりになってやがるのか。

「一列に並んでくださぁい。おねがいでーすっ」

 全身緑色の衣装を着込んだ朝比奈さんの舌足らずな声を聞きながら、俺はタラタラと汗をかいていた。

 俺たちの扮装はカエルである。それでもって、子供たちに風船を配る役どころである。このスーパーが毎年創業記念日にやっている特別イベントなんだそうだ。家族連れで来店したお客様への風船サービス。

 さすが子供、こんなどうでもいいオマケできゃいきゃい喜んでいる。おい、そこのアホ面幼児、これをくれてやるよ。赤い風船だ。ほらよ。

 アマガエルの朝比奈さんが特に人気者だ。ちなみに古泉はトノサマガエルで、俺はガマガエルだ。他に何かなかったのかと言いたい。アマゾンツノガエルの恰好をした長門がボンベを操作して風船を膨らまし、俺たち三人が配りまくり、ハルヒはと言うと一人だけ普段着姿のまま団扇片手に店内で涼んでいる。これで日当の配分が同じなんだとしたら暴動モノだぞ。

 聞いたところによるとこのスーパーの店主はハルヒの知り合いなんだそうだ。気軽に「おっちゃん」とか呼ばれて、そのおっちゃんはニコニコしていた。

 二時間ほどの労働で風船は品切れとなり、ハルヒを除く俺たちは倉庫らしき控え室で余計なガワをようやく脱げた。脱皮した直後のヘビの気持ちがよく解る一瞬だ。こんなホッとしたことは近年まれにみる。

 長門はひょうひょうとした表情で出てきたが、俺と朝比奈さんと古泉は全身汗みずくのうえ、這うようにしてカエルから脱出し、しばらく声も出なかった。

「ふえー」

 薄いタンクトップと短いキュロットスカートという恰好でうずくまる朝比奈さんをじっくり観察する体力も俺にはない。

「ごくろーさん」

 アイスを舐めながらハルヒが現れたときには、真剣、こいつどこかの熱い砂浜に首から下を埋めてやろうかと思ったほどだ。

 おまけにバイト代はアマガエルの衣装に化けちまった。平気な顔でハルヒがそう告白したところによると、最初からハルヒの狙いはこれだったようで、中身が抜けて薄っぺらくなった緑の化けガエルを小脇に抱え、一気に十万石くらいを加増された成り上がり武将みたいな顔をしている。俺たちに支払われるべき日当は、当然のように存在しない。

「いいじゃないの。あたしはずっとこれが欲しいと思っていたのよね。願いが叶ったわ。おっちゃんもみくるちゃんに免じてくれることにしたって言ってたわ。みくるちゃん、あなたには特別にあたしの手作り勲章をあげる。まだ作ってないけど、待っててね」

 朝比奈さんの持ち物に、また一つゴミが増えることになる。どうせ「くんしょう」と書いてある腕章か何かですますつもりに相違ない。

 だが、

「このカエル、記念に部室に飾っとくわ。みくるちゃん、いつでも好きなときにこれ着ていいわよ。あたしが許すわ!」

 そんなハルヒの顔を見ていれば、なぜか怒る気にもなれなかった。

 

 さすがにぐったりした。連日連夜、プールだの虫採りだの着ぐるみサウナなんぞをやっていたら、いくら健全かつ健康的な一高校生男子だって疲弊すると言うものだ。

 であるから、俺はこの夜、安らかな眠りをひたすら貪っていて、携帯電話が鳴るまでの平和を夢の中で実感していた。

 何がろくでもないと言って夜中の電話に起こされるほどムカっ腹の立つことはない。電話をするには非常識な時間であり、そんな常識を持っていないアホはハルヒくらいしか俺の周囲にはおらず、寝ぼけつつも怒鳴りつけてやろうとして携帯電話のボタンを押した俺の耳に届いたのは、

『……ぅぅ(しくしくしく)……ぅぅぅぅ(しくしく)』

 女の泣き声であった。素晴らしくゾっとした。一瞬で目が覚めた。これはヤバイ。聞いてはいけないものがかかってきた。

 携帯電話を放り投げようとした一秒前に、

『キョンくーん……』

 嗚咽にまみれてはいたが、紛れもなく朝比奈さんの声がそう言った。

 さっきと違う意味でゾクリときた。

「もしもし、朝比奈さん?」

 よもや、これは今生の別れの電話ではないだろうな。かぐや姫が月へと帰ろうとしているのではあるまいな。朝比奈さんにとって、「ここ」がかりそめの宿だということを俺は知っている。いつか、未来に帰るだろうということもだ。それがこの時なのか? 声だけのバイバイなんて、俺は認めたくないぞ。

 しかし電話の向こうにいるお方は、

『あたしです……あああ、とても良くないことが……ひくっ……うく……このままじゃ……あたし、ぅぅぅえ』

 全然意味が解らないことを、小学生みたいな滑舌の悪さで呻いていらっしゃるばかりで、さっぱり通じない。これはどうしたものかと途方に暮れていたら、

『やあ、どうも。古泉です』

 ほがらか野郎の声が取って代わった。

 なんだ? この二人はこんな時間に一緒にいるのか? なぜ俺はそこにいないんだ? どういうことか俺が納得し、かつ安心する回答を聞かない限り古泉、おまえの首は胴から離れる五秒前だ。

