思いっ切りぶっ叩かれたボールが床でバウンドする小気味よい音と同時に黄色い歓声が響き、体育館の天井に反射して俺のところまで降り注いできた。
俺はところどころ土で汚れた体操着姿で、両手を後ろにつき怠惰に足を投げ出している。全身が完全に弛緩した状態であり、そんなリラックス体勢で現在の俺が何をやっているかというと、ごく純粋に単なる一観客だった。なにしろ、もう今日は他にすることがなく、することがなくても勝手に学校を後にするわけにもいかないので、いかない以上、こうして階下の様子を眺めているくらいしかできない。
俺が座り込んでいるのは体育館の両脇に張り出したキャットウォークである。手すりのついた狭い通路みたいなところだ。たいていどの体育館にもあると思う。いまいち何のためにあるのかは解らんが、きっと俺が今しているような試合観賞用にしつらえられているに違いなく、そして、だらけきった雰囲気で自由な身体と時間をもてあましているのは俺だけではなかった。
横で俺と同じようにしていた谷口が、
「強えーな、ウチの女子は」
別に感心しているわけでもなさそうな感想を述べた。
「そうだな」
俺は気のない相づちを打ちつつ、コートの上空を舞う白いバレーボールの行方を追う。相手の陣地から山なりサーブで飛んできたボールは、放物線の落下点でレシーブされ、次にトスという手順を踏んでほぼ垂直に上昇する。
そのボールを追うように、アタックラインの遥か手前から助走をつけてジャンプした体育着の女子が見事なまでの躍動感で右手を振り下ろし、位置エネルギーと運動エネルギーのすべてを叩き込まれた気の毒なボールは、殺人スパイクとなって相手チームの二枚ブロックをはじき飛ばし、コートの角に吸い込まれた。完璧なバックアタック、主審役を務めるバレーボール部員が笛を吹く。
歓声が湧いた。
ひたすらヒマなせいだろう、
「おい、キョン。どっちが勝つか賭けでもしねえか?」
谷口がそれほど熱意なく言い出した。いいアイデアだが、ハンデ戦にでもしない限り、とてもじゃないが公正な賭けにはならない。
俺は谷口が口を開くより先に宣言した。
「五組の勝ちだ。間違いない」
谷口は舌打ちし、その横顔に向かって俺はセリフをこう続けた。
「なんせ、あいつがいるからな」
ネットぎりぎりで華麗に着地した女が不敵な笑みを浮かべて振り返る。俺を見上げてきたわけじゃなく、部室で見せる得意満面な笑顔とはまた異なった笑みだ。駆け寄るチームメイトたちに、まるで「こんなのできて当然よ」と無言で伝えているような顔である。
十五ポイント先取のワンセットマッチ。
予想通り、我が一年五組の女子Aチームはダブルスコアで圧勝を遂げた。得点源となったエースアタッカーは、ハイタッチを交わすクラスメイトに混じって、一人だけ握り拳を突き上げ、一人一人の手のひらに軽いパンチを入れていた。
サイドラインの外に出てくる途中、ようやく体育館の壁際上方に鈴なりなっている俺たちに気づいたらしい。足を止めて見上げたのも一瞬で、俺はすぐに例のにらむような視線から開放された。
何をやらしてもそつなくこなし、こと勝負事となれば無類の負けず嫌いの権化と変身、このバレーの試合でもほぼ全得点を叩き出して勝利の功労者となったそいつ----って、わざわざボカす必要なんかないな----つまり涼宮ハルヒは、即席チームを組んだ同級生からスポーツドリンクを回され、うまそうに飲み干すところだった。
だいたい解ってると思うが、ようは球技大会なんぞをしている。
三月上旬、学期末試験が終わってしまうと学校ってやつは次の休みへの準備期間に入ると相場が決まっており、それはこの県立高校でも同じだった。学内スケジュールとしては、もはや春休みを待ちわびるのみなわけだが、それはそれで他にすることはないのかと誰かが脳内に電球を灯した結果なのだろう、毎回この期間には球技大会という行事が組み込まれている。
テスト勉強で凝り固まった頭をほぐしてやろうという学校サイドの配慮なのかもしれなかったが、こんなもんをするくらいなら休みを増やして欲しいね。
ちなみに今回のメニューは男子がサッカー、女子がバレーであり、俺の所属した一年五組Bチームはトーナメント方式の第一回戦で宿敵たる九組に惜敗していた。別に古泉のいるクラスだから敵視しているわけではなく、九組というのは特別進学理数コースであり、当然の次第として頭のいい野郎ばかりの集まりで、せめてサッカーあたりで勝たないと他の普通クラスの立つ瀬がなく、おかげで今の俺や谷口他の男子どもはすっかり立つ瀬がない。
あまりにもないので、こうやって体育館までやってきて女子の体操着姿を眺めているくらいしかないという寸法である。
「それにしてもすごいよね。涼宮さん」
おっとりと言ったのは国木田だった。ハルヒの大活躍によって躍進する女子バレーチームの試合は次で三試合目、俺たちは二試合目の途中から観衆と化している。
「どうして運動部に入らないんだろ。あれだけの逸材はなかなかいないと思うよ」
まったくもって同意見だ。もしハルヒが陸上部にいたりしたら、おそらく長中短距離のすべてのレースでインターハイに行っているだろう。他のどんなスポーツでも同じことだ。筋金入りの負けず嫌いだからな。一番とか優勝とかいう言葉をあれほど好むやつもいない。
俺はまだ試合中の隣のコートに目を転じつつ、
「あいつにしてみりゃ、青春をスポーツに費やすより大事なことがあるんだろ」
長門か朝比奈さんが試合してないかと思って見たのだが、体育館には二人の姿はなかった。ちょい残念。
「SOS団ねえ」
谷口がどこか鼻で笑うように、
「はん、涼宮らしいぜ。あいつが普通の学生をやってるなんて想像外だからな。中学んときからそうだった。今じゃキョンと一緒にわけのわからん遊びをすんのが好きなんだろーよ」
もう反論する気にもならんね。
