人騒がせな一本の電話が始まりの合図だった。
毎年のことだが過ぎるや否やあっという間に終息するクリスマスムードは今や余韻すらなく年明けへのカウントダウンが刻一刻と迫り来るものの、またハルヒが何かをやらかすつもりらしいハッピーニューイヤーにはそれなりの猶予がある冬休みのことである。
その時、俺は年内に終えておかなければならない自宅の大掃除をひたすら先送りしつつ、部屋でシャミセンと格闘しているところだった。
「暴れるな。じっとしてろ。すぐすむから」
「にゃる」
抗議声明を発するのも無視し、俺はすっかり冬毛に生え替わってふかふかしている小さな肉食獣を小脇に抱える。
いたく気に入っていたGジャンを無惨なボロ布に変えてくれて以来、人並みの物覚えを持つ俺はそれを教訓として定期的にシャミセンの爪を切ってやることにしているのだが、シャミセンのほうも猫並みの物覚えを持っているらしく、俺が爪切り片手ににじり寄ろうとすると素早く逃げ出そうとしやがる。
とっつかまえてからがまた一苦労で、殴る蹴る噛むなどの抵抗を企てる三毛猫を押さえつけ、ムリヤリ出させた手足の爪をすべて適度な長さに切り終える頃には俺の両手に無数の歯形が残されることになるのだが、肉体の傷とは違ってGジャンの刺繍は元に戻ってくれたりはしないので気分が晴れたりもしない。まったく、異様に聞き分けのよかったお喋り猫状態が懐かしい。あの時の素直なお前はどこに行ったんだ?
まあ、もう一度喋り出すようなことがあったら、それはそれでよくないことの前兆だろうから、猫は猫猫しく「にゃあ」とでも鳴いているのが筋にあっているとも言えるが。
俺がシャミセンの右手の爪切りを終え、今度は左手に移ろうとしていると、
「キョンくんー、電話ー」
部屋の扉を勝手に開き、妹がやって来た。片手にコードレスホンの子機を握りしめ、俺とシャミセンの人類と猫属の尊厳と威信をかけた抗争を見てニパッと笑う。
「あ、シャミ-。爪切ってもらってんの? あたしがする」
シャミセンは迷惑そうに目を逸らし、人間そっくりの鼻息を漏らした。一度だけ妹に任せてやったことがある。俺が両手足を押さえる係で妹が切る係という役割分担だったが、この小学五年生十一歳には遠慮とネイルカットのセンスがまるっきり欠けていたらしく、あまりの深爪にその後しばらくシャミセンがハンストを起こしたくらいだった。それに比べりゃ俺のほうが格段にマシだと思うのに、毎回暴れ倒すのはやはり猫の額の中身は猫程度といったところか。
「誰からだ?」
爪切りと引き替えに受話器を受け取る。それを見たシャミセンがここぞとばかりに身体をねじり、俺の膝を蹴って部屋から逃げ出していった。
妹は嬉しそうに爪切りを握りながら、
「えーとね、知らない男の人。でもキョンくんの友達だって」
それだけ言うとシャミセンを追って廊下に消えた。俺は電話に目を落とす。
さて誰だろう。男と言うからにはハルヒや朝比奈さんではないだろうし、古泉なら妹も知っているはずだ。谷口や国木田他の友人連中だって家のじゃなく携帯を鳴らす。くだらんアンケートやキャッチセールスなら承知せんぞ、と思いながら俺は保留ボタンを押した。
「もしもし」
『おお、キョンか。俺だ。久しぶりだな』
野太い声が第一声を放ち、俺は眉をひそめた。
誰だ、こいつ? お世辞にも聞き覚えがあるとは言えない声だが。
『俺だよ俺。中学んときに同じクラスだっただろう? もう忘れたのか。俺はこの半年、ずっとお前のことを思い出しては溜息をついていたのに』
何を薄気味悪いことを言いやがる。
「名を名乗れ。お前は誰だ?」
『中河だ。一年前までの同級生くらい覚えておいてくれてもいいじゃないか。別の高校に行った元クラスメイトなど記憶にも値しないか? ヒドいヤツだ』
本当に悲しんでいるような声である。だがな。
「そうじゃない」
俺は記憶の蓋を開けて中三時の自分史を瞬間的に回想した。中河ね。確かにそんなヤツもいた。えらくガタイのいい長身で、相応の肩幅もある体育会系の男だった。ラグビー部かなんかにいたような気がする。
しかし、と俺は電話を見つめ直した。
同じクラスになったのは三年の時だけで、しかもそんなに親しくしてはいなかった。なんとなく教室でも所属するグループが違うってやつだ。顔をあわせたら「おう」とか「やあ」とかはそりゃ言ってたが、毎日のように会話してたかどうかと言えば明確に否だった。卒業して以降、中河の顔も名前も思い出すことはさっぱりなかったな。
俺は床に落ちていたシャミセンの爪を拾い上げながら、
「中河か、中河ね。久しぶりっちゃあ久しぶりだな。よう、どうしてた? 確かどっかの男子校に行ったんだよな? で、何でまた俺に電話してきたんだ? 同窓会の幹事にでもなったのか」
『幹事なら市立に行った須藤だが、そんなことはどうでもいい。俺はお前に用があって電話したんだ。いいか? 俺は真剣なのだ』
いきなり電話してきといて何に真剣だと言うんだ。やにわにそんなこと一言われてもこっちには話が見えねえが。
『キョン、真面目に聞いてくれ。お前にしか言えないことがある。俺にとってお前が唯一の命綱なんだ』
大げさだな。まあいい。用件を聞かせてもらおうか。それほど仲良くもなく中学出てから疎遠だった元同級生に電話してくるはどの用事とやらを。
『愛しているんだ』
「…………」
『俺は本気だ。真面目に悩んでいる。ここ半年、寝ても覚めてもそればかり考えているのだ』
「…………」
『あまりの思いの大きさにほとんど何一つ手につかなかったくらいだ。いや、そうじゃない。何とか己に打ち勝とうと勉強にも部活にも打ち込んだ。おかげで成績も上がったし部活では一年目にしてレギュラーになれた』
「…………」
『それもこれも愛するがゆえなのだ。解るかキョン? この俺の煩悶する胸の内を。中学のクラス名簿をめくってお前んちの電話番号を探し、いざ電話しようとして何度躊躇したことか。今でも俺の身体は小刻みに震えている。愛だ。強大な愛の力によって俺はお前に電話をかけている。解ってくれ』
「いやあ、中河……」
俺は乾ききった唇を舐めた。一筋の冷や汗がこめかみをつたう。やべえぞ、こいつは。
「……すまないが、お前の愛とやらは俺には重すぎるな……。マジですまんとしか言いようがない。残念だがお前に応答する言葉を俺は持ってねえ」
背筋が凍るとはこのことだ。言っておくが俺は超完全にオーソドックスなヘテロタイプである。アッチ系の趣味はハチドリの体重ほどもない、というかあってたまるか。潜在的にも無意識的にも俺はノーマルなんだ。ほら、なんだ、そう! 朝比奈さんの顔と姿を思い浮かべて身体がぽかぽかしてくるしな。これが古泉だと殴りたいだけだ。つーこって俺はバイでもないってことだ。な? な?
誰に語りかけているのか解らないようなことを思い浮かべつつ、俺は受話器に向かって言った。
「というわけでだな、中河。お前との友情は継続してもいいが……」
もともと友情と呼べるほどのものもなかったと思うが。
「愛情のほうはどうしようもない。悪い。それじゃあな。お前はお前で通う男子校でよろしくやってくれ。俺は北高でノーマルライフを適当に楽しむ。久しぶりに声が開けて嬉しかったよ。同窓会で会ったら素知らぬ態度を貫き通すから安心しろ。誰にも言いやしない。そいじゃ……」
『待て、キョン』
中河はいぷかしげな声で、
『何言ってんだ。勘違いするな。俺はお前なんか愛しちゃいないぞ。何を勝手に思い違いをしてるんだ。気味の悪いヤツだな』
さっきの「愛してるんだ」ってのは何だよ。誰に向けた言葉だ。
『実は名前は解らない。北高の女子生徒であることは解っているんだが……』
こいつの言っている事情が俺にだってまだよく解らんが、しかし少しはホッとする。最前線の塹壕の中で休戦協定締結を知らされた下っ端兵士のような安堵感だ。男の知り合いからの告白なんてのがマジだったら、それは恐怖以外のなにものでもないね。俺のケースではな。
「もっと解るように話してくれ。誰を愛しちまったんだって?」
紛らわしいにもほどがある。もう少しで逃亡先のリストアップに入るところだった。
だいたいな、高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ、それこそ頭がイッちまっていると言うべきだろう。口に出すのも恥ずかしいね。愛だって?