『ちょっとした事情がありましてね。それも、やっかいな。それもあって、朝比奈さんが僕に連絡してきたのですよ』

 俺より先にか。面白くない。

『あなたに相談しても仕方のないことですし……いや失敬。実は僕も何の役にも立てそうにないんですよ。緊急事態というやつです』

 俺はバリバリと頭をかいた。

「また、ハルヒが世界を終わらせるようなことを始めたのか」

『厳密に言えば違いますね。むしろ逆です。世界が決して終わらないような状態に、現在陥っているんです』

 はあ? まだ夢の中にいるのかね。何を言ってるんだ。

 俺の困惑をよそに、古泉が続けた。

『長門さんにも先ほど連絡しました。予想はしていましたが、彼女は知っていたようですね。詳しい事は長門さんに聞けば判明するでしょう。ということでですね、今から集合することは可能ですか? もちろん、涼宮さんは抜きで』

 可能か不可能かといわれれば可能に決まってる。シクシク泣いている朝比奈さんを放置する奴がいたとしたら、そいつは七回重ね斬りしてもお釣りが来るほどだろう。

「すぐ行く。どこだ?」

 古泉は場所を告げた。いつもの駅前。そこはSOS団御用達の集合場所だった。

 

 かくて、着替えた上に自宅の廊下を抜き足忍び足したあげく自転車に飛び乗って到着した俺を、三つの人影が出迎えてくれたわけである。人通りは皆無ではなく、学生風の連中がそこらでチラホラ見かけられる。おかげで俺たちも夏休みの夜に行き場をなくしたモラトリアム野郎どもに紛れ、怪しい集まりに心おきなく出席できるというものだ。さすがにまた眠くなってはいたが。

 駅前ではパステルカラー姿の朝比奈さんがうずくまっていて、その両脇にラフな恰好の古泉とセーラー服長門が門松みたいに立っている。朝比奈さんは、とにかくその辺りにあったものを着てきました。みたいな上下デタラメな服装だ。よほど慌てていたか時間がなかったんだろう。

 俺に気付いたか、背の高いほうが片手を上げて合図をよこした。

「いったい何なんだよ」

 外灯のぼやんとした光が、古泉の柔和な表情を照らしている。

「夜分に申し訳ありません。ですが、朝比奈さんがこの通りな事態ですので」

 しゃがみ込んだ朝比奈さんは、溶けかける雪だるまみたいにグズグズだった。泣きべそ顔が俺を見上げ、濡れきった瞳が露になる。これが、すべてを投げ出して力になってやりたいと思ってしまうような、魅惑の瞳なんだよな。

「ふええ、キョンくん、あたし……」

 鼻を啜り朝比奈さんは独白のように呟いた。

「未来に帰れなくなりましたぁ……」

 

「白状してしまいますと、つまりですね、こういうことです。我々は同じ時間を延々とループしているのです」

 そんな非現実的なことを明るく言われてもな。古泉は自分が何を言ってるのか、自分で解ってるのか?

「解っています。これ以上ないと言うくらいにね。さっき朝比奈さんと話し合ってみたんですけど」

 呼べよ、俺も。その話し合いに。

「その結果、ここ最近の時間の流れがおかしくなっていることに気付きました。これは朝比奈さんの功績と言ってもいいでしょう。おかげで僕にも確信が持てましたよ」

 何の確信だよ。

「我々は同じ時間を、もう何度も繰り返し経験しているということをです」

 それはさっき聞いた。

「正確に言えば八月十七日から、三十一日までの間ですね」

 古泉のセリフが、俺には虚ろに聞こえる。

「僕たちは終わりなき夏休みのまっただ中にいるわけですよ」

「確かに今は夏休みだが」

「決して終わらないエンドレスサマーです。この世界には秋どころか九月が来ない。八月以降の未来がないんですよ。朝比奈さんが未来に帰れないのも道理です。理にかなっていますね。未来との音信不通は、未来そのものがないからです。当然と言えます」

 物理的ノーフューチャーのどこが当然だ。時間なんか放っておいても着々と流れ続けるもんだろ。俺は朝比奈さんの頭頂部を見つめて言った。

「それを誰が信じるんだ?」

「せめてあなたには信じてもらいたいところです。涼宮さんに言うわけにもいきませんので」

 古泉も朝比奈さんを見下ろしている。

 一応、朝比奈さんは説明しようとしてくれた。時折しゃくり上げつつも、

「うー、ええと……、『禁則事項』でいつも未来との連絡したり『禁則事項』したりしてるんですけど……くすん。一週間くらい『禁則事項』がないなぁおかしいなぁって思っていたので。そしたら『禁則事項』……。あたしすごくビックリして慌てて『禁則事項』してみたんだけどぜんぜん『禁則事項』でー……うう。ひい。あたしどうしたら……」

 どうしたらいいのか、俺にも解りませんが。ひょっとしてその『禁則事項』とやらは放送禁止用語かなんかなのかな?

「俺たちはハルヒの作った変な世界に閉じこめられているのか? あの閉鎖空間の現実的バージョンとかさ」

 腕を組んで自販機にもたれている古泉は、ゆるやかに否定した。

「世界を再生させたわけではありません。涼宮さんは時間を切り取ったんです。八月十七日から三十一日の間だけをね。だから今のこの世界には、たった二週間しか時間がないのです。八月十七日から前の時間はなく、九月一日以後もない。永遠に九月が来ない世界なんです」

 失敗した口笛みたいな息を吐き、

「時間が八月三十一日の二十四時ジャストになった瞬間、一気にすべてがリセットされて、また十七日に戻って来るというプロセスですよ。よくは解りませんが、十七日の早朝あたりにセーブポイントがありそうですね」

 俺たちの……いや、全人類のと言うべきだな、その記憶はどうなってるんだ。

「それもすべてリセットです。それまでの二週間は無かったことになる。もう一度最初からやり直しとなるのです」

 よくよく時間をひねくり回すのが好きなようだな。未来人が混じっているんだから仕方がないような気もするとはいえ。

「いえ、この件に朝比奈さんは無関係ですよ。事態は、そのような些細な範疇に収まらないのです」

 なぜ解る。

「こんなことが出来るのは涼宮さんだけです。あなたには他に心当たりがあるんですか?」

 そんなもんに心当たりのある奴は妄想癖があるか妄想しかできない奴だ。

「俺にどうしろって言うんだ」

「それが解れば解決したも同然ですね」

 なぜか古泉は楽しげに見える。少なくとも困った顔はしていない。なぜだ?