なんと言ってもこの一学年も残り少ない。球技大会以降は短縮授業に入るから、教室にいる時間も自動的に少なくなるだろう。首尾よく春休みに突入し、桜が芽吹く頃になっちまったらいよいよ俺たちは二年に自動昇格する。そうなればクラス分けという学生にとっては割と重要なシャッフルイベントがやってきて、その後の一年間の苦楽を決定づけるかもしれないのだ。俺はこのアホ谷口や国木田といった連中がそれなりに気に入っていたから、次も教室を同じくしていればいいなと思うものの、こればっかりはな。
俺がぼんやり考え込んでいると、国木田が身を乗り出して注意を喚起してくれた。
「次の試合、始まるみたいだよ」
見ると、すっかりキャプテンシーを発揮しているハルヒを中心とする五組の女子たちがコートに散るところだった。
そろそろ春の息吹をまき散らしてもいい頃合だったが、山間にあるこの高校はまだかなり冷えていた。冷えていると感じるのは俺の心情的なものが加算されているからかもしれず、その原因が先日俺の手元に戻ってきたテスト用紙に書かれていた点数結果によるものであることは疑いない。
俺的にはそこそこ満足すべき数値だったが、オフクロの満足風呂敷を完全に覆い尽くせるものではなかったらしく、しきりに予備校や学習塾のパンフレットを取り寄せては、俺の目のつくところに置いていたりするので胃が痛い。どうやら国公立ならどこでもいいから入ってくれという意向のようだが、実は俺の書類上の進路志望でもそうなっている。まあ、望みは高くというやつだ。そんでまあ、なんだ。ハルヒの口出しもあったことだし。
期末テストが赤点ライン低空飛行にならなかったのは、ひとえに臨時家庭教師となったハルヒが部室で俺に一夜漬け法を伝授してくれたおかげである。試験開始の数日前、テーブルに広げた教科書とノートをばらまきながら、ハルヒは言ったものだ。
「追試や補習なんか許さないからね。SOS団の平常業務に支障をきたすようなヘマは許されないわ」
団の業務とやらについてはとやかく言うまい。その業務の時給はいくらなんだとか言う以前に、俺の財布から金が飛んで行きっぱなしなわけだが、それもいい。
ともかく、俺だって教室で教師の監視を受けながら新たな問題文に挑戦したり、退屈な授業を追加で受けたりするより、部室で朝比奈さんのお茶を飲みながら古泉の相手をしているほうがよほど心安らかだったから否とはいわず、『教官』と書かれた腕章をはめるハルヒに教えを請うことにした。
ハルヒ教官の試験対策は単純至極、テストに出そうなところだけを重点的に覚え込ませるという山勘に頼ったもので、ハルヒの勘の良さをつくづく知っている俺はほいほいとばかりに言いなりとなった。長門に訊けば試験問題と模範解答をまるごと教えてくれそうだし、古泉を拝み倒せば怪しげな手を使って職員室からテスト用紙を盗み出してくるくらいのことはしたかもしれないが、ともかく俺は超自然的手段も学園内陰謀もナシにして、素直に勉学に励むことにした。なにより、嬉しそうに差し棒を振りながら、わざわざダテ眼鏡まで用意してきたハルヒの家庭教師顔を眺めていると他の手段を採る気にもならず、自分のためにもならないのは歴然としていたからな。
きっとハルヒは来年度も俺の背後の席にいるつもりなのに違いない。そして授業中だろうが何だろうが、おれの背中をシャープペンの先でつつきつつ、「ねえ、キョン。ちょっと考えたんだけど----」などと、考えてくれなかったほうがよかったような思いつきを嬉々として言い出すに違いない。そのためには同じクラスになる必要があり、当然進路希望先も似たようなところでないといけないから、自動的に俺の成績を気にする必要もあるのだろう。だって俺はSOS団専属の雑用係みたいなもんだからな。士官しかいない軍隊が戦場で役に立たないのと同じさ。指図するのはハルヒの役目、そのたびに荷物抱えて走り回るのは俺ってわけだ。
実際、この一年はそんなふうに過ぎ、次の一年も同様のものになるだろうことを、俺は疑いもしなかった。ハルヒは絶対にそう望み、自分の望みを叶えるためならどんな非常識なことだってするだろう。いざとなれば永遠の一年生を繰り返すことだってやってのけるはずだ。
もちろん、あの八月のようなことにはならないと俺は思う。ハルヒはこの一年をリセットしたりはしやしない。その確信が俺にはある。
なぜって? それは言うまでもなく、SOS団結成以来の一年間がハルヒにとって楽しいものであったことを俺は知っているからだ。様々な思い出をハルヒはなかったことにはしやしない。それはもう絶対にない。
今のハルヒを見りゃ解るさ。
俺は眼下の光景を改めて視野に入れる。
ハルヒ率いるバレーチームは決勝戦を戦っていた。
バッシンバッシンとアタックを決めまくるハルヒ。飛び跳ねるたびにまくれあがる裾からのぞくヘソなんかに興味はねえと言っておくぜ。注目すべきはハルヒの表情さ。
一年前の四月、最初に出会った頃のハルヒはクラスから完全に孤立していた。というか、自らとけ込もうとしなかった。笑顔なんかチラとも見せず、むっつり不機嫌そうに俺の後ろの席に引っ込んで、ひたすらクラスの空気を冷たくする役に徹していたじゃないか。その後しばらくして俺とだけ口をきくようになっても、他の女子とは疎遠だったのに、だが今はそうではない。仲良しグループに混じることこそなかったが、寄ってくるものすべてを突き放すような態度は過去のものだ。
きっとSOS団の立ち上げはあいつにいい方への変化を促したのだろうな。と、同時に、それはもともとハルヒが持っていた素地でもあったのだ。ハルヒがおかしくなったのは中学時代で、それ以前はアクティブレーダーミサイルみたいな行動力とアフターバーナー級の明るさを本質にしていたに違いなく、だったら今のハルヒはよくなったと言うよりは元に戻ったと言うべきだろう。
俺は中一以前のハルヒを知らん。あの中一ハルヒだってチラッと出くわしただけだ。そのうちハルヒと同じ小学校だったやつを調べて、当時のハルヒがどんなだったか尋ねてみたくもあったが、たぶん俺はそんなこともしないんだ。