『今年の春……五月頃だ』
と、中河は勝手に語り始めた。どことなく陶酔しているような口調である。
『その人はお前と一緒に歩いていた。目を閉じれば蘇る。ああ……その姿のなんと可憐で美麗なことだっただろう。それだけではない。俺はその人の背後に後光が差しているのが見えた。錯覚ではない。そう、それはまるで天国から地上に差し込む光のようだった……』
陶酔の声はなにやらケミカル系のドラッグでもやってんのかというような危ない響きを持ち始めていた。
『俺は圧倒された。今までの人生で感じたことのない感覚だった。まるで電流が走り抜けたように……いや! 特大の雷に打たれたかのように俺は立ちつくした。何時間もそうしていたらしい。らしいというのは時間の感覚がまったくなかったからだ。気がつけば夜になっていた。そして思ったのだ。これが愛なのだと』
「ちょっと待てよ」
アンドロメダ病原体患者の寝言みたいな中河のセリフを整理してみよう。それによると、五月に俺と誰かが連れ添って歩いていて、そいで中河はその誰かを見て愕然とした。誰かとは北高の女子で……って、そうすると候補は何人も挙がらないな。
今年の春に俺が街中を一緒に歩いていた女なんて、我ながら言うのも何だがそんなに多くない。北高限定なら妹も除外できるからSOS団女子三人のうち誰かに決まっている。
と、いうことは……。
『運命の出会いだった』
中河はますます酔いしれた声色で、
『いいかキョン。俺は一目惚れなどというオカルトみたいなもんを信じてはいなかった。自分ではバリバリの唯物主義者だったつもりだ。しかしそんな俺の蒙を啓いてあまりあることが発生したのだ。一目惚れはある。あるんだよ、キョン』
なんで俺がお前にそんな言い聞かせられるようなことを言われねばならんのだ。一目惚れだと? 外面に騙くらかされているだけじゃねえのか。
『いいや、違う』
いやにキッパリと断言しやがるな。
『俺は顔やボディラインなんかに騙されたりしない。あくまで重要なのは内面だ。俺は彼女の内面を一目で見抜いたのだ。一目で充分だった。あの強烈なインパクトは何にも代え難いものだった。言葉で言い表せないのが残念だ。とにかく俺は恋に落ちた。いや、墜ちた。今ではどこまでも墜ちていきたい気分だ……。解るか、キョン?』
それこそこっちが「いいや」だな。
「まあ、それはいいが」
俺はいつまでも続きそうな中河の譫言に終止符を打つことにした。
「お前が衝撃だか何だかを受けたのは五月のことなんだよな? ところで今はもう冬だ。とっくに半年以上が経ってるが、その間お前は何をしてたんだ?」
『ああ、キョン。それを言われると俺もツライのだ。この半年間は俺にとって苦行そのものだった。精神の休まるときがなかった。ずっと迷い続けていたのだ。いったい俺のどこに彼女にふさわしい部分があるのだろうかと、そればかりを考えていた。正直言うとな、キョン。彼女のそばにお前がいたことを思い出したのはごく最近なのだ。思い出したからこそこうして名簿を引っ張り出して電話をしているのだからな。それほど彼女は光り輝いていた。こんな思いをしたのは人生において他にない』
名前も知らない女をパッと見ただけでコロリといかれ、そのまま半年以上も一人でうなっているだけとは恐れ入るね。
俺は朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に顔を思い浮かべながら核心に触れることにした。実を言うとそろそろ電話を切りたく思っていたが、この中河の話しぶりではいくらガチャ切りしても何度でもリダイヤルしかねない勢いだ。
「お前が惚れたという女の人の風体を教えろ」
中河はしばらく押し黙ってから、
『髪は短かった』
思い出しつつ話すようにゆっくりと、
『眼鏡をかけていた』
ほう。
『北高のセーラー服がとてつもなく似合っていた』
ううむ。
『そして、光り輝くようなオーラをまとっていた』
それはよく解らない。しかし、
「長門か」
これは意外だった。てっきりハルヒか朝比奈さんのどちらかだろうと思っていたのに、よりによって長門とはな。さすが谷口が目をつけたAマイナーだけのことはある。俺なんか初対面時には無口で風変わりな部室のアンティークドールくらいにしか思っていなかったのに、さすが目ざといヤツはどこにでもいるようだ。今は違うぜ、俺の長門に対する印象はこの半年間で大きく様変わりしている。
『ナガトさんと言うのか』
中河の声は妙に弾んでいた。
『どんな字を書くのだ? ぜひフルネームを教えてくれ』
長門有希。戦艦長門の長門に、有機物の有、希望の希だ。そう言ってやると、
『……いい名前だ。雄大なイメージを思わせる長門型に、希みが有ると書いて有希か……。長門有希さん……。まさに思った通りの清澄で未来の可能性に満ちあふれた姓名だ。凡庸でもなく、かといって突飛すぎてもいない。俺のイメージ通りじゃないか』
どんなイメージだ。一目見ただけで構築した独りよがりな妄想だろう。そういや内面がどうしたとか言っていたが、一目惚れのどこに内面が関係するんだ。
『俺には解ったのだ』
いやに自信に満ちた断言である。
『これは妄想なんかじゃない。確信なんだ。外見や性格なんかどうでもいいんだ。知性であり理知なのだ。俺は彼女に見た。大いなる神のごとき理性をだ。あれほどハイブロウな女性に人生で二度と巡り会うことはないだろう』
あとでバイブロウを辞書で引こうと考えながら、俺の首のヒネリはまだ取れない。
「だから、どうしてパッと見でそんな高尚なことが解ったんだよ? 一言も口きいてないし遠目から見ただけなんだろ?」
『解ってしまったのだからしかたがないだろう!』
何で俺が叫ばれなきゃならん。
『俺は神に感謝している。それまで無宗教だった自分を恥じているほどだ。とりあえず近所の神社に毎週の参拝を欠かさないようにして、たまに教会で慨悔もしているぞ。それもカトリックとプロテスタントの両方だ』
それじゃかえって不信心者だぜ。拝めばいいというものではないんだ。信じる神は一柱にしておけ。
『それもそうだな』
中河は普通に答え、
『ありがとうキョン。おかげで決心がついた。俺が信じるのはただ一人の女神でいい。長門有希さんがまさにそれだ。彼女を俺の女神として、終生違わぬ愛の誓いを----』
「中河」
戯れ言がいつまでも続きそうだったので俺はヤツの言葉を遮断した。気味の悪さもさることながら、なんだか妙にイライラしてきたからである。
「だから何なんだ。お前が電話してきた理由は解ったさ。それで? そんな告白を俺に聞かせてどうしようってんだ」
『伝言を頼みたい』
と、中河。
『長門さんに俺の言葉を伝えて欲しいのだ。頼む。お前しか頼りにならない。彼女と並んで歩いていたお前だ。少しは彼女と親しいのだろう?』
親しいといえば親しいさ。同じSOS団の団員で今や仲良くハルヒの衛星群と化しているからな。それにこいつに見られた俺と長門の姿、五月で眼鏡で制服だって言ってたか。なるほどアレだ。第一回SOS団パトロールで俺と長門が図書館に行った時だろう。やたらと懐かしい思い出だが、あの時に比べたら今の俺は長門のことを百倍以上もよく知っている。知り過ぎちまったかと反省しているくらいだぜ。
若干のしみじみした気分を味わいながら、俺は中河に尋ねた。
「ところでお前、俺が長門と歩いてるのを思い出しといて----」
ちょっと言いにくいが、
「ええとだな、俺とあいつがただ親しいだけだとしか思わなかったのか? …たとえば、何だ、俺と長門が付き合っているとかさ」
『まったく思わん』
中河は躊躇の一片もなく、
『お前はもっと変な女が好きだったはずだ。中三の時の……何と言ったか忘れたが、あの奇妙な女とは続いていないのか?』
長門を指して変じゃないというのも違和感ありありだが、それよりこいつは何を勘違いしているんだ。そういや国木田も誤解しているようだったが、あいつとはただの友達で、よく考えたら中学を卒業して以来会ってない。しばらくぶりに思い出した。年賀状くらいは出しといたほうがいいかな……。
なぜか墓穴を掘ってる気分になってきたので、話を変えることにする。
「で、何て伝えるんだ? デートの誘いか? それとも長門の電話番号を教えたほうがいいか?」
『いや』
中河の返事は重々しい。
『現時点の俺は長門さんの前におめおめと顔を出せるほどの何者でもない。まったくもって不釣り合いだ。だから、』
一拍の間があって、
『待っていて欲しい…………と、伝えてくれ』
「何を待つって?」と俺。
『俺が迎えにいくのを、だ。いいか? 俺は現在のところ、何の社会性もない一介の高校生に過ぎない』
そうだろうとも。俺だってそうさ。
『それではダメなんだ。聞いてくれ、キョン。俺はこれから猛勉強を開始する。いや実際もうしているのだが、そうやって現役で国公立大のどこかに入る』
目標を高く持つのはいいことだ。
『志望は経済学部だ。そこでも俺は勉学に打ち込み、卒業時には第一席を獲得する。そして就職先だが、あえて国家公務員一種や超一流企業ではなく中堅どころの会社に職を得ようと思っている』
よくもまあそこまでリアルなのか絵空事なのか解らん青写真を描けるものだ。この会話を鬼が聞いていれば笑いすぎで腹膜炎を起こすかもしれない。
『だが俺はいつまでもプロレタリアートの地位に甘んじるわけではない。三年………いや二年であらゆるノウハウを吸収し、独立開業するつもりだ』
止めやしないので存分にやってくれ。もしそん時に俺が路頭に迷ってたら雇って欲しいね。
『そうやって自分の興した会社が軌道に乗るまで五年……いや三年で何とかする。その頃には東証二部に上場も果たし、年度ごとに最低十パーセントは利益を上げていく計画だ。それも粗利でだぞ』
だんだんついていけなくなってきた。しかし中河は調子よく、
『その頃には俺も一息つけるようになっているだろう。そこで、ようやく準備が整ったというわけなのだ』
「何の準備だ?」
『長門さんを迎えに行く準備が、だ』
俺は深海に住む二枚貝の仲間のように沈黙し、中河のセリフは大シケの波のように押し寄せる。
『高校を卒業するのに後二年、大学卒業までに四年、就職してからの修行期間が二年で開業から上場までが三年、合計して十一年だ。いや、キリのいいところで十年でいい。その十年間で俺は一人前となり----』
「アホかお前は」
と俺が言うのも解ってもらえると思う。どこのどいつが十年もおとなしく待っていたりする? おまけに会ったこともない男をだ。突然誰とも知らない野郎から十年でいいから俺の迎えを待っていてくれと言われて、そのままじっとしているヤツがいたらそいつは人間以外の何かだ。そしてもっと悪いことに長門は人間以外の何かなのである。
俺は小さく舌を打った。
『俺は本気だ』
マズいことに本気の声をしている。
『命をかけてもいい。真剣だ』
声に切れ味があるのだとしたら電線があちこち断線しているような声である。
どうやってごまかそう?
「あー、中河」
俺はひっそりと本を読んでいる長門の線の細い姿を思い浮かべながら、
「これは俺の私見だが、長門は裏ではけっこうモテる女だ。引き合いが多くて困るほどだぜ。お前の女を見る目がなかなかの慧眼なのは誉めてやってもいい。だが、十年も長門がフリーでいる可能性はほとんどゼロだ」
デマカセだけどな。十年後のことなんざ俺にだって解るものか。俺自身の進路だって不明確なのにさ。
「それにそんな重要なことなら長門に直接言えよ。気が進まんが、手引きしてやってもいい。ちょうど冬休みだし、一時間くらいならあいつも時間を空けてくれるだろうし」
『それはダメだ』
中河は不意に小声となって、
『今の俺ではダメなんだ。きっと長門さんの顔を見るなり卒倒してしまうだろう。実は最近も遠くから見たことはあるんだ。駅近くのスーパーマーケットで偶然な……。夕方だったんだが、その後ろ姿を一瞬捉えただけで、俺はそのまま閉店まで店内に立ちつくしていた。直接顔を合わすなんて……とんでもないことだ!』
いかん、中河は完全に脳が桃色になる病気にかかっている。将来設計まで完了する始末だから相当の重篤である。手の施しようがあればいいんだが、切った張ったの騒ぎに巻き込まれた日にはゴメンと謝って遁走するしか手だてがない。
しかもこんなアホなことを親しいとも言えない俺に電話してきて声高らかに叫び出すようなヤツだ、次に何を言い出すか解らんのが恐ろしい。そんなヤツはハルヒ一人でも手に余ってんのに、長門も罪作りなことをしてくれるよな。
やれやれ。俺は中河に聞かせるつもりで溜息をつき、
「いちおうは解ったよ。長門に何て伝えればいいのか、もう一度教えてくれ」
『ありがとう、キョン』
中河はいかにも感動したように、
『結婚式には必ずお前を呼ぶ。スピーチも頼む。それも一番手でだ。一生お前のことは忘れない。もしその気があるのなら、俺が将来立ち上げる会社で相応のポストを用意して迎えようじゃないか』
「いいから早く言え」
気が早いにもほどがある中河の声を聞きながら、俺は肩に受話器を引っかけて白紙のルーズリーフを探し始めた。
翌日の昼過ぎ、俺は北高へ至る坂道を黙々と上っていた。標高が上がるごとに吐く息の白さも際だち、しかし冬休みだってのに何で学校に向かっているのかというと、SOS団の全体ミーティングは定期的に開催されるからである。
ついでに今日は部室の大掃除も兼ねていた。メイドな朝比奈さんがまめに清掃しているとは言え、エントロピーは増大するという格言に従って部室には雑多なものがどんどん運び込まれては秩序を乱し、そんなカオスの元凶になっているものこそ、目についた物を何でもかっぱらってくるハルヒ、次々と新しいゲームボードを運び込む古泉、分厚い本を矢継ぎ早に読破してしまう長門、日々完璧なお茶くみ係になるべく精進を続ける朝比奈さん----なんと俺以外の全員だ。そりゃ放っておけば散らかり放題になるよ。そろそろ余計な備品を各自の自宅に持って返るよう提言する頃合いだろう。最低限、朝比奈さんのコスプレ衣装だけは何としても保全するとして。
「あー、うっとうしい」
足取りが軽やかであらざるのは言うまでもなく、ブレザーのポケットに余計な紙切れが入っているからだった。
中河の長門へ向けた愛の言葉を言われるがままに羅列した口述筆記。バカバカしくて何度シャーペンを放り出そうとしたことか。こんなこっ恥ずかしいことをてらいもなく言える男はベテランの結婚詐欺師にもいないだろう。何が十年待ってくれだ。コントか。
山颪に向かって歩くうち、お馴染みの校舎が見えてきた。
俺が部室棟に辿り着いたのは、ハルヒが設定した集合時間の一時間前だった。
最後に来た人間が全員に奢るというSOS団ルールを恐れてのことではない。適用されるのは学外での待ち合わせだからな。
昨日の電話の最後に中河は、
『書いた文章を渡すだけではダメだ、それではただの代筆だ。また読んでくれるかどうかも解らない。彼女の前でお前が読み上げてくれ、さっき俺が語ったのと同じ熱意を込めて……!』
などという無茶な要求をした。俺にはヤツの言うとおりにする謂われも純朴さもないが、あれだけ懇願されては元々が性善説の信奉者である俺のこと、ほんの少しだが情にほだされないわけでもない。それにはその場に長門以外の誰もいないというシチュエーションが必要だった。一時間も前に来たら、さすがに長門以外のメンツはまだ来ていないに違いなく、長門は間違いなくそこにいる。必要なときにそこにいなかったためしのない宇宙人製アンドロイド、それが俺の知っている長門有希であるから。
形ばかりのノックの後、沈黙が返答として返ってきたのを確認してから扉を開く。
「よっ」
不自然に軽快な挨拶だったかな? と自分にダメだししながら、もう一度、
「よう長門。いてくれると思ったぜ」
静謐な真冬の空気が部室を満たす中、長門は体温を感じさせない等身大フィギュアのようにひっそりと席につき、病名みたいなタイトルのハードカバーを広げて読んでいた。
「…………」
表情のない顔が俺を向き、片手がこめかみに触れるように上がって、またすぐに降りた。
まるで眼鏡を押さえるような仕草だったが今の長門は裸眼であり、眼鏡なしのほうがいいと言ったのは俺で実行し続けているのはこいつだ。今のは何だ? 半年前あたりのクセが蘇ったりでもしたのか。
「他の連中はまだか?」
「まだ」
長門は簡潔に答えると、再び二段組みにびっしりと書かれた改行の少ないページに視線を落とした。空白が多いと損だと感じるタイプなのかね。
俺はぎこちなく窓に近寄り、部室棟から見える中庭へ目をさまよわせた。休み中のこともあって校舎に人の気配はほとんどない。グラウンドで寒さ知らずの運動部員たちが元気にハッパをかけている声だけが、立て付けの悪い窓ガラス越しに聞こえてくる。
立ったままで目を長門へ滑らせた。いつもの長門だった。白皙の顔色も揺るぎのない表情も。
考えてみれば眼鏡っ娘枠が長らく空きっぱなしだ。そのうちハルヒが新たな眼鏡少女を連れてくる布石を打っちまったかもしれないな。
そんなどうということもないことを考えながら、俺はポケットをまさぐって折りたたんだルーズリーフを取り出した。
「長門、ちょっとばかり話がある」
「なに」
指先だけを動かして長門はべーシをめくり、俺は深く息を吸った。
「お前に惚れたとぬかす身の程知らずが現れたので、その言葉を俺が代理として告げることにしたいのだが、どうだろう。聞いてやってくれるか?」
ここで「いや」と言ってくれたら俺はすかさずルーズリーフを破り捨てる計画だったのだが、長門は無言で俺を見上げていた。氷の色をした瞳ではあるものの、俺を見るときに限っては雪解け水くらいに温まっているように感じるのは俺が都合よく解釈しているせいだろう。
「…………」
長門は唇を閉ざして俺を凝視する。まるで外科医が被験者の患部を観察しているような目つきだった。
「そう」
と呟くように言って瞬きもせずにじっと固まる。そのまま待っているようだったので、俺はしかたなく中河のセリフを書き留めた紙片を広げた。読み上げる。
「拝啓、長門有希さま。いても立ってもおられず、このような形で思いを告げる無礼をお許しください。実は私はあなたに一目会ったその日から----」
長門は俺を見つめたまま聞いていた。だんだんと変な気分になってきたのは俺のほうである。ほとんど目眩をともなうほどの中河作愛の言葉を吐いているうちに、バカバカしさがピークに至ろうとしていた。何やってんだ俺は。気は確かか?