「ここしばらく僕を悩ましていた違和感の元が明らかになったものでね」

 古泉は明かす。

「あなたもそうだったのでしょうが、市民プールの日から今まで、不定期に強烈な既視感がありました。今思えば、それは前回以前のループで経験した記憶の残滓----としか言いようがないですね----だったのだと解ります。リセットからこぼれ落ちた部分が、僕たちにそれを感じさせたのでしょう」

 ひょっとして全人類が感じているのか。

「それはないようです。僕やあなたは特殊な事例なんですよ。涼宮さんに近しい人間ほど、この異常を感じ取れることになっているようです」

「ハルヒはどうなんだ。あいつはちょっとでも自覚しているとか」

「まったくしていないようですね。してもらっては困るというのもありますが……」

 長門のほうへ流し目を送って古泉は宇宙人に尋ねた。さりげなく。

「それで、何回くらい僕たちは同じ二週間をリプレイしているのですか?」

 長門は平気な顔で答えた。

 

「今回が、一万五千四百九十八回目に該当する」

 

 思わずクラリときたね。

 いちまんごせんよんひゃくきゅうじゅうはちかい。平仮名で二十文字もかかる単語も15498と書けばまだ少なく思える。素晴らしきかなアラビア数字。誰か知らんがこれを考え出した人に感謝の祈りを捧げたい。あんたスゴイよ。そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい、途方もないヨタ話である。

「同じ二週間を一万何千回です。自分がそんなループに囚われていると自覚して、記憶もそのまま蓄積するのだとしたら、通常の人間の精神では持たないでしょう。涼宮さんは、たぶん我々以上に完璧な記憶抹消を受けていると思いますよ」

 こう言うときは一番の物知りに訊くに限る。俺は長門に確認してみた。

「これはマジな話なのか?」

「そう」

 こくりと長門。

 するとだ。明日に俺たちがやる予定になっていることも、すでに俺たちは過去においてやってしまっているのか。この前の盆踊りと金魚すくいも?

「必ずしもそうではない」

 長門は声にも表情はない。

「過去一万五千四百九十七回のシークエンスにおいて、涼宮ハルヒが取った行動がすべて一致しているわけではない」

 淡々と俺を見つめ続ける長門は、やはり淡々と言った。

「一万五千四百九十七回中、盆踊りに行かなかったシークエンスが二回ある。盆踊りに行ったが金魚すくいをしなかったパターンは四百三十七回が該当する。市民プールには今のところ毎回行っている。アルバイトをおこったのは九千二十五回であるが、アルバイトの内容は六つに分岐する。風船配り以外では、荷物運び、レジ打ち、ビラ配り、電話番、モデル撮影会があり、そのうち風船配りは六千十一回おこない、二種類以上が重複したパターンは三百六十回。順列組み合わせによる重複パターンは----」

「いや、もういい」

 エイリアン印の人造人間を黙らせて、俺は考え込んだ。

 俺たちは八月後半の二週間を一万五千ええいめんどくさい。15498回もやっている最中なのだという。八月三十一日でリセットされて、八月十七日からのやり直しだと。しかし俺にはそんな記憶はなく、長門にはあるようで----何でだ?

「長門さん、と言うよりも情報統合思念体が、時間も空間も超越している存在だからでしょう」

 古泉得意の薄笑いも、このときばかりは強ばって見えたのは光の加減かな。

 いや別にそれはいい。置いとこう。長門とその親玉がそれくらいしそうなのは解っている。俺が気になったのはそこではなくて、ってことはつまり……。

「すると長門。おまえはこの二週間を15498回もずっと体験してきたのか?」

「そう」

 何でもなさそうに長門はうなずいた。そう、ってお前、他に言うことはないのか。そんなもん俺だって言うことが思いつかん。が、

「ええとだな……」

 待てよな。15498回だぞ。それも、×二週間だ。のべ日数に直せば216972日、えーえー、約594年分だぞ。それだけの時間を、こいつは平然と過ごしてはまたやり直し、過ごしてはやり直し、っつうのをじっと眺めていたのか。いくらなんでも飽きるだろそれじゃあ。15498回も市民プールに行っていれば。

「お前……」

 言いかけて俺は口を閉ざす。長門が小鳥のように首を傾けて俺を見ている。

 プールサイドにいる長門を見て思った感覚が蘇った。退屈そうに見えたのは間違いではなかったのかもしれない。さすがの長門もうんざり気味だったのかもしれない。こいつは何も言わないが、人知れず舌打ちの一つでもしていたのかも----と考えて閃いた。現象はなんとなく解ったが、何でこうなったのかを未確認だ。