体育館、バレーボールコートの中で、ハルヒは同級生たちと普通に球技大会を楽しんでいる。ただまだちょっと抑制気味だな。とびっきりな罰ゲームの着想を得たときのような、あの百ワットの得意満面は団員の前限定か。出し惜しみはもったいないぜ、ハルヒ。
スパイクを決めたハルヒは、差し伸べられるクラスメイトの手を、照れてでもいるようにゲンコツでバシンと叩いていた。
そして球技大会は終了し、本日中に学校でやるべきことは何もなくなる。
部活動をやっているやつは各自そちらに向かい、そうでないやつはとっと帰り、SOS団の団員たちは文芸部室に集合し、俺もまた上機嫌にステップを踏むハルヒと一緒に座り慣れたパイプ椅子のある部屋へと向かった。
ハルヒの機嫌の良さはバレーで優勝したからに決まっていた。てっぺんを取ったからと言って何がどうなるわけでもなかったが、俺の横をすったかと歩いているハルヒはどこまでも元気だ。文芸部の休部未遂騒動で首尾よく生徒会長をやりこめた件もあるし、こいつを憂鬱にする事柄がそうそうやってくるとはあまり思えなかった。強いて言うなら、やはり二年進級時のことくらいか。
古泉によれば、ハルヒの願いはたいていにおいて叶ってしまうのだという話であるから、俺と長門と古泉がまとめてハルヒと同じクラスになってしまう可能性だってある。特別クラスにいる古泉だが、そんなもんどうとでもしてしまうのがハルヒ的変態パワーだ。朝比奈さんの目からビームを出すことに比べると、んなもんまだしも常識的だろう。問題はハルヒがそんな自分の力を知らないってことで、全員バラバラになってしまうこともあり得る、と考えているかもしれないってことだ。
ハルヒだけが未だに知らない。長門の情報操作や、古泉の組織を使えばたいていのことはできるってのをな。
なので俺は楽観していた。腹を割って正直に言おう。俺は二年になってもハルヒの前の席にいたかった。もしバラけたりしたら、俺はクリスマス直前に起こったハルヒ消失事件の縮尺版のような気分を味わいそうな気配だぜ。俺が見てないところで何しでかすか気が気でないしさ。
だが、一方でそれならそれでかまわないと考えているのも事実で、こういうのを二律背反と言うんだろうな。これまた古泉が語るように、ハルヒのトンデモ能力がどんどん落ち着いていったら、それはそれでいいことなのだ。
ただ----、やっぱりというか、少しは寂しく感じるかもしれないが。
「なに?」
俺がよほど達観したような顔をしていたのだろう、威勢よく歩きながらハルヒが下から俺をのぞき込むようにして、
「へんよ、あんた。ニヤニヤしたかと思ったら、急に真面目な顔になったりして、顔面神経痛? それともサッカーで負けたことをいつまでも考えてんの? ホント、五組の男子は役立たずぞろいね」
球技大会の組み分けとポジションをくじ引きで決めたからな。運動神経のいいのはAチームに行っちまったんだよ。なんせBチームのディフェンダーフラット3は俺、谷口、国木田だったんだ。まあ、思う存分九組のフォワードにタックルしまくれたが、司令塔の位置にいてキラーパスを出しまくる古泉までには足が届かなかったのが残念だ。その九組も準決勝で六組に負けていたし、なんとなく古泉らしい中途半端な大会結果だぜ。わざとじゃないかと思うね。
「何言ってんのよ」
ハルヒはおかしそうに笑う。
「でも、古泉くんならそうするかもね。だって、九組だもん。あんたとか谷口みたいな頭のいいのを逆恨みしたバカが突撃して来て怪我しちゃバカバカしいものね。確かに中には鼻につくのもいるけど、あたしは九組の連中をそんなに嫌いじゃないわ」
まるごと他校に持っていったりしてたしな。いや、あれは長門がやったんだっけ。
俺は回顧録をひもといているうちに部室の前までたどり着いた。遠慮とかノックの習性なんぞをどこかに置き忘れているハルヒが勢いよくドアを開き、
「みくるちゃん、球技大会どうだった? ところで冷たいお茶ない? ずっとバレーしてたせいでまたノドが渇いてきちゃったのよ。水分不足ね、きっと」
ずかずか、どすん、という感じでいつもの団長机につく。
部室はすでに団員そろい踏み、長門と古泉は定位置にいて、完璧にメイド姿が板に付いてしまった朝比奈さんがお盆を抱くようにして立っている見慣れた風景は、レンブラントかルーベンスあたりをつれてきて忠実な模写を頼みたくなるくらいの決まりきったワンシーンだ。
「冷たいのはないです。すみません」
朝比奈さんは、さも手違いを詫びるように、
「あ、急いで冷やしましょうか? 冷蔵庫で……」
そういえば冷蔵庫が設置されているのである。この部室には。冷凍スペースのない小さなやつだが、鍋したときとか、缶ジュースを冷やす役なんかには立っている。まあ、俺のここでのメイン飲料は朝比奈さんの熱いお茶だから、カセットコンロよりは要らない備品だ。
「いいわ」
と、ハルヒは鷹揚に、
「冷やすのも手間だし、お茶はいれたてが一番おいしいしね」
たちどころにハルヒと俺の席に二つの湯飲みが運ばれてきた。お茶くみ朝比奈さんの手際の良さも格段に向上している。この小間使い技能の上達を誉めるべきところなのかどうか迷うが、朝比奈さんはとても嬉しそうに、
「冷たいお茶ですかぁ。そうですね、今度は水出し式のを買ってこようかなぁ」
なんて、おっしゃっている。未来から来て仕入れる知識が茶葉関係のものばかりというのはいかがかと思わんでもないものの、俺の本音を言わせれば万々歳である。朝比奈さんにはあまりアチコチ動いてもらいたくはない。どっから見ても可愛いメイドさん以外の何者でもない朝比奈さんだが、やっぱり未来人は未来人であり、朝比奈さんが自分の事情でアタフタすることになるとそれは時間がどうのという話絡みに間違いなく、そして俺は古泉と違って時間の話を考えると頭が痛くなる。しばらくは難しい図形とは無縁でいたいね。
