「没ね」
ハルヒはにべもなく言ってのけると、原稿を突き返した。
「ダメですかあ」
朝比奈さんは悲鳴に似た声を上げ、
「ものすごく考えたんですけど……」
「うん、ダメ。ぜんぜん。なんかこう、ピンとくるもんがないのよね」
団長机にふんぞり返ったハルヒは、耳に上に差した赤いボールペンを手に取ると、
「まずこの導入部分がありきたりすぎるわ。 “昔々あるところに…… ”なんて、何の新鮮味もないありふれた書き出しよ。もっとヒネりなさい。冒頭部分はキャッチーにしないとね。ファーストインプレッションが肝心なの」
「でも、」
朝比奈さんはおずおずと、
「童話っていうのはそういうもんじゃないかと……」
「その発想が古いのよ」
どこまでも偉そうにハルヒはダメを出す。
「発想の転換が必要なの。あれ、これどっかで聞いたなぁって思ったら、まず逆を考えるわけ。そしたら新しいものが生まれてくるかもしれないじゃない」
俺たちがどんどん本流から取り残されているような気がするのは、そんなハルヒの思考システムのせいじゃないかね。俊足ランナーを一塁に出してしまったピッチャーの牽制モーションじゃあるまいし、逆をつけばいいってもんじゃないと思うが。
「とにかくこれは没」
わざわざ赤ペンでコピー用紙の原稿の上に「リテイク」と書き入れ、机の横の段ボール箱にひらりと落とした。元はミカンを満載していた箱の中には、今は焼却炉行きが決定している紙屑が山を成している。
「新しいの書いてきてちょうだい」
「うう」
肩を落とした朝比奈さんがすごすごと自分の席に戻ってくる。非常に可哀想である。鉛筆を握りしめて頭を抱える姿に猛烈な同情心とシンパシーがわく。
ふと、まったくの無気配を感じてテーブルの隅に目を転じると、そこには部室の風景としては貴重なことに、読書をしていない長門の姿があった。
「…………」
沈黙したままノートパソコンのディスプレイを見つめて凝固する長門だったが、数秒おきにキーボードに触れて何かを打ち込み、また固まってから、パタパタとキーを打つ。で、また置物になる。
長門が触っているのはゲーム対戦の賞品としてコンピュータ研から巻き上げたノートパソコンだ。ちなみに俺と古泉の前にも同じものがあって、大して考えることもなかろうにすでにCPU冷却ファンは頭脳を冷やすべくやかましく回転していた。古泉の指が軽快に動いている様子とキーパンチの音がやけに気に障る。こいつはいいよ、書くことが決まっているからな。
機械に対して食わず嫌いを表明する朝比奈さんだけはコピー用紙に自前の字を書き込んでいたが、俺とシンクロしたかのように今はすっかり手が止まっている。
そうとも。書くこともないのに文字なんか打てるか。
「さ、みんなも!」
ハルヒだけが異常に元気だった。
「ちゃっちゃと原稿上げて、編集に取りかからないと製本に間に合わないわよ。ピッチを上げるのピッチを。ちょっと考えればすぐに書けるでしょ? 何も大長編書いて文学賞に応募しようってわけじゃないんだから」
上機嫌なハルヒの顔からは、例によってどこから発生したのか解りようのない自信のみが花咲いていた。今にも虫を食いそうだ。
「キョン、全然手が動いていないわよ。そうやってパソコンの画面を睨んでいるだけじゃ文章は生まれないわ。とにかくまず書いてみる、それから印刷してあたしに見せる、でもってあたしが面白いと思えば合格で、そうじゃなきゃ没だからね」
朝比奈さんへの同情は自分自身への憐憫と化した。何だって俺はこんなことをしてないといかんのだ。俺だけじゃない、隣でうんうん呻っている朝比奈さんと、向かいで微笑している古泉も、少しは反撃の狼煙を上げるべきではないのか。
まあ、言っても聞きやしないのが涼宮ハルヒというSOS団団長の特性なのだが、それにしてもどうしてこいつがこんな役柄を勝手にやっているのだろう。
俺の視線は、人の原稿を段ボールに叩き込みたくてうずうずしているハルヒの笑顔から、その腕にはまっている腕章へと移動した。
いつもは団長、かつて名探偵とか超監督とか銘打たれていたその腕章には、新しい肩書きがマジックでデカデカと書かれている。
今回はつまり、「編集長」と。
ことの起こりは数日前に遡る。
年度末の足音がヒタヒタと耳を打つ、三学期のある日のことである。少しは予兆でもあればいいものを、それはのどかであるはずの昼休みに突然やってきた。
「呼び出し」
そう言ったのは長門有希である。その横になぜか古泉一樹のすらりとした姿が伴われていた。この二人が並んで俺の教室までやってくるとは、どう考えてもいい予感は一ミクロンもせず、弁当をかき込む作業を中断して廊下までやってきた俺だったが、早くも自分の机に戻りたくなった。
「呼び出しとは?」
今の俺の状態としか思えない。購買からパン数種類とメロンサワーを抱えて帰ってきた谷口が「キョン、おまえのツレが来てんぞ」と言うから出て行ったらこの二人が立っていた。意外性あふれるカップリングであるが、長門が誰かと二人きりで行動していたとして、相方に納得がいくような組み合わせなど思いつかないな。
俺は最初に謎の一言を告げてから無表情に立っている宇宙人っ娘を眺め、三秒待ってあきらめてから古泉のハンサム顔を見た。
「説明してもらおうか」
「もちろん、そのつもりで来ましたので」
古泉は首を伸ばして五組の教室をうかがい、
「涼宮さんは、しばらく戻りそうにないですか?」
あいつなら四限が終わるやすぐに飛び出していった。今頃は食堂でテーブルでも齧っているんじゃねえか。
「好都合です。彼女の耳にはあまり入れたくないことなので」
俺の耳にも入って欲しくない情報の予感がする。
「実はですね」
古泉は声を深刻な具合に潜めた。その割には楽しそうだな、お前。
「さて、これを楽しいと思うかどうかは人それぞれですが」
「いいから、早く言え」
「生徒会長から召喚指令が下りました。本日放課後、生徒会室に出頭するようにとの仰せです。ようするに呼び出しですね」
ははあ。
一瞬で納得した。
「ついに来たか」
生徒会長の出頭命令----と聞いて「何でだ?」と思うほど俺は身の程知らずではない。この一年、SOS団が校内外問わずに巻き起こした悪行を知らんぷりするには俺は善人すぎるようだ。まず何があったけな。コンピュータ研からパソコンを巻き上げた事件か? いや、あれは昨年秋のゲーム対決で片が付いたはずだ。コンピ研が生徒会に出した訴状は敗戦後まもなく部長氏が無条件で取り下げたと聞いている。
映画撮影で無茶をやったせいか? それにしたってずいぶん前だし、文化祭の後に生徒会は改選されたはずだ。今の会長が前会長の積み残した仕事を今になって思い出したとでもいうのか。それとも近所の神社に回ったかもしれない俺たちの人相書きがついに北高まで辿り着いたのか? 初詣にあちこち行きすぎたしな。
「しょうがねえな」
俺は肩をすくめ、主のいない窓際最後尾の机を見やった。
「ハルヒのことだ、大喜びで会長にくってかかるだろう。相手の態度によっては乱闘になるかもしれん。仲裁役は古泉、お前に任せる」
「違います」
古泉は爽やかに否定した。
「呼び出されたのは涼宮さんではありません」
じゃあ俺か? おいおい、そいつは道理が通らないぜ。いくらハルヒが鯨のヒゲで作ったゼンマイのような反発力を持っているからと言って、まだ話が通じそうな俺を矢面に立たせようとするのは卑怯極まる。生徒会が学校側のラジコン人形なのは知っているが、そこまで腰抜け揃いだと失望を禁じえない。
「いえ、あなたでもありません」
何が嬉しいのか、古泉はますます爽やかに、
「呼び出しを受けたのは、長門さんただ一人です」
何だと? ますます不条理じゃないか。何を言っても黙って聞いてくれるだろうから説教する相手としては適任だが、ただしノーコメントを貫き通すだろうことも間違いないので達成感もないと思うぞ。
「長門をか? 生徒会長が?」
「目的語と主語はそれであってますよ。そうです。会長さんは長門さんをご指名です」
その長門は自分のこととは思わないような顔でポツンと立っているだけだった。ただ俺の目が発する驚き光線を受け、わずかに前髪を揺れさせた。
「どういうことだ? 生徒会長が長門に何の用がある。まさか生徒会の書記職でも与えようってのか」
「書記ならすでにいますから、もちろん違います」
さっさと言ってくれ。持って回った言い方をするのはお前のDNAにその手の性質が刻まれているからか。
「失礼。では解りやすく言いましょう。長門さんが呼ばれた理由は簡単です。文芸部の活動に関する事情聴取および、部の今後の存続に関する問題について話し合うためです」
「文芸部? それが----」
何の関係がある、と言いかけて俺はセリフを飲み込んだ。
「…………」
長門は身動きせずに廊下の端を見つめている。
かつて眼鏡がついていた白い顔は表面的にはあの頃と無変化だった。ハルヒに引きずられて飛び込んだ部室で、ゆっくり顔を上げた無表情は今でも忘れがたい。
「なるほどな、文芸部か。そうだったな」
まさしくSOS団は文芸部の部室を長きにわたって根城にすること現在進行形である。そして正式な文芸部員は最初からいた長門だけであり、俺たちは単なる居候、もしくは不法占拠者だ。ハルヒとしてはとっくに占有権を確保したつもりだろうが、生徒会はまた別の普遍的でスタンダードな意見を主張するに違いない。
古泉は俺の表情を読みとったんだろう、
「その話を放課後、会長さんが直々にしようと連絡があったのですよ。まず僕のところにね。長門さんには僕から伝えました」
なぜお前のところなんだ?
「長門さんに言っても無視されそうだったからでしょうね」
そうは言っても、お前も俺と同じくらい文芸部の活動とは無関係だろうが。
「そうなんですが、だからと言って話は簡単にはいきそうにないですね。どちらかと言うと余計に悪いでしょう。部員でもないものが文芸部の部室にいて文芸部とはまったく関係ないことに従事しているわけですから、生徒会でなくても不審を覚えて当然……いえ、すでに周知になっているぶん、今までよく見過ごされていたと言うべきです」
もっともなことを言う古泉はどっちの見方だか解らんようなスマイルぶりだった。
そりゃあ俺が執行部だったとしてもイチャモンをつけたくなるかもしれんが、だがなぜ今頃になってなんだよ。ものぐさな家主が雨漏りをなかなか直そうとしないようにSOS団も生徒会から緩やかに無視されているんじゃなかったのか。
「前生徒会はそうしてくれていました。ですが、今の会長は一筋縄ではいかないようですよ」
古泉は白い歯を見せて微笑み、横目で長門に視線を送った。
当然、長門は反応しなかったが、ただ廊下の端から俺の足元に焦点を動かした。なんとなく、迷惑をかけてすまないと言っているようでもあった。
そしてもちろん、俺は長門に迷惑をまったく感じていない。決まっている。動くたびに空中に迷惑と呼ぶべきものを振りまいているヤツは俺の知る限りでは一名のみだ。迷惑とは----。
俺は虚空に息を吐き出して言った。
「いつだってハルヒが持ってくるものなのさ」
これからこの部室が我々の部室よ、とあいつが叫んだあの日からな。
「その涼宮さんには内密にお願いします」
と、古泉。
「こじれるだけのように思いますからね。ですので放課後、彼女に見つからないように生徒会室まで来てください」
ああ解った、と言いかけて、危ういところで気づいた。
「ちょっと待て。どうして俺が行くんだ。指名されてもないのにノコノコ乗り込むほど俺はお調子者じゃないぞ」
むろん、長門が望むなら同伴するにやぶさかではないが、古泉に頼まれる筋合いはない。それに、いっそ長門一人で行かせたほうが相手もビビるんじゃないかと思うぞ。
「向こうも心得ていますよ。だから僕がメッセンジャーを拝命することになったのです。このまま長門さんの代理人として全部請け負ってしまってもいいのですが、のちに不都合が発生しては困りますし、そっちのエージェント業務は僕の仕事に入っていません。そうですねえ、平たく言って、あなたは涼宮さんの代理人ですよ」
「ハルヒ本人に行かせればいいじゃないか」
「本気で言ってるんですか?」
古泉は大げさなアクションで目を剥いた。
ヘタな芝居に俺は鼻を鳴らして応答する。ちゃんと解っているというなら俺だって解ってるさ。あんな爆弾女を生徒会に投げ込んだら単なる爆発で済むとは思えん。冬の合宿で見せた長門への気遣いを考えたら、生徒会から長門が呼び出しを喰らった----の「生徒会から長門が」の部分だけで即座にすっ飛んでいき、扉をぶち破って生徒会室に突貫するならまだしも、間違えて職員室か校長室に突撃を敢行するかもしれない。あいつはそれでスッキリするかもしれないが、後で胃を痛めるのは間違いなく俺になる。古泉と違って家庭の事情もないのに転校する気にはなれねえな。
「では、よろしくお願いします」
古泉は最初から俺の回答など解っていたと言いたげな微笑みを浮かべ、
「会長には僕のほうから言っておきます。放課後、会長室で会いましょう」
ハルヒの居ぬ間にを態度で表しつつ、古泉は軽やかに長い足を操って五組教室前から去っていった。その後を追うように遠ざかる長門の小さな姿を見るともなしに見ているうちに、俺はつくづく一年度の終わりを実感し始める。
何だかんだ言って、古泉も長門もSOS団のメンツでいることにすっかり安住しつつあるのかもしれない。仲間同士で共有しつつ、でもハルヒには隠しておくべきことが月単位で増えていく……。
いらない感傷だったんだろうな。
おかげで、どうして古泉が生徒会長の伝書鳩のようなことを普通にしているのか、その疑問に到達することができなかったからだ。
ところで、妙に勘のいいハルヒが俺の挙動不審----そんな意識はまったくなかったのだが----に気づいたのは五限終了時の休み時間だった。
尖ったもので背中をちょいちょいと突かれ、背後の席へ振り返った俺に、
「何をそんなにそわそわしてんの?」
ハルヒはシャープペンを指先で回しながら、
「まるで誰かに呼び出しを喰らったみたいな顔をしてるわよ」
こんな時、虚偽の含有率を百パーセントにしてはならないことを俺は学んでいた。
「ああ、岡部に呼び出されたんだ。昼休みにわざわざ俺んところまで来て言いやがった」
何喰わぬ顔で答える。
「俺の成績に文句と注文があるらしい。学期末試験の結果次第ではその文句が俺の親にまで届きそうな按配だとよ。進学を考えるなら今のうちに心を入れ替えろとか」
入れ替えようにも心のストックなど俺は持っておらず、ないものを交換することもできないのだが、しょっちゅう言われていることでもあるのでまんざらデタラメでもない。だいたい谷口も似たようなことを同音異句で言われていて、情報交換によって得た結論は、我らが担任教師はそれなりに教え子の行く末を心配している割合親身に感じるに足る先生であるということだった。
もっとも、谷口なんかが近くにいるせいで、こいつがのんきにやってんだから俺だって大丈夫だろうとお互いに思っているところがあり、今ひとつ緊迫感を感じるには薄くもある。まともな成績を保持している国木田のほうがおかしいんじゃないかと思うときがあるくらいだ。
「へえ?」
ハルヒは机に肘を立てて顎を乗せながら、
「あんた、そんなに成績あやしかったっけ。あたしより真面目に授業聞いているように思ってたけど」
と言いつつ窓の外を眺めている。流れる雲の速度が風の強さを物語っていた。
お前の脳みそと一緒にしないで欲しいね。俺は時空間の歪みも情報爆発もくそったれな灰色空間とも無縁な頭の持ち主だ。ハルヒの破天荒なそれに比べたらミニチュアダックスフント並の可愛さだぜ。
「聞いてても解らなきゃ時間の無駄にしかならんのさ」
とだけ俺は言っておいた。胸を張って言うことでもないが。
「ふうん?」
ハルヒの目はまだ外の風景に据えられていたが、その物言わぬ窓ガラスに言うように、
「なんなら、あたしが勉強見てあげよっか。別にいいわよ。どうせ授業の繰り返しになるだけだろうけど、リーダーと現国なら授業より解りやすい教え方をする自信があるわ」
ヘタだもん、あいつら、とハルヒは独り言を言うように呟いて、ちらりと俺を見てすぐに逸らした。
どう答えたもんかと考えていると、
「だってさ、みくるちゃんもバタバタしてるでしょ? なーんかこの学校、県立のくせに変な感じに進学校気取りだからこの時期、二年生も大変よね。特別補講とか模擬試験とかで大忙し。せっかく修学旅行があったばかりなのにぶち壊しよ。だったら一年のうちに旅行に行かせるべきだわ。文化祭だって秋じゃなくて春にすればいいのよ。そう思わない?」
何やら早口に言って、また雲の流れを観察する風情である。どうやら俺の返事を待っているようでもあったので、
「そうだな」
俺も雲の観察に同調することにした。
「進級だけは無事にしたいもんだ」
万が一ダブるようなことになって、
「ちわっす、涼宮先輩」
「あ、バカキョン、即行で三色パン買ってきて。料金後払いね」
なんていう日常会話を部室で繰り広げるのは業腹だ。そうならないためにもハルヒに学期末試験の想定問題集を作らせても罰は当たるまい。待てよ、長門を製作スタッフに加えるのもいいな。一部五百円くらいで売りさばけるデキを期待できる。小金持ちくらいにはなれそうだ。悪友のよしみで谷口には優待サービス三割引で買い取らせてやろう。
「そんなのダメ」
儲かりそうな提案を、ハルヒは無下に却下した。
「それじゃ本当の学力は身に付かないわ。一時しのぎにしかなんないもの。ちょっとヒネった応用問題を出されたらあわわってなっちゃうわよ。ちゃんと理解した上で知識を積み重ねないと奴らの術中にまんまとハマるだけなの。まあ、安心してちょうだい。半年みっちりやったらあんたでも国木田レベルにしてあげるから」
そこまで燃えてくれなくてもいい。脂汗を垂らしながら解き明かした答えを提出するたびに
「違ーう。どうしてこんな簡単なのが解んないの? バッカバカバカ」と実に楽しそうに俺の頭を黄色メガホンでどつくハルヒの姿を想像し、何もそんな光景を想像することもなかろうと我ながら思いつつ、
「解らんところ訊くから教えてくれるだけでいい。後は自分でなんとかするさ」
「なんとかなるんだったらとっくになってんじゃないの?」
腹立たしいことをズバリと言ってくれるじゃないか。おう、その通りだとも。