「何でハルヒはこんなことをやっているんだ?」

「推測ですが」

 とは古泉の前置き。

「涼宮さんは夏休みを終わらせたくないんでしょう。彼女の識閾下がそう思っているのですよ。だから終わらないわけです」

 そんな登校拒否児みたいな理由でか。

 古泉は缶コーヒーの縁を無意識のうちになぞっている。

「彼女は夏休みにやり残したことがあると感じているんでしょう。それをせずに新学期を迎えるわけにはいかない。それをしてからでないと心残りがある。そのモヤモヤを抱えながら八月三十一日の夜を迎えて眠りに就き……」

 目を覚ましたら綺麗さっぱり二週間分、時間を巻き戻しているってわけか。何というか、もう愛想も呆れも尽き果てるとはこのことだな。何でもする奴だとは知ってたけど、だんだん非常識レベルがランクアップしてるんじゃないか。

「いったい何をすれば、あいつは満足なんだ」

「さあ、それは僕には。長門さん解りますか?」

「解らない」

 あっさり言ってくれるなよ。この中で究極的に頼りになるのは、お前だけなんだぜ。そんな思いが俺の声となって表れた。

「どうして今まで黙っていたんだ? 俺たちがエンドレスな二週間ワルツをやってることをさ」

 数秒間の沈黙の後、長門は薄い唇を開いた。

「わたしの役割は観測だから」

「……なるほど」

 それは薄々解っていた。長門が積極的に俺たちの行動に関わってきたことは今のところない。結果的に関わっていることなら、ほとんどすべてが当てはまるかもしれないが、こいつがアプローチをしかけてきたのは、俺が長門のマンションに連れて行かれたあの一回だけと言えるだろう。その時以外の長門は、いつしか必要なポジションにいて、俺たちと行動を共にしているだけだ。

 忘れるわけにはいかない。長門有希は情報統合思念体に作られたヒューマノイドインターフェースなのである。ハルヒを観測対象とするために遣わされた有機生体アンドロイドなのだ。感情を出すことにセイフティがかかっているのは仕様なのかどうなのか。

「それはいいとして」

 それ以前に、俺にとっての長門有希は、本好きで無口でいろいろ頼りになる小柄な同級生の少女で仲間だ。

 SOS団メンバーの中で、最も博学で、しかも実行力も兼ね備えていると言えば長門なのだ。なので、またまたちょっと訊いてみることにした。

「俺たちがこのことに気付いたのは何回目だ」

 俺の思いつきのような質問を、長門は予想していたかのように答える。

「八千七百六十九回目。最近になるほど、発覚の確率は高まっている」

「既視感、違和感ありまくりでしたからね」

 納得する様子の古泉だった。

「しかし過去のシークエンスで、僕たちは陥った状況に気付きつつも、正しい時間の流れに復帰することはできなかったんですね」

「そう」と長門。

 だから、いま朝比奈さんも泣いているわけだ。気付いてしまったからこそだ。そして、また記憶や経験値や身体的成長を二週間分失って元に戻り……また気付いて泣くことになってしまう。

 俺はいったい何度思ったことだろう。春にハルヒに会ってから今まで、あいつが原因のメタクソイベントが発生するたび、俺は思ってきた。今もその時だ。

 なんてこった。

 この二週間で思うのも、これで8769回目なんだろうさ。

 まったくもって……。

 またアホな話を聞いてしまったな。

 

 その翌日は天体観測の番だった。

 実施場所は長門のマンションの屋上である。ごつい天体望遠鏡を古泉が持ってきて、三脚に備え付けていた。。午後八時をまわったところ。

 空も暗かったが、朝比奈さんも暗かった。心ここにあらずと言った面持ちでぼんやりしている。天体観測どころではないのだろう。俺の気持ちは複雑だ。

 古泉はすっかり開き直ったような微笑みを浮かべセッティングに余念がない。

「幼い頃の僕の趣味がこれだったんですよね。初めて木星の衛星を捉えたときは、けっこう感動しましたよ」

 長門は相変わらずの様子で、ただじっと屋上で立ちつくしている。

 俺が仰いだ夜空には、星なんて数えるほどしか出ていない。汚れた空気のせいで見えないのだ。こういうのを空がないと表現するべきなのかもな。大気の澄む冬になれば、オリオン座くらいは見えるだろうが。

 天体望遠鏡の矛先は、地球のお隣さんへと向いていた。覗き込んでいたハルヒが、

「いないのかしら」

「何がだ」

「火星人」

 あまりいて欲しくないな。ためしに俺はタコみたいなビッグアイズモンスターがニョロニョロしながら地球征服計画を立案している姿を想像してみた。お世辞にも楽しいとは言えない。

「どうしてよ。とっても友好的な連中かもしれないじゃないの。ほら、地表には誰もいないみたいだし、きっと地下の大空洞でひっそり暮らしている遠慮がちな人種なのよ。地球人をびっくりさせないようにしてくれてるんだわ」

 ハルヒ的イマジネーショナル火星人は地底人でもあるらしい。どっちか一種類にしてくれよ。ペルシダーかマーズアタックか。二つを組み合そうとするからややこしいことになるんだぜ。シンプルに考えろ、シンプルに。

「きっと最初の火星有人飛行船が着陸したときに、物陰から登場する手筈を整えているのね。ようこそ火星に! 隣の星の人、我々はあなたたちを歓迎します! とか言ってくれるに違いないわ」

 そっちのほうがよほどびっくりするだろうよ。不意打ちもいいところだ。最初に火星の大地を踏むのが誰かは知らないが、前もって教えてやっておいたほうがいいな。メールの宛先はNASAでいいのか?