その古泉は、とっくに自分の椅子に座って一人オセロをやっていた。
「ずいぶん懐かしいものを持ち出してきたもんだ」
俺は茶をすすりながら古泉の手元に目をやった。考えてみれば、部室に備わった最初のボードゲームにして、しかも俺が持参したものだ。
「ええ、そろそろ僕たちが出会って一周年です。ここらで原点に回帰するのもいいかなと思いまして」
サッカーの試合中もにこやかだったが、部室に居座ってますます爽やかに微笑む古泉は、俺が返答する前にオセロの盤上を初期状態に戻した。
原点回帰ね。
過去を振り返るほどの長い人生を歩んじゃいないが、なんとなく言ってはみたいセリフではあるな。
俺はマグネット入りのオセロの駒をつまみ上げつつ、ふと視線を横に滑らせた。オセロ。一年前。と聞くと一つの連想される姿があり、その姿の主は、今はテーブルのすみっこで静かに外国文学の学徒となっていた。
「…………」
長門有希のひっそりとした読書姿。この宇宙人作成による有機アンドロイドが初めて感情っぽいものを露にしたのは、ここで俺と朝比奈さんがオセロをしていた時だったという思い出も鮮明に。
そういや長門とガチでこの手のゲームしたことないな。わざとでもない限り、俺に勝ち目はなさそうだが。古泉にはたいがい負けない。これもわざとか? ひょっとして。
それはそうとして、団長机に着席したばかりのハルヒは、しばらくの間けっこうおとなしい。まずパソコンを起動し、ネット巡回するのがいつもの日課だ。もちろんブラウザ立ち上げて一発目に出てくるのは我がSOS団のしょぼくれたサイトで、一日一カウンタを団長自ら回すのが業務の一つになっている。その後は電脳世界内不思議探しと称されたネットサーフィンをおこない、たまにどっかから妙なフリーソフトをダウンロードしては勝手にインストールし、もはやこのデスクトップパソコンの中に何が入ってて何がないのか、俺にはさっぱり解らない。時折ハルヒにも解らなくなるようで、困ったときに呼びつけられるのはコンピュータ研の部長である。まあ適材適所はいいことだ。
春を前にしたたおやかな日の午後、球技大会の直後という総員やや疲労気味であるはずの時間は、割とのんびり進んでいるような気がしてけっこう心地いいものだった。
オセロの調子もいいし、朝比奈さんのお茶もうまい。今日も何事もなく時間が過ぎて、このまま帰宅すべき時を迎える。
----と、そうなればよかったのだが、安息の日々は永遠に続くことはなかったのだ。
原点回帰。
まさにそんなことをつぶやきたくなるような依頼が、SOS団に舞い込んできたからである。
そう、依頼だ。決してこっちから首を突っ込みに行ったわけでも、ハルヒが無計画に立ち上がった結果でもない。
その依頼人は部室のドアをノックすると熊の家に招かれた子鹿のように遠慮がちに入ってきて、そしてハルヒを喜ばせるようなことを言った。
自宅の近くに幽霊が出ると噂の場所がある。それを調べてくれないか。
「幽霊?」
ハルヒは目を輝かせてオウム返しに、
「が、出るって?」
「うん」
阪中は神妙にうなずき、
「近所で噂になってるのね。あれって、もしかしたら幽霊がいるんじゃないかって」
阪中……下の名前は覚えていないが、俺とハルヒのいる一年五組のクラスメイトである。客用パイプ椅子に座り、朝比奈さんからお茶を振る舞われている阪中は、眉のあたりを曇らせながら、
「そういう話になったのは最近なのね。三日くらい前かな。あたしも何となく変だなって思ったんだけど……」
客用湯飲みをくびりと傾け、物珍しそうに室内を見回した。特にハンガーラックに満載されている朝比奈さんの衣装なんかを。
俺はハルヒが張り切っていたバレーの試合を思い出した。女子Aチームのアタッカーハルヒと息のあったセッターを務めていたのが、この阪中だ。
はっきり言うとクラス内での俺の印象には薄い。というか、一年五組で一番目立っていたのは今はなき朝倉であって、あいつが消えちまってからその後釜に座るやつなどついに出なかった。現在のクラス委員が誰かなんてさっぱり知らん。それを考えると、谷口と国木田は他の同級生に比べるとハルヒの近くにいるほうだ。地球からの距離で言うと木星と天王星くらいの違いだが。
しかしハルヒはクラス内距離感などまったく気にしていないようだった。
「詳しい話を是非、聞きたいわ。幽霊……そう、幽霊。阪中さん、それ間違いなく幽霊なのよね? だったらあたしたちの出番であることは疑問を挟む余地なんか全然ないと言って過言ではないわ」
今にも『心霊探偵』という腕章をつけて現場に飛び、ところかまわずキープアウトの黄黒二色テープを張り巡らさん勢いだ。
「待って。ね、待って、涼宮さん」
慌てたふうに阪中は手を振った。
「幽霊って決まったわけじゃないの。幽霊っぽいっていうかね? そんなのなの。あくまでも噂で……でも、あたしもあの場所はおかしいって思うのね」
長門を含めた団員全員の注目の的となった阪中は、五人の視線を浴びていることにようやく気づいたように首をすくめ、
「あの……こんなの言いに来て、だめだった……?」
「ぜんぜんだめじゃないわ、阪中さん!」
ハルヒは雄叫けんで、
「悪霊だろうが生き霊だろうが、地縛でも浮遊でも好きにすればいいわ。幽霊に会えるんだったらあたしはどこ行きの切符だって買うから。とにかくそう聞いて黙って座ってることなんてできないわね」
もともと黙って座ってることのほうが少ないだろうが。
「キョン、ちょこざいなツッコミはこの際ナシにしてちょうだい。幽霊よ。幽霊。あんた見たくないの? それとも見たことある?」
ない。永遠になくていい。
ハルヒは昼寝から覚めて三十分経った幼稚園児のようなテンションで、
「でも目の前に出てきたら、ちょっとくらい話をしてみたいと思うわよね!」
すまん。思わん。
俺は瞳の中で漁り火を燃やしているハルヒから目をそらし、何かを言いかけようとしては口を閉じ、という仕草を繰り返している阪中を見た。