「開き直ってどうすんのよ」
ハルヒは吹き出しそうな唇を正面に向け、ずいと上半身を乗り出した。
「あたしのSOS団から落第生を出すなんて不祥事は許せないんだからね。そんなことになったら生徒会とかがホラ見ろってばかりに文句を言いに来るかもしれないわ。だからっ、つけいる隙を与えないように、あんたにも少しは張り切ってもらわないと困るの。いいわね?」
眉を怒らせながら口元を笑わせるという器用な表情で妙に鋭いセリフを吐いたハルヒは、そのまま俺を睨みつけ、観念した俺が同意を表明するまで睨んでいた。
放課後が来た。
教室を出た俺は職員室に行くフリを装ってハルヒと別れ、そのまま生徒会室へと向かった。職員室の隣にあったから目的地偽装のために回り道をすることもなく、すんなりと到着する。
それにしても、いざとなるとやはり若干の緊張感が身体をかすめるね。
生徒会長の顔なんざ全然覚えていないし、文化祭の後にあった生徒会選挙だって適当に眺めていただけだ。そういや講堂で各候補の演説めいたものを聞かされた覚えはあるが、完全な無党派層となっていた俺は投票用紙に一番ありふれた名前を書いたきり、その名前すら瞬時に忘れていた。どんな奴がなったんだっけ。ともかく現二年生であるのは確かで、会長というからには少しは上級な生徒なんだろう。コンピ研の部長よりは威厳があると思われる。
生徒会室の前でしばらく逡巡していると、
「あれ、キョンくんっ。何してんのっ?」
職員室から出てきた髪の長いお方と鉢合わせすることになった。朝比奈さんのクラスメイトにしてSOS団名誉顧問、ついでにタダ者ではないことも今や明確な二年生女子である。
誰に上げる頭があったとしても、この人にだけは下がっちまう。
「ちわっす」
体育会系的なノリで挨拶した俺に、
「あっははっ。ちわーっ」
鶴屋さんは超のつく笑顔で片手を挙げ、つと俺が立っているドアを見つめて、
「なになにっ。生徒会にどんな用事だい?」
その用事とやらをこれから聞きに行くところです。決して俺が生徒会に用があるわけではないのだ。
「ふへえ?」
ハルヒと甲乙つけがたい溌剌とした歩き方で近寄った鶴屋さんは、のけぞる俺の耳元に口を寄せてきた。彼女にしては小声で、
「むうう? ひょっとしてキミ、生徒会のスパイだったのかい?」
至近距離にある鶴屋さんの笑顔には、多少のシリアススパイスがきいていた。何があっても楽天的なゲラ笑いを忘れないこのお方のものとしては見慣れない表情だ。何か知らんが弁解する必要に駆られる。
「えーとですね……」
何の話っすか、鶴屋さん。俺が誰かの密命を受けたスパイだったら、現在こんな苦労をしているわけがないでしょう。
「それもそうだね」
鶴屋さんはペロリと舌を出して、
「うん、疑ってごめんよっ。いやちょっと小耳に挟んだからさっ。なんだか今期の生徒会は裏で暗躍する謎な人たちが蠢いているって噂、知んない? この前の会長選挙でも色々やってたらしいのさっ。なんか嘘っぽいけどねっ」
初めて聞いた。しょぼい県立高校の生徒会長選挙にそんな舞台裏があったとは考えにくいから、そりゃデマで合っているだろう。ハルヒが好みそうな学園陰謀物語ではあるが。
「鶴屋さん」
逆に問いかけてみた。俺の知らざる情報でも彼女なら既知のものとしているかもしれない。
「生徒会長ってどんな人か知ってます?」
ぜひ、その人なりを教えて欲しかったのだが、
「あたしもよくは知らないのさっ。違うクラスだしね。なんかエラそうなイイ男で、少しは頭も切れるみたいだよ。三国志で言えば司馬懿みたいな感じがするっさ。なんでも生徒の自主性を高めようってスローガンを打ち出しているらしいよっ。今までの生徒会は絵に描いた菱餅みたいなもんだったからねっ」
高名な歴史的傑物を比喩に出されても咄嗟に実像がつかめなくて困るし、餅の比喩が的確なのかどうかもあやしい。
「ところで鶴屋さんはどうして職員室に?」
「んっ? あたしは今日の日直だったからっ。週報を届けに来たのさ」
けろりと言った鶴屋さんは、俺の肩をぱんと叩いてわざとのような大声で、
「キョンくんご苦労っ。生徒会とケンカするんだったらあたしも参加させとくれ! もちろんハルにゃんたちに味方すっからね!」
まことに心強い。しかし、そんなことにはあまりなって欲しくはない。強敵を発見して有頂天になったハルヒがどんな手管を弄するか、考えるだけで俺の知力が磨耗する。ただでさえ考えるべきことが他にもあるような気がしているのに。
じゃねーっ、と手を振りつつ、鶴屋さんは言いたいことだけを言い終えてサクサクと立ち去った。
相も変わらず、こちらが何も言っていないのに核心をついてくるお人である。そのあたりはハルヒに匹敵する発想力の持ち主だ。ハルヒとコンビネーションを組んで同等の威力を発揮できる唯一の北高生だろうな。迷惑団長と違うのは、まだ一般常識を忘れ去っていないというところにある。
しかし、この薄そうな壁と扉から察するに鶴屋さんの最後の一声は内部に筒抜けだと考えていい。彼女のこういうところにハルヒ的な振る舞いが潜んでいるのだが。
ま、腹を決めるしかない。
差し障りのないように、まずは丁寧にノックしてみた。
「入りたまえ」
いきなりそんな声が内側から響いた。入りたまえ、なんて現実に話す人間が高校生の中にいるとはね。しかも洋画の吹き替えでベテラン俳優をアテレコできそうな、やたら渋い声である。
俺は引き戸を開け、生まれて初めて生徒会室とやらに身体を突っ込んだ。
生徒会室は文芸部室よりは多少面積の広さを誇っていたものの、旧館の部室とそんなに違ったところはない。むしろ「会長」とか書かれた三角錐の置かれた専用机がないぶん、俺たちの部室より殺風景だろう。単なる会議室と言えばそれまでだ。
先客となっていた古泉が俺に一礼し、
「どうも。よく来てくれました」
入り口付近で突っ立っているのは、古泉と並んで俺を待っていたらしい長門も同じである。
「…………」
長門は怜悧な視線を窓際に飛ばしていて、その先に会長がいた。
会長……なんだろうな。
背の高い男子生徒であるのは解る。なぜか窓の外を向いており、手を背後で組んだまま微動だにしない。南向きの窓から入る夕日が逆光となってその姿を曖昧なものにしていた。
もう一人、こちらは長テーブルの一角に座っている人影もあった。面を伏せた女子生徒がシャープペン片手に議事録みたいなノートを広げて待機している。この人が書記らしい。
会長はなかなか動こうとしなかった。外の風景の何がそんなに面白いのか、そっからではテニスコートと無人のプールくらいしか見えないはずだが、意味深な沈黙を保っている。
「会長」
適度な間を置いて、古泉が爽快感あふれる声をかけた。
「お呼びになられた人員はこれですべて揃いました。用件をどうぞ」
「よかろう」
会長はゆっくりと振り向き、やっとのことで俺はそいつの面を拝む。やたら細長い眼鏡をかけた二年生である。古泉の安上がりなアイドル顔とはまた違った意味でなかなかのハンサム野郎だ。思惑のすべてを上昇志向で占めていそうな、若手キャリアを思わせる非情そうな気配をその目つきに感じ、反射的にこいつとは仲よくなれそうにないなと思う。
これまた長門とは違った意味での無表情が、
「すでに古泉から聞いていると思うが改めて言っておこう。キミたちに来てもらったのは他でもない。文芸部の活動に関して、生徒会から最後通告をおこなうためだ」
最後も何も、これまで通告なんかあったのか? あったとしても長門が生徒会からの呼び声に素直に応じたとは思えず、だからこそ俺たちは部室をアジトにできているわけだが。
「…………」
長門の無反応にも頓着せず、会長は無情に言った。
「現在、文芸部は有名無実化している。認めるな?」
部室でひっそり本を読んでいるだけではダメか、やっぱ。
「…………」
長門は無言。
「もはや部として機能していないレベルにある」
「…………」
長門は黙々と会長を見ている。
「明確に言おう。我々生徒会は現在の文芸部に存在意義を見いだすことができない。これはあらゆる側面から検討を重ねた結果だ」
「…………」
長門はじっとしているのみ。
「よって、文芸部の無期限休部を通告する。速やかに部室を引き払いたまえ」
「…………」
長門はどうでもよさそうに黙っている。いるのだが、俺には解る。
「長門くんだったな」
会長は固形のような長門の視線を平然と受け止めながら、
「部員でもない者を部室に置き、何をするでもなく放置していた責任はキミにある。おまけに今年度、文芸部に割り当てられた活動費を何に使用したのかね。あの映画の撮影が文芸部の活動とでも言うのか? 調査資料によれば、例の映画はSOS団なる非合法組織のプロデュースとクレジットされているだけで、どこにも文芸部の名前はない。だいたいあの映画自体が文化祭実行委員会の許可なく制作されたものだったな」
それを言われるとツライ。古泉と長門には最初から止める意志がなかっただろうから、ハルヒの横暴を止めるのは俺がやるべき仕事だったのだ。無体なヒロインを演じさせられた朝比奈さんのためにも。
「…………」
長門の横顔からはどんな自己主張も感じられない。だがそれは素人の意見だろう。
無反応を恭順の印と誤解したか、会長は尊大な態度を崩さない。
「暫時、文芸部は休部措置とし、来年度に新しい部員が入部するまで部室は立ち入り禁止とする。文句があるかね。ならば言ってみるといい。聞くだけなら聞いてやろう」
「…………」
長門は髪の毛一本動かしていないが、ひょっとしたらハルヒと朝比奈さんと古泉なら解ったかもしれない。そして、連中が解るようなことなら俺にだってすでに自明となっている。そんくらいは空気で解る。
「…………」
沈黙の中に沈んだ長門は、
「…………」
静かに怒っているようだった。
「ふむ。反論はなしか」
会長は唇の端をイヤな感じに動かした。ただし冷徹そうな表情自体は変化なく、
「文芸部には長門くん、キミしか部員がいない。事実上の部長だ。キミさえ同意すればただちに我々が部室の保全と異物の排除を開始する。部室に無関係な物は運び出した上で処分するか、こちらで保管することになるだろう。置いてある私物は即刻運び出すことだ」
「待ってくれ」
俺は会長の一方的な宣言を遮った。長門の無言の怒りが臨界点に達する前に、
「突然そんなことを言われても困る。今までほったらかしておいて、この時期にいきなり言い出すのはフェアじゃねえだろ」
「キミこそ何を言っているのだ」
会長は冷たい視線を俺に浴びせ、「フッ」とか口先だけで笑いやがった。
「キミの提出した同好会設立申請書は見せてもらった。悪いが失笑ものだ。あのようないい加減な内容でいちいち同好会を認めていれば、この学校にキリという言葉はなくなる」
いけすかない上に偉ぶった上級生は、眼鏡をついと指で押し上げるという演出じみた仕草をして、
「もっと言葉を学びたまえ。特にキミは学業全般に労力を払うべきだろう。放課後にぬけぬけと遊んでいられるほどの成績を収めているとは思えん」
やっぱりだ。この会長は最初からSOS団潰しを目論んでいる。文芸部云々は単なる口実だ。せめて映画のシナリオを長門に書かせでもしていたら少しはイイワケもできたのに、ハルヒ超監督のやつめ。
「今さら文芸部に入ると言っても無駄だ」
会長は俺にも思いついていなかったことを先回りして言った。
「いいか。仮にキミたちが正式でないにしろ文芸部員としてこの一年間を過ごしていたとしてもだ、文芸部的な活動を何か一つでもしていたとは認めることはできん。いったいキミたちは何をしていたのかね」
会長の眼鏡が無意味に光る。なんの特殊効果だよ。
「これでも大目に見ていたほうだ。SOS団とか言ったか? 無許可でそのようなものを組織し、散々好き勝手してくれたものだ。屋上で花火を打ち上げるばかりか教師を恫喝、扇情的な格好で校内をうろつき、火気厳禁の棟内で鍋料理を作るなど言語道断。本来なら大問題だ。何様のつもりかね、キミたちは」
言っていることが全面的に正しいのは解る。確かに悪かった。せめて一言お伺いを立てるべきだったとも思う。もっとも言ったところで許可してくれたとは思えないが、しかし仰せのままにとはいかねえぞ。
「やり口が汚え」
俺は長門の憤激を肩代わりするつもりで、
「んなもん、直接ハルヒを呼んで言えばいいだろうよ。どうして長門を呼び出して文芸部を潰すようなことをしやがる」
しかし俺の反撃などあらかじめ予測済みだったらしい。
「当然だろう」
会長はまったく動じなかった。格好をつけて腕を組み直し、失態を演じた部下が提出した反省対策書を読み終えたエリート課長のような口調で、
「SOS団などというものは学内にないからだ。違ったかね」
正直、そうきたか、と思ったね。
いくら生徒会長や執行部が頑張ってもSOS団を廃部にすることはできない。なぜなら書類上、そんな団はこの学校に存在しないことになっているからである。ないものをさらになくすることはゼロに何をかけてもゼロになるのと同じくらいの真理だ。ヘタすればマイナスにマイナスをかける結果にならないとも限らず、つつき方を間違えるとどこにすっ飛んでいくか解らないのが涼宮ハルヒという女である。スプリットを狙ってカーブをかけたボールが隣のレーンのピンを十本まとめて粉々にしてしまうくらいに挙動が読めないヤツなのだ。
そんなヤツを直球で攻めても高速ファールを味方のダグアウトに打ち込まれるだけであり、ようするに無駄だ、と判断した生徒会は、まず外堀の埋め立てから計画を立案したのだろう。
すなわち、SOS団が不法占拠している旧館部室棟三階、文芸部の部室である。
文芸部を召し上げ、改易に至らしめてしまえばSOS団の居場所も自動的に消滅する。俺たちが普通にここにいられるのは、唯一の文芸部員である長門が「いい」と言ってくれたからに他ならず、おそらく「部室貸して」と言われてそう返答するような人間は長門以外にいない。
このまま文芸部が消滅すれば、長門も文芸部員ではなくなり、こいつが部室でじっと本を読んでいる日常も消え失せ、我々は五人そろって放課後の行き場をなくすことになる。
見事な作戦だった。感心してやってもいい。悪いのはどうやったって俺たちで、長門は割を食った被害者と連帯責任者を兼ねる役割だ。
こちらの旗色が悪いのは俺にも解るだけに反論の理屈を組み立てようがなく、せめてその旗を振っているのがハルヒであって、この会長はそれを解ってるかと問いつめるしかないが、当然そんなことも折り込んでの長門召集なのは明らかだ。
そして長門もそろそろ限界のようだった。
「…………」
無言のプレッシャーが小柄なセーラー服姿から室内に広がっている様が手に取るように解る。放っておくとどうなるのだろう。まさか世界を再構築したりはしないだろうが、この会長の記憶をすっ飛ばして操り人形にしてしまうくらいはやっちまうかもしれない。あるいは朝倉涼子にやったみたいな情報操作とやらで会長ごとこの部屋を違うシロモノに変えちまうかもしれない。長門有希が暴走したらどうなるのか、秋の対コンピ研ゲーム合戦を想起させるを得なかった。
生徒会長は余裕かまして夕日を背に格好をつけているが、本当はそんな場合じゃないんだと教えてやるべきかどうか、内心でヒヤヒヤしていると、
「…………」
膨れあがった不可視の気配が無音のまま消え去った。
「ん?」
長門から立ち上っていた(ように感じていた)透明オーラが嘘のように消失している。思わず長門の顔を見ると、瞬きしない視線が会長とは別の人物へと向けられていた。
俺もそっちを見る。
議事録に向かってペンを動かしていた女子生徒、おそらく書記だろうと見当をつけたその二年女子がゆっくり顔を上げたところだった。
「……ええ?」
これは俺のマヌケな声だ。
何でこの人がここにいるんだ。というか瞬時に名前が出てこない……っと思い出した。あれは夏だった。七夕が終わってしばらくしての変な事件。そこで見たものを忘れたわけではないが、どちらかと言えばどうでもよさそうな事件で……。
「どうかしたかね」
会長が機能優先のような声で言い、
「ああ、紹介がまだだったな。彼女は我が生徒会の執行部筆頭であり、書記をやってくれている----」
女子生徒は緩く髪を動かし黙礼する。
「喜緑江美里くんだ」
重厚な効果音とともに巨大カマドウマが脳裏に戻ってきた。
「喜緑さん?」
SOS団ウェブサイトの異常から始まり、悩み相談を経てコンピュータ研部長の無断欠席から異空間へと至った、一連のマヌケでやる気のない出来事の関係者が、まるで素知らぬ顔をして生徒会の一角に食い込んでいた。
喜緑さんは穏やかに微笑み、俺と交差させていた目を長門に振った。少し目が細まったような気がする。おまけに何やら目配せ的なことをしたような気までする。さらに、長門までがシブシブのように小さくうなずいたような気すらした。
なんだ? この二人の間でどんなテレパシーが生まれたというのか。
考えれば考えるほどおかしかったあの事件。コンピュータ研部長の彼女と言いつつ、部長氏には彼女などいないと本人が教えてくれた。じゃあどういう理屈で喜緑さんはSOS団に相談を持ちかけてきたのかってことになるが、俺はてっきり長門の仕込みかと思っていた。しかし、こんな場で出くわして長門と見つめ合っているとなると、これはもう偶然とは考えられん。
俺がスツーカ爆撃機の編隊飛行音を聞いたパルチザン少年兵のような恐慌に襲われていると、
バァン----
風船爆弾が破裂したような音が背後から響いた。心臓が肋骨を粉砕して胸から飛び出しそうになる俺を完全に置き去りにして、
「こらぁ!」
雄叫びを上げて生徒会室の扉を開け放ったその主が放った声は軽々100デシベルを超えていたに違いない。俺の鼓膜をビリビリ振動させるその声はまだまだ続く。
「このヘボ生徒会長! あたしの忠実な三つのしもべたちをこんなところに閉じ込めて何してんのよ! そのうち何かするだろうと思ってたけど面白そうなことならまずあたしに言わなきゃダメじゃない! しかも何よ? あんた、まさか有希をいじめてんの? キョンならまだいいわ、でも有希なら許さないったら全然許されないわよっ! ギッタギタに叩きのめしてその窓からプールに投げてやるから!」
子猫を取り上げられた母猫のような剣幕で飛び込んできたのは、あー、そんな該当者は一人しかいないよな。