 順番に望遠鏡で火星の模様を眺めたり、月のクレーターを観察しながらの時が流れた。不意に姿が見えなくなったなと思って探してみると、朝比奈さんは屋上の転落防止柵にもたれるようにして膝を抱えていた。首を斜めにして、目を閉じている。昨日はよく眠れたと言い難いだろうから、そのまま眠らせててあげよう。

 劇的な変化もない夜空に飽きたのか、ハルヒは、

「UFO見つけましょうよ。きっと地球は狙われているのよ。今も衛星軌道くらいに異星人の先遣隊が待機してるはずよ」

 楽しげに望遠鏡をぐるぐる回していたが、それにも飽きたのだろう。朝比奈さんの横に座り込んで、小さな肩によりかかってすうすう寝息を立て始めた。

 古泉が静かに言った。

「遊び疲れたんでしょう」

「俺たちより疲れているとは思い難いけどな」

 ハルヒはぐうすか眠っている。その寝顔は、イタズラ描きをしたくなるほどさまになっていた。と言っても寝ている顔が一番よいというわけじゃない。こいつは口さえ開かなければいいんだ。長門と意識が入れ替わるようなことがあえば最高かもしれない。あまりにリアクションのなさすぎるハルヒもどうかとは思うが、饒舌で感情豊かな長門というのも想像を絶するな。

 夜風にそよがれつつ、俺は二人並んで眠りこけているハルヒと朝比奈さんを眺めていた。こうしていればハルヒも朝比奈さんに引けを取らないな。こっちのほうがいいって奴もいるだろう。それは間違いない。

「何がしたいんだろうな、こいつは」

 溜息混じりの声が出た。

「友達みんなで仲良く楽しく遊んでいるとか、そういうのか?」

「おそらくは、そうでしょう。その友達とは僕たちのことになっていそうですが」

 古泉は夜空の向こうに視線を据えて、

「それでは、いったいどんな楽しいことをすべきなのでしょう。それが解らない限り、終わりもきません。涼宮さんが何を望んでいるのか、彼女自身も知らないその何かを解明し実行するまで、僕たちは何度も同じ二週間を繰り返し続けるというわけです。記憶がリセットされることを我々は感謝すべきなんでしょうね。でなければ、とっくに僕たちは精神に異常を来しているに違いないでしょうから」

 一万五千四百九十八回の繰り返し。

 ほんとか? 俺たちは、長門にかつがれているんじゃないのか? はっきり言って、にわかには信じがたいことであり、しかし、ハルヒならやりそうでもある。こいつの未だ知られざる謎のパワーは、どうやらハルヒも知らないうちに唐変木なことをやっているらしいからな。自らの意思で何かをしようと、無意識で何かをしでかしても、両方とも迷惑極まる女であることだ。

 そんなハルヒと律儀に行動を共にする俺たちは、どうも付き合いがよすぎるお人好し団体なんじゃないかと思うときもある。SOS団の気のいい面々。俺が世界の運命を左右する立場に組み入れられるとは、それこそ世界の正気を疑いたい気分だよ。

 それにだな、守るべき世界が絶対的に正しいなんていう思い込みは、人間それぞれの主義主張によっていとも簡単に捏造され大量生産されるようなアヤフヤなものでしかない。それが解っていないから、この世は自分勝手な理論のすり替えや押しつけに盲従する奴らばかりなんだ。千年後、後世の人々から自分たちがなんて評価されるのか、ちっとはそれを考えてみるべきだ。

 俺がそんなふうに出来るだけどうでもいいことを考えようと努めていると、古泉が不意打ちのように、

「涼宮さんの望みが何かは知りませんが、試しにこうしてみてはどうです? 背後から突然抱きしめて、耳元でアイラブユーとでも囁くんです」

「それを誰がするんだ」

「あなた以外の適役がいますかね」

「拒否権を発動するぜ。パス一だ」

「では、僕がやってみましょうか」

 このとき俺がどんな顔をしていたのか、自分では見るすべがなかった。鏡の持ち合わせがなかったからな。だが、古泉には見えたようで、

「ほんのライトなジョークですよ。僕では役者が不足しています。涼宮さんを余計に混乱させるだけでしょうね」

 と言って、喉の奥で笑う耳障りな音を立てた。

 俺は再び黙り込み、淀んだ夏の大気にもめげず、唯一と言ってもいいくらいに輝き続ける月を見上げる。

 吸い込まれそうなくらい暗い空に浮いた銀盤は明るく太陽の光を受け、それはまるで俺を誘っているかのようだった。どこへ? そんなもん、知るか。

 棒立ちで天空へ顔を向けている長門の後姿を見ながら、俺はそんなことを考えていた。

 

 夏はまだ続きそうだが夏休みはそろそろ終わりが近い。にも拘らず、終わるのかどうか知れたものでもないというのであるらしくもあって、勘弁してくれよ、マジで。

 また俺たちは八月十七日に舞い戻ることになるのかもしれない。何をすればハルヒは「やり残したこと」を見つけるのか。

 何を残しているんだよ。俺はすっかり夏休み中にすべき学校から出された課題をわんさと積み残しているが、ハルヒの心残りはこれではないらしい。なんせ奴はとうに宿題を終わらせている。

 この次、俺たちはどこに向かうのか。

「バッティングセンターに行きましょう」

 ハルヒは金属バットを持参していた。いつぞや野球部からガメてきたデコボコバットだ。ボールを前に飛ばすと言うより、撲殺目的にふさわしそうな中古のボロいやつ。まだ持ってたとはね。