なんだって阪中が、こんな年度末も押し迫った頃に幽霊話を持って訪ねてきたりするんだ? 依頼人としては喜緑さん以来の第二号目……って、あの七月に喜緑さんがカマドウマ話に続く悩み相談に来た直後、俺は即座に依頼人募集ポスターを引っぺがしゴミに出しており、奏功したか、あれっきりSOS団を学内の何でも屋と勘違いした生徒など一人も来なかった。もしや阪中は例のポスターが掲示されている間にそれを見かけ、内容をずっと覚えていたとでも言うのか? だったらもっと有効な情報を記憶するのに脳細胞を使ったほうがいいぜ。
俺がそう言うと、あに図らんや、阪中は頭を振った。
「違うの。あたしが覚えていたのは別のやつね。なんだか渡されちゃって、それで捨てきれなくって家の引き出しにしまっておいたの、それ思い出して……」
阪中が鞄から取り出した一枚の紙切れ。古びたわら半紙を見て、朝比奈さんがロザリオをかざされた新米吸血鬼のようにたじろいだ。
「そ、それは……」
朝比奈さんのトラウマの元でもあり、そしてハルヒの輝かしいSOS団的行動第一弾、しかしてその実体は学校の機材を無断借用して刷られた一枚のチラシであった。
SOS団結団に伴う所信表明。
そこにはこう書かれているはずだ。
『わがSOS団はこの世の不思議を広く募集しています。過去に不思議な体験をした人、今現在とても不思議な現象や謎に直面している人、遠からず不思議な体験をする予定の人、そうゆう人がいたら我々に相談するとよいです。たちどころに解決に導きます。確実です……』
謎のバニーガール二人組みが校門でまいていた、あのビラだ。この世の不思議を我が手につかまんとしていたハルヒが作成したトンデモ広告。
なんてこった。ハルヒの蒔いた種が本当に芽生えて飛んできてしまうとは。
しかも、やっとのことで一年度もつつがなく終わろうとしているこの時期に。誰の希望したカーテンコールだ? アンコールの用意なんかしてなかったぞ。今更原点に回帰している場合か。
俺と朝比奈さんの雰囲気を感じ取ったのか、阪中は不安そうに、
「……ここ、SOS団ってところよね? もう有名だし……。涼宮さんたちがやってるのって、そっち系のアレなんでしょ? ホラーとか」
悪いが阪中。今のところホラー要員は欠番なんだ。ここにいるのは本好きの宇宙人やら、ミステリ好きの超能力者やら、目の保養になってくださる未来人くらいで、どっちかと言えばSFのほうが得意技っぽいな。それも、別段俺が得意にしているわけではない。
思わず黙り込んだ俺に反し、ハルヒは身を乗り出して得意顔。
「ごらんなさい、キョン。ちゃんと見てくれてる人は見てんのよ。ちっともムダじゃなかったでしょ? やっぱ、やっといてよかったわ」
ホントかね。こんなもん作ったことをハルヒ自身忘れてたんじゃないかと思うが。
「喜んでちょうだい。阪中さん。クラスメイトだし、特別にタダで解決してあげるから」
確実にいえることは、いつどこから誰の依頼が来ても、ハルヒは金をせびろうなどとはしないってことだ。どうやらハルヒにとって最大の報酬とは不思議な依頼そのものらしいからな。依頼人が来た時点でお腹いっぱいなのだ。それは去年のカマドウマ事件で解っている。
「幽霊ね」
ハルヒはニンマリと、
「最終的には除霊しちゃうとして、その前にとっくり身の上話を聞きたいわ。記念撮影用のカメラと、インタビュー用のビデカメが必要ね」
俺以下、団員を無視してすっかり盛り上がっている。いかんな。このままでは本当に幽霊がデロ~ンと出てきかねない。ん? 阪中の話?
ああ、幽霊なんて人間の騙されやすい視覚のせいでおこる見間違いとか、柳の下の枯れ尾花とかの気のせいに決まってる。マジもんが出てきた日には、それこそ人類が積み重ねてきた偉大なる科学体系崩壊の序曲さ。
しかして、阪中も、
「だから、ちょっと待って欲しいのね。まだ幽霊って決まったわけじゃないの。違うかもしれない。でも他に思い当たるのがなくて……」
煮え切らない証言を始めた。
「おい、ハルヒ」
と、俺は素早く口を挟む。なぜならハルヒはすでに機材置き場を漁り始めていたからである。
「ちょっとは落ち着いて、阪中の話を聞こうぜ。事態はそう単純じゃなさそうだ」
「あんたが仕切らないでよ」
ぶつぶつ言いつつも、ハルヒはガラクタ箱から団長机に戻って腕を組んだ。阪中も俺もほっとする態度を隠せない。ここで、ようやく、俺は長門と古泉の表情を見比べる余裕を得た。
別に見なくてもよかったかもしれない。
両者とも、普段と変わりない顔色表情でいた。つまり古泉は無意味に明朗な微笑で、長門の表情はまったくの無風。いつもの反応だ。
しかし、どちらも興味深そうに阪中を見つめている。奇妙なことに、俺は二人の顔に共通する文字が書かれているような錯覚を覚えた。
----幽霊だって? 何を言ってるんだ、この人は。
とまあ、そんな感じのト書きをな。
さて、私見を述べさせてもらうと、俺は霊魂の存在を信じていない。テレビなんかでよくやってる心霊体験ドキュメンタリーなどは、よくできたエンターテイメントであって真実を告げるものではない、と確信している。
もっともこの確信もここ一年ですっかり砂上楼閣になりつつあり、なんたって俺は宇宙人と未来人とエスパー野郎とグルになって何やらかにやらと首を突っ込み、超常現象に慣れ親しんでけっこうな時間が経っているんだからな。
その気になればゴーストやファントムやレイスの一体くらい、ひょっこり顔を出さないとも限らないと心のどこかでは思っていた。だが異世界人とまだ出会っていないのと同様に、幽霊とも未だコンニチワの挨拶をかわしておらず、会ってもいない存在のことなど今から気に病んでいてもしかたがないので、そんな悩みからはダッシュでの逃走を完了させている。来たいなら来ればいい。だが、その面倒までは律儀に見てらんないぜ。そのような境地と言えば解りやすいかい?