振り向くまでもないと了承していたが、俺はそいつが浮かべている顔色を知りたくて振り返った。やっぱりだ。やけに生き生きとしたクラスメイトが、全身から「面白いことを見つけたっ」という喜色を立ち上らせてそこにいる。
「あたしを除け者にするんじゃないわよ。SOS団の最高指導者はあたしなんだからね!」
ハルヒは大口を叩きながら、一瞬にしてラスボスを見抜いた。銀河団をまとめて押し込んだようなデカい瞳が眼鏡を押さえるノッポの人影に向く。
「あんたが生徒会長? いいわ、サシで勝負といきましょうよ! 団長と会長だからファイトマネーも対等よ。文句はないわね!?」
どうして俺たちがここにいることを知ったのか? という俺の素朴な疑問をとっちらかすように、
「ちょっとキョン! あんたも黙って見てたんじゃないでしょうね? 生徒会長だからって遠慮することはないわ。みんなで飛びかかってふん縛っちゃえば後はこっちのものよ。あたしが関節をキメるから、あんたは縄を用意しなさい!」
その瞳は今にも溶岩流を噴き出してカルデラを作り出さんばかりに燃え上がっていた。それとは対照的に、
「…………」
長門は頼んでもいない援軍の到着を無視する前線司令官のように動くことなく、休火山のような目で喜緑さんを注視している。
でもって俺は生徒会長に飛びかかったり縄を探しに行く代わりに、闖入者の脅威にさらされている当事者の表情をうかがった。
妙な気配だ。会長は眉間に深いしわを刻み、非難するような目を俺の隣に向けている。そこにいたのは古泉で、どういうわけか小さく首を振ったように見えた。唇に苦笑を張り付かせているが、俺にはこの二人の間で無言のコミュニケートが成立したように感じ、そんなもんを感じたという記憶を消し去りたくなった。
「どういうことよっ! 呼び出すならあたしが最優先でしょうが! 団長のあたしをハミゴにするなんて、あんたらそれでも生徒会なの!?」
「落ち着いてください、涼宮さん」
古泉はさりげなくハルヒの肩に手を添え、
「とりあえず生徒会側の言い分を聞いてみましょう。まだ話は途中だったのですよ」
俺にあやしいアイコンタクトを図ってきた。くそ、解ってなどやるもんか。
解っているのはただ一つ、我らが団長ハルヒ閣下が俺たちの窮地に颯爽と駆けつけて、
「こうなったら全面対抗戦よ! 言っとくけど、あたしたちはどんな挑戦でもいつでもどこでも誰からでも受けて立つんだからね! SOS団は常勝不敗にして容赦と恐れを知らない猛者ばかりよ。泣いて土下座するまで許してやんないっ!」
どうやら事態をややこしくしそうなことだけだ。
事前に参戦表明してくれた鶴屋さん、激怒寸前にあった長門、おまけに思わぬところから再登場した喜緑さんがここにいて、これだけでももう充分ややこしいのに。
ついでに言えば、古泉と会長にも何やら含むところがある模様である。
「キョン、あんたも何やってんの? 相手は生徒会長よ生徒会長。一番解かりやすいあたしたちの敵キャラじゃないの。ここでバトルしないでどこで戦うのよ。もっと毅然とした態度で睨みつけなさい!」
生徒会対SOS団ね……。
できれば回避しておきたかったイベントのスイッチを誰かがどこかで踏んでしまったのだ。まさか俺ではないと思いたい。
怒り狂いながらもなぜか嬉しそうなハルヒを見ながら、今後何をするハメに陥るのだろうかと俺は考えて、どうせロクなことではないという確信が胸の内に渦巻いていた。
「やれやれ」
と、まあ、そう呟くしかなかったのも無理はないと思って欲しいね。
そして実際、ロクでもないことにかり出されることになったわけだ。
団長から編集長にジョブチェンジしたハルヒが俺たち団員を即席作家に任命して小説モドキを書かせるという、まるでスティンガー対空ミサイルでジュピターゴーストを狙わせるような異例の事態になるなんてことにな。
ハルヒは別人に送られた果たし状を横からもぎ取って戦いの場にやって来たケンカっ早いストリートファイターのように、
「あさ、悪徳会長! どこからでもかかってきなさい。手加減なしのレフェリーストップなし、ロープブレイクなしのナシナシルールでいいわよね!?」
居丈高に声を放って、窓を背に立つ生徒会長にビシっと指を突きつけた。
一方、会長は迷惑そうな顔を隠そうともせず、
「涼宮くん。キミがどんな格闘技を趣味にしているのかは知らないが、私はむざむざ敵が用意した土俵に上がるつもりはない。キミの言うそのルールは野蛮の極致だ。美しくない。だいたい、生徒会としては、いかなる理由があろうと学内で私闘を許可することはできん。わきまえたまえ」
ハルヒは会長の顔からよそ見することなく、
「じゃあ何で勝負する気よ。麻雀にする? 凄腕の代打ちを連れてきてもあたしならかまわないわよ。それかパソコンでゲーム対戦はどう? ちょうどいいのを提供してあげるわ」
「麻雀もゲームもなしだ」
会長はわざとらしく眼鏡を外してハンカチで磨き、またかけ直しながら、
「勝負など最初からするつもりはない。キミたちの遊びに付き合っているヒマなどあるものか」
ハルヒが勇ましく踏み出そうと足を上げたところを、俺が肩をつかんで止めた。
「待てよハルヒ。お前、俺たちがここにいることを誰から聞いたんだ」
尋ねる俺に、闘争心剥き出しの眼光が向いた。
「みくるちゃんに聞いたのよ。みくるちゃんは鶴屋さんから聞いたって言ってたわ。あんたが生徒会長に何かで呼ばれたらしいって聞いてピンと来たの。有希と古泉くんも部室にいなかったしね。ははーん、これはついに生徒会が動き出したんだなってすぐに解ったわ。きっとあたしじゃ負けると思ったから、弱いところから攻める気なのね。卑怯な小悪党が使いそうな手よ」
小悪党呼ばわりにも会長は動じなかった。うっとうしそうにハルヒを眺めた長身の二年生は、またもや古泉に文句を言いたげな目をやり、
「古泉くん。キミから説明してやりたまえ。私が長門くんを呼んだ理由を」
「承知しました。会長」
のんびり苦笑していた説明好き古泉が、得たりとばかりに口を開きかけたが、
「説明なんかいらないわ」
ハルヒはあっさり断った。
「どうせ文芸部を潰そうとしてイチャモンつけてきたんでしょ。有希が部員でなくなれば部室も使えなくなるもんね。有希は素直ないい娘だから簡単に言いくるめられると思ったんでしょうけど、それが気に入んない。SOS団が目障りなのなら、こそこそ裏から工作しないで正面から言いに来ればいいのよ!」
自分のセリフに自分で激昂するハルヒ。それにしてもやたらと勘のいいところはさすがだった。これでは古泉も解説しようがなくてガッカリだろうと思っていたら、
「説明の手間が省けて助かりました。そういうことなんですよ」
古泉は安堵を装ったような笑顔を崩さずに、
「ですが、話はまだ途中だったのです。おそらく会長さんにもまだ言い足りないことがあるでしょう。いくら何でも、まったくの猶予もなく正式な部である文芸部を休部に追い込むのは無理があります。生徒会にそこまで強権があるとは思えないのですが、いかがでしょう、会長」
結局解説しやがった。白々しい三文芝居を見ている気分だぜと思って見ていると、会長はますます芝居じみた優等生顔を作った。
「無論、我々生徒会としても無駄な騒ぎにはしたくないところだ。文芸部が文芸部としてまともに活動しているのであれば、そもそも何一つ文句などないのだからな。問題視されているのは、何一つ活動していないというところにある」
「部活動強制停止以外に代案があるということでしょうか」と、すかさず応じる古泉。
「代案ではなく、条件だ」
会長は面倒くさそうに、
「文芸部として何か一つでもいい、早急に活動したまえ。そうすれば無期限休部の執行は一時凍結してもよい。部室の存続も認めよう」
ハルヒは上げていた片足を下ろした。ただし、まだ戦闘態勢を維持した顔と声で、
「やけに物わかりがいいわね。ついでにSOS団も認めてくんない? 同好会をすっとばして研究会扱いしてよ。そうしたら部費も分配されるんだったわよね?」
生徒手帳にはそう書いてあったな。しかしまだ同好会にもなっていない団を二階級特進させるほど会長もヤキが回っていないようで、
「そのような団など私は知らん。正式に存在しない団を部活認定することも、乏しい予算の中から割り当てを生んでやることもできん」
ゆっくり腕を組む会長は、睨んでくるハルヒの視線を普通に受け止めた。虚勢を張っているわけではない証拠に、会長は冷や汗一つかいていない。この余裕はどこから来るんだ。
「私の前であまり団団言わないでもらいたいものだ。いま話題にしているのは文芸部だ。キミたちが無許可でどんな団を結成していようが知るものか。知りたくもないのに私の耳に届けられたのは、それが文芸部の問題に絡んでいるからだ。これ以上、私を不愉快にしないでいただこう」
だったら放っておいてくれりゃいいのに、どんな回りくどい手を使ってもハルヒが生徒会室に突撃するのは時間の問題だった。今日中には飛び込んでいたに違いない。きっと俺のネクタイをつかんで引きずって行きながらな。
「文芸部の活動だが、当然、何でもいいというわけにはいかん。部室で読書会を開いたり、課題図書の感想文を書く----そんな小学生のような真似をしても認められん。私が認めないからだ」
「何しろっての?」
ハルヒは眼光をそのままにして、少し首を傾げる。
「キョン、文芸部って本読む以外に何するところなの? あんた知ってる?」
「知らん」
とは、俺の正直な胸の内。そういうことは長門に聞いたほうがいいだろうな。
「条件はただ一つ」
会長は俺たちの会話を無視するように言った。
「機関誌を作ることだ。歴代文芸部はたとえ部員不足に悩まされていたとしても毎年一冊は発行していた、と記録に残っている。目に見える活動として一番解りやすいだろう。文芸部というのは読んで字のごとく、文で芸をする部だ。読んでいるだけでは話にならん」
すると長門はこの一年まったく部員らしいことをしていなかったことになる。読んでいるだけだったからな。……この長門は。
思わず頭を振っていた。旧式パソコンの前で困ったような顔をしていた眼鏡の文芸部員のことをこんなところで思い出したくはない。夜見る夢の中に出てくるだけで充分だ。
「不服かね」
俺の仕草を勘違いしたのか、会長は自分のほうがよっぽど不服そうな顔をした。
「これが最低限の譲歩であることを忘れるな。本来なら文化祭時で告知するのが筋だったのだ。ここまで待ってやった私に少しは恩義を感じて欲しい。もっとも、私以外の者ならキミたちを永遠に放っておいたかもしれん」
俺や長門はともかく、ハルヒだけは放っておいて欲しかったぜ。
「そうはいかない。私は学内改革を選挙公約に唱えて生徒会長戦を勝ち抜いたのだ。知っての通り、それまでの生徒会は生徒会とは名ばかりで、そこに生徒の自主性が入る余地はほとんどなかった。職員室で作られた予定に従い、言われたことを真面目にするだけの空気組織だ」
会長は淡々と熱弁を振るう。
「そんな立場から脱却を私は目指す。生徒が望むなら学食のメニューを増やすことでも購買の内容を充実させることでも、どんな些末なことでも議題にかけ、学校サイドにかけあって実現の道を歩ませようと思っている」
生徒のためにがんばってくれるのは俺もありがたいが、なら一生徒の願いを聞く手始めに『同好会』や『研究部』の他に『団』ってのを認めるところから初めてはどうだろうか。
「私は真面目な改革を謳い文句にしている。そのような不真面目な団を公式に認可すれば、私の名声も地に落ちるだろう。認められるものか」
俺の要望を却下して会長は、
「期限は一週間。一週間後の今日に製本をすませた文芸部会誌を二百部用意してもらおう。さもなければ勧告通り文芸部は休部、部室は明け渡しだ。文句はいっさい受け付けない」
それにしても会誌とはね。文集みたいなものか。
「いいわよ」
ハルヒは簡単に受諾した。それはお前じゃなくて長門が言うべきセリフだぞ。
むろん長門は何も言わず。言いそうにもなかったからハルヒが代わりに言うのもいいのだが、この場の長門の沈黙はいつものダンマリとは毛色が違うように思われる。
「…………」
長門はずっと喜緑さんと向き合って、互いにまったく目をそらしていなかった。長門は無表情、喜緑さんは薄い微笑で。
何だか解らんが幸いなことなのだろう、ハルヒはそこにいるのがSOS団の初にして唯一の依頼人であった喜緑さんであることにまったく気づいていないようだ。会長を睨み付けるのに忙しすぎて書記にまでは気が回っていないらしい。顔を覚えていないのかもしれん。カマドウマを見てないしな。
ハルヒは与えられた命題の解読にかかっている数学者のような顔で、
「会誌、会誌ね。それって同人誌みたいなものでいいの? 小説とかエッセイとかコラムとかポエムとかが書いてあるようなやつよね」
「内容に対しては関知しない」と会長。「印刷室も自由に使いたまえ。何を書こうがキミたちの自由だ。ただし、第二条件がある。作成した会誌は渡り廊下にテーブルを設置し、その上において置け。無料配布であるのは言うまでもないが、ただ置くだけだ。客寄せや手渡しは許可しない。バニーガールなどもってのほかだ。あくまで無人で放置し、それで三日のうちに全部数が捌けないときはペナルティを科す」
「どんなペナルティ?」
バツゲームには目のないハルヒが瞳を輝かせて身を乗り出す。
会長は煩わしそうに、
「その時になったら、おって通達する。だが覚悟しておいてもらいたい。ボランティア活動の供給元はいくらでもある。何度も言うが、これでも譲歩しているほうだ」
一方的なお家断絶は悲劇的軋轢を発生させるおそれあり、と会長は考えたらしい。赤穂藩の歴史をひもとかなくてもそんくらいは誰でも容易に推測する。ましてや相手はハルヒだった。会長の首一つで満足するとは到底思えない。ヘタすりゃ学校そのものが消し飛ぶ。
これが妥協か譲歩かは後世の判断に任せるが、ともかく回避手段として生徒会側が提示したのが「機関誌の発行」だ。
機関誌と言っても古泉の背後関係とはまさしく無関係で、ようするに会誌だ。文芸部発行の。というからには文で芸をする部活動的産物を求められているようなのだが、いったいそれはどのようなものなのか。いったい誰が何を書くのか。いや、それよりハルヒが妙に嬉しそうになっているのをどう見るべきなんだ?
「面白そうじゃないの」
新たな遊びを覚えた子供のような笑みをハルヒは見せつけた。
「機関誌でも会誌でも同人誌でもいいわ。作んなきゃダメって言うんならやってやるわよ。有希のためだし。文芸部がなくなるのも困るもんね。あの部室はあたしのもので、あたしは自分のものを取られるのが何よりも嫌いだから」
ハルヒの腕は俺ではなく、長門の襟首に伸びた。
「さ、そうと決まればさっそく打ち合わせに入るわよ。有希、奥付の発行人のところはあなたの名前をクレジットするわ。もちろん他のことは全部あたしがやってあげるから心配しないで。まずは機関誌とやらの作り方を調べに行きましょう!」
ハルヒは長門の後ろ襟をつかむと、
「…………」
無言で佇んでいた長門をまるで風船か何かのように軽々と引き寄せ、ドカンと音を立ててドアを開くと、そのままライフル弾の初速じみた勢いで走り出す。
俺が振り返ったときには宙に浮いた長門の爪先だけが見えたが、それも一瞬で姿を消して、生徒会室に風のように飛び込んで来たハルヒは、勢力を増した台風となって去っていった。
「騒がしい女だ」
もっともな感想を言った会長が首を振りつつ、傍らのテーブルに目をやった。
「喜緑くん、キミももういい。退席してくれたまえ」
「はい、会長」
喜緑さんは素直にうなずき、議事録を閉じてすうっと立ち上がる。書棚にノートを戻すと会長に軽く会釈して歩き出した。
俺とすれ違い様、彼女はペコリと頭を下げた。そのまま目を合わさずにハルヒが開け放していったドアから出て行く。最後にふわりと翻った髪から、やけにいい香りがした。思わずクラリとくるような。
俺が長門と喜緑さんの関係性について思いをはせていると、会長が鼻を鳴らして言った。
「古泉、ドアを閉めろ」
その口調が先程までとえらく様変わりしているように感じて、俺は会長に目を戻した。
古泉がドアを閉め、施錠までするのを確認した会長は、手近なパイプ椅子を引き寄せると乱暴に腰を下ろし、テーブルの上に足を投げ出した。
何だ?
しかし驚くのはまだ早かった。会長は顔をしかめながら制服のポケットを探り、タバコとライターを出したかと思ったら、ひょいと口にくわえて火をつけ、紫煙をくゆらせ始めたではないか。
どう考えても生徒会長がしていい行為ではなかろう。俺が消防士の放火現場を見つけたような気分になっていると、
「これでいいんだな、古泉」
会長はタバコをくわえたまま眼鏡を外し、ポケットに仕舞う代わりに携帯灰皿を出してきて、
「ちと予定が変わったが、お前の言うとおりにしてやった。俺にアホな真似させやがって、まったく面倒くせえ。こっちの身になれってんだ。くそ真面目な声で喋り通すのも疲れんだぜ」
煙を吐いてタバコの灰を灰皿に落とし、会長はそれまで保っていたクールな表情を豹変させた。
「何が生徒会長だ。そんなもんになりたくなかったっつーの。いい迷惑だ。しかもやることと言ったらあの頭のニギヤカな女の相手かよ。なんちゅう下らん仕事だ」
一瞬にしてすっかりヤサぐれた会長は、マズそうにふかしていたタバコを灰皿の縁に押しつけて火を消すと、新たなタバコを捻り出して俺に向けてきた。
「お前もやるか」
「遠慮しておきます」
俺は首を振り、振ったついでに古泉の微笑み横顔に視線を突き刺した。
「この会長はお前の仲間か」
だろうとは思っていた。妙なアイコンタクトしてやがったし、文芸部について話があるなら古泉など通さず長門を直接呼び出せばいいことだ。よく考えるまでもなく、俺まで連れてくる理由など生徒会側にはないはずである。
古泉は俺の視線を受け止め、ひけらかすような笑顔で答える。
「仲間と言えば仲間ですが、新川さんや森さんのような仲間とは意味合いが異なりますね。彼は『機関』に直接所属しているわけではありません」
古泉は二本目のタバコの煙を天井に吹きかけている会長を一瞥し、
「我々の学内協力者です。ある程度の理由を話して、条件付きで協力してもらっているんですよ。僕や森さんたちが内陣だとすると、彼は外陣です」
何人でもいいが、しかし何で生徒会長をこんなのがやってんだ?