中河の人生設計が終盤にさしかかり、ゆくゆくは郊外に一軒家を構えて二人の子供と一匹のウエストハイランドホワイトテリアとともに優雅なスローライフを満喫するという未来日記を読んでいる俺を、長門はただ黙然と眺めているのみだった。なんだか自分が途方もなくくだらんことをしているような実感が沸々と湧いて出る。
というか、くだらん。
俺は棒読みを停止した。これ以上、妄言を読み上げていては俺の精神がおかしくなる。どうやら中河とは永遠に分かり合えそうにないな。こんな脳みそが茹だりそうなセリフを出力するやつとは付き合いが成立しそうにない。中学時代にそれなり程度の仲だったのも道理だ。一目惚れに半年以上の潜伏期間、と思ったら突然のメッセンジャー依頼に、かくも狂った愛の告白ではね。うん、もうどうしようもねえ。
「まあ、そういうことなんだが、だいたい解ったか?」
対する長門は、
「わかった」
こくりとうなずいた。
マジで?
俺は長門を見つめて、長門は俺を見つめていた。
沈黙という熟語が羽を生やして俺たちの間を飛び回っているような静かな時間……。
「…………」
長門は首の角度をやや傾けて、しかしそれ以上のアクションを取ることなく、ただ俺をじっと見続けていた。ええと何だろう。次は俺が何か言う番なのか?
俺が懸命に語彙を探っていると、
「メッセージは受け取った」
俺から視線を逸らさずに、
「しかし応じることはできない」
例によっての淡々とした声で、
「わたしの自律行動が以降十年間の連続性を保ち得る保証はない」
そう言って唇を結んだ。表情は変わらない。視線も俺から外れない。
「いやぁ……」
先に根負けしたのは俺だった。首を振るふりをして吸い込まれそうな漆黒の瞳から目を解放する。
「そうだよな。普通に考えて十年は長すぎるよな……」
待機時間以前の問題だとは思うが、とりあえず俺はホッとしていた。この安堵感の出所は何かと考えてみるに、早い話が俺は長門が中河でも誰でもいい、他の男と陸まじげに歩いている姿など見たくはないのである。ハルヒ消失事件でのあの長門のイメージがちょっとばかり俺の頭に残存しているのも否定できないかな。中河はそんなに悪い男ではなく、むしろいいヤツの部類だったと思うが、それでも俺は俺の袖を柔らかい力で引っ張ったあの長門の不安そうな表情をまだ明確に記憶している。
「すまん長門」
俺はルーズリーフをくしゃくしゃに丸めながら、
「よくよく思えば、こんなもんを律儀にメモってきた俺が悪い。中河には電話の時点できっぱり断るべきだったよ。すっぱりと完膚無きまでに忘れてやってくれ。このアホには俺からきっちり言っておく。ストーカーになるようなヤツじゃないから、その点は安心してくれていい」
まあ、朝比奈さんに彼氏ができるようなことがあったら俺はそいつのストーカーになるかもしれんが……。
うむ? なるほど、そういうことか。
俺は自分の胸にあるモヤモヤの正体に思い当たった。
朝比奈さんにしろ長門にしろ、余計な男が俺たちの間に割り込んでくるのは率直に言ってムカが入る。気にくわない、というごく単純な理屈で、俺は安堵しているらしかった。我ながら解りやすい。
ハルヒ? ああ、あいつに関しては何も心配していない。ハルヒに言い寄るような男はそれだけでハルヒ的不合格者だし、もし天変地異でも起きてあいつに男ができるようなことになれば、宇宙人やら未来人やらを追い求めることもなくなって地球にも優しく、仕事も減って古泉もさぞかし楽になることだろう。
そして俺の巻き込まれ型な人生からもエキセントリックなパートが大いに削減されるに違いない。いつかはそうなるのかもしれないが、今この時じゃないのは確実だ。
俺は部室の窓を開けた。二人分の体温で温もりかけた部屋に指を切るような冷たい冬の大気が舞い込んできた。俺は大きく振りかぶり、丸めた紙切れを思いっきり遠投する。
ふわりと風に乗った紙製即席ボールは、急角度の放物線を描いて降下した。校舎と部室棟を繋ぐ渡り廊下、その横に広がる芝生に音もなく落っこちる。そのうちに風に吹かれて転がっていき、建物沿いにある溝にでもはまって枯葉とともに朽ちてボロボロになる未来を予測していたのだが----。
なんということだろうか。
「やべ」
ちょうど渡り廊下をこっちに歩いていた人影が進路を転換して芝生に降りてきた。そいつはチラリと俺のほうを見上げると、タバコのポイ捨てを咎めるような眼差しを作り、すたすたと歩いて投げ捨てたばかりの紙ボールを拾い上げた。
「おい、よせ! 見るな!」
俺の儚い抗議もむなしく、頼んでもいないゴミ拾い主は、しわくちゃのルーズリーフを広げて黙読を開始した。
「…………」
と、長門は黙々と俺を見続けている。
唐突だが、ここでシンキングタイムだ。
Q・1 その紙切れには何が書いてある?
A・1 長門への愛の告白である。
Q・2 誰の字で書いてある?
A・2 俺の字である。
Q・3 事情を知らない第三者がそれを読んだらどうなる?
A・3 誤解するかもしれない。
Q・4 ではハルヒがそれを読んだなら?
A・4 考えたくもないね。
そうやって涼宮ハルヒは数分間、ルーズリーフをためつすがめつしていたが、やがて顔を上向けて俺に強い視線をぶつけ、どういうつもりなのか、不気味にもニヤリと笑った。
……決定。今日は厄日になりそうだ。
十秒後、とんでもない勢いで部室に走り込んできたハルヒは俺の胸ぐらをつかみ上げると、
「何考えてんの? あんた、バカじゃないの? 今すぐ正気に戻してあげるから、そこの窓から飛び降りなさい!」
と、笑顔のままで叫んだ。ま、ちょっとは引きつったような笑みだったが、俺を開け放した窓へ引きずろうとする力はエネルギーに換算するとそれだけで今日一日の暖房分くらいの容量が込められていて、そのパワーは俺が大急ぎで状況説明をしようとセリフを考えている最中も翳ることがなかった。
「いや、だからこれはだな。俺の中学に中河という野郎がいて……」
「何よ、他人のせいにすんの? あんたが書いたんでしょ、これ」
ハルヒはぐいぐい俺を引き寄せ、十センチくらいの距離から並はずれて大きな瞳で睨みつけてくる。
「いいから放せ。まともに話もできねえだろうが」
そうやって俺とハルヒが揉み合っているところに、間が悪く第四の人影が登場した。
「うぁ」
朝比奈さんが目を皿のようにして扉の隙間に立っていた。上品に口を押さえ、
「……あの……。お取り込み中ですか? 出直したほうが、その、いいでしょうか……?」
取っ組み合ってはいますが別に取り込んでなどはいませんし、ハルヒと揉み合っていても何一つ楽しくはなく、どうせ同じ目に遭うならあなたがいい----ので、どうぞお入りください。朝比奈さんの入室を拒む権限など過去未来を通じて俺にあろうはずがなく、そのつもりもないのである。
だいたい長門が何事もないように座っているんだから、朝比奈さんも堂々と入って来てくれればいいのですよ。ついでに助けてくれたら御の字ですが。
俺がハルヒと格闘しながら朝比奈さんに微笑もうとしていると、
「おやおや」
最後にやってきた団員が朝比奈さんの横から顔を出した。
「早く来すぎてしまいましたかね?」
明朗快活な微笑を見せつつ前髪をかき上げ、
「朝比奈さん、どうやら僕たちはお邪魔虫のようですので、ここはいったん退散して、お二人のおそらく犬も喰わないようなやり取りが一時的収束を迎えてから再訪することにしましょう。自販機のコーヒーくらいなら奢らせてもらいますよ」
待て、古泉。これが痴話ゲンカに見えるようならお前は今すぐ眼科に直行しろ。それから、どさくさに紛れて朝比奈さんを誘うんじゃない。朝比奈さんも、おずおずとうなずいてる場合じゃありませんよ。
ハルヒはバカ力で俺のシャツを絞り上げ、俺はそのハルヒの手首を握りしめている。このままでは筋肉痛になりそうで、たまらず俺は叫んだ。
「おいこら、古泉! どこに行く、助けろ!」
「さあ、どうしましょうね」
古泉はここぞとばかりにすっとぼけ、朝比奈さんは驚いた子ウサギみたいに身を固まらせて目をパチクリしており、さりげなく古泉が腰に手を回してエスコートしようとしているのにも気づいていないようだった。
一方の長門はどうしているかと見ると、こちらはいかにも長門らしく我関せずとばかりに早々と読書に戻っていた。元はと言えばお前の話をしていてこうなっちまったんだから、少しはフォローの言葉を発してくれよ。
そしてハルヒはギリギリと俺を締め上げながら、
「あたしは情けないわ。こんな間抜けな手紙を書くようなバカが団員から出ちゃうなんて、もう! 引責辞任ものよ。裸足で履いた靴の中にゴキブリが巣を作ってたくらいの気持ち悪さだわ!」
そう叫びつつもハルヒの顔は不可解な笑みに強ばっていた。まるでこういう場合の表情の作り方を知らないかのようでもあったが、
「ここに来るまでに十三通りの罰ゲームを考えついちゃったわよ! 手始めにアジの干物をくわえて塀の上で近所の野良猫とナワバリ争いをさせてやるから! 猫耳付きでっ」
朝比奈さんがメイド衣装でそれをやるんだったら絵にもなるだろうが、俺がやっても都市伝説的な特殊救急車を呼ばれるだけだ。
「猫耳属性の持ち合わせはねえよ」
俺は開けっ放しの窓へ顔を向け、吐息を漏らした。
すまん、中河。何もかもネタばらししないと丸めた紙に続いて俺が窓からダイブするハメになりそうだ。俺としても本意ではないのだが、このハルヒの誤解を放置していたら自然界の機嫌までが悪くなる恐れがある。
俺は団長殿のつり上がった目を覗き込みながら、爪切りを拒否するシャミセンに言い聞かせる口調で言った。
「聞け。つーか、まず手をどけろ。ハルヒ、お前のトサカ頭にも解るように解説してやるからさ……」
十分後。
「ふうん」
と、ハルヒはパイプ椅子に胡座をかいてズルズルとホット緑茶をすすっていた。
「あんたも変な友達を持ったものね。一目惚れすんのは自由だけど、そこまで思いこむなんてよっぽどだわ。バッカみたい」