 我等が団長は髪をなびかせ、とびっきりの笑顔を俺たちに万遍なく振りまきながら、俺たちを幹線沿いのバッティングセンターへと導いた。おおかた高校野球に何らかのインスパイアを受けた結果かと思われる。

 憂鬱は団員を順繰りに巡るのか、このたびは朝比奈さんがブルーもしくはブルーな面持ちである。それは俺にとっては少し残念さを感じさせることでもあった。やっぱり元いた所に帰りたいんだな。

 長門と古泉はほとんど普段の調子へと舞い戻り、能面とニコニコマークが俺の後ろをついて歩いている。まるで自分たちの役目はここにはないみたいな顔だ。少しは深刻になれ。

「ふう」

 俺は息を吐き、前方で飛び跳ねるハルヒの黒髪を視線に乗せた。

 こいつと出会ってから、SOS団の結成記念日から、ハルヒのお守りは俺の役目だとどこかの誰かが決めたらしい。誰だか解らないので恨み言を言うのは自粛しておいてやるが、それでも俺はこれだけは言いたい。

 過大評価してくれるなよ、俺はそんな大した一般市民じゃねえぞ。

 そんなモノローグも今は虚しさ炸裂だ。

 朝比奈さんは狼狽え中、古泉は笑っているだけで、長門は見ているだけ。

 俺がハルヒをどうにかしなければならない。

 しかし、何をどうやるんだ。

 その答えを持つ者はハルヒしかおらず、そんなハルヒは問題が何かを知らないのだ。

「みくるちゃんは振らなくていいから! そこでバントの練習よ。振っても当たるわけないしね。バットに球を当てて転がすのよ。あーっ、もう打ち上げちゃダメでしょ!」

 以前の草野球大会の出来事が尾を引いているようだった。来年も参加するつもりなのか、ひょっとして。

 ハルヒは時速百三十キロのケージを独占し、鋭いボールをばっこんばっこん打ち返している。とても気持ちがよさそうで見ているこっちまで気持ちよくなる。たいした奴だな、この女は。細胞に梱包しているミトコンドリア数が常人とは違うのかもしれん。このエネルギーはどこから来るんだろう。少しは世のために使えばいいのに。

 

 それ以降もハルヒの目指すノルマ消化態勢は誰にもポーズボタンを押させない勢いで、俺たちは動きずくめだった。

 本物の花火大会にも行った。浜辺でやる尺玉打ち上げ花火。三人娘は再び浴衣に衣替えして、どんどん打ち上がってはバンバン破砕する火炎の華を(ハルヒだけが)堪能し、まったく似ていないキャラ顔花火を指差して笑っていたりした。無駄に派手なことがハルヒは大好きなのだ。そういうときだけハルヒの笑顔には邪気の欠片もなく、年齢よりも幼い感じがして俺はひょいと目を逸らした。見つめていたら俺が変なことを考えてしまいそうであったからだが、まあ、その変なことなんてのが何かは俺にも解らない。衣装は偉大であるって事だけは学習できた気分だ。

 また別の日は県境の川でやっているハゼ釣り大会にも飛び入り参加させられた。ハゼはちっとも釣れず、見たことのない小さな魚がエサをついばむばかりで計量にも参加できなったが、ハルヒの楽しみは投げ竿を振り回すことにあったみたいなのでボウズでもぶーたれたりはしなかった。間違ってシーラカンスを釣り上げるよりはよっぽど有り難いことだと俺は安堵し、エサのゴカイを見るなり青くなって遠くに逃げた朝比奈さんの手作り幕の内弁当を心おきなく喰っていた。

 この頃になるとハルヒも俺も、どこかの子供かと思うくらい真っ黒に日焼けしていて、他の二人がきっちり紫外線対策しているのとは好対照だ。長門だけは放っておいても灼けそうにないし、小麦色の長門なんてのも想像の枠外な光景だからそれはそれでよかった。

 こんな呑気に遊んでいる場合ではないとは、俺自身解ってはいるんだが。

 

 敷かれたレールの上を疾走しているような日々は瞬く間に過ぎていく。

 ハルヒは元気いっぱい。俺は青色吐息。朝比奈さんのブルーは紺色へと化していて、古泉は諦観気味のヤケ微笑を広げ、変化なしなのは長門だけだった。

 思えばこの二週間でさまざまなことをやったものだった。

 そろそろタイムリミットが近付いている。今日は八月三十日。残る夏休みは明日しかない。今日明日中に何かをしないといけないらしいのだが、何をすればいいのかがさっぱり解らん。夏の日差しもツクツクホーシの鳴き声も、夏を構成するすべてが不安要素だった。高校野球もいつのまにか優勝校が決まってた。もうちょっとやってろよと思う。

 せめてハルヒの気がすむまではさ。

 

 ハルヒの握ったボールペンがすべての行動予定にバツマークをつけていた。

 昨夜、わざわざ丑三つ時を選んで広大な墓地まで出向き、ろうそく片手に彷徨するという肝試しが最後のレクリエーションだ。幽霊が挨拶しに出てくることもなかったし、人魂がふらふら散歩していることもなく、朝比奈さんが無益に脅えているところくらいしか見るべき所もなかったね。

「これで課題は一通り終わったわね」

 八月三十日正午過ぎ。お馴染み、駅前の喫茶店での出来事である。

 ハルヒは徳川埋蔵金の在処がボールペンで記されているコピー用紙を見るような目で、ノートの切れ端を見つめていた。納得しているようでもあり名残惜しげでもある。本来なら俺も名残惜しく感じるはずだ。夏休みは明日一日しか残っていない。本来ならば。