と、まあ、俺は超然とするしか身の振りようもなかった。それで他のメンツはと言うと、
「幽霊ですか。それはそれは」
古泉は顎に指をあて、考え込む様子。
「はあ……それって、あのう……?」
朝比奈さんは疑問符付きの上目遣いで依頼人をみる。
長門は通常通り、
「…………」
どうやら俺の思いはハルヒをのぞく団員全員の総意であるようで、長門も古泉も朝比奈さんも、幽霊と聞いて真面目な顔つきになっていたりなどしていなかった。朝比奈さんなんか、そんな単語や概念に思い当たるフシがない、と言いたげにキョトンとしている。未来には宗教や祖霊崇拝の習慣がないのかもしれない。今度聞いてみよう。どうせ教えてくれたりはしないだろうが。
いくら俺でも一年五組の教室で話す相手がハルヒ・谷口・国木田オンリーなんてことはなく、他の同級生たちともそこそこ日常会話をやってたりするんだが、さすが相手が女となるとコミュニケーションレンジも狭くなる。
脳みそをまさぐっても会話した記憶がなかったからよく知らなかったが、阪中はあまり話の得意なほうではないらしかった。
なので要所要所を抜粋してお送りする。
「あのね、最初におかしいなって気づいたのは、ルソーだったの」
と、阪中はハルヒに向かって言った。
「ルソー?」
と、ハルヒは当然眉を寄せる。
「うん。家で飼っている犬。ルソー」
たいそうな名前の犬だ。
「朝と晩、あたしが散歩させているのね。ルートはいつも同じだったの。飼いだした頃はいろんな道を歩くようにしてたけど、今は毎日同じ通りを通ってるのね。あたしもすっかり歩き癖がついちゃって」
そんなことはどうでもいい。
「ごめん。でも重要かも」
どっちだ。
「キョンは黙ってなさい」とハルヒ。「さ、続けて」
「いつも同じ道で、それでルソーも喜んで歩いてたのに、それが……」
口ごもったのち、阪中は小声になった。怪談の演出か。
「一週間くらい前、ルソーがそれまでの道をいやがるようになったのね。リードを引っ張っても、こう」
阪中は両手で地面にしがみつくようなポーズを取る。暖かい場所から離れようとしないシャミセンの姿とそっくりだ。
「こんな感じでビクともしないの。うん、途中までは平気なんだけど、そこからそんななのね。変だなって思ったんだけど、それがいつもそうなっちゃって。だから今は散歩のルートを変えちゃった」
そこまで説明して、阪中は湯飲みに口を付けた。
なるほど、哲学者みたいな名前の犬が突然散歩コースをいやがるようになったと。で、その話のどこから幽霊が出てくるんだ。
俺の疑問はハルヒの疑問でもあったらしい。
「幽霊は?」とハルヒ。
「だから、」
阪中は湯飲みを置いて、
「幽霊かどうかは解らないの。噂だから」
その噂の出どころを聞きたいんだが。
「いろいろ。家の近所、犬を飼っている人が多いの。散歩してるとよく会ったりして、話もして、ルソーも友達ができて嬉しそうだし、あたしも知り合いの人がたくさんできたのね。一番初めはシェルティを二頭飼いしている阿南さんだったかな、やっぱり散歩してて、その道だけはどうしても歩こうとしなくなったって。しなくなったのはその、犬さんたちなんだけど」
人間は何も感じず闊歩できるのか。
「うん、そうなのね。あたしも特に変なことは感じないし」
なかなか本題にいかない。肝心なのは幽霊の二文字だろ。
「それなのよね」
阪中は顔を曇らせて、
「ある日から、近所の犬さんたちが、ある地域にどうやったって近寄らなくなったの。飼い主さんたちの間ではそれが今のメインの話題になってるのね。ノラネコもそこそこいたんだけど、すっかり姿を見なくなったし……」
ハルヒはふんふんと聞いている。メモを取るようにシャープペンを握りしめていたが、のぞき込めば書いているのは犬と猫のギャグタッチなイタズラ描きだ。だったが、ハルヒはおおよその展開をつかめたようだ。
「きっとそのあたりに幽霊がいるから動物たちが立ち入らなくなって、でもそれは犬とか猫には見えるけど、人間には見えないってわけなのね?」
「そうなの。そういう話になってるのね」
我が意を得たりとばかりにうなずく阪中は、
「もう一つ、気になることがあって。あのね、多頭飼いしている樋口さんて人がいるのよ。その人とワンちゃんたちもあたしの犬仲間なのね」
さも恐ろしそうな口調で、
「そのうちの一匹が昨日から具合を悪くしてるんだって。今朝の散歩に連れてきてなかったの。立ち話程度だから詳しく聞いてないけど、動物病院に通院中みたい」
阪中の生真面目な目がハルヒに注がれる。
「これってやっぱり幽霊だと思う? 涼宮さん」
「そうねぇ」
ハルヒは組んだ両手に顎を乗せ、考え込むように目を細めた。この話だけではなんだか解らないが幽霊だったらおもしろそう、ってな顔つきである。
「現時点では何とも言えないわ」
意外にもハルヒは慎重な言い回しで、ただし唇の端をピクピクさせながら、
「でも、その可能性は大いに有りね。犬とか猫って、人間には見えないものを見たりするって言うしさ。そのナントカさんの犬っころも、幽霊見たショックで寝込んでんのかも」
その意見に挙手して反論することは俺にもできんな。なぜなら、シャミセンが何もないはずの部屋の隅をじっと眺めていたりすることはよく見かける光景だからだ。猫飼ってる人には納得とともに賛同を得られると思うがどうであろう。だが猫は犬と違って、たとえ幽霊を目撃したとしても寝込んだりはしない。それも猫飼ってりゃ解るぜ。
俺が自宅の三毛猫に関する記憶を召喚していると、ハルヒが椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「だいたいのことは飲み込めたわ」
俺に解ったのは、犬猫が立ち入り拒否する地域があるということだけだが。
「充分よ。こうなったら部室で推理合戦するより、いち早く現場に急行するのが正しいわ。たぶんそこには動物ならではの本能が危機を感じる何かがあるはず。幽霊かオバケか妖怪か、そんなのがね」
それか、もっと怪しいものかだな。俺は十九世紀半ばのヨーロッパを徘徊する共産主義のごとき姿のない妖怪を幻視して身体が冷えた。幽霊なら説得次第で成仏してくれるかもしれないし、オバケまたは妖怪ならゴーストバスターズか妖怪ポストを探せばいいが、コズミックホラーに出てくる名状しがたきものとかに取り憑かれたらどうすんだ。