恋は人を盲目にも脳疾患にもさせるのさ。まあ、最後のフレーズには俺も異論はないが。
ハルヒはシワだらけになったルーズリーフを摘み上げ、ヒラヒラと振った。
「てっきり、あんたがアホの谷口と組んで有希をからかおうとしてんじゃないかと思ったわよ。あいつならやりかねないし、有希はおとなしいしさ、騙されやすそうだもん」
長門以上に騙されにくい存在など銀河レベルでもそうはいないように思ったが、俺は口には出さずに聞いていた。そんな自制している雰囲気を少しは感じたのか、ハルヒは俺をキツイ目で一瞥し、ふっと表情を緩めた。
「まあね。あんたはそんなことしないわよね。小細工をする知恵も機転もなさそうだもん」
誉めているのかクサしているのか解らんが、少なくとも俺はそんな理性の足りない小学生みたいなことはしないね。いくらあの谷口でも年相応の分別はあるだろうよ。
「でも……、」
と、口火を切ったのはSOS団が誇る小柄な妖精兼天使である。
「ちょっとステキですね」
朝比奈さんはどことなくウットリとした顔で、
「こんなに誰かに好きになってもらえたら、少し嬉しいかも……。十年かぁ。本当に待ち続けることができる人に会いたいですね。なんだかロマンチック……」
顔の前で指を組んで潤みがちな目をキラキラさせている。
朝比奈さんの言うロマンチックと俺が学んだロマンチックが同じ意味を持っているかどうか定かではないが、きっと別物のような気がするね。未来では言葉の意味も変容している可能性がある。船が浮力で浮いているのを言わなきゃ解らなかった人だからな。
ところで今日の朝比奈さんは普通にセーラー服をお召しである。メイドやらナースやらの衣装をまとめてクリーニングに出していたからで、アマガエルの着ぐるみもその中に入っている。俺とハルヒが朝比奈さんの香りが染みこんだ大量のコスプレ衣装を抱えて持っていったとき、クリーニング店のおっちゃんが不必要なまでにジロジロと俺とハルヒを交互に見ていたのが何となくトラウマだ。
「中河の実物はロマンチックとは縁遠い感じですけどね」
俺は湯飲みに残っていた冷めかけのお茶を一気に飲み干し、
「間違っても少女マンガの主役にはなれそうにないゴツゴツした動物系です。動物占い的には熊っすね。胸元に月の輪がありそうなヤツだ」
言いながら中学時代の印象でぴったりのキャッチコピーを思いついた。
「そう、気は優しくて力持ちみたいな」
それほど接点はなかったが、イメージ的にそんなんだ。とにかく身体の発育だけはよかった。朝比奈さんとは別の意味で。
これもヤツには謝っておかねばならないだろうが、中河の発した言葉を書き留めた俺の筆による恋文は止める間もなく----すまないがその気力を俺は失っていた----ハルヒが情感豊かにさっき読み上げてしまい、それを受けて朝比奈さんとは別の感想を述べたのが古泉だった。
「なかなかの名文だと思いますよ」
作り笑いめいた微笑も相変わらずに、
「何よりも具体的なのがいいですね。やや理想論めいていますが、それでいてきちんと現実を見据えている実直さも好感度高しです。突発的な一時の熱意に自失している感があるものの、迸る勢いが行間から立ち上っている様子も見て取れますし野心的でもあります。言葉通りの努力を続けていれば、きっと中河氏は将来ひとかどの人物になるのではないでしょうか」
安物の精神分析医みたいなことを言った。他人の人生だと思って、いい加減な予言をするんじゃねえぞ。責任を取る立場じゃないんだったら俺だって適当なことはいくらでも言える。お前はインチキ占い師か。
「ですが」
古泉は微笑みをくれる。
「このような文言を発するのもかなりの度胸ですが、書き留めるあなたも人間がよくできていますね。僕なら指が拒否するところです」
それは何か、婉曲な言い回しで俺を罵倒でもしているのか。俺はお前とは違って友達思いなんだよ。結果の分かり切っているキューピッド役を辛うじてパートタイムでやる程度にはな。
俺は肩をすくめ、それを古泉への返答としてから、
「長門の返事ならお前が来る前に聞いたさ」
ハルヒと古泉を等分に眺めつつ長門のコメントを代弁する。
「十年は長すぎるってさ。当然だろ? 俺だってそう思うぜ」
その時、それまで存分に寡黙さを発揮していた長門が、
「見せて」
細っこい指を差し伸べていた。
それを見て俺は意外に思う。ハルヒもそうだったようで、
「やっぱ、気になるの?」
ハルヒは不揃いな前髪を持つ唯一の文芸部員を覗き込むように、
「キョンの書いたやつだけど、記念にもらっておくといいわ。今時こんな回りくどいのか直接的なのか解らないようなコクりなんてそうそうないから」
「どうぞ」
ハルヒから渡されたシワシワのルーズリーフを、古泉は長門にバトンリレーする。
「…………」
長門は目を伏せるようにして俺の字を読んでいた。何度も。目が同じ場所を上下している。そうやって噛みしめるように黙読していたが、
「待つことはできない」
うんうん。そうだろうとも。
しかし、続く言葉として長門は、
「会ってみてもいい」
誰もが絶句するようなことを呟き、とりわけ俺が顎をガクリと垂らしていると追い討ちのように、
「気になる」
そう言って、俺をじっと見つめた。いつもの目の色で。
俺がちゃんと知っている、変わりのない手作りガラス工芸品みたいな正気の瞳で。
大掃除は大したこともなく単なる掃除で終わった。本棚に並んだ書籍の処分を提言したところ、イエスともノーとも言わない長門は黙ったまま俺を見つめることを続行し、その目の色がどことなく悲しそうに思えた俺はそれ以上何も言えなくなり、古泉のゲームコレクションの中でゴミ箱に居場所を移したのは、一回やったきりでそれも雑誌のオマケについてきた紙製のスゴロクだけだった。
朝比奈さんは元々私物を茶葉以外に持っておらず、ハルヒは自分が持ち寄ったあらゆる物体の破棄を「ダーメ」の一言で拒絶した。
「いいかしらキョン。何であれ使わずに捨てるなんてもったいないことをあたしはしないのよ。再利用できるものだったら何度も使って、最終的にどうしようもないくらい劣化でもしない限り、やっぱりあたしは捨てないの。それがエコロジーの精神よ」
将来、こういうヤツがゴミ屋敷を形成することになるんじゃないかね。エコのことを考えるならお前は生存活動以外の何もしないほうがいいと思うけどな。
ハルヒは長門と朝比奈さん、それから自分にも三角巾をかぶせてハタキと箒を配り歩き、俺と古泉にはバケツと雑巾を譲与して窓拭きを命じた。
「年内にここ来るのはこれで最後なんだから、ピッカピカにして帰るのよ。年明け、あたしたちが来たときに健やかな気分になれるようにね」
言われるままにガラス拭きを実行する俺と古泉である。その最中、部室を片づけてるんだかホコリを撒き散らしてんだか解らない三人組の北高少女を眺めつつ、俺の相方が囁き声で言った。
「ここだけの話、長門さんに接近したがっている『機関』以外の組織はいくらでもあります。今や彼女は涼宮さんやあなたと同じくらいの重要人物ですからね。特に他のTFEIたちの中でも長門さんはオンリーワンなポジションにいます。そうなったのは最近のことかもしれませんが」
窓枠に腰をかけ、体温を容易に奪い去る風に対抗して濡れた手に生暖かい息を吹きかける俺は無言でガラスに濡れ雑巾を這わせた。
何のことやら----。
とぼけるのは簡単だ。最近、俺は長門や朝比奈さんと一緒に、ここのハルヒと古泉があまり関わらない事件に遭遇したばかりであって、その結果として今があるからには完全無視を決め込むわけにはいかない。
「なんとかするさ」
俺は表面的には軽快に応えた。
今度のは俺が持ち込んだイザコザだ。俺自身で解決すりゃいい。
ガラスの内側を拭きながら、古泉は小さく笑い声を漏らしたようだった。
「ええ。今回ばかりはあなたに一任させてもらいますよ。僕は年末から年始にかけて行くSOS団雪山旅行の準備に大わらわですからね。加えて言わせてもらうと、あなたは涼宮さんと仲よくケンカすることでストレス発散できるのかもしれませんが、あいにくと僕にはその相手もいないのですよ」
どっちがトムキャットだ。
しかし古泉はハンサム面の唇をひん曲げて、
「僕だってそろそろ人畜無害な仮面を脱ぎ捨てて、いつの間にか固定されてしまったこのキャラ性を一新したくなる頃だと思いませんか? 同級生相手に丁寧口調を続けるのも、けっこう疲れるものなんです」
じゃあ止めればいい。お前のセリフ内容にまで俺は口出ししようとは思わん。
「そうもいきませんね。今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定でしょうから。彼女の精神に関しては僕はかなりの専門家なんです」
古泉はこれ見よがしに嘆息し、
「その点、朝比奈さんが羨ましくなりますよ。なにしろ彼女は自分を何一つ偽らなくてもいいのですから」
お前、いつぞや朝比奈さんの振る舞いはフリかもしれないみたいなことを言ってなかったか?
「おや。僕の言うことなどを信用するんですか? そこまであなたの信頼を勝ち取れたのだとしたら、苦労のかいがあったと言うものですが」
相変わらずのバックレぶりだ。信用ならん口ぶりも一年が終わろうとしているのに変化してない。長門すらけっこうな内面変化を遂げたというのにお前は相変わらずだな。朝比奈さんはあのままでいいさ。別の朝比奈さんと何度か出会っているもんだから、彼女が肉体的にも精神的にも向上してんのは最早既定事項だ。
「僕が何かしらの変化を見せるようなことがあれば」
古泉はせっせと手を動かしつつ、
「それはよくない兆候ですね。現状維持が僕の本分です。僕の真剣な姿など、あなたが見たくなるとも思えませんが」
ああ、見たくはないとも。お前はいつでもニカニカ笑いながらハルヒの金魚のフンとしてアフターフォローか前段階仕込みに明け暮れるのがお似合いだ。今度行く雪山の山荘での寸劇も期待させてもらっている。それで充分だろう?