 終わりが本当に来るのか、今の俺は相当疑わしく思っている。疑い深くもなる。SOS団なんてアホ組織に何ヶ月もいて、情緒の崩れた団長に率いられていたりしたらさ。もうちょっと単純な性格をしていたらよかったよ。朝比奈さんがいるからそれでもいいやとか思えるような、そういう割り切り型の単純な……いやもう言うまい。過ぎたるは及ばざるがごとし(わざと誤用するのがコツだ)。

「うーん。こんなんでよかったかしら」

 ストローでコーラフロートのバニラアイスをつつき回しながらハルヒは煮え切らない様子だ。

「でも、うん。こんなもんよね。ねえ、他に何かしたいことある?」

 長門は答えずに紅茶に浮いたレモンの輪切りをじっと観察している。朝比奈さんは叱られた子犬のようにうなだれて両手を膝の上で握りしめていた。古泉は微笑みつつウインナーコーヒーのカップを口元に運んでいるだけである。

 ついでに俺も、何のセリフも思いつかずにむっつりと腕組みをして、どうするべきかと考えていた。

「まあいいわ。この夏はいっぱい色んな事ができたわよね。色んな所に行ったし、浴衣も着たし、セミもたくさん採れたしね」

 俺にはハルヒが自分に言い聞かせているようにも思える。そんなんじゃないんだ。まだ充分じゃない。ハルヒはこれでもう夏休みが終わっていいとは、心底思っているわけではない。いくら言葉で表明しようと、胸の内は隠せない。ハルヒの内面、奥の奥のそのまた奥底は、これでもまだ満足な納得を獲得できていないはずだ。

「じゃあ今日は」

 ハルヒは伝票を俺によこして、

「これで終了。明日は予備日に空けておいたけど、そのまま休みにしちゃっていいわ。また明後日、部室で会いましょう」

 席から腰を浮かせてハルヒはすっとテーブルを離れ、俺は理不尽な焦りを覚えた。

 このままハルヒを帰してはならない。それだと何も解決しないんだ。古泉が発見して長門が保証した繰り返される二週間、一万五千四百九十九回目がやってくる。

 だが、何をすべきなんだ。

 ハルヒの後姿がスローモーションで遠ざかる。

 その時だ。まったくの突然、唐突として忽然と----、

 アレが来た。

 何もかもがごたまぜになった「あれ、このシーン以前に……」だ。しかし今日のコレは桁違いの眩暈感を伴っていた。今までない強烈な既視感。知っている。今まで一万回もやっている繰り返しの出来事。八月三十日。あと一日。

 ハルヒのセリフにどこかにそれがあったはずだ。何だ何だ何だ。

「どうしたの?」

 誰かが喋っている。古泉の言葉にもあったはずだ。俺が気がかりであり、先延ばしにしようともしている……。

 ハルヒは席を立っている。いつぞやのようにとっとと帰るつもりだ。帰らせてはダメなんだ。それでは変化しない。今までの俺はどうやって変化させようとしていたのか。走馬燈としか思えないものがよぎる。前回までの俺たちがしたこと……。

 そして----しなかったこと。

 考えているヒマはない。何か言え。ダメもとで言っちまえ。

「俺の課題はまだ終わってねえ!」

 だからって何も叫ぶことはなかったかもしれない。後で冷静に考えると、また一つの俺の海馬組織から抹消したい記憶が刻まれた瞬間だった。周りの客も店員も、そして自動ドアの手前にいたハルヒさえも振り返り、俺に注目の視線を固定させている。

 言葉は勝手に出てきた。

「そうだ、宿題だ!」

 突然喚き始めた俺に、店内の全員が硬直していた。

「なに言ってんの?」

 ハルヒは明らかに変なヤツを見る目で近寄ってきた。

「あんたの課題? 宿題って?」

「俺は夏休みに出された宿題を何一つやっていない。それをしないと、俺の夏は終わらないんだ」

「バカ?」

 本当に馬鹿を見る目でいやがる。かまいやしない。

「おい古泉!」

「は、何でしょう」

 古泉もあっけに取られているようであった。

「お前は終わってるのか?」

「いいえ、バタバタしていましたからね。まだ半ばと言ったところでしょうか」

「じゃあ一緒にやろう。長門も来い、お前もまだだよな」

 長門が答える前に俺は、人形劇のパペットのように口を開けている朝比奈さんに手を差し伸べた。

「ついでだ。朝比奈さんも来て下さい。この夏の課題を全部終わらせるんです」

「え……」

 朝比奈さんは二年生なので俺たちの宿題とは関係ないが、そんなもんこそ今は関係ないのだ。

「で、でも、その、どこへ?」

「俺ん家でやりましょう。ノートも問題集も全部持ってきて、まとめてやっちまおう。長門と古泉、できてるとこまで俺に写させろ」

 古泉は首肯した。

「長門さんもそれでいいですか?」

「いい」

 半端なおかっぱ頭がこくりと動き、俺を見上げた。

「よし。じゃ明日だ。明日の朝からしよう。一日でどうにかしてやるぜ!」

 俺が拳を握りしめて気勢を上げていると、

「待ちなさいよ!」

 腰に手を当てたハルヒが、テーブルの横でふんぞり返っていた。

「勝手に決めるんじゃないわよ。団長はあたしなのよ。そう言うときは、まずあたしの意見をうかがいなさい! キョン、団員の独断専行は重大な規律違反なの!」

 そう言って、ハルヒは俺を睨みつけ、高らかに叫んだ。

「あたしも行くからねっ!」

 ----その日、その朝。

 どうやらアタリを引いたらしい。自室のベッドで目を覚ました俺は、目覚めていきなり自分が何とか事態を切り抜けたことを知った。

 なぜなら俺には思い出があったからだ。盆過ぎに田舎から帰ってきて、ハルヒ達とプール行ったりセミを採ったりした八月の記憶の数々。その記憶たちの中でも、とりわけ昨日の日付をまざまざと覚えているのが素晴らしいの一言につきる。