「それは僕がけっこう苦労した結果と言えます。その気のなかった彼を立候補させ、前生徒会が推薦した最有力候補と票田を争い、多数派工作に明けくれて選挙戦を有利に働かせ、ようやく会長に担ぎ上げることに成功したのですからね。なかなか手間のかかる仕事でしたよ」
呆れる話だ。
「彼を首尾よく会長選挙で当選させるのに、ちょっとした政党が衆院選の解散総選挙の対策費にかけたぶんと同じくらいの費用が必要でした」
呆れを通り越して気力の抜ける話だ。
「その古泉の話によるとだな」
会長は不機嫌に煙を吐きつつ、
「涼宮とかいうバカ女が変なことを思いつく前にだ、あらかじめそれっぽいのが生徒会長になっておく必要があったんだとよ。つうこって、俺は生徒会長っぽい顔をしているってだけでこの役をさせられてるんだ。こんなバカげた話があるか。ダテ眼鏡までかけさせやがって」
もう呆れる以前の話になってきた。
「涼宮さんが思い描く生と会長像を総合的に検討したところ、この高校で一番ぴったりだったのが彼だったんですよ。この際、資質は問いません。重要なのはルックスと雰囲気なんです」
古泉の説明に不覚にも納得しかけてしまった。
眼鏡をかけた長身のハンサムで、意味もなく尊大そうな上級生。生徒会長という立場を嵩に弱小文化系部にイチャモンをつけてくるハルヒ的悪者のポジションにいる役回り。
いかにもハルヒが待ち望んでいたような、手っ取り早い悪役だ。
だが、ハルヒの思い通りの生徒会長を生み出すのにそんだけ苦労したということは、ハルヒもそんなに万能ではないってことだよな。あいつが本当に全知全能の神様なら、何だって労することもなくやってのけるだろう。お前が苦労して工作したということは、まさしくそうじゃねえか。
「しかし僕たちが奮闘した結果、涼宮さんの望み通りの会長を生み出したのですから、やはり彼女の願望はオールマイティに実現するということでいいのではないでしょうかね。結果的にその通りになっていますから」
ああ言えばこう言うヤツだ。古泉に口で勝るのは鶴屋さんくらいだろう。
会長はイライラとタバコをもみ消し、
「とにかく古泉。来年は貴様が立候補して生徒会長になれ。涼宮とかが立候補するような事態を防ぎたいと言うなら、今度は自分でやっちまえ」
「さあ、どうしましょうね。僕は割といそがしい身体ですし、このごろでは涼宮さんが生徒会長でも問題ないような気がしているんですが」
大問題だろうよ。ハルヒが自ら学校征服に乗り出したらどうする。なんだか俺たちまで面倒事に巻き込まれそうな予感があるぞ。北高生徒総SOS団化を計画するかもしれん。あいつのことだ、生徒会長にとって生徒全員は自分の部下であるなどと思い込みかねない。学校のすべてが異空間になりそうだ。
まあ、まともな投票をする限りハルヒが生徒会長の座につくとは思えないからそれはいい。俺はまだ北高生たちの常識や良識といったものを信じている。古泉が変な真似をしなければ、たとえどんな選挙活動をしようとハルヒが全校生徒のトップに君臨することはないだろう。
俺は溜息をつきながら、
「つまり古泉、これもお前のシナリオなんだな。文芸部潰しを生徒会が図った----と見せかけて、またあいつの暇つぶしのタネをまいたというわけだ」
「まさしくタネだけですけどね」
古泉は漂ってきた煙を息で飛ばして、
「ここからどうなるのかは未知数です。期限までに会誌が出来上がればよし、もし仕上がらなかったり、条件を満たされなければ……」
ひょいと肩をすくめる。
「その時はその時で、別の遊びを考えましょう。あなたもブレーンの一人に迎えますよ」
オブザーバーとしてなら参加してもいいが、自分が背負い込むことになる問題を自分で出題する立場などゴメンだな。だいたいそんなことをして何の得になる。
「俺が生徒会長をやっているのはだな、」と不良会長。「これはこれで旨味があるからだ。まずは内申点。古泉が俺の説得に使った理由でそれが最大の魅力だ。大学受験を有利にしてやるとお前は言った。忘れてんじゃねえだろうな」
「もちろん覚えていますよ。当然、そのように取りはからいます」
会長は怪しい者に職務質問するような目を古泉に向け、ふん、と鼻から息を吐き出し、
「だといいがなぁ。やりたくもない生徒会長など面倒なだけだが、この数ヶ月で多少解ったこともある。今までの生徒会は本当に下らん連中揃いだった。あってもなくてもいいほどだったぜ。ってことは、これからいくらでも弄りようがあるってことだ」
ここで初めて会長は笑みを作った。少々あくどさを感じるものだったが、冷静仮面よりはよほど人間的な表情だ。
「生徒の自主性を重んじる、ってのはいいお題目だ。解釈によってどうとでも取れるからな。特に予算には興味が刺激される。これはこれでなかなかオイシい目にありつけそうだ」
とんだ会長がいたものだ。さすがハルヒの眼鏡にかないそうなのを連れてきただけのことはある。確かに悪党だ。
「少しばかりの職権の乱用は認めますが」と古泉もしれっと、「あまり調子に乗らないでくださいよ。いくら我々がフォローするといっても限界がありますからね」
「解ってるさ。教師どもに気取られるようなヘマは打たねえし、執行部員の人心掌握も終わっている。うるさいこと言う前生徒会の残党も適当な理由をつけて一掃してやったしな。俺に楯突く連中はもういねえよ」
この会長が好きになりかけてきた。ロクでもないことを言いつつ、何やら奇妙な求心力を感じる。この男ならついていってもだいじょうぶかという気にもなるのだが……。
不意に鶴屋さんの顔が警告音とともに脳裏に浮かび上がった。廊下で出会った彼女のセリフは今や明快だ。あの鋭敏な第六感を持つ人は、今期の生徒会やこの会長に潜む裏面があることを悟っている。生徒会のスパイ----そりゃ俺じゃなくて古泉でしたよ、鶴屋さん。スパイどころか黒幕でした。
この会長が私服を肥やそうが悪行三昧しようが別にかまわないが、万が一ハルヒがそれに気づいたりしたら即座にリコールを企てて次期会長に鶴屋さんを推薦するかもしれない。そして鶴屋さんも大笑いしながら共に突進するような気がする。そうなれば自動的に俺も古泉もハルヒサイドにつくことになり、会長は失脚する。
やっぱり影ながら活躍を祈らせてもらうだけにするよ、会長さん。俺たちの見えないところで何なりとやっておいてくれ。
まあ俺が言わずともそうするつもりだろうし、ちょくちょくハルヒにちょっかいをかけてくる役を演じるのだろうが、つつく角度だけは間違えないで欲しいものだ。
古泉と肩を並べて生徒会室を出て、部室に戻る校内を歩きながら、俺は尋ねておかねばならないことを思い出した。
「会長にお前の息がかかっていることはよく解った。それで書記のほうはどうなんだ? あの喜緑さんは、彼女もお前の協力者か?」
「違います」
古泉は何でもなさそうに、
「喜緑さんはいつのまにか書記のポストに就いていました。本当に気づいたらそこにいたので、それまでまったく気づかなかったくらいですよ。現生徒会の初期段階では別の生徒が書記に任命されていたような気もするんですけどね。後から調べてみたところ、すべての文書記録には最初から彼女が書記であったかのように記載されていました。記憶もです。会長を含めて誰一人疑問を持っていません。改竄されたのだとしても常識外の改竄です」
常識外ならもっと驚きを持って話したらどうだ。
「その程度で驚いていては、もっと驚くべきことが起こった瞬間に心停止するかもしれませんね」
悠々と歩きながら古泉は廊下の窓へと顔を向け、
「喜緑江美里さんは長門さんのお仲間ですよ。まず間違いなくね」
そうだろうなとは思ったさ。カマドウマの時に依頼に来た喜緑さん、あれはあまりに都合がよすぎた。それだけなら長門が全部根回ししてくれたんだと納得してもよかったが、今回の様子からしてさっきの出会いは偶然じゃなかろう。どのくらいの仲間なのかが気がかりなんだ。
「朝倉涼子のこともありますしね。しかしその点はそう心配することもないでしょう。喜緑さんと長門さんは割合に近い関係にあるようです。少なくとも敵対はしていません」
なぜ解る。仲がよさそうには見えなかったぜ。悪くもなさそうだが。
「我々『機関』の情報収集能力を少し評価してもらいたいですね。多いとは言えませんが、『機関』は長門さんと同様のTFEI何人かと接触し、意志の疎通を図っています。彼らは決して協力的ではないものの、会話の断片から推論を働かせることができます。どうやら喜緑さんは情報統合思念体の内でも長門さんとは別の流派から派遣されているらしい。しかし朝倉涼子と違い、攻撃的でないことも解っています」
こんなことを世間話のように言う古泉も聞いている俺もどうかという気はするが、今に始まったことでもないから俺も古泉も気にしたりはしない。
にしても宇宙人にも色々あるのは知っていたが、それが喜緑さんだったとはな。生徒会室で怒り心頭化していた長門を諌めたような気配からして、穏便な一派なんだろう。
「たぶんね。彼女を過剰に意識する必要はないと判断しています。僕が思うに、喜緑さんは長門さんのお目付け役ですよ。いつからなのかは知りませんが、今はそのような役割に落ち着いているようです」
古泉は遠足で山を登っている最中のような声で言い、俺もそれ以上追及しなかった。長門に関しては俺の中にも思い出がいろいろある。それは出来れば秘めておきたいことのほうが多い。いくらSOS団の一員とはいえ、古泉に何度も説明してやるものでもないさ。一人で思い出すだけなら何度でも記憶を再生してやるんだが。
なんとなく黙りこくって俺は部室棟への歩みを早め、古泉も口を閉ざしてついてくる。
矢継ぎ早にヘンテコな情報をインプットすると、どうしても後から聞いたほうが残存する。
だから、忘れていたわけじゃないんだ。
長門をかっさらうようにして飛び出していったハルヒが中にいるだろうってことを。
ただちょっとぼんやり考え事をしていただけさ。アウトローな生徒会長とか喜緑さんのこととか。
文芸部のドアを開けた俺は、ハルヒの一喝によって白昼夢から戻された。
「遅いわよ、キョン! 古泉くんもっ。何してたの? もう、時間は限られているのよ! 手早く取りかからないとダメじゃないの!」
非常に嬉しそうなのは今に限ったことではなく、何でもいいからゴール地点のある目標を目指すと決めたハルヒは必ずこんな顔をするのである。
「文芸部が作ったっていう会誌を必死になって探しちゃったわ。有希に聞いても知らないって言うしさ」
その長門はテーブルの隅っこでポツンと席に着いている。じいっと見つめているのは、コンピュータ研が置いていったノートパソコンの画面だった。
「あのぅ……」
困っている顔の朝比奈さんがメイド衣装でもじもじと立っている。
「本を作るんですか? あたしたちがですか? その、どんなのを書けばいいんでしょうか……」
これも忘れていたわけじゃないんだ。生徒会長に言われた文芸部の会誌作りをハルヒは丸飲みした。それは長門のためである。長門は唯一の文芸部員で、実はそれ以外のメンツは部外者にもかかわらず部室を占有している学内非合法組織のメンバーであり、しかしそんな団の団長がオーケーしてしまったからには会誌作りはSOS団の連帯責任となり、つまり責任の一端は確実に俺の頭上から降り注ぎ、会誌というのは誰かが何かを書かねば成立しないものである以上、その誰かとは俺を含めた団員以外になかった。
「さあ、これを引いてちょうだい」
折りたたんだ紙切れが四つ、ハルヒの掌の上に乗せられていた。教室で席替えするときのような紙のクジ。いったいこのクジで何を決めるのかといぶかりながらも俺はその一つを指で摘んだ。途端にニヤリとするハルヒ。
古泉が面白そうに、朝比奈さんはビクビクと紙切れを手に取り、ハルヒは最後のクジを長門に渡すと、
「そこに書いてあるものを書いてちょうだい。それを会誌に載せるから。そうと決まったからには早く席について! 執筆に入ってちょうだい!」
俺はイヤな予感に頭頂部を貫かれながら、ノートの切れ端で作られた紙のクジを開いていく。ハルヒの文字が活け作りにされたばかりの魚のように躍っていた。
「恋愛小説」
口に出して読み上げてみた。そしてすぐさま悩みに入る。恋愛小説だって? 俺が? そんなもんを書くのか?
「そうよ」
と、ハルヒが人の弱みに付け込む策略家のような笑みで、
「公明正大なクジ引きで決まったことよ。文句はいっさい受け付けないわ。さあ、何してんのよ、キョン。さっさとパソコンの前に移動しなさいよ」
見ると、テーブルには人数分のノートパソコンが置かれて起動状態にあった。用意がいいのは手間がかからなくていいのだが、書けと言われてほいさっさと書けるか。
自分が手にしている紙切れをピンの抜けた手榴弾のように思いつつ、
「古泉、お前は何だった?」
出来れば交換して欲しいと思ったあげくの救いを求める問いかけだったのだが、
「ミステリー……とありますね」
古泉はもとの爽やかなスマイルで答え、特に困った顔をしていない。例によって困り顔の朝比奈さんが、
「あたしは、童話です。童話っていうのは子供向けの、ええと寝付きをよくするためのお話でいいんでしょうか?」
俺に聞かれても答えようがない。しかしミステリーに童話か。恋愛小説とどっちがマシだ。
俺は長門に目を向ける。静かに紙切れを開いていた長門は、俺に視線に気づくとヒラリと手首を返してハルヒの元気文字を見せてくれた。そこには「幻想ホラー」とある。
幻想ホラーとミステリーの違いがよく解らないが、
「少なくとも恋愛小説でなくてホッしました。それはちょっと、僕には書けそうにありませんから」
古泉は俺の神経を逆なでするようなことを言い、あからさまに安堵しているようだった。どうして安心できるのかコツを知りたい。
「簡単ですよ。僕の場合、去年の夏か今年の冬におこなったミステリゲームを、あたかも本当の事件であったかのようにノベライズすればいいのです。もともとあれは僕のシナリオでしたから」
涼しい顔で古泉はテーブルに向かい、余裕の顔つきでノートパソコンを操作し始める。長門は液晶に目を落としたままピクリともしていない。幻想ホラーとは何かと思案しているのかもしれないし、喜緑さんのことを考えているのかもしれなかった。
何の説明もなかったのだろう。朝比奈さんは目の中にハテナマークを散らしておろおろするばかりであり、それは俺もそうだった。よく考えてみよう。紙切れのクジは四つだったSOS団は総勢五人である。
「ハルヒ」
俺は、笑気ガスを吸い込んだ仁王像のように立っている団長に、
「お前は何を書くんだ?」
「そりゃ、何かは書くわよ」
ハルヒは団長机に座ると、置いてあった腕章を取り上げた。
「でもね、あたしにはもっと大切な仕事があんの。いい? 本を作るには色々な作業があるらしいの。監督する人がいるわけよ。あたしがそれをやってあげようっていうの」
すちゃと腕章を装着したハルヒは、傲然と胸を反らして言い放った。
「今日から一週間、あたしは団長であることを一時封印するわ。ここは文芸部なんだから、違う役職のほうがふさわしいからね」
燦然と輝く新しい腕章がすべてを物語っていた。
こうしてハルヒは勝手に自分を編集長に自選し、途方に暮れる俺と朝比奈さんを無視して怪気炎を上げた。
「さあみんな! キリキリ働きなさい! 四の五の言わずにとにかく書くの。面白いのをね」
ハルヒは団長机にふんぞり返って、哀れな団員たちを睥睨した。
「もちろん、あたしが面白いと思うものじゃなきゃダメよ」
というわけで----。
その日から一週間、文芸部の部室に常駐する俺たちは、やにわに文芸部的な活動にいそしむことになった。、
健気さの最先端を走っているのは朝比奈さんだった。童話に決まったのは彼女らしくていいのだが、いきなり書けといわれてすんなり書けるようなら誰だって簡単に童話作家になれる。
それでも朝比奈さんは努力家だった。図書室から借り出してきた本をテーブルに山積みして真剣な顔で読みつつ、ところどころにポストイットを貼り付けつつ、せっせと鉛筆を動かしている。
いっぽうのハルヒは漫画研究部から資料として借りてきた同人誌を眺めてニヤニヤしているか、団長机のデスクトップパソコンでネットをさまよっているかがメインの仕事になっていた。
朝比奈さんは着々と原稿を提出し、ハルヒは着々と没にし続ける。
「うーん」
ハルヒはもっともらしく呻りながら、へろへろになった朝比奈さんが出してきた何度目かの原稿を読み終え、
「だいぶマシになってきたけど、やっぱりインパクトに欠けるわねえ。そうだわ、みくるちゃん、挿絵をつけてみなさいよ。絵本みたいな感じにするわけ。パッと見て見栄えもよくなるし、文章だけじゃ出せない味も出てくるわ」
「絵ですかあ」
さらなる無理難題に朝比奈さんは泣きそうである。しかしハルヒ編集長が一度言い出したことを覆すのは並大抵のことではなく、朝比奈さんは今度はしこしこと絵を描くはめに陥った。
これまた生真面目な朝比奈さんは、美術部に出かけてデッサンのレクチャーを受けたり、漫研まで出向いて四コマの書き方を学んだりと、何もそこまでせんでもと言いたくなるほどのがんばりを見せ、当然お茶を入れる余裕もないため、しばらく俺は自分か古泉の入れた味もそっけもない緑茶を黙々飲みつつ、ただ時間を無為に過ごしていた。
よりによって恋愛小説はないだろうよ。猫の観察日記ならネタがいくらでもあるんだが。
快調に筆が進んでいるのは古泉のみで、長門ですらたまにキーを押すくらい。ゲーム対戦の高速タッチタイピングが嘘のようだが、どうやら頭にある情報を言葉に置き換えるのはあまり得意ではないらしい。無口なのはそのあたりに理由の一片があったのかと思い始め、それでも長門の書く幻想ホラーとやらに興味を引かれてディスプレイを覗き込むと、
「…………」
長門はすっとノートパソコンを横に向け、俺の目からディスプレイを守って無表情に見上げてきた。
いいじゃないか、少しくらい。
「だめ」
長門はポツリと言い、俺が覗こうとするたびにパソコンの角度を絶妙なタイミングでさっと変える。何度試しても無理だった。ちょっと面白くなりかけていた俺は、しばらく長門の後ろで反復横跳びをしてみたが、反射神経で長門に勝ることはできず、ついに、
「…………」
無言の視線を直角に刺してくる長門にあっさり撃退されるに至った。俺は自分の席に戻り、一文字も書けていないワープロソフトの白い画面を監視する作業に移り----。
まあ、ここんとこ部室で繰り広げられるのは、そんな感じの数日間だ。
いささか手詰まりになってきたので、ややフライング気味になるが、ここで気分転換もかねて朝比奈さんの童話絵本を先取りして紹介しておこう。
編集長ハルヒによって没の連続にあい、絵をつけることを命じられ、悩み続けた朝比奈さんの作品は、言葉選びに四苦八苦する様を見かねた俺の助言に加え、ついには編集長自らの手で加筆修正されて完成した。
まあ、とりあえず御覧いただこう。
①
そんなに昔のことじゃないんですけど、今よりは前にあったお話です。
とある小さな国の森の奥深くに、一軒の山小屋がありました。
そこでは白雪姫が七人のこびとさんたちといっしょに住んでいました。
その白雪姫は追い出されたんじゃなくて、自分でお城を家出して来たんです。お城の生活はあんまり面白くなかったみたいです。小さな国でしたが彼女もお姫様なので、ゆくゆくは政略結婚の道具にされるのが決まってました。そんなのイヤですよね。白雪姫もそうだったんです。
だけど森の暮らしもだんだん飽きてきます。
こびとさんたちのおかげで衣食住に困ることはありませんでしたし、森の動物たちとはすっかり仲良しになりましたが、お城はお城であれでよかったかな、と思うようになりました。
わがまま言って飛び出してきたけど、お城にいたのはいい人ばかりでした。政略結婚もしかたがないのです。群雄が割拠するその時代、小国が生き延びるには強いところに人質を送って同盟を結んでおかないといけません。
②