「これ以上ないくらいの誉め言葉ですね。そう受け取っておきますよ」
本気なのか戯れ言なのかは知らないが、ともかく古泉はそのようなセリフを吐いて、窓ガラスに白い息を吹きかけた。
その夜のことだ。
ベッドの上でトグロを巻いているシャミセンの寝顔を見つめて優しい気分に浸っているうちに、この優しさの源は何に由来するのかと考えつつ、ついでに恋愛感情とスケベ心の相違点について考察を深めたあげく、これぞという結論が天啓のように閃いたその時、
「キョンくん、電話ー。昨日の人ー」
妹がまたしても電話の子機を持って部屋の扉を開いた。
クラシックな名曲をイージーリスニング化したメロディを奏でる受話器を俺に渡すと、妹はそのままベッドの脇に座り込んでシャミセンのヒゲを引っ張っている。
「シャミシャミ~、シャミの毛だらけでお母さんブツブツ~♪」
薄目を開けて妹を睨みながらも無視する態勢のシャミセンと、嬉しそうに唄って引っ張り続ける妹を見ながら俺は電話を耳に当てた。それまで俺は何を考えていたのだっけ?
「もしもーし」
『俺だ』
中学時代の同級生、中河はハヤる心の内を押し隠せない様子で、
『どうだった。長門さんの返答は? 聞かせてくれ。たとえどんな内容でも覚悟はできている。言ってくれ。キョン……!』
当落線上にある衆院選の立候補者がニュース速報をやきもきしながら聞いているような口調だった。
「残念ながら、かんばしい返答は得られなかった」
俺は妹に向かってしっしっと手を振りながら渋い声を演出した。
「待てやしねえってさ。十年後の未来なんざ想像もできない、保証しかねる----ってなことだった」
事実を伝えるだけだから俺の舌も滑らかに回る。ただ、会ってみてもいい……と呟いた長門の問題発言をどうしたものかと考えていると、
『そうか』
中河の声は意外にもサバサバしていた。
『そうだろうな。俺もそう簡単にオッケーされるとは思っていなかった』
俺が手を振り続けていると、キテレツな歌詞で歌い続ける妹は唸り声を上げるシャミセンを強引に抱き上げて部屋を出て行った。また自分の部屋で一緒に眠るつもりだろうが、一時間もしたらシャミセンは辟易した顔で再び俺の部屋に戻ってくることになるだろう。構い過ぎるとイヤがる性質は普遍的な猫の特性だ。
妹の退室を見て、俺は電話に問いかけた。
「お前、俺にあんな恥ずかしい文面を読ませといて言うことはそれだけか?」
あらかじめ返事を予想していたのだったら伝言なんか俺に依頼するなよ。
『物事には順序というものがある』
準備運動抜きで結婚の申し込みをしたヤツにそんな諭すように言われたくはない。先手の第一手目で王手をかけるようなルール無視ぶりだったろうがよ。
『まるで知りもしない相手から真実の愛を訴えかけられても困るだけというのは俺も承知している』
承知してるんなら初めから言うな。地雷があると解っていてそこに足を踏み入れるのは爆発物処理班を除けばマイナーな趣味の持ち主だけだ。
『だが長門さんはこれで俺に対し、少なからず興味を抱いてくれたはずだ』
計画的犯行だったとは少しは恐れ入ってもいい。長門に「気になる」なんてことを言わしめるような人間は確かに中河が最初だ。それだけあのメッセージに破壊力があったということだろう。なんせ恥ずかしさなら現時点での地球一を保証してやりたいくらいだからな。
『そこでだ。キョン、もう一つ頼みがある』
まだ何かあるのか。俺のボランティア精神は色々あってそろそろ底をつきかけようとしているのだが。
『俺が高校でアメフト部に入っているのは知っているか?』
初めて聞いた。
『そうか。実はそうなんだ。それで頼みというのは他でもない、今度俺の高校で他の男子校のアメフト部と対抗戦をするんだ。ぜひ長門さんと連れだって見に来てもらいたい。もちろん俺はスタメンで出る』
「いつだ」
『明日だ』
だからハルヒみたいなヤツは一人でいいと言っているだろう。どうしてもっと余裕のある日程を考えないんだ。
『長門さんが十年待てないというのだから仕方がない。かくなる上は、俺の勇姿を見せてグッときてもらうしかない』
なんちゅう短絡的なアイデアだ。それからこっちの都合も少しは考えろ。それでなくとも年末年始は色々あるんだ。
『何か不都合でもあるのか?』
俺に不都合はない。何の予定もなくポッカリ空いた一日だ。長門も空いているだろう。だから不都合なんじゃないか。このままではお前の勇姿とやらを見に行かねばならないハメになる。
『いいじゃないか。来てくれ。親善試合とは言え実質的な真剣勝負なんだ。明日の試合は隣町の男子校アメフト部と毎年やってる対抗戦なんだが、勝つと負けるとでは俺たち部員にとって平和に年が越せるかどうかレベルの違いがある。もし負けたら地獄の冬休みが待っているのだ。大晦日も正月もない練習三昧の毎日だ』
中河の声色はシリアスで、ある意味悲壮でもあったが俺にしてみりゃ他人事だ。俺は俺で年末年始にやらなければならない面倒なことが山積みなんだよ。雪山の山荘に行くまであとそう何日もない。
『キョン、お前の予定なんかどうでもいい。長門さんだ。頼むだけ頼んでくれ。彼女がイヤだと言うのなら俺もあきらめる。だが千分の一でも可能性があるのなら俺はそれに賭けたいのだ。自らアクションを起こさないとどんな夢でもかないはしないものだからな』
よっぽど嘘っぱちを言ってやろうかと思ったが、そこまで徹しきれないのが俺の弱いところだ。
「解ったよ」
俺はベッドに寝転がりながら気のない息を吐いた。
「長門にはこれから電話して訊いてみる」
予感があった。長門はノーと言わないだろう。
「お前の高校はどこにあったっけ? もし長門がオッケーたらそこまで連れて行ってやる」
別のヤツらもついてくるかもしれんが、まあそれはいいだろう。
『ありがとう、キョン。恩に着る』
嬉々として中河は自分の高校への道順を告げ、試合開始の時間を教えてくれてから、
『お前は縁結びの神だ。結婚式では司会を頼んでもいい。いや、最初の子供の名付け親になってく----』
「じゃあな」
冷たく言って俺は電話を切った。これ以上中河の言葉を聞いていたら脳に細長い虫が湧きそうだ。
俺は家電の子機を床に置くと、自分の携帯を手にして登録してある長門宅の番号を呼び出した。
そして翌日がやってきた。あっさりと。
「遅いわよ! 言い出しっべのくせして最後にやってくるなんて、やる気あんの? あんた」
ハルヒが笑顔で俺に人差し指を突きつけている。お馴染みの駅前、SOS団待ち合わせの場所である。他の三人、長門と古泉、朝比奈さんも俺を待っていた。
本来なら俺が連れて行くのは無口な有機アンドロイドだけでいいわけだが、だからと言って本当に二人きりで試合観戦に行くわけにもいくまい。のちのち団長に知れたらどんな罰ゲームが待っているのか想像するのも恐ろしい。だったら全員巻き込んじまえ----というわけで俺は長門の返答を聞いたのち三人に誘いの電話を入れた。全員が話に乗ってきたのは年末だってのにそれほどヒマだったか、それとも長門に一目惚れするような男に並々ならぬ興味があったからか。
なんせ真冬のことだから全員厚着で集合している。特筆すべきは朝比奈さんの格好で、真っ白なフェイクファーコートを着込んだ彼女はモコモコというかモサモサというか、まるで雪山を無邪気に跳ねる白ウサギのような愛らしさだった。一目惚れするんだったらどう考えてもこっちだ。
長門は制服の上に地味なダッフルコートをまとい、その上フードもかぶっていた。さすがの宇宙人モドキも地上の寒さはこたえるものと見えるが、
「…………」
自分への告白相手を見物に行くとは到底思えない無表情は変わりない。
「さ、行きましょ。どんな顔した男なのか、あたしけっこう楽しみだわ。アメフトの試合見るのも初めてだしさ」
ピクニック気分なのはハルヒだけでもないようで朝比奈さんもニコニコ、古泉はニヤニヤしている。そして俺は表情に乏しく、当の長門は表情皆無である。
「バスの路線図は調べておきました。その男子校まではここから時間にして三十分ほどですね。乗り口はこちらです」
古泉が旅行会社の添乗員のような口調で俺たちを先導し、俺はますます口数を少なくする。
楽しんでやがるな。こいつもハルヒも、ひょっとしたら朝比奈さんも。
歩きながら古泉はごく自然な動作で俺に歩み寄り、いわくありげに耳元で囁いた。
「それにしても、あなたもよくよく妙な友人をお持ちですね」
続く言葉を待っていたのだが、古泉は微笑を振りまきながら先導役に戻った。
中河が妙だって? そうかもしれない。長門を一目見たきりで遠雷に打たれたように感じる人間は一般性からほど遠いところで生きているヤツに違いはなかろう。
バスターミナルまで歩く間中、俺はずっと憮然としていた。
何か、気に入らん。
民営のバスに揺られること半時、降りたった停留所から数分のところにその男子校はあった。そして、とっくに試合は始まっていた。
俺の寝坊のせいでバスを二本ほど乗り逃してしまっていたから、到着したのは中河が言ってた試合開始時間の十五分後だ。
どうやら校舎内には入れないようで、敷地に沿って歩いてるとすぐに金網フェンスに囲まれたグラウンドに出くわし、アメフトの練習試合はそこでやってた。
「わあ、広い運動場ですね」
朝比奈さんが感嘆するのもうなずける。山を削って無理から作ったと思われる北高と違い、平地にあって金もありそうなこの私立男子校のグラウンドはやたらに面積が広かった。それも俺たちが立っている位置から一階程度低い場所にグラウンドは設置されており、ちょうど観戦には具合がいいような立地条件になっている。俺たち五人以外にも通りすがりみたいなおっさんとか、グルーピーみたいなどこかの女子生徒たちがダンゴになって私立男子校二つによる対抗戦を嬌声とともに眺めていた。
白と青のユニフォームとヘルメットがぶつかり合う音を聞きながら、俺たちは空いた空間に五人で並ぶ。
長門はまだ無言で無反応なままだった。
この時は、まだ----。
アメリカンフットボールのルールを俺はざっくばらんにしか知らない。いつだったか草野球大会をほぼ無努力で一勝したことに味をしめ、ハルヒが次に持ってきたチラシが草アメフトと草サッカーの大会参加届けである。結局どちらにも参加することはなかったのだが(いろいろ紆余曲折があった果てにな)、その時万が一に備えてアメフトのルールもちょいと調べてみた。簡単なようで奥が深く、とてもじゃないが俺たちがおいそれとできるスポーツではないということだけは解った。
実際、こうして眺めていてその推測は正解だったと実感する思いである。
攻撃側はラグビーボールとどう違うのかが解らないがとにかく楕円形のボールを一センチでも前進させようと投げたり手渡したり抱きしめてダッシュしたりしており、対する防御側はそのボールを一センチたりとも前進させないようにボールを持つヤツに猛然と襲いかかり、そうはさせじと攻撃側のオフェンスラインがブロックし、あちらこちらでガッチンガッチンとプロテクタがぶつかり合う音が発生していた。
まあ、確かにアメリカンな感じがするスポーツではある。
「へー」
ハルヒはフェンスにしがみつくようにして入り乱れる選手たちに視線を注いでいた。
「それで、中河くんってのはどれ?」
「ユニフォームに82って書いてあるヤツだ。白いほう」