と、考えたところで俺の目は自然と長門のほうを向く。
前回の依頼人にして今は生徒会書記の地位にいる喜緑さんは、長門の関係者だった。ということは、まさかこの阪中も……。
しかし俺はすぐさまこの仮定を放棄した。長門は開いた本から顔を上げ、珍しく興味を引かれたように阪中の話を聞いていたからである。そのそっけないほどに白い顔にあったのは----ここは自慢したいところだが----俺にだけは解る表情の変化だった。長門は考え込むような表情を一ミクロンほど浮かべている。すると、阪中が奇妙な話を帯同させて来た今回は、長門にもイレギュラーな出来事なのだ。
ついでに古泉の顔色もうかがってやる。目が合うと、古泉は小さく肩をすくめて唇に微苦笑を刻んだ。腹立たしいことに、俺の言いたいことは着実に伝心されたようだ。僕の仕込ではありませんよ----と、古泉は態度で表明し、そんなボディランゲージが解ってしまう俺もすっかり古泉に慣らされてしまったようでヤな感じ。
もう一人のお方に関しては言うまでもない。朝比奈さんは完全な無関係ぶりを発揮して、そもそも話しについていけてないんじゃないかという印象すら受ける。仮に幽霊騒ぎの原因が時間絡みだったのだとしても、この朝比奈さんではどうにもなるまい。朝比奈さん(大)を呼ばないと。
「じゃあ、みんな」
ハルヒが気勢を上げた。
「今から出発するわよ。いるものはカメラと……幽霊捕獲装置はないわねぇ。できれば西夏文字で書いたお札が欲しかったんだけど」
「必需品なのは市内の地図ですね」
古泉が付け加え、阪中に笑みの矛先を向けた。
「実地検分をしてみたいと思います。あなたの家のルソー氏にも協力願えますか?」
こいつも乗り気でいるらしい。市内を意味なく探索するパトロール、ついぞ不思議な場所など発見できなかったが、こうして疑惑の土地が労せずして飛び込んでくるとは。
「いいよ」
阪中は古泉のハンサム面にうなずいた。
「ルソーの散歩のついでなら」
お目目をパチクリさせていた朝比奈さんが、
「あっ、あっ。そうなら、着替えないと」
メイド服を押さえて慌てだす。急がないとこのままの格好で外に連れ出されることを恐れているようで、ハルヒなら有無を言わさず引っ張っていきそうだったのだが、
「そうね。みくるちゃん、着替える必要があるわ。その格好はふさわしくないもの」
常識的なことを言い出した。
「で、ですよね」
朝比奈さんは安堵の表情で頭のカチューシャに手を当てる。
それならそれと、俺と古泉は部室を出ないとな。俺はともかく、古泉に無用のサービスシーンを提供してやるわけにはいかん。
俺が部室を出ようと背を向けかけたとき、ところがハルヒは予想外のセリフを放った。
「でも、みくるちゃんが着るのは制服じゃないわ」
「え?」
困惑の声を漏らす朝比奈さんの横を素通りし、ハルヒはつかつかとハンガーラックに歩み寄った。喜色満面で衣装集の中から選び出したのは、
「これよ、これ。幽霊退治にもってこいの服でしょ?」
ハルヒの手にかざされているのは、丈の長い白衣に緋色の袴のツートンカラー。古式ゆかしい日本の民族衣装の一つ、であるところの……。
朝比奈さん、思わず後ずさり。
「それは……そのぅ……」
「巫女さんよ、巫女さん」
いいこと思いついた、と実感しているとき特有の笑みを浮かべ、ハルヒは巫女装束を朝比奈さんに押しつけた。
「お祓いにはこれが一番よ。袈裟の用意はないし、あってもみくるちゃんを丸坊主にしてしまうのは気が引けるしさ。どう、キョン。あたしだって考えなしに衣装を持ってくるわけじゃないんだからね。ほら、ちゃんと役に立ったでしょ?」
下校するのにメイドか巫女のどっちが目立たずにすむか……って、そういう問題じゃないだろう、という俺のリアクションを言わせる間もなく、俺と古泉は仲良く部室棟の廊下に叩き出された。
室内からはお馴染み、朝比奈さんの衣装を着せ替えることに喜びを見いだすハルヒの声と、剥かれている朝比奈さんの可愛らしい悲鳴がBGMとなって聞こえている。
この機会に訊いておくことにする。
「古泉」
「なんでしょうか。初めに言っておきますと、僕には幽霊と聞いて思い当たる事柄は何もありませんよ」
古泉は前髪を指先で弾いて柔和に微笑む。
「じゃあ、何だ?」
「今の段階で言えることはほとんどありませんね。いずれも憶測の範囲を出ません」
何でもいいから言ってみろ。
「犬たちが一斉に特定の地域を忌避するようになった、という話ですよね。ではここでクイズです。人間よりも動物、特に犬が優れている特性は何ですか?」
「嗅覚だろ」
「そうです。阪中さんの散歩コースの途中に、犬が嫌う臭いを発するものが埋まっている、あるいは埋められた可能性があります」
耳にかかる髪を払いつつ、古泉は笑みを崩さない口のままで、
「一つ考えられるのは、有毒ガス弾ですね。どこかの軍事的組織が搬送の途中で落としたとか」
んなアホな。軽トラに積んでいた荷物が落っこちたレベルの感覚で有毒ガスを運ぶわけないだろ。
「または放射性物質です。もっとも、動物がどこまで放射能を関知できるのかは僕も詳しくありませんけど」
毒ガスとどっこいだろ。まだ不発弾のほうがすんなり受け入れやすいぜ。
「ええ、それもあり得ます。もっと現実的なことを言えば、人里に下りてきた熊がそのあたりで冬眠中で、そろそろ目覚める気配を犬たちが感づいたということも……」
ねえよ。この辺の山にイノシシはいても熊はいねえ。
「ですから」と古泉は優雅に腕を組む。「曖昧な伝聞情報からでは、このように何とでも考えられるんですよ。唯一無二の真相を看破できるのは、すべての情報が出そろい、かつ論理的な思考と想像力の飛躍、および若干の直感を複合的に連動させた場合に限られます。中でも一番重要なのは情報の確定ですね。どこの時点ですべての手がかりが出そろったのか、それを見極めるのは並大抵ではありませんから」
ミステリ談義がしたいならミステリ研でやってくれ。何も考えて解決しようってんじゃないんだ。こんなもん、ハルヒがやろうとしている通り、現場に行って怪しいものを発見すりゃいいんだ。簡単に解決するだろ。ひょっとしたらハルヒは地面をめったやたらに掘り返し、下手すりゃ卑弥呼が中国の皇帝からもらったという金印を掘り返してしまうかもしれんが、そんなことになったら考古学のお歴々が卒倒するかもしれんから考えたくもないとして、それはともかくミステリがしたいなら次の合宿でやって欲しいものだ。