同じころ、森の近くにある海で泳いでいた人魚が、難破した船から投げ出された王子様を助けていました。
人魚は王子様を岸まで運びますが、気絶した王子様はずっと眠り続けています。何をしても起きません。困った人魚は白雪姫のところにつれて行くことにしました。
白雪姫とは彼女が森に来たときから友達づきあいをしていました。人魚は白雪姫から「面白いものを見つけたら持ってくるように」と言われていたことを思い出したのです。
人魚は人のいい魔女さんに尾ビレを足に変えてもらうと、意識を失った王子様をこびとさんの小屋まで背負っていきました。
人魚のつれてきた王子様を見ても、白雪姫はあまり喜びませんでした。彼女の思う面白いものとはちょっと違っていたからです。眠り続けたままの王子様は面白いことをしてくれませんし……。
それでも最初のうちは看病することが面白かったのですが、白雪姫はやっぱりだんだんつまらなくなってきます。だって全然目を覚ましません。寝顔を見ているのも飽きてきちゃいました。
強く叩いたら起きるかしら、と考え始めていたとき、白雪姫のもとにお城から急使が来ました。
その使者は言いました。隣の大帝国がとつぜん大軍を動員して国境を越え、お城を包囲してしまった、このままでは遠からず陥落する、いやもう陥落したころだろう、と。
大変です。
③
それを聞いた白雪姫は、いつまで待っても起きない王子様の看病を人魚に任せると、七人のこびとさんをつれて森を出ました。まず向かったところは険しい山です。そこには世捨て人となった軍師さんが一人で住んでいました。本当なら三回訪ねないと仲間になってくれないのですが、白雪姫はこびとさんたちに命じて軍師さんを捕まえさせ、参謀長に任命しました。軍師さんは苦笑いしてましたが、「まあ、いいでしょう」と言って白雪姫に忠誠を誓います。
こうして合計九人となった白雪姫一行は、山を下りるや否や帝国軍がまだ来ていない町や村をめぐって義勇兵を募りました。大帝国の軍勢をやっつけるには全然足りない数しか集まりませんでしたけど、白雪姫は反帝国の旗印を掲げてお城を目指します。迎撃に来た帝国軍を次々打ち負かし、各地で連戦連勝して、ついにお城を奪回、撤退した帝国軍を追撃して壊滅させると、そこから逆侵攻してあっというまに帝国を滅ぼし、自分の国の領土にしてしまいました。びっくりです。
それだけで終わらなかったんです。白雪姫と軍師さんと七人のこびとさんたちは、大軍を結成して大陸全土を駆けめぐり、いろんな戦略や陰謀をつかって大陸を統一してしまいました。戦国の時代が終わり、平和な天下泰平の世が訪れました。
④
もうすることがなくなった白雪姫は、あとのことを軍師さんに任せて森に帰ることにしました。政略結婚の心配はなくなりましたけど、お城に戻っても退屈な毎日です。それなら森で自由に遊ぶほうがよかったのです。
七人のこびとさんと小屋に戻った白雪姫は、王子様がまだ眠り続けているのを見てびっくりします。すっかり忘れていたのです。
あ、その間、人魚はちゃんと王子様の看病をしてましたよ。
白雪姫は森の熊さんがお見舞いに持ってきていたリンゴを握ると、それで王子様の頭を叩きました。
「いつまで寝てるのよ、さっさと起きなさい」
王子様が目を覚ましたのは、それから三日後のことだったそうです。
その後の皆さんがどうなったのか、まだ誰も知りません。
でも、きっと、みんな幸せになったと思います。そうだったらいいなと思います。
……何というか、朝比奈さんらしいと言うか、昔話をごちゃごちゃにして戦記物を混ぜ込んだような寓話だが、必死な感じだけは我が事のように伝わってくる。これだけやってくれたらもう充分だ。どの辺にハルヒの手が入っているのかは想像に任せよう。
さて、朝比奈さんの心配はいいとして、問題は俺に与えられた課題が未だ手つかずなところである。だいたい俺に小説を書けってのが最初からして無理筋で、しかも恋愛がテーマときた日には、これはもう無理を通り越して見知らぬ概念の世界だ。どうしたものだろうね。
その一方で、意外にもハルヒは割に編集長らしい活動に従事していた。
俺たち四人分の原稿ではページ数が不足する、バラエティにも欠けると言い出したハルヒは、とうとうライターを外注募集する手段に出たのである。
真っ先に餌食となったのは谷口と国木田で、続いて鶴屋さんとコンピュータ研部長がハルヒの設定した締め切りを抱える身分となった。
ハルヒ的にはその全員が準団員みたいなものになっているらしいが、文芸部とはまったくの無関係だろうに。
しかし俺に同情するヒマはなく、むしろ俺が書かされる負担が消えてくれたらそのほうがいい。ハルヒが俺の文章的逃亡を見逃してくれるとは思えないが。
悪ぶった生徒会長の設定した期限がこくこくと迫る中、谷口の上げる、「何で俺が面白日常エッセイなんかを書かんといかんのだ!」という怨嗟の声と、「まあまあ谷口。僕の科目別役立ち学習コラム十二本よりマシじゃないか」という国木田の悠長な声を耳に突き刺しながら朝のホームルームを待っていたある日。
俺より遅れて登校してきたハルヒは、おはようも言わずにコピー用紙を突きつけた。
「何だよ」
「昨日、帰り際に有希が出してきた原稿よ」
ハルヒは外れた歯の詰め物を歯磨き粉と一緒に飲み込んだような顔をして、
「もらってから家でじっくり読んでみたんだけど、なんだか変な小説なのよ。幻想的だしホラーと言えばホラーだけど、評価に困っちゃうわ。分量もショートショートくらいしかないしね。ちょっと、あんた読んでみてよ」
言われずとも長門の書く文章ならいくらでも読んでみたいさ。
俺はハルヒからコピー用紙を受け取ると、印字された文章を目で追い始めた。
『無題1』 長門有希
自分は幽霊だ、と言う少女に出会ったのは××××ほど前のことだ。
私が彼女に名を問うと、彼女は「名前はありません」と答えた。「名前がないから、幽霊なのです。あなたも同じでしょう」そう言って少女は笑った。
そうだった。私も幽霊だったのだ。幽霊と会話できる存在がいるとしたら、その存在も幽霊なのである。今の私のように。
「それでは行きましょう」
彼女が言うので、私もついていく。少女の足取りは軽く、まるで生きているように見えた。どこへ行くのかと尋ねた私に、少女は足を止めて振り向いた。
「どこへでも行くことはできます。あなたの行きたい場所はどこですか?」
私はしばらく考え込んだ。私はどこに行こうとしていたのだろう。ここはどこだろう。なぜ私はここにいるのだろう。
ただ立ちつくす私は、少女の暗い瞳を見つめるしかなかった。
「××××へ行こうと思っていたのではないですか?」
解答を出したのは少女だった。その言葉を聞いてようやく、私は自分の役割を知った。そうだ。私はそこに行こうとしていたのだ。どうして忘れていたのだろう。こんなに重要な事柄を、私が生きて存在する意義を。
忘れてはいけないことだったはずなのに。
「では、もういいですね」
少女は嬉しそうに微笑んだ。私は頷いて、彼女に感謝の言葉を述べた。
「さようなら」
少女は消えて、私は残された。彼女は彼女の場所へと戻ったのだろう。私が私の場所へ戻ろうとしているように。
空から白いものが落ちてきた。たくさんの、小さな、不安定な、水の結晶。それらは地表に落ちて消えゆく。
時空に溢れている奇蹟の一つだった。この世界には奇蹟がありふれている。私はずっと立ち止まっていた。時間の経過は意味をなさなくなっていた。
綿を連ねるような奇蹟は後から後から降り続く。
これを私の名前としよう。
そう思い、思ったことで私は幽霊でなくなった。
「はうむ……?」
そこまで読んで顔を上げた。
朝のホームルーム前、級友どもがちゃくちゃくとやってくるいつもの風景が教室内に広がっている。これもいつもならハルヒは俺の真後ろの席で窓の外を眺めているか、シャープペンで俺の背中を突っついたりしているのだが、この時のハルヒは首を伸ばして俺の手元をのぞき込み、困ったような、それでいて考え込むような顔で俺が持つコピー用紙の文字を目で追っていた。
まあ、俺もハルヒと似たり寄ったりの顔をしていることだろう。
そうなるだけのものが書いてあったからな。朝一番に読まされるには、少々難解すぎるような気がするぜ。
確か、長門が引いたクジには『幻想ホラー』とあったはずだ。
俺は長門の小説から上げた目を、横にあったハルヒの横顔に向けた。
「おいハルヒ、俺は幻想にもホラーにも明るくないが、最近の幻想ホラーとはこういうものなのか?」
「あたしもよく知らないわ」
ハルヒは顎に手をかけて、判断に困るものを書いてきた作家を前にした編集者のように首を傾げた。
「幻想的だとは思うけど、ちっともホラーじゃないわよね。でも、うーん。有希らしいと言えばそんな感じ? ひょっとしたら、有希はそういうのが怖いのかもしんないしさ」
長門が恐怖を感じる対象なんかがあるとしたら、俺にしてみりゃ最大最凶の恐怖となるだろう。さすがにそんなもんには出てきて欲しくないな。たとえ小説の中であろうと。
「ところで、お前」
俺はハルヒの困惑顔を新鮮な思いで眺めつつ、
「幻想ホラーが何かも知らんのに、そんなもんを書かせようとしたのか。少しは考えてジャンルを決定しろよ」
「考えたわよ。少しはね」
ハルヒは俺の手から一枚目のコピー用紙を取り上げて、
「ただのホラーじゃ面白くないと思ったから幻想をつけたの。クジに書いたあのジャンルだって熟慮した結果よ。ミステリーと童話と恋愛小説----ときたら、後はホラーでしょ」
SFが抜けてるぜ。それにジャンル選定に三秒以上考えたとは思えんな。適当に思いついた順に書き殴っただけだろう。
ハルヒは小さく笑い。
「できるだけミスキャストで変なのを書かせようと思っただけよ。SFなら有希が得意そうだし、それじゃつまんないでしょ?」
思わずギクリとし、俺は見えざる手で胸をなで下ろした。それがSFになるのかどうかはともかく、長門なら宇宙的なものをさらりと書いてしまうかもしれない。なんせ宇宙人だ。もしやハルヒが気づいているのかと思ったのだが、長門の蔵書内にSFが数多く含まれていることはハルヒにも自明だから、こいつが長門の得意分野を知っていても不思議はない。
いや待てよ。だったらミステリだって似たようなもののはずだが。
「うん、できればみくるちゃんかあんたにミステリー書いて欲しかったわ。どんな突拍子もないものを出してくるのか興味があったから。SFだと突拍子なさすぎても何だって許されるところがあるもん、だからよ。断腸の思いで削ったわけ」
それは偏見だろうと言い返したいところだったが、今さらクジ引きの内容や結果にイチャモンをつけても時間はリセットされない。目下のところ俺の義務となっている『恋愛小説』なる執筆命令が解除されることもないだろうし、ついでに言えば、ミステリーも童話も幻想ホラーも俺には書けそうになく、かといって恋愛小説ならマシというわけでもない。ただ、SFならばちょっとは経験則が生かせたかもな。もっとも、俺の実体験をそのままハルヒ編集長に教えてやろうとは思わないが。
ハルヒは長門の幻想ホラーSSをひらひらさせながら、
「ま、古泉くんにミステリーが当たってよかったわ。やっぱ、最低一個くらいはまともに読めるものがないと会誌になりそうにないしさ。奇をてらってばかりいると読者に逃げられちゃうもんね」
こいつ、文芸部会誌をこのまま定期刊行化させるつもりじゃねえだろうな。今回はこれはあくまで生徒会長の陰謀をくじくための緊急措置だ。思い出させてやる必要があるかもしれない。SOS団は文芸部を同梱しているのではなく、文芸部に寄生しているだけなんだぜ。
「わかってるわよ、それくらい。あんたに教わることなんか学校の内外を問わず何一つ思いつかないくらいよ。なぜならあたしは団長で、あんたは団員その一だからね」
ハルヒはじろりと俺に視線を浴びせ、
「そんなことはいいのよ。有希の小説には続きがあるの。二枚目も読んでちょうだい」
俺は自分の手に残っていたコピー用紙に目を落とした。長門の手書きかと思うくらいに綺麗な明朝体で印字された文章を読み始めた。
『無題2』 長門有希
その時まで、私は一人ではなかった。多くの私がいる。集合の中に私もいた。
氷のように共にいた仲間たちは、そのうち水のように広がり、ついには蒸気のように拡散した。
その蒸気の一粒子が私だった。
私はどこにでも行くことが出来た。様々な場所に行き、様々なものを見た。しかし私は学ばない。見るだけの行為、それだけが私に許された機能だ。
長い間、私はそうしてきた。時間は無意味。偽りの世界ではすべての現象は意味を持たない。
しかし、やがて私は意味を見つけた。存在の証明。
物質と物質は引きつけ合う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ。
光と闇と矛盾と常識。私は出会い、それぞれ交わった。私にその機能はないが、そうしてもよいかもしれないことだった。
仮に許されるなら、私はそうするだろう。
待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。
ほんのちっぽけな奇蹟。
二枚目はこれで終わっていた。
「ううむむ……」
俺は首をひねりつつ、何度となく読み返す。ホラーでもなければ幻想ホラーともいいがたく、どうも小説ですらないような気もするが、あえてどちらかと言えば私小説っぽい。あるいは何かの感想か、単に思いついた言葉を並べ立てただけのようにも思える。
長門の小説か……。
読みながら、俺は別のことを考えていた。どうやっても忘れることなどできそうにない、あの去年の十二月のこと。そして、あの中身が違ってしまった長門のことをだ。あの時、文芸部にいた長門なら、ひょっとしたら小説を書いていたのかもしれない。旧式のパソコンで、たった一人の部室の中で……。
俺の沈黙と、思案顔をどう思ったのか、ハルヒは二枚目のコピー用紙を俺の指から取り上げ、
「それが最後、三枚目よ。読めば読むほど解らない話だわ。ぜひあんたの感想を聞きたいところ」
『無題3』 長門有希
その部屋には黒い棺桶が置いてあった。他には何もない。
暗い部屋の真中にある棺桶の上に、一人の男が座っていた。
「こんにちは」
彼は私に言う。笑っていた。
こんにちは
私も彼に言う。私の表情はわからない。
私が立ち続けていると、男の後ろに白い布が舞い降りた。闇の中、その布は淡い光に包まれていた。
「遅れてしまいました」
白い布が言った。それは、白く大きな布を被った人間だった。目にあたるところが丸く切り取られ、黒い瞳が私を見ている。
中にいるのは少女のようだった。声で解った。
男が低い声で笑った。
「発表会はまだ始まっていません」
男は棺桶の上から動かない。
「まだ、時間はあります」
発表会。
私は思い出そうとする。私はここで何を発表するのだろう。焦る。思い出せない。
「時間はあるのです」
男は言う。私に微笑んでいる。白い少女のオバケは楽しそうに舞っていた。
「待ちましょう。あなたが思い出すまで」
少女は言う。私は黒い棺桶を見つめた。
一つだけ、私は目的を覚えていた。
私の居場所は棺桶の中だった。
私はそこから出て、再びそこに戻るために帰ってきたのだ。棺桶には男が腰掛けている。彼が立ち退かないと、私はそこには入れない。
しかし私には発表することがない。発表会に参加する資格がないのだ。
男は低い声で歌い始めた。白い布の舞に合わせるように。
彼が立ち退かないと、私はそこには入れない。
「……んー。こりゃ、困りもんだな」
三枚目を机に落とした俺はハルヒに同情した。
さすが長門、わけのわからないものを書いてくる。幻想ホラーというお題を完全に無視しているようにも思えるし、これでは小説と言うよりほとんどポエムだろう。
「ただのポエムにも見えないけどね」
ハルヒは三枚のコピー用紙を重ねて、自分の鞄にしまい込みながら、
「ねえキョン。あたしね、有希がこれを考えもなしに書いたとは思えないのよ。きっと、これには有希の内面が反映されてんじゃないかと思うわけ。幽霊とか棺桶とかって、何の暗喩だと思う?」
「俺に解るわけがないだろ」
そう答える俺だったが、実はなんとなくレベルで読みとれているような気がしていた。この小説に出てくる『私』が長門だってのは異論がないと思う。他の登場人物は『幽霊の少女』と『男』と『オバケ少女』だが、幽霊とオバケは同一人物くさく、これまたなんとなくだが、男は古泉っぽくて少女は朝比奈さんのような感じがする。とりあえず手近にいる人間を作中人物のモデルにしたのかもしれない。俺とハルヒが出ていないが、だからと言って出演志願をするほど、俺は自意識過剰ではなかった。
「いんじゃねえか」
俺は窓の外を眺め、無人のテニスコートを見下ろしながら、
「長門が気ままに書いた小説だろ。小説から作者の内面を読みとろうとするなんざ、面倒なだけさ。その問題は現国の試験だけで間に合っている」
「まぁね」
ハルヒも窓の外を見ていた。季節はずれの雪でも降らせないかと、雲を観察しているような目だったが、やがて俺に向き直って春の花のような笑顔となった。
「有希のぶんはこれでオッケーにするわ。どこをどうリテイクしたらいいのか見当つかないもんね。古泉くんは順調に書いてくれているみたいだし、みくるちゃんの絵本もメドがつきそう」
その笑顔が団長から編集長のものへと変化する。
「んで? あんたのは? まだプロローグももらってないけど、いつ完成するわけ?」
忘れていることを期待していた俺が間違っていたようだ。
「言っとくけど」
ハルヒは不気味なほどニコニコと、
「あんたが書くのはちゃんとした小説よ。もちろん恋愛ものじゃないと没よ、没。ホラーでもミステリでも童話でもなくてね。変にゴマかそうたってそうはいかないわよ」
俺は救いを求めて教室を見回した。
実はまだ一文字も書いていない。当たり前だ。どの面提げて恋愛小説なんかを書かねばならんのか。その疑問は現在、インフルエンザウイルスに対する抵抗力以上に俺の体内を駆けめぐっている最中であり、同じく一文字も書けていないだろう仲間の谷口と国木田を援軍に招聘しようとして、さっきからこちらを眺めつつこそこそ密談していた我が友人二人組がそろって目を逸らし、どうやらこのままでは友軍ともどもハルヒに撃破されそうだと十字を切りそうになったとき、やっと始業のチャイムが鳴ってくれた。
こうして目先の重責は一時回避され、されただけで逃げおおせたわけではないのだが、ともかく俺は数十分の時間稼ぎに成功した。
しかしお前、恋愛小説って。
一限目の授業を真面目に受けているフリをしながら、俺はチャレンジャー海淵に落ちていく沈没船程度に深く考え込んでいた。
さて、何を書く?
放課後、ハルヒの原稿催促から逃亡するように部室へ来た俺に、
「実体験を書いてはいかがでしょう」
古泉がノートパソコンのキーボード上で停滞なく指を滑らせながら言った。
「ようは恋愛が絡んでいればいいのでしょう? でしたら、実際にあったことをそのまま執筆し、あくまでフィクションだと言い切ってしまえばいいのですよ。一人称形式で書くことをお勧めします。この場合、あなたが普段考えているようなことを普通に文章化してしまっても問題ありません」
「イヤミか、それは」
俺は投げやりな返答をして、ノートパソコンの画面が映し出すスクリーンセーバーを眺める仕事に目を戻した。
部室は一時的な安息の場所となっている。なぜって、ハルヒが席を外しているからだ。
生徒会と全面戦争をやっているつもりのハルヒは、腕章の「編集長」の部分に「鬼」とつけたいくらいの辣腕を発揮して、今もあちこち走り回っている。
しょっぱなの標的はごく身近にいたクラスメイト、谷口と国木田だった。ホームルームが終わるやいなや教室から逃げ出そうとした谷口をハルヒは俊敏に捕獲し、「帰る」「帰らせない」と一騒動を繰り広げ、そんな様子を逃げもせずに眺めていた国木田をも手中に収めると強引に席に着かせ、白紙のルーズリーフの束を押しつけて言い放った。
「書き終えるまで帰ちゃだめだからね!」