昨日の電話で聞かされた通りの説明をする。タイトエンド、ってのが中河のポジションだった。オフェンスラインの端っこあたりにいて、ブロックとパスキャッチを兼ねるような役職である。中河はガタイの割にはやけに俊敏に動いており、なるほど、まさにうってつけと言える。
「あれ? 選手がそっくり入れ替わってるけど、どうして?」
「攻撃専用と防御専用の選手がいるんだよ。中河は攻撃専門」
「メットかぶってるから頭突きはアリなんでしょうけど、どこまでやっていいの? 立ち技オンリー? 総合格闘ルール?」
「どっちにせよ、そんなルールはない。頭突きもなしだ」
「ふうん?」
興味津々な瞳をグラウンドに向けているハルヒだった。北高にアメフト部はないが、もしあったらこいつはそこにも仮入部して部員たちを困らせていたに違いない。やたら迅速で周囲を無視した突破力に秀でているヤツだから役に立っていたかもしれないが。
「いかにも頭に血の上りそうな威勢のいいスポーツね。冬にやるにはピッタリかも」
ハルヒの感想を聞きながらこっそり長門のほうを窺ってみると、別に何を考えてもいなさそうな顔でぼんやりとボールの行方を追っていた。とりたてて中河を注目しているわけでもなく、ただひたすらにぼんやりしているように見えた。
俺たち五人は突っ立ったまま、しばらく男子校同士のつばぜり合いを観戦していたが、
「あの、お茶、どうですか?」
朝比奈さんがカバンから魔法瓶と紙コップを取り出して、
「寒いだろうと思って、あったかいのを用意してきました」
微笑む朝比奈さんはほとんど天使そのものだ。ありがたく頂戴しますよ。寒空の下でじっと試合観戦ってのも冷えるだけですし。
そうして俺たちは朝比奈さんが手ずから淹れてくれた妙な味のするお茶をすすりつつ、真冬だというのに熱っぽくぶつかり合うアメフト部員を眺めていた。
そんなこんなで漫然とプレイ進行を見ている間に第二クオーターが終了してハーフタイムとなった。中河たち白いユニフォームチームは俺たちから見てグラウンドの対岸に集合し、ヘッドコーチらしき体格のいいおっさんからしきりと怒号を喰らっている。遠目で顔はよくわからないが、こちらに背を向けている82番の背番号が一団の中で見え隠れしていた。
試合のほうは、どちらかと言えば地味な展開で進んでいるようだ。派手なロングパスが通ったりランニングバックが三十ヤード独走するということもなく、両チームともファーストダウンを取るのがやっとといった有様で、点数はフィールドゴールでポツポツと加点するに留まってタッチダウンによる得点は未だにゼロである。それだけ戦力が拮抗しているということでもあるだろうし、ディフェンスチームが互いにがんばっているということでもある。
ところで地味で退屈な展開が大嫌いな人間を俺は一人ほど知っており、その名を涼宮ハルヒという。
「なんか、あんまり面白くないわ」
その場で足踏みしながら、ハルヒは唇を尖らせる。吐く息が思いっきり白いのはハルヒだけでなく俺たち全員がそうだ。
「あいつらは動き回ってるからいいかもしれないけど」
ハルヒは両手で自分を抱きしめるようにして、
「じっとしてるあたしたちは寒いだけよ。近くに喫茶店はないの?」
ピクニック気分も木枯らしに吹かれてどこかに飛んでいってしまったらしい。朝比奈さんのお茶も野外では無限ではなく、すでにしてとっくに切れていた。それ以前に半分が愛情で構成されているであろう朝比奈印のお茶もあまりの寒さにあっという間に冷たくなってしまい、身体を暖める役にはあまり立たなかった。加えて今日は今年一番の寒波が押し寄せている。芯から凍えそうな冷気に歯を鳴らしているのはハルヒだけでなく俺や朝比奈さんもだ。平然としているのは暑さ寒さを年中ものともしない長門くらいのものさ。
「やっぱ、何であれ指くあえて見てるだけじゃ本質的な面白さなんて解んないのよ。あたしも混ぜてもらおうかしら。あのボールを投げる役くらいならあたしでも出来そうだわ」
ハルヒは体温を奪っていく風に目をすがめながら、
「それくらいしないとずっと寒いだけよ。キョン、何かいいもの持ってない? カイロとか、トウガラシとか」
そんなアイテムを持っていたら自分で使っている。どうしても身体を暖めたいなら学校の周りをマラソンで一周するか、おしくらまんじゅうでもすればいいだろ。経済的で、しかも健康的だ。
「ふんだ。いいわよ、カイロならここにちょうどいいのがあるしさ、しかも等身大の」
おもむろにハルヒは後ろから朝比奈さんに抱きついて、突けば折れそうな首に手を回した。
「わっわっ。何ですかあ」
と、もちろん朝比奈さんは狼狽する。
「みくるちゃん、あなた暖かいわねえ。ふわっふわっしてるし」
処女雪的白さのフェイクファーに顎を埋め、朝比奈さんのバックを取ったハルヒは小柄で部分的にふくよかな肉付きを誇る上級生を抱きしめ、
「しばらくこうしてましょ。ふふふ、キョン。羨ましい?」
当たり前だろう。どうせなら真正面から抱きしめ合いたいがな。
「ふうん?」
ハルヒはアヒル口を作ったのち、
「ど……」
言いかけて口を閉ざし、軽く息を吸い込んでから、
「それ、みくるちゃんと?」
ハルヒの小悪魔めいた表情と、その腕に抱擁されて白黒させている朝比奈さんの瞳を同じ時間だけ見比べて、俺は何と回答しようかと考えた。そうやって考え続けていると斜め後方から助け船が登場、
「何でしたら僕とおしくらまんじゅうでもしますか」
俺たちの会話に混じりたくでもなったのか、古泉が気色悪いことを気色の悪い笑みを浮かべながら言い出した。
「マラソンでも構いませんが、ここは男同士、気兼ねなく揉み合ったところで僕は別に気にしません」
俺が気にするわい。何度でも言っておくが俺にソッチの趣味はない。古泉はおとなしくアメフトの実況解説役をやってればいいのだ。今回のは俺と長門と中河の問題でお前はオマケ以下の存在だからな。ちなみに現状を見る限りハルヒと朝比奈さんはオマケそのものだが。
俺は横目を泳がせた。
「それはどうでもいいんだが……」
肝心のメイン、長門はいつもの調子で黙りこくり、ひたすら視線をグラウンドに落としたまま身じろぎもしない。中河の姿を目で追っているような雰囲気は感じたが、本当にヤツを見ているのかどうかも定かではない。
一方の中河もそうだった。オフェンスユニットとしてせわしなく動いているときも、ラインの外に出ている間も、まったくこちらに目を向けていない。せっかく長門を連れてきてやったのに気にならないのかね。ハーフタイムの今も円になった選手同士で何やら真剣っぽい気配のミーティングをやってやがる。それだけこの試合に賭ける情熱と勝利への渇望が何より勝っているということなのか。
それともワザとか? 中河の話が本当ならば、あいつは長門の姿を遠目に見ただけで忘我のあげく自失までしてしまうということだった。いくらなんでもそれは大げさだと思うが、もし言葉通りなら大事な試合の最中に立ちつくしちまうのはいかにもマズい。
「ま、いっか」
と俺は呟いて、短い襟足を風にそよがせている長門の後ろ頭を見つめた。
この試合が終わって、中河が学校から出てきたらそこで会わせてやればいい。このままつつがなく後半が終了し、その時に中河の学校が勝っていたらヤツも自由の身になるだろう。
昨日、長門は『会ってみてもいい』と言った。ならば会わせてやっても誰かが困ることもない。実を言うとあんまり気は乗らなかったが、だからといって他人の希望や要求を無下に握りつぶすほど俺は悪人ではないつもりだ。こうして聞く耳も二つほどちゃんと付いている。
の、だが。
残念ながらつつがなくとはいかなかった。試合再開を告げる笛が鳴り、第三クオーターが始まって五分と経たないうちに----。
中河は救急車で運ばれることになった。
ヤツの負傷退場の顛末を記しておこう。だいたいこんな具合だ。
後半の幕開けは相手チームのキックオフから始まった。リターナーが自陣二十ヤードまで進んだところで取り押さえられ、そこから中河チームの攻撃が開始される。
敵味方が揃って腰を落とす最前列、その端っこに中河もいた。センターの真後ろにいた白ユニフォームのクオーターバックが何やら暗号通信めいた掛け声を左右に発して、それはまさしく暗号通信だったらしく中河は一列目のラインからつつつっと横に移動した。その途端、ボールを受けたクオーターバックが二歩三歩とバックステップを踏み、敵チーム側のガードとタックル、ラインパッカーどもが野獣のような突進力で襲いかかる。
中河はいったんダッシュしてから素早くインに切れ込んでターン、捕球を待ち受ける構えだがこれはフェイクだったらしく、ボールを構えた司令塔が手首のスナップをきかせて投じた相手は、中河のさらに外側にいたワイドレシーバーだった。
「あっ」
声を上げたのはハルヒか朝比奈さんか。
ライフル弾のように回転しながら飛んでいくボールは、しかし予定通りの軌跡を描くことはできない。敵チームのラインバッカーが猛然とジャンプ、だがこれもインターセプトには至らない。かろうじて指先に触れるに留まってターンオーバーは回避、とは言え軌道の変更と減速を強制され、ふわーり、とボールは誰もが予想しなかった地点へと墜ちていく。
その時だった。
地蔵菩薩よりも動くことのなかった長門が手を動かすのを俺は見た。
「…………」
長門はかぶっていたフードの端に触れ、ちょいと押し下げて目線を隠す。だが隠しきれない部位、唇が小さく動いたのを俺の視界は見逃さなかった。
「--------」
確かに長門は何かを呟いた。短く。
それは目の隅での出来事だった。俺の目の焦点は目下のところグラウンドに合わされている。
「おっ」
俺は身を乗り出して目を見張った。
ボールの軌道がわずかに変化したような気がしたからであり、まさにその落下予測地点へ中河が素晴らしい瞬発力で走り込んでいたからだ。俺の視界の中心で中河は華麗に跳躍した。空中を漂っていたボールをしっかとキャッチ、やや体勢を崩したもののそのまま地面に着地----
とも、いかなかった。
中河のジャンプと同時に、中河のマンマークについていた相手ディフエンスのコーナーバックも素晴らしい跳躍を見せていた。狙いはただ一つ、連中が命の次くらいに重要視しているボールである。
その敵選手が幅跳び選手のように助走をつけて宙を飛んだのは、中河がボールをつかむと同時のことだ。空中ではいかなる方向転換もままならないのは羽の生えていない人間なら当然の始末で、結果その選手はジャンプの頂点にいてエネルギー量ゼロ状態、後は落ちるだけだった中河とまともに激突した。その衝撃がいかばかりであったかは、二人ともがその勢いのままに弾け飛んだことからも容易に想像できようというものだ。
敵のコーナーバックは九十度回転して背中からグラウンドに落っこち、そして無防備な体勢でいた中河は綺麗に縦の半回転をおこなって頭から落下した。
「ひえっ!?」
これは朝比奈さんの疑問形悲鳴。
俺も声を上げかけていた。明らかに中河は人間が地上にぶつかるにしては決してやってはいけないような落ち方をした。トゥームストーンパイルドライバーというか、犬神家のスケキヨというか、頭頂部からまともにだ。プロレスにはマットがあり犬神家なら沼がある。だが、中河の下には硬く素っ気のない茶色の地面があるのみだった。
聞きたくもなかったような、イヤ~ぁな音が映像にやや遅れて俺たちのもとにまで届けられる。
ゴガン!