 昨日は八月三十一日、そして今日は九月一日だ。

 最新の記憶が教えてくれている。夏休みの最終日、俺のこの部屋でSOS団勉強会が開催された。とんでもなく疲れたことをよく覚えている。一日ですべてのノートを模写するだけでも重労働なのに、自分の頭で考えたりすればその疲労度どれほどのものになったか想像する気もない。昨夜の就寝時点で、俺の体力気力精神力ゲージは小パンチ一発でベッドに倒れ込む寸前の幅しか残っていなかったのは確かである。

 昨日、自分がやり終えた夏休みの宿題を山のように抱えてこの部屋に上がり込んだハルヒは、俺と古泉と長門と朝比奈さんがせっせとシャープペンを走らせるのを尻目に、ずっと俺の妹と遊んでいた。

「丸写しはダメだからね」

 部屋のテレビで妹とゲームをしているハルヒは、コントローラのボタンを連打しながら言ったものだった。

「文章表現を変えるとか、計算をちょっとヒネるとかしなさいよ。教師もバカな奴ばかりじゃないんだからね。特に数学の吉崎は陰険だから、そういうとこ細かく見てるわよ。あたしに言わせれば吉崎の解法は全然エレガントじゃないけど」

 五人プラス妹がひしめき合うには俺の部屋は少々手狭だったし、頼んでもいないのに母親がジュースだの昼飯だの甘菓子だのをひっきりなしに持ってくるもんで余計にうっとうしかったが、腱鞘炎になるかと思うほど手首を動かしまくる俺たちと違い、ハルヒは随分と楽しそうにしていた。余裕の笑みというやつだろう。とかく上にいる奴は下を見下ろしてはこんなふうに笑うものなのかもな。あまりの余裕ぶりか、ハルヒは上級生の朝比奈さんが四苦八苦している小論文にも口出ししていた。朝比奈さんのレポートが評価Cだったなら、それはハルヒのせいであろう……。

 そんな記憶を伴侶として、俺はベッドから起きあがった。

 今日から新学期が始まる。始まるらしい。

 二学期がこれほど待ち遠しかったことは、未だかつてない。

 体育館で校長の訓辞を聞き、短いホームルームを済ませての放課後である。現在の日付は九月一日で合っている。教室で「今日は何日だ?」と訊いた俺に、谷口と国木田が気の毒そうな目の色になっていたからにはそうなんだろう。

 購買も食堂も今日はまだ開いていないため、ハルヒは校門の外にある駄菓子屋まで買出しに出かけている。部室には俺と古泉だけがいた。

「涼宮さんは文武とも優秀なかたです。それは幼い頃からそうだったでしょう。ですから彼女は、夏休みの宿題などが負担だとはまったく思わなかったのですよ。ましてや、友人とともに分担作業をするものでもなかったのです。涼宮さんはそんなことをするまでもなく、一人で簡単に片づけられる能力があるわけですから」

 古泉の解説を聞きながら、俺は窓際にパイプ椅子を引き寄せて校庭を見下ろしていた。文芸部の部室でのことだ。始業式の今日、特にすることもなく帰宅してもよかったんだろうが、なんとなく俺はここに来て、同じく登場した古泉とここでこうしている。恐ろしく貴重なことに長門はいなかった。顔には表さなかったが、あいつもやっぱり疲れていたのかもしれない。

 近隣のセミ勢力図は、アブラゼミからツクツクホーシの版図増大へと転じかけている。夏休みは終わった。それは確かだ。しかし、

「嘘だったみたいな気がする。一万五千何回も八月後半をやっていたなんてのはな」

「そう感じるのも無理はありませんね」

 古泉は晴れやかに微笑んで、カードを切っていた。

「一万五千四百九十七回、それだけのシークエンスにいた僕たちと、今の僕たちは記憶を共有していません。過去それだけ分の僕たちは、この時間軸においては存在しない。一万五千四百九十八回目の僕たちだけが、正しい時間流に再び立ち戻ることができたわけですから」

 だがヒントは貰った。あの何度もの既視感、特に最後の俺の感じたアレは、以前に同じ立場にいた俺たちからの贈り物だったのかもしれない。以前というのもおかしいか? 以前も何も、時間は虎が溶けてバターになるほどのメリーゴーラウンド状になっていただけらしいからな。

 それでも俺は、今の俺があることを先に二週間を過ごしていたその俺たちのおかげだと思いたい。そうでも思ってやらなければハルヒに無かったことにされている彼らの夏がまるで無駄だったと言わんばかりじゃないか。

 特に自分たちがリセットされることに自覚のあった、八千七百六十九回分の俺たちがさ。

「ポーカーでもしますか?」

 古泉が新米マジシャンのような手つきで札を繰る。たまには付き合ってやるか。

「いいとも。だが何を賭ける? 金ならないぞ」

「ではノーレートで」

 そしてそんなときに限って、しなくてもいいのに俺はバカ勝ちした。ロイヤルストレートフラッシュなんて初めて見た。

 

 もう一度この日をやり直す機会があったなら、掛け金の設定を是非とも覚えておくことにしよう。