その顔が異様に嬉しそうだったのは、なんだろう、新しい加虐趣味に目覚めたからかも知れねえな
谷口はなおもブチブチと文句を垂れ続け、国木田は緩やかに首を振ってシャープペンを握りしめていた。国木田はどこか余裕だが、谷口は本気で迷惑そうに、まるでハルヒがおこなう一切のもめ事に関わると将来天国行きのバスに乗りそびれると悟っているかのようだ。気持ちは解るさ。オモシロエッセイを書けなどと言われてハルヒの眼鏡にかなうようなものがすぐさま書けるくらいなら逃亡を図ったりはしない。
「何がオモシロ日常エッセイだ」と谷口。
「キョン、お前の日常のほうがよっぽどオモシロ状態だろうがよ。お前が書いてくれ」
断る。俺は自分の作業ですでに目一杯だ。
「涼宮さん、コラム十二本はちょっと多くない?」と国木田はのんびりと、「せめて五本にしてくれないかなぁ。英語と数学と古典と化学と物理は得意だけど、生物と日本史と公民は苦手なんだ」
それだけ得意なら充分だろうし、俺もお前の原稿だけは心待ちにしている。科目別役立ち学習コラム十二本。本当に役立つならこれほど読みたいものはない。
ハルヒは居残り二人組みに、
「一時間したらまた来るから。その時いなかったら……解ってるわね?」
明快な脅しをかけて、教室を走り去った。いろいろと忙しいんである、我らの編集長は。
一方で、ハルヒの執筆依頼を快く受け入れるという気のいいヒマ人もいたことを申し添えておこう。
一人は言うまでもなく鶴屋さんである。もしかしたらハルヒ以上に何でも器用にこなす上級生は、
「何でもいいから書いてくれない?」
というハルヒの抽象的な依頼を快諾し、あっさり、
「締め切りはいつ? うん、それまでには必ずやっ! わはは、面白そうっ」
と笑顔で答えたそうだった。いったいあの人は何を書いてくるつもりなのか。
もう一人は、これは一人ではなく集団と言ったほうがいいのか。コンピュータ研究部である。例のインチキパソゲー対戦の経過に加えて、ちょくちょく長門が訪問しているよしみもあり、ハルヒ的にはすっかりSOS団第二支部化しているコンピ研に飛び込んでいった本家本元の団長は『最新パソコンゲーム完全レビュー・このゲームぶったぎり読本』とかいう、なんかよく解らんもんを書かせる確約を取って帰ってきた。どういうわけだかコンピ研は部長以下、けっこう乗り気でいたらしい。ちなみに俺はパソコンでまともなゲームをやったことがないので、もう一つ興味なしだが。
これでもまだハルヒの仕事は終わらない。会誌の表紙を小マシなものにすることを思いついたハルヒは、その足で美術部まですっ飛んでいって、一番絵のうまい部員は誰かと尋ねると、そいつに一枚絵を強要し、文章だけでは華が足りない、挿絵も必要だと言い出したかと思うと漫研へ駆け込んでイラストを発注した。されたほうはいい迷惑だと思うのだが、あいにく俺は他人が感じる迷惑にこれ以上シンクロしたくもないので、谷口と国木田を教室に残し、部室までやって来たというわけである。
部室にはハルヒの姿はなかった。前述の理由によって学校中を駆け回っているからで、俺としては大いにくつろげるはずだったがスクリーンセーバーとにらめっこしているのみの時間は安息とはほど遠い。
「うーん、うーん」
悲壮な顔つきでテーブルに着いているのは、珍しく制服姿の朝比奈さんだ。
この時はまだ朝比奈さんの絵本チックな童話も完成しておらず、テーブルで頭を押さえながら紙に鉛筆を走らせるお姿を目にすることができるだけで、お茶の給仕は自分でするしかなかった。
その横で、長門はいつもの風情を維持している。読書人形のようにハードカバーを広げている姿には、すでに一仕事終えた感が漂っていた。
「…………」
ハルヒに提出した三枚のショートショートで自分の役割は終了したと判断したのか、すっかりもとの長門に戻っている。この前生徒会室で見せた不可視オーラが嘘のようだ。
嘘と言えば、俺がそんな長門が気にならないと言えばこれも嘘になっちまうので正直に告白しておく。あのヘンテコな小説モドキを長門がどんな心情で書き上げたのかとか、それをハルヒに見せて何も思わなかったのかとか、ありゃいったいどういう話なのか自作解題してほしいとか、いろいろ問いただしたいところだが、朝比奈さんと古泉のいる前でそれを言うのも、ちょっとな。
そのうち二人だけになったときにでも、その機会を預けておこう。
平常モードの無表情で本を読む文芸部員から目を外す。テーブル上で稼動しているパソコンは二台だけだ。持ち主の唇と同様、長門の前のノートパソコンは貝のように蓋を閉じられて脇に追いやられていた。
できれば俺もそうしたい。地球上の限りある資源を浪費することに自責の念を感じる身としては、この俺に支給されているパソコンのスイッチをただちにオフにすべきだろう。このまま電源をつけていてもエネルギーの無駄であり、ついでに頭のスイッチもオフにして今すぐ深い眠りに入りたかった。
そう考えつつ溜息などをついていると、古泉が声をかけてきた。
「深く考えることはありませんよ。ありのままを書けばいいのです」
お前はすでに頭の中にあるものを文章家すりゃいいんだからラクだろうが、俺は一から考えんといかんのだぞ。なんならお前の恋愛経験を教えてくれ。お前を主役にしたラブリーな物語を書いてやる。
「それは遠慮したいですね」
古泉はキータッチの手を休め、俺に問いかけるような笑顔を向けてきた。それから小声で、
「本当にないんですか? 今までの人生で、恋愛感情の虜になったことや、女性と付き合ったことがです。いえ、この高校の一年間でそれらしいことはない----というより書けないでしょうから、それ以前のものならどうです? 中学生時代なんかどうです?」
俺が天井を眺めて自分の過去記憶を参照していると、古泉はますます小声となって、
「草野球大会で僕が言ったことを覚えていますか?」
さぁ、お前は色々と言いっぱなしをする野郎だからな。セリフを逐一記憶に留めてもらおうなんて思わないほうがいいぜ。
「涼宮さんが望んだから、あなたが四番打者になったという話くらいは覚えてると思いますがね」
俺は古泉のヤサ男スマイルを胡乱に見つめた。またそれか。
「ええ、またそれです。つまり、あなたが恋愛小説のクジを引いたのは偶然ではありません」
クジ引きの偶然性は俺も疑って久しい。手品師じゃなくても計画通りに目当てのクジを引かせることができるのは俺も知っている。
ちらりと長門を見ると、取り立てて聞き耳を立てているようでもなかった。朝比奈さんは鉛筆と消しゴムと友達になるのにイッパイイッパイらしい。
「つまり、涼宮さんはあなたの過去の恋愛模様を知りたいと思ったんですよ。だからジャンルの一つを恋愛小説にしたのです。ズバリ恋愛体験談----と、しなかったのは、涼宮さんなりのちょっとした躊躇の表れです」
あいつのどこに躊躇なんてもんがあるんだ。どこにもかしこにも遠慮と挨拶なしで踏み込んでいくようなやつだぞ。
古泉は薄く笑い、
「心という部分にですよ。ああ見えて涼宮さんは、ギリギリのラインがどこにあるのかをちゃんと解っている人です。無意識でしょうが、だとしたらなおのこと素晴らしく鋭敏な感覚だと言えますね。現に彼女は、僕たちの心に土足で踏み入るような真似を決してしません。少なくとも僕はされたことがない。まあ、逆に僕は少々涼宮さんの精神の中に入れさせてもらったりしてましたが」
俺も二度ばかり行ったっけな、そういえば。
「だがあいつが遠慮なし女だという線は譲れないぞ」
と、俺はせめてもの反抗。
「でなきゃ生徒会室のドアを蹴飛ばして入ってきたり、そもそも文芸部を乗っ取ろうとしたりするわきゃねえだろう。俺がこんなもんを書かされたりしたりもだ」
「いいじゃないですか。これはこれで楽しい作業ですよ。弱小クラブ活動を守るため、強大なる生徒会と抗争する高校生たち……」
古泉は薄気味悪くなるほど爽やかな遠い目をして、微笑み直した。
「実は僕はこういうスクールライフを夢に描いていたのです。ますます涼宮さんを神として認定し、拝跪したい気分になりますよ。夢を叶えてくれているのですからね」
お前の自作自演でな。裏から糸を引いておいて、何が夢の実現だ。努力しているのは認めてやってもいいが。
「ですが、あなたがどのクジを引くかまでは僕も操作しようのないことです。話をもとに戻しましょう。解りやすく言って、涼宮さんはあなたの恋愛観のようなものが書かれるのを期待しているんですよ。ついでに言わせていただければ、僕も知りたいですね」
古泉はやや大きめな声で、
「小耳に挟んだところ、あなたは中学時代に仲よくしていた女子がいたそうではないですか。そのエピソードなんかどうでしょう」
だから何度も言ってるだろう。あれは全然そういった話じゃないんだ。
俺は眉間の間隔を狭くして、ついで指を揉みながら、そして部室にいる他二名の顔を盗み見た。
朝比奈さんは絵付きの童話作成に精神を集中させていて、俺たちの会話が耳に届いている様子はない。
長門は----、
こちらも読書に視神経のすべてを集中させているようだったが、耳の神経までは俺も確認しようがなく、おまけにどんなに声をひそめても長門相手に隠し果たせることが可能だとはまったく思えなかった。
だいたいだな、どうして俺がやましい気分にならなきゃならんのだ。なんだって国木田といい、中河といい、俺の中学時代の同級生はそろいもそろって妙な勘違いをしてるんだ? 不思議でならん。
「とにかく、その話はするつもりも書くつもりもない」
俺は断言する。特に興味本位で目をニカニカさせているようなヤツにはな----って何だ古泉、その解ってますよ的な目は。だから違うっつーの。思い出したくない過去だからということでもないんだよ。本当にどうでもいい話だからなんだ。
「そういうことにしておきましょう」
腹立たしいセリフだが、古泉は黙らずに新たな提案をしてきた。
「では他に、何か書くべき思い出の一つを早急に思い出してください。いくら何でも一つくらいはあるでしょう。誰かとどこかでデートしたとか、誰かから告白されたとか」
ねえよ。
と、言おうとして俺の口は半開きで止まった。それを見て、古泉の微笑が広がる。
「あるんですね? そう、まさしくそれですよ。涼宮さんと、ついでに僕も知りたい物語です。それを書いてください」
お前はいつから副編集長にもなったんだ。せっせとシャミセン消失事件のノベライズでもやってろよ。自分で書くものくらい自分で決めさせろ。
「もちろん、決めるのはあなたです。僕は単なるオブザーバー、よくてアドバイザー程度のことしか言えません。今は涼宮さんの代弁をしているような気がしますけどね」
古泉は肩をすくめ、俺との会話を切り上げて自分のノートパソコンに指先を向けた。
俺は考え始めた。
悪いが古泉、お前はまだ勘違いをしている。お前の想像の内では、中学時代の俺がいかにも中学生らしい男女交際をちょっとの間でもやっているようなものが渦巻いているのかもしれないが、自慢じゃないが俺は今まで誰かに告白なんかされたことなし、したこともない。初恋の相手は年の離れた従姉妹のねーちゃんだったが、そのねーちゃんはロクでもない男と駆け落ちしちまった。トラウマと言えばトラウマだが、それも遥か昔のことさ。
告白でもない、ましてやデートでもないもの。
ふっ、と一つの情景が目蓋の奥に浮かんだ。
それは今から一年ほど前、中学の卒業式が終わって、この高校に来る直前の期間にあった風景だ。まさか俺の高校生活がこんなめまぐるしいものになるとは蚊の足先ほども思わず、のんびりだらだらしていた中学最後の春休み。
妹が受話器を持って俺の部屋にやってきたことに端を発する、小さな挿話がかろうじて脳みその隙間に引っかかっていた。
しばらく天井を見上げていた俺は、軽く鼻を鳴らしてノートパソコンのトラックパッドに手を触れた。
スクリーンセーバーがどこかに飛び去り、立ち上げたまま放置していたテキストエディタが白い画面を復帰させる。
横で古泉がにやけた笑みを作る気配を感じつつ、俺は試しにキーを叩いてみた。
ま、ただの指ならしさ。書いている最中につまらなくなったらすぐさま全文削除する程度のな。
記憶の淵からザルで砂金を掬うような作業だなと思いつつ、頭で組み上げた文章を指先に伝達し導入部を書き始める。
とりあえず、こんな感じでどうだろう。
『あれは俺が高校に入る前、残りわずかな中学最後の春休みを過ごしていた時だった…………』
あれは俺が高校に入る前、残りわずかな中学最後の春休みを過ごしていた時だった。
すでに中学校の卒業証書をもらってはいたものの、いまだ高校生未満の身の上で、できることならこの身分よ永遠に続け、とか思っていたことを覚えている。
中三の頃からお袋に通わされていた学習塾効果か、専願で首尾よく合格を果たしたのは、まあ、楽でよかった。だが、受験前に下見に行った時点で俺はこの高校に三年間も通うのかと、長々と続く坂道を上りながらうんざりしていたのも本当だ。ついでに言えば、学区割の関係上、それまで仲のよかったツレ連中はのきなみ近所にある市立か、遠くの私立に進学が決まっていたから孤独感がいやでも増すというものだ。
この時点の俺には、まさか高校生活が始まるや否や奇怪な女に出くわして、そのまま異様な団の創設に名を連ねることになるとは白昼夢でも思い描きようのないことだったから、中学時代を回顧しつつ、未知のハイスクールライフになんとなく不安にもなりつつ、要するにしみじみとしていたわけさ。
そんなわけで、心の大半を支配する孤独を埋めるべく、昼前までダラダラと眠り続けたり、他の高校に進学する連中たちとしばしの別れパーティと称するゲーム大会を開いたり、つれだって映画を観に行ったりする----といったことに興じていたのだが、やがてそんな日々にも飽きが来て、朝昼兼用の飯を喰い、さて牛にでもなるかと自室でゴロゴロしていた四月直前の昼下がりのことだ。
寝て起きて飯を喰い、また一眠りしようとベッドに横臥していた俺の耳に、家の電話が着信のメロディを奏で始める音が聞こえた。
俺の部屋に子機はなく、お袋か妹が出るだろうと放置していたところ、しばらくして妹がコードレスホンを携えて部屋に入ってきた。
これも今さらながらにして思うのだが、こいつが電話片手に俺のところに来るたびに、何やら変なことが発生しているような気がするな。
しかし、繰り返すが、この時の俺はまだまだ無垢で、圧倒的に経験値が足りていなかった。
「キョンくん、電話ぁー」
妙にニコニコしてやってきた妹に、
「誰だ」
「女のひとー」
妹は俺に受話器を押しつけて、にへらっと笑い、くるりと身体を回転させると、ホップステップジャンプという感じで部屋を出て行った。珍しいな。いつもなら俺が追い出すまで部屋に居座っているのに、なんか急ぎの用でもあったのか。
いや、それより誰だ。俺は自分に電話をかけてきそうな女の顔を頭の中の選択表示画面でスクロールさせながら、受話器の通話ボタンを押した。
「もしもし」
一瞬の間があって、
『……はい。あの……』
確かに女の声がそう言った。しかし誰だかはまだ検索モードが終わっていないので解らない。どこかで聞いたことのある声だったが。
『わたしです。吉村美代子です。こんにちは。いま大丈夫ですか? おいそがしくなかったでしょうか』
「あー……」
吉村美代子? 誰だっけ。
考え始めると同時に脳内スクロールが停止した。聞き覚えがあるのも当然だ。何度か顔を合わせたことのある人間だった。フルネームで言うからかえって解りにくい。吉村美代子、通称ミヨキチ。
「ああキミか。うん、全然いそがしくない。めっちゃヒマだけど」
『よかった』
心底安堵したような声が言い、俺は怪訝に思う。いったい彼女が俺に何の用だ?
『明日、お暇ですか? 明後日でもいいんです。でも四月に入ってしまったらダメなんです。あなたのお時間をお借りできないでしょうか』
「ええと、俺に訊いてんの?」(※1)
『はい。急に言ってごめんなさい。明日か、明後日なんですけど。おいそがしいですか?』
「いや全然。どっちも丸一日ヒマだ」
『よかった』
またもや心の底から響いているような正直な囁き声を漏らし、
『お願いがあるんです』
美代子はどこか緊張した声に転じて続けた。
『明日、一日だけでいいんです。わたしに付き合ってくれませんか?』
俺は出て行った妹の影を追い求めるように、開きっぱなしの自室ドアを眺めながら、
「俺が?」
『はい』
「キミと?」
『はい』
美代子は声をひそめるように、
『二人だけがいいんです。いけませんか?』
「いや、別に悪くはない」
『よかった』
また大げさに安心した吐息が聞こえ、明るさを努めて抑制したような声が、
『では、よろしくお願いします』
電話線の向こうでお辞儀している美代子の姿が目に見えるようだった。
その後、彼女は待ち合わせの場所と時間を、しきりとこちらの都合を気にしながら提案し、俺はただ「わかった」と言い続け、
『すみません。急に電話して』
「いいさ。どうせヒマだ」
最後まで低姿勢な彼女に曖昧な応えをしてから、電話を切った。こちらから切らないと、きっと美代子はいつまでも感謝の言葉を続けていただろうからだ。吉村美代子、通称ミヨキチは、そういう娘だった。
俺は電話機を元の位置に返そうと、廊下に出た。するとそこで妹が何やらヘラヘラしながら待っていたので、ついでだとばかりに子機を押しつける。
「にゃはは~」
妹はアホみたいな笑い声を上げ、受話器を振り回しながら去っていく。
俺は妹の行く末を案じつつ、ミヨキチの落ち着いた声を思い出していた。(※2)
でもって、翌日だ。
あまり詳細なことを書くつもりはない。一言で言うと面倒だからだ。これは小説であって業務報告書でも航海日誌でもない。ましてや俺の日記でなどあろうはずもないだろう。
つうことは、書き手である俺が好きなようにしちまってもいいはずである。そうさせていただこうじゃないか。
その日、待ち合わせの場所にやって来た俺は、先に来て待っていたミヨキチの姿を見いだして早歩きで近づいた。俺に気づいた彼女は、顔をこちらに向けたままきちっとした仕草でお辞儀した。
「おはようございます」
蚊の鳴くような声での挨拶の後、ポシェットを肩にタスキがけし、お下げ髪を振るわせるようにして彼女は頭を上げた。花柄ブラウスの上に水色のカーディガンを羽織り、ボトムは七分丈のスリムジーンズ。細身の体形によく似合っていた。
俺は「やあ」とか何とか返礼して、周囲をゆっくりと見回した。
駅前である。SOS団の集合地点としてお馴染みとなっている例の場所だ。だが、この時の俺は、数ヵ月後に意味不明な団に所属させられ、この世に覇を唱えんとするイカれた団長により顎でこき使われることになろうとは思っていなかったので、普通に辺りを眺めただけだ。女と二人で会っているところを誰かに見られたら面倒だなと考えたわけでもない。んなこと、思いもしなかったね。(※3)
「あの」
ミヨキチは上品な顔を、少しばかり緊張させながら言った。
「行きたいところがあるんですが、いいですか?」
「いいよ」
そのために来たんだからな。行くつもりがなければ昨日の電話で断っている。そして俺にはミヨキチの依頼を無下にする理由がなかった。
「ありがとうございます」
そんなに丁寧にすることもないのに、ミヨキチはいちいち頭を下げて、
「観にいきたい映画があるんです」
むろん構わない。彼女のぶんのチケットを買ってやってもいいくらいさ。
「それには及びません。自分で出します。わたしが無理を言って来てもらっているのですから」
はっきり述べて、彼女は微笑んだ。汚れを知らぬ笑顔とはこういうのを言うんだろう。妹とは違った意味で、無邪気にすぎる笑みだった。
ちなみにこの近所に映画館はない。俺とミヨキチは駅に向かい、切符を買って電車に乗り込んだ。彼女の観たい映画は、シネコンやデカい劇場ではかかっていない、ドがつくほどのマイナーなシロモノで、小さな単館系ロードショーだった。