よくてヘルメット、悪ければ頭蓋骨にヒビが入ったんじゃないかと思えるような鈍い音だった。
主審の吹く笛が鳴り渡って時計が止まる。中河の身体も止まったままだ。倒れ伏した中河はボールを親の形見かと思うくらい強く抱きかかえたポーズで停止していた。いや、もうピクリともしない。ちょっとシャレにならん気がしてきた。
「だいじょうぶかしら、あの人」
ハルヒがフェンスにかぶりつきとなって眉をひそめる。
「ひええ」
朝比奈さんはホラー映画のスプラッタシーンを見るようにハルヒの肩に半身を隠して、
「あ……担架が……」
怖々とした声で言った。
大勢のチームメイトたちに囲まれていた中河の仰臥姿が、大急ぎで運ばれてきた担架に乗せられてサイドラインの外に出る。それでもまだボールを抱きしめているのだから見上げた根性だ。これで中河のチームが奮起して敵チームに勝利しないとウソだと思えるくらいの名退場シーンである。
担架の上でメットを外された中河は、どうやら最悪の事態だけは免れたようだ。周囲の呼びかけに反応して目を開けているし、質問にうなずいたりしている。起きあがろうとしてまた崩れ落ちたりもしているが、少なくともちゃんと息はあるらしい。
「軽い脳震盪でしょう」
古泉が病状を説明する。
「さほど心配はないと思います。この手のスポーツではたまにあることですよ」
医者でもないのにこの遠距離からよく解るものだ。本当にその通りならいいが頭はけっこうヤバイ部分だぞ。そんな俺の懸念はチームの監督だか顧問教師とも共通だったらしく、まもなくして救急車のサイレンが近づいてきた。
「ついてないわね、あんたの友達」
ハルヒは慨嘆するように、
「有希にいいところを見せようとしてたのにケガじゃあね。はりきりすぎたのかしら」
同情しているらしい。こいつは本気で中河と長門がうまくいっちまえばいいと思っていたのか? ちょっと前までコンピュータ研への一時レンタルにも難色を示していたのに。
俺がそう言うとハルヒは、
「あたしはね、キョン。恋愛感情なんて病気の一種だと思ってるけど、人の恋路を面白がって邪魔するようなことはしないわよ。幸せの基準なんて人それぞれなんだもの」
中河に好かれて長門が幸せになるかどうかは解らないけどな。
「あたしから見て不幸のどん底にいるような人だって、その人自身が自分は幸せだって思っているのなら幸せなのよ」
俺は肩をすくめてハルヒの一言多い恋愛論を受け流した。申しわけないが朝比奈さんにろくでなしの恋人ができるようなことになって、いくら朝比奈さんが幸せそうにしていたとしても俺は心中穏やかでいられる自信がないね。真剣に恋路を邪魔する振る舞いに及ぶかもしれん。しかしそんな俺を誰が責められようか。
「お友達、平気だといいですね」
朝比奈さんはモコモココートの前で手を合わせ、真面目に祈念する表情である。決してツクリではない。かように誰にでもお優しいお人なのだ。朝比奈さんに祈られたら、たとえ全身打撲の複雑骨折だったとしても三十分で治る。だから中河も大丈夫だ。
やがて到着した救急隊員たちの手によって中河は救急車の中に運び込まれた。割れ物注意シールが貼ってある段ボール並みに慎重な扱われようで。
手際よく中河を搬入し、後部ドアを閉じるが早いかサイレンが復活して発車、目に痛い光を振りまきながら赤色回転灯が遠ざかっていく。
「…………」
普段より無口度が五割増しになっている今日の長門、黒曜の瞳が走り去る救急車を見る様は、あたかも肉眼で赤方偏移を確認しょうとしているかのようだった。
さて、どうする?
長門への中河プレゼンテーションは当事者の退場をもって中止を余儀なくされたわけだが、再開された練習試合を最後まで見届けるのも気が進まない。なにしろ寒すぎるうえに当初の目的が中絶されてしまったのだから俺たちがここに立っている理由は二次的なものに過ぎず、本来の一次的目標はそろそろ病院に到着した頃だろう。
「あたしたちも病院に行けばいいじゃん」
と言い出したのはハルヒである。
「当初の目標が病院行きなんだから、そこに行けば話は統くわよ。心配した有希がお見舞いに行くってシナリオね。あんたの友達も感激するわ。それに病院なら暖房も効いてるでしょ。どう、これ?」
さも素晴らしい思いつきのように言うのはいいが、俺はとうぶん病院の門をくぐりたいとは思わない。ハルヒと出会って以来、俺のトラウマは増すばかりである。
「あんた、友達が気にならないの? 言っとくけど、あんたが救急車で運ばれたときはあたしは心配してあげたわよ。あくまでそれなりにだけどねっ」
俺の腕をぐいぐい引っ張りながらハルヒはぶっきらぼうな口調で、
「みんなに迷惑かけたんだから」
俺を伴って歩き出したハルヒだったが、数歩進んで立ち止まる。
「ところで、あの救急車はどこの病院に行ったの?」
俺に聞かれても知らん。
「僕が調べますよ」
携帯電話をかざした古泉が微笑みつつ請け負った。
「しばしお待ちください。すぐにすみますので」
古泉は俺たちに背を向け、何歩かほど離れてからボタンをプッシュ、小声で囁いたり相手の声に耳を傾けていたりしたが、ものの一分強で携帯をしまった。笑顔を俺たちに向けて、
「搬送先が解りましたよ」
どこにかけたのか知らないが119番でないことは賭けてもいいな。
「僕たちがよく知っている病院です。道順を説明するまでもないでしょう」
怒涛のような予感が押し寄せ、シーツの白さとリンゴの赤が俺の目の奥で蘇る。古泉は俺に華やかな笑みをくれると、
「ええ、そうです。この前まであなたが入院していた総合病院ですよ」
お前の叔父の知り合いが理事をやってる、ということになっているあそこか。俺は古泉を睨みつける。偶然の仕業なんだろうな、それは。
「偶然です」
俺のワニ目にクスリ笑いを漏らしてから、
「いや、本当に。奇遇ですねえ。まったく、僕も驚いていますよ」
いまいち信用ならんからその笑顔も信頼性皆無だ。
「じゃ、その病院まで行きましょ。どっかでタクシー拾えない? 五人いるんだし、割り勘なら安くつくわ」
きっそく仕切り始めるハルヒだったが、
「涼宮さん。僕はそろそろ今度の雪山について打ち合わせをしたいと考えていましてね。お見舞いはこちらのお二人に任せて、朝比奈さんと僕とでその件について詰めておくのはいかがです? 明確な日程とか持っていく荷物とか、細部のツメがまだ未定ですから。細かなスケジュールもそろそろ最終案を出しておかないと」
古泉のセリフを聞いてたたらを踏んだ。
「え、そうなの?」
「そうです」
古泉は噛んで含めるように、
「大晦日はもうすぐそこですよ。年越しを雪の山荘で過ごそうという一大イベントです。本当なら今日はSOS団冬合宿のミーティングに当てたいくらいだったのですが、こうして予定外のことが入ってしまいましたからね」
悪かったな。
「いえ別に。その代わりと言っては何ですが長門さんはあなたにお任せしますよ。取り急ぎ病院に駆けつけてお二人で中河氏に対面を果たしてください。そこでの出来事もあなたの判断で、いかようにもどうぞ。僕と涼宮さんと朝比奈さんはいつもの喫茶店にいますから、その後で来てください……ということでどうでしょう、涼宮さん」
んー、とハルヒは唇をウネくらせていたが、
「ううん、そうねえ。あたしが病院行ってもしょうがないのは確かよね。キョンの友達が興味あるのは有希だけなんだもんね」
少し拗ねたような顔をする。
「いいわ、キョン。有希と一緒に友達を見舞ってあげなさい。あんなラブレターをよこすヤツだもの、有希を見れば五秒で元気ハツラツになるわ」
そこでハルヒは俺に指を突きつけ、
「でもね! ちゃんと後で全部スッキリ報告するのよ! いいわね!?」
怒り笑いのような表情で言った。
つうこって、集合地点にバスで戻ってきた俺たちはここで二派に分かれることになった。俺と長門はバスを乗り継いで私立の総合病院へ、ハルヒ以下の三人は近くの喫茶店に常連客をやりに。
長門がまったく振り向かないので俺が一念発起して振り向いてやると、ハルヒたち三人も同じように振り返ってて、ジェスチャークイズのような真似をしながら歩き去っていった。何のボディランゲージなんだといぶかしく思うのも早々に、俺は冷たい雰囲気をダッフルコートにまとわりつかせた道連れに顔を向けた。
さてさて----。
簡単に言おう。気になることが磯辺のフジツボ並みに俺の心臓に付着している。長門に一目惚れした中河がここぞと言うときに都合よく負傷したりするのも気がかりだが、古泉が待ち合わせ場所で言った「あなたもよくよく妙な友人を……」の『よくよく』の部分がさらに気にかかる。俺は変態的な特質を持つ友人に心当たりはあまりない。強いて言えば古泉くらいしか該当しない。いったいヤツは中河の何を指して『妙』などと表現したのか。
それにプラスして長門が呟いた謎の呪文。中河の事故が起こったのはその直後で、どれだけ鈍い頭脳の所有者でも、いままでのパターンさえ記憶していれば何かあると思うのは当然の流れだろう。そう、俺がリリーフエースをやって三者連続三振を記録できる程度には長門は芸達者なのだ。
「…………」
長門はフードの奥に顔を引っ込めて語ることはないが、その答えはすぐに明らかになる。
受付で事務員に尋ねたところ、中河はすでに治療と検査を終えて病室に移動しているとのことだった。大事には至ってないが検査入院ってことになったらしい。俺は背後霊のようについてくる長門を伴い、教えられた病室へと通路を進んだ。
さすがに病室まではカブっておらず、中河がいたのは六人部屋である。
「中河、元気か」
「おお、キョン」
水色の病院服を着てベッドに横たわる元同級生がいた。見たとこどうもないようで、中河はスポーツ刈りの頭もそのままに昼寝から覚めたパンダのように身体を起こし、
「ちょうどよかった。さっき検査が終わったところなんだ。様子見で一泊することになった。落ちたときは頸をやっちまったかと吐き気がしたが軽い脳震盪ですんだとも。コーチには電話を入れて明日には退院できそうだからわざわざ来ることもないと----」
喋っているうちに俺の背後霊に気づいたようだ。極限まで目を見開いて、
「そちらの方は……ま、まさか……」
まさかも何もない。
「長門だよ。長門有希。喜ぶだろうと思って連れてきた」
「おおおっ………」
中河は屈強な体躯をベッド上で弾ませ、いきなり正座した。元気そうで何よりだ。このぶんでは頭の中も無事だろう。
「中河ですっ!」
怒号のような自己紹介だった。
「中原中也の中に黄河の河で中河です! 以後お見知りおきを!」
将軍に初めて目通りした外様大名みたいな平伏ぶりである。
「長門有希」
笑わない声が淡々と名前を告げた。ダッフルコートを脱ごうともせず、フードすらかぶったままだ。見かねて俺は頭を覆うフードをつまんで背中に垂らしてやった。わざわざ対面しに来たんだ、顔くらい見せてやってももったいなくはない。
長門は何も言わず中河のほうけた顔を凝視し続け、十数秒が経過したあたりで、
「うん?……あー」
中河のほうが何故か怪訝な表情へと変化した。
「長門さん……なのですね」
「そう」と長門。
「春頃にキョンと一緒に歩いていた……?」
「そう」
「駅前のスーパーでよく買い物を……?」
「そう」
「そうなの……です……か……」
中河は顔を曇らせる。泣いて喜ぶか感激で卒倒するかのどちらかだと思っていたのに、なんだ、この歯切れの悪い雰囲気は。
長門が中河を見る目は、水族館で動かないカレイを見るような感じだったが、中河の長門を見る目も道端でマンホールのフタを見てるような気配がした。
そうやって微妙な見つめ合い合戦もすぐに破綻し、先に目を逸らしたのはやっぱり中河だった。
「……キョン」
小声のつもりだろうが同室の入院患者にも丸聞こえだろ。しかし人目をはばかるように指をちょいちょいと動かして俺を呼ぶ仕草を無視してのけるわけにもいくまい。
「何だよ」
「ちょっと……その、お前と二人で話したい。でだな、その……あれだ」
ちらちらと長門を窺う目線で解る。長門に聞かれたくないようなことを言いたがっているらしい。
俺が長門へ向き直る前に、
「そう」
以心伝心というわけでもなかろうが、長門はすっと身体を返すと、ベルトコンベアで運ばれているような足取りで病室から出て行った。
中河はスライドドアが閉じられたのを見て、ふっと息をつき、
「あれは……本当に長門さんか。本物の?」
ニセ長門にはまだお目にかかっていない。変質した本人には出会ったことがあるが、それも終わった話である。
「喜べよ」と俺は言った。「お前の十年後の花嫁候補が来てくれてんのに、もっと感激したらどうだ」
「うう……むむ」
中河はひとしきり唸るようにうつむいて、
「長門さん……だよな。間違いなく。双子でもそっくりさんでもないのだな」
何を言ってやがる。眼鏡がないとダメとかいうことじゃないだろうな。お前は最近にも長門と遭遇したんだろう? なら長門は俺の要請通りにグラスレスだったはずだ。眼鏡フェチだから今のはダメだなんてイイワケは聞きたくないぞ。
「そうじゃない」
中河は思い悩んでいる顔を上向けた。
「うまく言えない……。ちょっと考えさせてくれ、キョン。すまないんだが……」
それっきり中河はベッドに座り込んだまま呻吟し始めた。やはり頭を打ってどこかおかしくなっちまったのか? 反応が不可解過ぎるし話も続かない。何を言っても「ううむ」と上の空だし、一心不乱に考え事をしているようでもある。最後のほうは頭痛を堪えるように頭を押さえだしたので、これはいかんと俺も退室することにした。
「中河。そのうちわけを詳細に聞かせてもらうぞ。このままじゃあ----」
俺がハルヒに報告する内容も完全に空疎なままになってしまう。事実を伝えてもハルヒが目の端を吊り上げるだけの結果が待ち受けていることだろう。
病室を出ると、長門は廊下の壁に背を付けるようにして待っていた。俺に黒ビー玉みたいな目を向け、また床に落とす。
「行くか」
小さくうなずいて、長門はおとなしく俺の背後霊に戻った。
----何だったんだ、いったい。
無口を保つ長門の前をハンミョウのように歩きながら、俺はバスターミナルへと急ぎ足で向かった。
その後の喫茶店での一幕は語るべきこともないいつもの情景だった。冬休み旅行の日程表を広げたハルヒが声高らかに何か言っていて、うなずきマシーンとなった古泉が無難な相づちをうちまくり、朝比奈さんは美味しそうにダージリンティーのカップにちびちび口をつけ、俺は憮然と、長門は黙々と意見を求められることのない聞き役に徹していただけだ。
支払いを割り勘で終え、今日のSOS団課外活動はこれにて終了。自宅に戻った俺を待っていたのは、
「あ、キョンくん一、いいところに帰ってきたよ。電話ー」
片手に電話子機、片手にシャミセンをぶらさげた妹の笑顔だった。俺は電話とシャミセンの両方を受け取って自室に引っ込んだ。
予想していた通り、電話の主は中河だった。
『非常に言いにくいのだが……』
病院の公衆電話からかけていると断った上で、中河は言葉通りに言いにくそうなニュアンスを声にこめながら、
『結婚の約束を解消したい、と彼女に伝えてもらえないだろうか』
多重債務に苦しむ中小企業の社長が支払い日の延長を申し込んでいるような声だった。
「わけを言ってもらおうか」
俺は機嫌の悪い債権者が無策な経営者に対面したような声で、
「一方的に二人の世界を夢描いておいて、たった一日で破棄するつもりか。お前の半年間は何だったんだ? 長門と間近で会った途端に心変わりかよ。説明の状況次第で俺のお前への対応も変わってくるぞ」
『すまない。俺にもよく解らないのだが……』
本心からすまながっているように中河は言う。
『病院に駆けつけてくれたことはとても嬉しい。感謝したい。だが、その時俺は長門さんに以前の光やオーラを感じることができなかった。どこにでもいそうな普通の女の子に見えた。いや、どう見ても普通の女の子だった。いったいどういうわけなのか俺にも不思議だ』
俺は長門の無常を思わせる顔を思い描いた。
『キョン、あれから考え続けていたんだが、何とか思いついた結論は一つだけだ。俺は長門さんに一目惚れしたのだと思っていた。しかし今ではそんな感情がどこにもないんだ。ということは、俺は手ひどく間違ってしまったんだとしか思えないんだ』
どこで間違ったんだって?