電車に揺られている間、彼女はタウンガイド誌を握りしめてずっと窓の外を眺めていたが、時折思い出したように俺の顔を見上げ、ぺこりと首を傾ける。
別に黙ってばかりだったわけではなく、それなりに会話をしていたが、別に書くこともない。とりとめのない世間話くらいさ。この春からどこの学校に行くのかとか、俺の妹の話とかした覚えがある。(※4)
目的の駅に着き、映画館まで歩いている最中も同じ。ただ、彼女は少々緊張しているようだった。その緊張は、劇場に到着してチケット売り場を前にするまで続いた。(※5)
そろそろ次の回が始まろうとする時間なのに、売り場には誰も並んでおらず、その映画の不入り具合を表していた。俺はちらりとミヨキチを見てから、ガラスの向こうでヒマそうにしているおばさんに、
「学生二枚」
と告げた。
……と、ここまで書いたところで俺はキーボードから指を離し、パイプ椅子にもたれ掛かって大きく伸びをした。
どうも慣れないことをしているせいか、肩が凝ってしかたがない。俺がぐりんぐりん頭を回していると、
「調子よく書けているではないですか」
古泉が微笑しつつ興味深そうにしつつ、
「その調子で最後までお願いします。いや実に、読ませてもらうのが楽しみですよ」
残念だがな、古泉。賭けてやってもいい。読んだところで楽しいものにはならんと言っておきたい。恋愛小説とはほど遠いものになっているだろうからな。
「それでも」
と、古泉は自分のノートパソコンの液晶を指で弾きながら、
「僕はあなたの書くものに興味をそそられます。何であろうと、文章にはその執筆者の内面がわずかでも含まれているものですからね。行間から滲み出る作者の声ならぬ声を聞くことができるのです。僕は長門さんや朝比奈さんの文章以上に、あなたの小説が気がかりですよ」
お前が気にかける必要はないだろう。いつからお前はハルヒの精神面担当以外の仕事を始めるようになったんだ。俺の精神分析は任務外作業なんじゃねえのか。
「あなた次第で涼宮さんの精神状態が変移することを考えると、一概にそうだとも言い切れませが」
どこまでこしゃくな野郎だ。
俺は古泉の相手を打ち切ると、部室を眺め渡した。ハルヒはまだ帰ってきておらず、朝比奈さんはお絵かき中である。
「うーんと、うーん……」
ふわふわした上級生、朝比奈さんは困惑した表情で紙に向かい、鉛筆を子供っぽく握りしめてちょこちょこと線を引き、しばらく考えてから消しゴムをこしこしと使い、また、
「うーん」
うつむいて熱心に作業を続けていらっしゃる。朝比奈さんの絵本風童話はすでに紹介した通りであるが、今の彼女が取りかかっているのはまさにアレだ。できあがり具合を見ても、彼女の努力は結実したと言っていいよな。非常に朝比奈さんらしい作品になっていたし。
というわけで、現時点で自分の仕事を終了させているのは、
「…………」
テーブルの端っこ、定位置で静かに本を読んでいる長門だけだった。あの無題超短編三部作を提出したことで、すっかり身軽になっている小柄な文芸部員は、楽しげに飛び回っているハルヒや呻吟する朝比奈さんと俺などすっかり蚊帳の外のできごとのように、黙って深々と読書に励んでいた。
俺からすれば、無題1、2、3の自作解説を長門に頼みたいくらいであったのだが、なんとなく何も訊かないほうがいいように思え、それより気にすべきなのは今俺が取りかかっている “恋愛小説 ”とやらのほうだろう。必死に書いたはいいが、
「つまんない。没」
の一言で、あっさりゴミ箱直行となってしまったらかなわん。しかしハルヒの気に入りそうなものを、と気をつかって書くのもなんかむしゃくしゃする。どうして俺がこんなしょうもないことであいつに配慮せんといかんのかだ。
俺がだんだん小腹を立て始めていると、またもや横から爽やか笑顔くんが、
「それはないでしょうね」
俺の独り言を聞きとがめたようだ。古泉はノートパソコンから指を離さず、パチパチとブラインドタッチを続けながら、
「あなたが過去の実体験、それも僕や涼宮さんに出会う前のドキュメントを書いたのだとしたら、涼宮さんは興味を持って読んでくれると思いますよ」
書きながら会話できるとは器用なもんだが、しかしお前に保証されてもな。
「たとえばですね」
古泉はどこか楽しげに。
「僕の過去を知りたいと思ったことはありませんか? この学校に転入してくるまで、僕がどこで何をしていたのか、何を思って日々を過ごしていたのか、その片鱗を知ってみたいと思わないんですか?」
そりゃお前……。どっちだと言われたら聞いてみたいさ。超能力者の日常が描かれたノンフィクションがあったとしたら、小学生時代の俺なら小躍りして読みあさっただろう。特に『機関』とかいう組織がどうなってんのかなんて、今でも知的好奇心を刺激させられるぜ。
「知ってもがっかりするだけですよ。たいして面白いエピソードはありません。あなたもご存知のように、僕は地域と時間を限定されている超能力者ですからね」
古泉はそう言いつつ、
「ですが、常人とは違う日常を過ごしてきたのは確かです。いつかほとぼりが冷めた頃に自叙伝でも書こうかと思っているくらいですよ。書き上がったら、献辞にあなたの名を入れておきます」
「入れなくていい」
「そうですか。その際には、ぜひあなたに献本しようと考えているんですが」
俺は答えず、お茶を求めて手を伸ばした。手にした湯飲みはすでに空だ。朝比奈さんは絵本作業にかかり切りのため、二杯目も自分で入れるしかないな、と立ち上がりかけたとき、
バァン、と部室ドアを開き、威勢のいい女が入ってきた。
「どう、みんな。はかどってる?」
ハルヒは妙なほどハイなテンションで、ずかずか部室に入ってくると団長席に腰掛け、持っていた紙束を机に置き、俺に怪光線を発しているような目を向けた。
「あ、キョン、お茶入れるんだったらあたしのもお願いね。みくるちゃんはお仕事中だし、邪魔しちゃ悪いわ」
ここで変に抵抗するのもガキくさくてイヤだ。せめてもの反抗の印として、俺は聞こえるように溜息をついてやり、それから急須にポットの湯を注ぐと、出がらしのお茶を俺とハルヒの湯飲みに注ぎ、臨時のウェイターとなって団長席まで持っていった。
ハルヒは機嫌良く湯飲みを受け取るとズルズルすすり、
「なにこれ。ただの薄茶色のお湯じゃない。葉っぱ取り替えなさいよ、葉っぱ」
「お前がやれ。俺はいそがしい」
いそがしいのは事実だったので、たとえ団長のありがたいお言葉であろうと、この程度の抗命は許されてしかるべきだ。会誌作成よりお茶くみが優先されるとは言わせないぜ。
「ふうん?」
ハルヒはニヤリとしつつ、
「あんた、ちゃんと書いてんのね。やっと? 感心感心。締め切りには間に合わせなさいよ。そろそろレイアウト工程に入んないといけないからね」
俺は自分で入れた茶を飲みながら、ハルヒの上機嫌の元を探ってみた。どうやら机に投げ出されたA4用紙の数々に要因があるらしい。
「これ?」
ハルヒは目ざとく俺の目線を嗅ぎ当てて、
「上がってきた原稿よ。発注してたヤツ。みんなけっこうがんばってくれたわ。谷口はどうしても書けないって言うから、明日まで延ばしてあげたけど。国木田のは半分まで。あれ、真面目だから明日には最後まで出してくるはずよ」
鼻歌を奏でながら、ハルヒは原稿をチェックするように一枚一枚摘み上げ、
「これが漫研に頼んでいたイラストで、こっちが美術部に頼んでた表紙のラフ絵ね。それからこれがコンピ研のやつ。これだけでもページが稼げそうだわ。何書いてあんのかはさっぱりだけど、ま、いいわ。熱意は伝わってくるし、解るヤツが読めば面白いんでしょ、きっと」
なるほどな。つまるところ、会誌作りが着々と進行していることに喜楽を見いだしているらしい。何もないところから形あるモノを作っていき、徐々に完成に近づきつつある過程は、そりゃ俺でも楽しいさ。プラモを組み立てていくというか、RPGでラスボスに迫っていく道筋というか、とにかくそんなんだ。さぞ楽しかろう。自分がプラモの部品やノンプレイヤーキャラの立場じゃなけりゃな。
「何ぶつぶつ言ってんのよ」
ハルヒはあっという間にお茶を飲み干すと、湯飲みをぶらぶらさせながら、俺にニンマリした笑みを見せつけて、
「とっとと自分の席に戻って、ほら、書きなさい。部外者のコンピ研がこんなにがんばってんのに、あんたがサボっちゃ外聞が悪いでしょ。本来、これはあたしたちの受けた勝負なんだからね」
ハルヒはかっこうのライバル組織が見つかって覇気がいい。腹立ち紛れに、ここで生徒会長の正体を教えてやりたいくらいだ。ついでに言いたい。最初にイチャモンをつけられたのは文芸部員である長門であって、お前は突然横から飛び出してきた野次馬だろうに、どうしてお前がリーダシップを取っていることになってんだ。編集長なんて腕章をつけてまで。
俺は古泉の横顔を睨み、ハルヒの退屈紛らわせ作戦がこれで第何弾目だったっけと考え始めた。確か孤島が一番手で、ケチの付いた雪山が第二弾か。いや待てよ、喜緑さんがやって来たカマドウマのは----あれは長門だったか。
などと無意味に回想していると、ノックの音が耳に響いた。
「失礼する」
返答を待たずにドアを開け、長身の人影が部室に侵入してきた。
ピキン----。
ピアノ線をニッパーで切り飛ばしたような音が聞こえたのは、たぶん俺だけだ。
まるでシューティングゲームの中ボスみたいに、いきなり現れたのは生徒会長だった。
そして、その斜め後ろに喜緑さんがいた。
会長は眼鏡を意味なく光らせた真面目モードで、ゆっくりと部屋に視線を横切らせ、
「なかなかいい部屋だな。ますますキミたちにはもったいない」
「なにしに来たのよ。仕事の邪魔だから帰ってくれる?」
ハルヒは特撮ヒーローの変身よりも素早く不機嫌モードへと変化した。会長よりも偉そうな態度で腕組みし、席を立とうともしない。
会長はハルヒの殺人的視線攻撃を真正面から受け止め、
「敵情視察とでも思いたまえ、私はキミたちの宿敵や乗り越えるべき壁になったつもりはない。様子を見に来ただけだが、いちおう条件提示をした責任がある。キミたちが真面目にやっているかどうか、確認のための見回りと考えてくれたまえ。ふむ。見たところ、動くだけは動いているようだ。けっこうなことだが、運動総量が直接的に結果へと直結するとは必ずしも限らん。ゆめゆめ精進を怠るべきではないと言っておこう」
別に言われたくもなかったが、俺より先に反応したのは団長(現在、編集長)だ。
「うっさい」
きゅるり。ハルヒの目が鋭角な逆三角形へと変化する効果音が聞こえたほどだ。
「イヤミを言いに来たんだったらおあいにく様。あたしたちはそんな程度の低いボケにツッコンであげたりしないんだからね」
「私はそれほどヒマではない」
会長はわざとらしい仕草で指を鳴らした。いまにも「ギャルソン!」とか言いそうだったが、眼鏡のやり手生徒会長は給仕係を呼んだわけではなく、
「喜緑くん、例のものを」
「はい、会長」
喜緑さんは脇に抱えていた冊子の束を捧げ持ち、しずしずとハルヒの前に進んだ。
長門は膝の上に開いたハードカバーのページに目を戻し、ピクリともしない。
「…………」
喜緑さんも長門などいることすら気づいていない、という感じの顔に笑みを広げて、
「どうぞ。資料です」
ハルヒに古ぼけたいくつもの冊子を差し出した。
「なに、これ」
ハルヒは迷惑そうな顔を隠さず、しかし、くれるものなら呪われた道具でももらうとばかりに古冊子を受け取って、眉の角度をメキメキと上昇させる。
会長が皮肉な仕草で眼鏡を弄りながら、
「昔の文芸部が作成した会誌だ。せいぜい参考にしたまえ。独自の理論でものを考えるキミのことだ、文芸という言葉の意味を履き違えている可能性があるのでな。礼はいらん。恩義なら喜緑くんに向けたまえ。資料室の書架からそれを探し出す労を負ったのは彼女だ」
「ふーん、ありがと。ぜんぜん嬉しくないけど」
一方的に塩を送られたものの別に塩分不足に陥っていなかった甲斐国領主みたいな顔で、ハルヒはバサリと冊子群を団長机に置き、そこで初めて使者の顔に思い当たるものを見つけたように、
「あら、あなた……。へえ、生徒会の人だったわけ?」
「はい。今年度から」
喜緑さんはおっとりと返事をし、一礼するとしずしずした足取りで生徒会長のそばに戻っていった。ハルヒはどうでもよさそうに、
「あのカレシとは、どう、うまくいってんの?」
ハルヒの言うカレシとは、コンピ研部長に違いない。
「あの時はお世話になりました」
喜緑さんは微笑をそよとも揺るがせずに、
「ですが、もうお別れしました。今思うと、本当は最初からお付き合いしていなかったようにも思える、それは遠い記憶です」
回りくどく返答しているが、俺には理由が解るような気がする。きっとコンピ研の部長氏も俺に同意してくれるだろう。彼には付き合ってたなんて自覚はない。SOS団のサイトなんかをチェックしてたバチがあたっただけだ。まあ、多少気の毒ではあったが。
「…………」
ぱらり、と長門は本のページをめくる。
この時点になると長門と喜緑さんはお互いに積極的な無視合戦をしあっているような感じがした。だが長門は誰が相手でも普通にこんな態度なので、おそらく俺の主観にすぎないのだろう。どうも最近、変な色のついた眼鏡をかけさせられているような感覚がする。
「ふうん、そう」
ハルヒは口元を変な形にして、
「まあ、若いしね。いろいろあるわ」
言っとくが、お前のほうが年下だぞ----という低俗なツッコミをするつもりはない。ここはスルーが基本だ。それに喜緑さんの実年齢はたぶん長門と同じくらいだ。年長かどうか疑わしい。たまたま二年生として存在しているだけなんじゃないかと思うね。
しかし、ここでそんなことを教えてやるわけにはいかない。長門の反応からみて、喜緑さんは敵ではなかろう。俺はさりげなく朝比奈さんの様子を目の端でうかがう。彼女は少なくとも長門が宇宙人関係者だと知っていた。最初にここに連れてこられたときの驚きようがそれを示している。ならば喜緑さんもまたそれらしいということに気づいているんじゃないかと勘ぐる俺の心の動きは正当だろう。
しかし----。
「うーん、あ。えーと、ううん」
この愛くるしい上級生さんは、一心不乱に絵本を描くことに必死のあまり、部屋にやって来た二人組の闖入者にまったく気づいていないようだった。強固な集中力を褒めて差し上げるべきなのか、それともドジっ娘へどんどん近づいているのを心配したほうがいいのか。後者だとしたらハルヒの教育の成果だ。
俺が漠然と立っている間も、ハルヒと会長は言語的攻撃を応酬させていた。
「小説誌にするらしいが」
と、会長のニヒルな声。
「果たして、キミたちにまともなものが書けるのかね」
「何度でも言うわ。おあいにく様」
ハルヒの決然とした声。
「あたしは全然心配なんかしてないのよね」
ハルヒはどこのワームホールから湧き出しているのか調べたくなるほどの自信に満ちた顔をして、
「教えてもらわなくたって、小説を書くことなんて簡単よ。このバカキョンにだってできるわ。だって、たいていの人は文字が書けるでしょ? 文字さえ書けたら、文章だって書けるし、その文章を繋げていくことだってできるわけ。字を書くのに特別な訓練なんていらないじゃない。もう高校生なんだしさ。だから小説書くのに練習なんか必要ないの。ただ書いてみればいいだけのものよ」
会長はくいっと眼鏡をずり上げて、
「キミの楽観的な物の見方には感心するしかないな。しかし、いかにも幼稚だ」
俺も全面的に同意見だが、ここでハルヒを焚きつけるようなことは慎んで欲しい。たとえそれが会長として誰かに割り当てられたセリフだとしても、燃え上がったハルヒオーラを浴びるのはここにいる俺たちなんだからな。
案の定、ハルヒはぐんぐん眉と目の端の角度を鋭利な刃物のような形にして、
「あんたがどんだけ偉いのかは知んないわ。でもねっ! たとえ本当にあんたがすっごく偉いのだとしても、あたしは偉そうにするやつが大っ嫌いなの。偉くもないのに偉そうなのはもっと嫌いだけどね!」
口ゲンカなら後れを取らないヤツである。このままではいつまでも言葉のぶつけ合いを演じてくれそうだ。なにしろ会長はハルヒより偉そうなのだ。これまた演技なんだろうが、怒りの火だるまと化したハルヒを前に平然としているのは大したものだ。会長も、それから喜緑さんも。
「ふむ。私は別段偉くはないとも。キミは偉い偉くないで人間を計るのかね。私が多少なりとも誇るべき点を持つのだとしたら、それは公正な選挙結果によってこの地位にいるということだ。それで、キミは何によってその座に座っているのかね。団長どの?」
さすがは古泉に選ばれた人材と言うべきか、この会長は一本太い芯の持ち主だった。ハルヒに向かってこうまで堂々と皮肉をかませられる人間など、この高校には他にはいまい。
しかし、ハルヒはハルヒでたいしたヤツなのだ。俺が言うのだから間違いはない。
「挑発しようったってムダよ」
学園内非合法組織の領袖は、怒り出す代わりに不気味な笑みを浮かべた。
「生徒会は文芸部のついでにSOS団を潰したいんでしょうけど、そうはいかないわ」
ハルヒはちらりと俺を見る。何だ、その目は。
輝く瞳は会長を串刺しにした。
「あたしは絶対、ここを動いたりはしないんだからね。なぜだか教えて欲しい?」
「うかがおう」と会長。
ハルヒは、その声がマイクロ波なのだとしたら、どんな電子レンジよりも効果的だろうと思うような音量で、こう言った。
「ここはSOS団の部屋で、このSOS団はあたしの団だからよっ!」
言いたいことだけ言って、そしてハルヒに言わせるだけ言わせて、会長と随伴する喜緑さんは帰っていった。
「もう、腹立つわ。何しに来たのよ、あのバカ会長」
ハルヒは唇を尖らせてブツブツ呟き、喜緑さんが持ってきた旧文芸部の会誌をパラパラめくっている。
ハルヒの雄叫びによって、さしもの朝比奈さんもようやくお客が来ていることに気づき、慌ててお茶の用意をしようとしたが時すでに遅く、しかしおかげで俺はようやく朝比奈さんの美味しいお茶にありつけて心爽やか、執筆もはかどる…………とは、いかなかった。
何となく、いったん気勢がそがれると意欲もなくなる。まして、クジ引きで決められたテーマで、かつ自分の過去エピソードとあってはな。
しかしそうも言ってはいられない。会長の登場によって燃え上がったハルヒのやる気は、いまや部室の天井を焦がすまでになっていた。
「いい、みんな」
ハルヒがアヒル口を開いて言ったことは、
「こうなったら死んでも会誌を作り上げて、それもすっごいのを作って完売させるのよ。一部も余さず、生徒会の鼻を明かしてやるの。いいわねっ!」
会誌は売り物ではなく配布物だし、こんなもんのために死ぬ気もなかったが、締め切りを破ろうものなら死なないまでも死ぬような罰ゲームに遭わされそうだ。まったく、いくらそれが役目なんだとはいえ、あの会長も演出過剰なんじゃないか? 古泉もだ、満足そうに微苦笑している場合か。
「僕としましては」と古泉は例によって俺に囁く。「非常に満足ですよ。涼宮さんの目が日常的な出来事に向いている限り、僕は例の空間とは無縁でいられるのですから」
そりゃお前はいいかもしれん。だが、俺はどうなる。このまま生徒会を相手にした学園闘争に突入するのは勘弁して欲しいぜ。あの会長がフリだけだというのは解っているが、解っていないハルヒが何をおっぱじめるか、それこそ解らん。もし今回の会誌作りが会長の条件通りにいかなかったりしてみろ、ハルヒが素直に部室を明け渡すはずがない。俺はこんなところに籠城して、あげく兵糧責めに遭いたくはないぜ。
古泉はくつくつと鳥みたいに笑い、
「考えすぎですよ。僕たちが今考えるべきは会誌を完成させることです。それで何とかなります。ならなかった時は----」
穏やかなスマイル面に、策謀家じみた表情をふっとかすめさせ、
「別のシナリオを発動させるとしましょう。籠城戦ですか、それもいいですね」
鶴屋さんの観察眼によると生徒会長氏は司馬仲達のような感じらしいが、彼女なら古泉を誰と比類させるだろう。黒田官兵衛あたりか?
俺は水攻めを仕掛けられた高松城城主のような気分を味わいつつ、どうやら学園陰謀ものに憧れを持っているらしい古泉が本気で謀略を発動させないように祈った。
結局、この日には俺の原稿は完成しなかった。邪魔が入ったせいもあって、あれっきり一文字も進んでいない。
幸い、ハルヒは上がってきた原稿チェックをすませると、部室を飛び出て行った。新たな外注先を思いついたか、それともハッパをかけに行ったのか……。
ハルヒが戻ってきたのは下校を催促する音楽が流れ始めた頃合いで、それは長門が本を閉じた時刻とぴったり一致していた。順調に書き進めていた古泉と、健気にがんばっている朝比奈さんに紛れて、俺は鞄を手にして立ち上がる。
さすがのハルヒもノートパソコンを持ち帰って家で書けとは言わなかった。ぶりぶり怒るあまり忘れていただけかもしれないが、俺にとってはありがたい。
全員で下校する途上、山の上から降ってくるような冷たい風に身をさらしつつ、だが確実に春の息吹を感じつつ、来年度、文芸部に入部希望するような新入生が現れたら、そいつは自動的にSOS団に組み込まれてしまうのだろうか----なんてことを考えているうちに家に着いた。
そんなわけで、俺が自伝的小説の続きを書き始めたのは、次の日の放課後だ。
ええと、どこまで書いたっけ。ああ、映画の券を買ったところまでだな。
では、そこから再開しよう。
首尾よく入館した俺とミヨキチは、単館だけあって広いとは言い難い劇場の真ん中あたりの席に座った。よほど不入りなのか、客入りはまばらどころかガラ空きだ。
その映画が何だったかと言うと、これがスプラッタ系のホラーだった。正直、あんまり好きなジャンルではなかったが、この日ばかりは彼女の希望を聞いてやらないわけにはいかない。それにしても、おとなしい風貌に似合わない趣味をしている。よほど観たかったのか。
上映中、彼女は熱心な映画ファンとなってスクリーンを鑑賞していたが、ところどころ、ホラー映画特有のビックリ演出の際には素直にビクっとしたり、顔を背けたり、一回だけ俺の腕をつかんだりして、なんか知らんが俺をなごませた。
しかし、それ以外では食い入るように映画を見つめ、これだけ集中して観られたら映画制作者も本望だろうという真面目ぶりだった。いちおう、映画について俺の感想を漏らしておくと、端的に「B級だな、こりゃ」としか言いようがなかった。見て損をしたとは思わんが、とりたてて得をしたわけでもない。前評判も全然見聞きした覚えがないし、宣伝だってちょろっとしかしていなかったはずだ。
どうして彼女は、この映画を指定したのだろう。
そう尋ねたところ、
「好きな俳優さんが出演していたんです」
少し照れたように、彼女は答えた。
エンドロールが上がりきらないうちに幕が閉じられ、俺たちは劇場を出た。
昼過ぎだった。どっかで昼飯にでもするか。それとももう帰るのかなと考えていると、彼女はひたすら控えめな声色で、
「行ってみたいお店があるんですが、いいですか?」
見ると、彼女の開いているガイド誌のページの片隅が赤ペンで丸く囲まれている。ここから徒歩で行けるくらいの場所にある店だ。俺は少し考えてから、
「いいに決まってるさ」
答えて、誌面に記された簡易地図を頼りに歩き出す。彼女はどこまでもおとなしく、俺の斜め後ろで歩いていた。ここでの会話も何かあったはずだが思い出せない。
しばらく歩いて到着したのは、こぢんまりとした喫茶店だった。見るからにオシャレな外観と内装をしていて、男一人で入店するにはとてつもない勇気を必要としそうな、ザ・場違いという感じのとこだ。思わず店先で立ち止まった俺だったが、ミヨキチが心配そうに見上げてきたので、ごく自然な感じで木製の手動ドアを押した。
予想通り、店内の客層はほとんどが女性で占められていた。華やかだ。男女のカップルが何組かいて、俺はなんとなくホッとした。
席に案内してくれたウェイトレスは、微笑ましそうに俺とミヨキチを見て、やはり微笑ましそうに水の入ったグラスを持ってきて、さらに微笑ましそうにオーダーを聞いてきた。
メニューをためつすがめつすること三十秒、俺はナポリタンとアイスコーヒー、彼女は特製ケーキセットを注文した。どうやら彼女は最初から注文するものを決めていたらしく、ウェイトレスさんがサンプルとして持ってきた十種類くらいのケーキの中から、ためらいもなくモンブランを指差した。
「ケーキセットだけでいいの?」
と、俺は訊いたはずだ。
「それだけじゃ腹がすかないか?」
「いえ、だいじょうぶです」
彼女は背を伸ばし手を膝の上に置き、緊張したような顔で言った。
「わたし、小食なんです」
意外な答えだった。俺がまじまじと見つめていたせいだろう、彼女はすっと顔をうつむかせた。俺は慌てて弁解に走り、やっとの思いで笑顔を取り戻すことに成功した。今思えば、汗が滲み出るような恥ずかしいことを言ったように思う。そのままで全然可愛いとか、うっ、こうして書いているだけでもうダメだ。しかし、実際にミヨキチは綺麗な娘だったのだ。彼女のクラスにいる男子の半分くらいから惚れられているんじゃないかと思うくらいに。
運ばれてきたモンブランとダージリンティーを、彼女は三十分くらい時間をかけて口に運んだ。俺はさっさと食い終わり、アイスコーヒーに入っていた氷が溶けた水まで飲み干してしまうくらいの時間が経過していた。
ずいぶん手持ちぶたさだったが、それを彼女に悟られないよう、俺は適当な話題を彼女に振り、うなずかせたり首を横に振らせたり……。まあ、考えてみればそこまで気を遣うこともなかったように思う。あん時の俺は気配りの塊だった。俺も緊張していたのかもな。
茶店代くらい、俺が奢ってもよかった。しかし彼女はあくまでかたくなに、自分のぶんは自分で払うといって聞かなかった。
「今日、こうして付き合ってもらっているのはわたしですから」
というのが彼女の言い分だ。
精算を終え、俺たちは明るい日差しの中を歩き始めた。ホラー映画、小奇麗な喫茶店の次はどこに行きたいのか。それとももう帰るのかな。
「…………」
歩きながら、彼女はしばらく黙っていた。それから、やがて、
「最後に、一ヶ所だけ……」
小さな声で告げた場所、そこは俺の家だった。
というわけで俺は彼女を自宅に連れ帰り、俺たちの帰りを待っていたかのようにやって来た妹と三人でゲームをして遊んだ。
「ふう」
そこまで書いて、俺は指を止めた。
ここ、部室にいるのは古泉と長門だけである。ハルヒは相変わらず走り回っていて、朝比奈さんは絵の最終チェックのため美術部に出かけていた。
俺が書いた文章を最初からスクロールさせていると、視界の横から古泉の顔が湧いて出てきた。
「最後まで書けたんですか? もう?」
「どうかな……」
答えつつ、そう言われたらこれで終わってもいいような気がしてきた。考えてみれば、こんなもんをせっせと書いてて何になるんだ? 文芸部のため、ひいては長門のため----ってんのならハリキリもするが、ようはSOS団がこの部室を根城にし続けるための手段であり、ハルヒの退屈しのがせ計画の一環だ。裏で糸を引いているのは古泉で、会長は職権の乱用を腹に抱えている古泉の傀儡モドキだ。言うなれば、この一件は回りくどい自作自演である。
しかしながら、古泉の期待するように第二ステージみたいな対生徒会全面戦争はどうやったっても避けたい気分であった。なにより、いちおうだが長門が中心にいるのだ。俺はあいつに平穏な学生生活を満喫してもらいたいと考えている。この部室の片隅で、静かに本を読んでいる長門を眺めて心の平静を呼び起こされるのは俺だけではないと信じたい。
「まあ、いいか」
俺は古泉に顎をしゃくって見せた。
「ハルヒに見せる前にお前の意見を聞きたいぜ。読んでみろ」
「読ませていただきましょう」
興味津々といった古泉の顔を見ながら、俺はタッチパッドを操作した。
団員に支給されているノーパソは団長机のデスクトップパソコンをサーバにしてLAN接続されている。ちょちょいと操作してやるだけで部屋の隅に置かれていたプリンタが作動開始、印刷した用紙を吐き出し始めた。
数分後。
読み終えた古泉はニッと笑い、こうコメントした。
「はて、ミステリの役割は僕の仕事だと思っていたんですが」
やっぱり気づきやがったか。
「なんのこったい」
とぼけることにする。
「俺はミステリなんて書いたつもりはないが」
古泉はますます笑みを広げ、
「なおのこと問題ですね。これでは恋愛ものにもなっていませんよ」
だとしたら、俺の書いたそれは何だってんだ?
「これは、ただの自慢話です。可愛い女の子とデートした、という」
普通に読めばそうなるかな。だが、古泉。お前は別のことに気づいただろう。どこが怪しかった?
「冒頭からです。こうもあからさまではね。感づくなというほうが無理ですよ」
原稿を揃えた古泉は、ボールペンを取るとそのうち数枚に印を付け始めた。※印だ。というわけで、前文にあった(※)ってのは古泉がつけたものである。
「あなたも親切な人ですね。手がかりを連続して書いてくれるとは。どんな鈍い読者でも、(※4)くらいでピンと来ますよ」
俺はすっとぼけるようにして舌打ちし、横を向いた。長門の動かない姿を見て心を安らげようと思ったのだ。おかげで目は安らいだが、耳には古泉が追い打ちをかけてくる。
「このままではオチがありませんね。そこで提案です。一行か二行、この後に付け加えることがあるでしょう? いわゆる種明かしという部分です。決して手間ではないはずですが」
やっぱりあったほうがいいのかね。
古泉のアドバイスに従うのは業腹だが、今回ばかりは耳を傾けておいたほうがいいような気もする。ハルヒの精神分析に関してはヤツが専門だしな。
って、待てよ? なんで俺がハルヒの読書感想を気にかけないといかんのだ。恋愛小説を書けなんて無茶を言い出したのはあいつで、その無茶を何とかやってやったのは俺であり、それは朝比奈さんや長門だって同じだ。これで難癖つけるようなら、編集長の座に勝手に居座ってしまったハルヒこそを糾弾すべきだろう。
俺が液晶画面の表示を凝視していると、古泉が含み笑いを漏らした。
「そう思い悩むことはないように思いますがね。それに僕が気づくようなことを、涼宮さんが気づかないとは思えません。詰問を受けうる前に……おっと」
古泉はブレザーのポケットを押さえた。虫の羽音のような音が響いている。
「ちょっと失礼」
携帯電話を引っ張り出した古泉は、画面を一瞥して、
「野暮用ができたようです。少しばかり中座させてもらいますよ。いえ、ご安心ください。単なる定時報告のようなもので、例のアレではありません」
その言葉を裏付けるように、古泉はニコヤカな顔のまま部室を出て行った。案外、こいつこそ影でどっかの女子生徒と付き合っているのかもな。如才のなさそうな古泉のことだ。俺たちの知らないところで何か普通のことをしていても不思議ではない。
で、俺と読書に没頭する長門だけが残された。
長門は顔も上げない。何か言ってやろうかと思ったのだが、俺は俺でまだ迷っている最中だ。蛇足を承知で書くべきか。
沈黙の中、俺はそれまで書いていた小説モドキのファイルを保存終了させ、新しいテキストファイルを立ち上げた。真っ白な画面がモニタに表示される。
とりあえず、書くだけ書いてみるか。古泉の言うとおり、二行くらいで終わる。
カタカタとキーを打ち、推敲なんてする長さでもないのでそのままプリントアウト指示。
プリンターから出てきた一枚のコピー用紙をじっくり眺めているうちに、俺は全文を削除処理したくなってきた。だめだ、これは。昔話にしても恥ずかしすぎる。
俺は最終ページとなるその一枚を折りたたみ、制服ブレザーの内ポケットにしまい込んだ。
と、同時に、
「谷口、また逃げちゃったわ。明日は縛り付けてでも書かせなきゃね。キョン、あんたもよ。そろそろ完成しないと編集長として怒るわよ」
ハルヒが部室に入ってきた。
そして、古泉がテーブルに置きっぱなしにしていった俺の原稿に目を留めた。
ちょっと待て、という俺の願いも虚しく、ハルヒは神速の動きでプリントアウトしたコピー用紙を奪い取った。自分の机に着席し、おもむろに読み始める。
俺はあきらめと開き直りの境地を半々に感じつつ、強権を誇る編集長の顔色をうかがった。
ハルヒは最初ニヤニヤしていたくせに、中盤辺りで無表情になり、数枚を経るとともに表情が失せていったが、最後のページを読み終えて、また表情が変わった。
あな珍しや。ハルヒがキョトンとしていやがる。
「これで終わり?」
俺は神妙にうなずいた。長門は何も言わずに開いた本のページを見つめている。朝比奈さんは出向中。古泉は何か理由をつけて出て行った。ハルヒに余計な注進をする人間はどこにもいないはずだ。
しかして----。
ハルヒは俺の原稿を机に置くと、改めて俺に向き直った。
そして、ニッと笑いやがった。古泉と同じように。
「オチは?」
「オチとは?」
しらばっくれることにする。
ハルヒは不気味なほど優しく微笑み、
「これで終わりだなんて、そんなことないでしょ? このミヨキチって子、その後どうなったの?」
「さあ、どっかで幸せに暮らしてるんじゃないかなあ」
「嘘ね。あんた、知ってるでしょ」
団長机に手をついたハルヒは、そのまま机を飛び越えて俺の前に跳んできた。かわす間もなく、俺はネクタイをつかまれる。このバカ力女め、息苦しいだろうが。
「離して欲しかったら言いなさいよ。ま正直にね」
「何が正直にだ。それは小説さ。そう、フィクションなんだ。そこに書いてある俺ってのは、俺じゃなくて、俺の書いた一人称小説のキャラクターなのさ。ミヨキチもな」
ハルヒの笑顔がますます接近し、俺の首はさらなる力で締められる。いかん、窒息の危機が迫ってきた。
「嘘言いなさい」
ハルヒは清々しい口調で、
「あんたに嘘っぱちな小説が書けるなんて、ハナっから思ってないわ。どうせ身近にあった思い出とか人から聞いた話を書き写せる程度よ。あたしの勘では、これ、どう読んだって実話を元にしているわよね。あんたの」
ハルヒの目が爛々と輝いている。
「ミヨキチって誰? あんたとどういう関係?」
ギリギリとネクタイは締まり続け、とうとう俺は真実を白状した。
「たまに家に来て、晩飯喰って帰ったりする」
「それだけ? まだ何か言うことあるんじゃないの?」
俺は反射的にブレザーの胸を押さえた。ハルヒにはそれで充分だった。
「ははぁん。そこに残りの原稿を隠しているのね。よこしなさい」
なんつう嗅覚のきくヤツだ。感嘆の念を禁じえない。しかし、俺が賞賛の言葉を発してやる前に、ハルヒは実力行使に出た。
もみ合う俺の股に右脚を突っ込むと、どこで覚えたのか、鮮やかに内掛けを放った。
「うおぅ」と俺は虚しく声を上げる。
体を預けてきたハルヒによって俺は床に押し倒された。ハルヒはマウントポジションの体勢で俺に馬乗り。ブレザーの内側に手を入れようとする。何とか抵抗を試みる俺。
「有希、手を貸してちょうだい。キョンの手を押さえてて」
言うなりハルヒは俺のブレザーを脱がそうとし始めた。おいおい、お前には羞恥心というものがないのか。脱がすのは朝比奈さんだけにしておけよ。この痴女め。
「こら、やめろ!」
助けを求める目を長門に向けた俺は、どうしようか迷っているような、そんな感じの微妙な無表情に直面する。
いつのまにか、長門は自分のパソコンの蓋を開けていた。
いつからだ? コンピ研のコンピュータに侵入してプログラムを書き換える技術を持っているこいつのことだ、俺のパソコン内部を盗み見するくらいなんぞ楽勝だろう。エーと、見られたのかな?
「…………」
長門はどちらの加勢もせず、冷静な目で俺とハルヒのグランド合戦を見守っている。
と、そこに、
「ただいま帰り----ええっ!?」
朝比奈さん登場。なんちゅうタイミングで来る人なんだ。仰向けに寝転がっている俺と、その上にまたがり逆セクハラを敢行しているハルヒを見て、彼女は何を思ったか、
「ご、ごめんなさぁい! あたしは何も見ていませんっ! 本当ですっ」
見当違いのことを叫びながら走り去った。
「…………」
と、長門は静観中。
「編集長の言うことが聞けないの? さ、よこしなさい!」
と、ハルヒは凶暴な笑み。
俺はハルヒの両手をガードポジションでさばきつつ、心から念じていた。
古泉、もはやお前だけが頼りだ。早く戻って来てくれ。
最後に印刷した一枚。ブレザーの内ポケットに収まっているそれには、こう書かれている。
ちなみに吉村美代子、通称ミヨキチは、俺の妹の同級生であり、妹の一番の親友でもあり、その当時、小学校四年生十歳だった。
今も一年前も、ミヨキチは妹の同級生とは思えないほど大人びた姿形をしていた。どこか小食なのかと疑いたくなるくらい背があって、たたずまいといい、とっさに見せる表情といい、ややもすれば朝比奈さんより大人に見えるほどだ。そういう小学生らしからぬ人相風体のおかげで、映画館の券売の人やもぎりのバイトさんも見逃してしまったのだろう。
気づいたとしてもいちいち止めていたかどうかは疑問だが。学生証を提示しなくても学生料金でチケットを売ってくれたしな。
観に行った映画は映倫によってPG-12の指定を受けていた。つまり、十二歳未満は成人保護者同伴という条件だ。俺ならとうに十五歳になっていたからいい。
問題なのはミヨキチだ。だが彼女は正しく理解していた。自分の外観が十二未満に見られることはないだろう、と。
ただし一人で行くには踏ん切りがつかなかった。彼女の両親は割合に固い人柄で、スプラッタなB級ホラー映画に理解がなく、そんなもんを観に行きたいと言おうものなら説教ものだ----とは彼女から聞いた説明さ。
かと言って友人を誘おうにもウチの妹なんか今でも小学校低学年にしか見えない。映画の上映は三月いっぱいで終わる。いそがないと鑑賞の機会は失われる。
そこで彼女は考えた。一緒に行って普通にチケットを売ってもらえそうな人間は誰だろう?
俺だった。
自分で言うのも何だが、昔から俺は小さい子供にやたらと懐かれる。従兄弟どもの大抵が俺より年下で、田舎で一同勢揃いしたときなんかによく世話をさせられていた習性からくるものだと思われる。
当然、妹の友達連中のあしらいなども日常茶飯事だ。その中にはミヨキチもいて、彼女も俺のことをよく知っていた。
よく遊びに行く家にいる友人の兄貴で、春休みにヒマそうにしているヤツ。小学四年生の交友範囲で思いつく人物として浮かび上がったのが俺だったというわけだ。
彼女はこうも考えた。映画のついでだ、これも子供一人では入りにくいところにも行っておこう。ということで、あの喫茶店が選ばれた。あの時のウェイトレスさんでも微笑ましくなろう。背伸びした小学生が一人で入るには敷居が高い店だったし、身分的にはまだ中学生の俺も気後れするくらいだった。喫茶店内の俺とミヨキチ。ハタ目からは、どうやったって兄妹以外に見えなかったに違いない。
現在は小学五年生、もうすぐ六年のミヨキチこと吉村美代子。あと五年も待てば、朝比奈さんの対抗馬になっているかもしれん。
どっかでハルヒの目に止まったらの話だが。
さて、ここからは後日談になる。
会誌は期日までに出来上がった。コピー用紙に印刷したものを業務用のデカいホチキスで留めただけの冊子だが、内容は----身内びいきを差し引いて言うんだが----けっこう充実していたと言っていい。
特に秀逸だったのが、鶴屋さんの書いてきた冒険小説だ。『気の毒! 少年Nの悲劇』と題された短編ドタバタ小説は、読む者すべてを残らず笑い転げさせた。俺なんか笑いすぎて涙がでたくらいだ。この世にこんな面白い物語があったとは----なんて感じたのは久しぶりのことである。これを読んで顔面の筋肉をピクリとさせなかったのは長門くらいだったが、その長門でも自室でこっそり読み返してクスクス笑いを漏らしているんじゃないかと思うくらい、鶴屋さんの躍動した文体からなるスラップスティック小説は抱腹絶倒ものだった。
薄々思っていたが、改めて実感する。ひょっとしたら天才なんじゃないか? あの人は。
SOS団関係者の他、谷口の書いた恐ろしくオモシロくない日常エッセイやら、国木田の豆知識のような学習コラムやら、漫研の誰かが描かされた四コママンガとか、ハルヒが熱心に執筆依頼と原稿催促に走り回ったおかげで、文芸部の会誌としては分厚すぎるシロモノになっていて、一冊ごとに束ねてホチキス留めするのにやたらと手間がかかったものの、用意した二百部は、呼び込みもしていないのに一日で捌けた。おそらく外注のために走り回っていたハルヒの行為が意図せずに事前宣伝になっていたものと思われる。
そのハルヒだが「あたしも書くわよ」と言ったとおり、偉そうな編集後記以外にも短文を寄稿していた。
『世界を大いに盛り上げるためのその一・明日に向かう方程式覚え書き』というタイトルの、図形だか記号だかが満載された論文じみたもので、ハルヒの説明によるとSOS団を恒久的に存続させるために何やら考えてみた、というようなものらしいのだが、俺にはさっぱり理解不能な文章だった。混沌とした秩序、と形容したくなるような意味不明さで、まるでハルヒの頭の中身がそのまま漏れて出てきたみたいな印象を持ったのだが----。
しかし、その論文モドキを読んだ朝比奈さんは腰を抜かして驚いた。
「そんな……。これがそうだったなんて……」
見開いた目から愛くるしい瞳がこぼれ落ちそうなまでの驚愕で、理由を尋ねた俺に対し、朝比奈さんは、
「詳しくは禁則事項なので言えませんが……」
と、断りを入れてから、
「これ、時間平面理論の基礎中の基礎なんです。あたしたちの時代の……ええと、あたしみたいな人なら誰でも最初に習います。発案者がどの時代のどの人だったのか、ずっと謎だったんですが……。それが、まさか涼宮さんだったなんて……」
あとは絶句。俺も付き合って絶句し、ついでにこんな妄想が浮かび上がった。
ハルヒは自分の作った会誌を最低一部は自宅に持ち帰るだろう。その会誌が、あのハカセくんみたいな眼鏡少年の目に触れる機会がないとは言えない。ハルヒはあの少年の臨時家庭教師だからな。ハカセくんに関しては俺と朝比奈さんも大いにきっかけを与えてしまっているが、それだけではなかったのかもしれない。結局はハルヒが根元的原因になっているのだろうか。そうでなくても色んな複合要素がありそうだな。朝比奈さん(大)への質問事項がまた一つ増えたぜ。
会誌の即日配布完了を受け、ハルヒはわざわざ生徒会室に出向いてその旨を報告した。身体中から自慢オーラがあふれ出ていたのは言うまでもなかろう。
生徒会長はハルヒのカチコミにも似た登場にも眉一つ動かさず、ただ眼鏡だけを光らせながら、
「約束は約束だ。文芸部の存続を認めよう。だが、SOS団とやらの存在に対しては未だ関知し得ん。私の任期はまだしばらく残っていることを忘れるな」
という白々しい捨て台詞を残して背を向けた。
それを敗北宣言と受け取ったハルヒは意気揚々と部室に戻り、淡々と見守る長門の前で戦勝の踊りを朝比奈さんとともに踊った。やれやれだ。
何にせよ、一つの騒動がこれで終わりを告げた。後は本格的な春の到来を待つだけだ。
このまま何事もなければ俺たちはそれぞれ進級する。残っている行事でハルヒが何かやらかしそうな時期になるものと言えば春休みくらいだろう。
何とも言い難い、長いような短いような一年だった。これは内緒の話だが、俺は今年四月のカレンダーの一ヶ所に丸をつけている。それは去年の始業式の四月某日でもあった。
誰が忘れていたとしても、ハルヒ自身が覚えていないのだとしても、俺だけは忘れずに覚えている記念日だ。
ハルヒと出会ったその日のことを、俺は生涯忘れない自信がある。
記憶を失いでもしない限り、な。