『一目惚れ自体が間違いだった。冷静に考えたら見ただけで恋に落ちることがあるとも思えない。俺はずっと勘違いをしていたらしい』
ほう。では中河、お前が長門に見たという後光やエンジェルズラダーや落雷の衝撃ってのは何だったんだ。見るだけで硬直しちまうっていう妙な現象は?
『解らん』
中河は百年後の今日の天気を予想せよと言われた気象予報士のように、
『見当もつかない。今となれば、すべて気のせいだったとしか……』
「そうかい」
ぶっきらぼうに言いながらも中河を責める気は毛頭なかった。実のところそんなに驚いてもいない。だいたい予測した通りに物事は進んでいたからだ。最初中河の妄言を聞かされたときから、俺はこうなるんじゃないかと思っていた。
「よく解ったよ、中河。長門にはそう伝えておく。あいつなら気を悪くしたりはしないさ。もともと乗り気じゃなかったみたいだからな。一瞬で忘れてくれる」
溜息のような呼気を受話器が吐き出し、
『そうか。だと、ありがたい。くれぐれも申し訳ないと謝っておいてくれ。どうかしていたよ』
きっとそうだろう。疑問の余地もないほど中河はどうかしていた。で、今は正常値に戻っている。誰かが状態回復系の呪文をかけてくれたのかもな。
そこから俺と中河は適当な四方山話をとってつけたようにして、そろそろテレカの残高がなくなりそうだといったところで互いに別れを告げた。まあ、またどっかで会うこともあるだろう。
電話を切った俺は、すぐさま別の番号にコールした。
「今すぐ会えるか?」
電話に出た相手と落ち合う場所と時間を指定しながら、俺はすでにマフラーとコートを拾い上げていた。コートの上で寝そべっていたシャミセンがコロコロと絨毯を転がって俺に非難の目を向けた。
昨日は厄日、そしてあっち行きこっち行きを繰り返して多忙を極めた本日もこれでようやく終わりそうだ。
ママチャリを走らせて行った先は、変わり者のメッカとして俺にはお馴染みになっている、長門のマンション近くの駅前公園だった。五月初めに長門に呼び出されたのもここだし、朝比奈さんに連れて行かれた三年前の七夕で目覚めたのもここだ。つい先日にも俺は二度目の時間遡行で朝比奈さん(大)と並んで座った。思い出すね。ありし日の追憶ってやつをさ。
入り口付近に自転車を止めて公園内に踏み込む。
その思い出ベンチに腰掛けて待っていたのは、ダッフルコートをサンドピープルみたいに着込んだ人影だった。そこだけ外灯に照らされて闇から浮き上がっているかのように見える。
「長門」
俺はまっすぐ見つめてくる小柄な仲間に声をかけた。
「急に呼び出してすまなかったが、中河の心変わりはさっきの電話で言ったとおりだ」
長門は自然な挙動で立ち上がり、うつむき加減に呟いた。
「そう」
俺は長門の黒目を見据える。
「そろそろタネ明かしといこうぜ」
自転車をけっこうな速度で飛ばしてきたら身体は暖まっている。冬の夜空の下でも当分は気力のほうも保ちそうだった。
「中河がお前に一目惚れしたまでは俺も納得できる。そういうヤツも中にはいるだろうさ。だがな、今日になって突然あいつが心変わりしちまったってのはどうにも不自然だ。おまけに今日の試合……負傷して病院に運ばれた中河が、まるでそのせいだったみたいにお前への恋愛感情を無くしたのも偶然とは思えない」
「…………」
「何か細工しただろう。お前が試合中に何かしでかしたのは解ってる。中河のあのアクシデントを演出したのは、お前だ。違うか?」
「そう」
あっさりと答え、長門は面を上げて俺に視線を向けた。そして
「彼はわたしを見ていたのではない」
論文を読むような口調で、
「彼が見ていたのは、わたしではなく情報統合思念体」
俺は黙って聞いている。長門は同じ声で続けた。
「彼はわたしという端末を通じて情報統合思念体とアクセスする超感覚能力を持っていた」
吹きつける風で耳が痛くなってくる。
「彼には自分の見たものが理解できなかっただろう。有機生命に過ぎない人間と情報統合思念体では意識レベルが違いすぎる」
……後光が差しているのが見えた。まるで天国から地上に差し込む光のようだった----と中河は表現していた。
長門は無感情に解決編を語り続ける。
「おそらく彼はそこに超越的な叡知と蓄積された知識を見たのだろう。読みとれた情報が端末を媒介した片鱗でしかなかったとしても、その情報圧は彼を圧倒させたと思われる」
勘違い、か。俺は不揃いな長門の前髪を眺めながら嘆息した。中河が長門の内面だと感じたシロモノは、実は情報統合思念体の一端だったらしい。俺だって詳しくは知らないが、長門の親玉は人類とは比べものにならない歴史とか知識量とかへンテコな力を持っている。そんなもんにうっかりアクセスした日には、なるほど確かに茫然自失してもおかしくはない。ブラクラを踏んづけてパソコンがフリーズするようなものだ。
「中河はそれを恋だか愛だかと錯覚したんだな」
「そう」
「お前は……あいつのその感情を修正したんだ。アメフトの試合中だな」
うなずきを返すザンバラなおかっぱ頭。
「彼が持っていた能力を解析し、消去した」
と、長門は答え、
「情報統合思念体に接続するには個人の脳容量は少なすぎる。いずれ弊害が顕在化すると予想した」
それは解る。長門を一瞬見かけただけで忘我していたという中河のリアクションもさることながら、半年以上経ってから十ヶ年計画を滔々と述べ出すようなイカレ具合だからな。放っておいたらどこまで暴走するか想像するのも恐ろしい。
だが、解らないことだってまだあるぞ。
「どうして中河にそんな力があったんだ? お前を通じて情報統合思念体を見ちまうような、そんな特殊技能がもともと中河にあったのか?」
「彼がその能力を得たのは、おそらく三年前」
やっぱりそこに戻るのか。長門や朝比奈さんや古泉がここにいる理由、その原因を作った三年前に起こった何か。いや、ハルヒが起こしたらしい何かが……。
ここで俺は気づいた。
超感覚能力と長門は言った。だとしたら……そうか。ひょっとしたら、中河は今の古泉のような超能力者候補だったのかもしれない。三年前の春頃、ハルヒは確かに何かをやりやがった。時空の断裂を発生させたり情報を爆発させたり超能力者を発生させたりという得体の知れん何かをだ。だとしたら中河が今の古泉のような立場にいてもおかしくはなかったのだ。古泉のいわくありそうな態度もこれで理解できる。すでに知っていたのか昨日今日で調べたのかはともかくとして、あいつは中河の持っている半端な能力に気づいていたに違いない。それで『妙な友達』なんてことを俺に言いやがったのだ。
「かもしれない」と長門。
あるいは……、俺は肉体的なものだけではない寒気を感じた。何も三年前の一時期に限定することはない。もしかしたらハルヒは今でも継続して超自然的な影響力を他人に与え続けているのか? 秋に桜を咲かせたり神社の鳩をリョコウバトに変化させるような、そんな何かを。周囲の人間たちに。
「…………」
ぼんやりと棒立ちしていた長門は答えず、それどころか話はすんだとばかりに歩き始めた。同じく突っ立ったままの俺の横をかすめて、成仏を決意した浮遊霊のように宵闇に溶け込もうとしている。
「待ってくれ。一つだけ訊いていいか?」
その後ろ姿に言葉で形容できない何かを感じて俺は声を飛ばした。
長門に一目惚れして恥ずかしい伝言を俺に託した中河。俺の知る限り長門にあそこまで直接的な愛の言葉を吐いたのは中河が最初のはずだ。昨日、部室で俺が読み上げたプロポーズの文句を聞いて、こいつはどう思っただろう。お前が好きだと熱烈な告白を受け、将来をともに過ごそうと言われ、そして結局は勘違いの賜物だったと解って何を感じただろうか。
そんな疑問が俺の胸中を満たし、ついつい言葉となって唇からこぼれ出た。
「残念だったか?」
最初の出会いから半年以上、共有する思い出がいくつもある。それはハルヒも朝比奈さんも古泉も同じだが、長門が絡んでいた事件は特に多くてほとんどすべてだったと言えるし、ついでに最も内面の振り子が大きく振れていると思えるのもこいつだった。ハルヒなら何かあっても自力で何とかする。朝比奈さんはあのままでいいし古泉はどうでもいい。だが----。
言わずにいられなかった質問を俺は発する。
「告白が間違いだったと解って、少しは残念だと思わなかったか?」
「…………」
長門は立ち止まり、かろうじて振り向いたと形容できる程度に首を横向けた。不意をつくように舞った風が、さらりとした長門の髪を散らして横顔を隠す。
冷え切った夜の風は俺の耳を切るように吹いている。しばらく待っていると、静かで小さな言葉が風に乗って届けられた。
「……少しだけ」