「純粋な思索によって真実を明らかにする思考実験こそがミステリの醍醐味なんですけどね。調べたら解るような事件に娯楽性はありません」
わけのわからんことを言いつつ、古泉はもたれていた扉から身体を浮かせて横に移動した。
途端、ドアが開いて勇ましい団長が朝比奈さんの手を引いて姿を現す。
「準備万端、これでオッケーね。みくるちゃん、とってもいい感じよ。どんな悪霊だって速効で昇天するわ」
「うう……」
おずおずと出てきた朝比奈さん巫女バージョンは、恥ずかしそうにうつむいてよろりと足を踏み出した。この姿を見るのは三月三日のひなあられ撒きイベント以来だ。
いつの間に作ったのか、神に仕えるべき衣装をまとった朝比奈さんは、御幣を先端に取り付けた棒まで持たされている。これをフリフリしながら祝詞を唱えられたら、確かに悪霊でなくても昇天しそうなお姿だ。可愛い。
二人の後から、「うーん、何もそこまでしなくても」という具合に首をかしげた阪中と、透けてない幽霊みたいな足取りで長門が廊下に並び、これで学校を去る準備は整った。
まさか本当に除霊することにはならんだろうと思いたい。なんせ祓魔の役割を勝手に押しつけられたお人がお人だ。パートタイムのコスプレ巫女が即席のお祓い棒を振ってカタがついたりしたら、平安期藤原政権全盛時代の陰陽師の方々に申しわけない。
ま、春先だしな。人間もそうだが、この時期、犬猫だっていろいろ情緒不安定になる季節なのさ。
と、常識的にはそう思ってしかるべきなのだが。
いかんせん、ハルヒが何やら期待にあふれた顔をして動き出すと、たいていなにがしかのケッタイなことに巻き込まれることになっている。おまけに最近ではハルヒ以外のメンツ、古泉や朝比奈さんや長門までが独自に事件を運んでくるようになっているのだから、まったく、たまには俺も何かやらかしてやろうかと思い詰めるくらいだ。
もっとも、俺はこのSOS団団員以外に非常識な存在を知らないので叶わぬ思いというやつである。
それも込みで今日の場合を考えると、謎の持ち込みをしてきたのはどっからどう見ても普通のクラスメイトである犬好き女子生徒で、この阪中がわざわざ幽霊ルートへ分岐するシナリオなんてものを書いているはずはないから、本当にマジもんの幽霊が出てくるはずもなかろう。特に朝比奈さんの説得で消えてくれるような、解りやすい幽霊なんてものが市内をフラフラしてるんだったら、とっくに部室にさまよい込んでいるような気がする。第一、今は幽霊の出る季節じゃない。
俺はそう考えて、巫女装束の朝比奈さんをほんわりと眺めつつ両眼を安らがせていた。
いや、もう----。
幽霊よりももっと説明しにくいものがお出ましになるとは、思っていなかったからな。
阪中の家は北高から続く山道をどんどん下った坂の下にあるローカル駅から電車に乗り、さらに本線に乗り継いで一駅行ったあたりにあるそうだ。ちょうど俺たちSOS団が毎度集合場所に使う駅とは逆方向で、俺も滅多に行くことはないが、確かなかなかの高級住宅街が広がりを見せている土地柄だった。
近隣の住人でなくてもその辺りの地名はセレブリティがいっぱい住んでいることで有名なので、よもやと思って訊いたところ、なんと阪中は正真正銘のお嬢さまであることが判明した。父親はどっかの建築関連会社の社長さんであり、兄貴は名門大学の医学部に通っているらしく、まさか自分のクラスメイトに良家のご息女がいようとは、もうすぐ学年末になろうかというこの時期になるまで想像外だった。
「そんな、たいしたことないよー」
阪中は電車の中で謙虚に手を振る。
「お父さんがやってるのは小さな会社で、お兄ちゃんも国立大学だもん」
それは金のかからないところを無理して選んだというより、単に頭がよかっただけだと思うぜ。それはともかく阪中の兄貴は妹からお兄ちゃんと呼ばれているのか。今の俺にはひたすら懐かしい、いい響きを持つ言葉だ。
俺は自宅の妹の、にへらっとした笑顔を思い浮かべつつ、電車内を見回した。
阪中の家に向かう道すがらなので、当然俺たちは一塊りになっている。SOS団のメンツに加えて同級生一人という人数は仲よく下校するグループにしては多いような気がするが、私鉄電車の中ではそうそう目立たない。なぜならこの時間、車両は下校する学生たちで埋め尽くされているからである。特に光陽園女子の制服姿が多く、というか満載で、俺たちのような北高生は私立の匂い立つような女子高生パワーによってすっかり片隅に追いやられていたが、なぜか興味津々な視線がこちらに向かって飛んでくる。
「ううう……」
べそかき寸前のような顔になってつり革につかまっている朝比奈さんがその原因である。
そりゃまあ、巫女さんの姿で満員電車に乗っていればイヤでも目立つことは間違いなく、たとえ本職の巫女さんでも白衣に紅袴という格好で通勤しないであろうことを考えれば、視線を集めないほうがかえって不思議現象だ。
もっとも朝比奈さんにはかつてバニーガール姿で電車に乗り、そのまま商店街を練り歩いたという前科があるから、それに比べたら露出が少ないぶんマシだと解釈してあげたい。
しかし朝比奈さんに巫女衣装を強いた非道なる犯人、ハルヒは居合わせた乗客たちの珍奇なものを見る目つきなどまったく意にも介さずに、
「みくるちゃん、悪霊をやっつける呪文か祝詞かお経でもいいけど、何か知ってる?」
「……し、知りません……」
朝比奈さんは終始うつむいたまま背を丸め、小さくなってか細く答える。
「ま、そうよね」
羞恥によって縮こまる朝比奈さんとは対照的に、ハルヒはひたすら元気だった。
「有希は? 読んだ本の中に悪魔祓いとかエクソシストのやつなかった?」
「…………」
長門はぼんやりと窓の外を駆け抜ける風景を眺めていたが、ゆっくりと首を傾け、また戻すという動作を二秒ほどかけておこなった。
長門の言いたいことが俺には解ったが、ハルヒにも解ったようで、
「ふうん、そう」
あっさり納得し、
「いちいち覚えてなんていないわよね。でもだいじょうぶよ、あたしが覚えているヤツがあるから、みくるちゃんにはそれを唱えてもらいましょう」
いったい何を唱えさせるつもりだ。もしそれで変なもんを召喚しちまったら、責任は朝比奈さんでなくてお前がとれよ。言っとくが俺は逃げるからな。
「バッカ」
ハルヒはとことん嬉しそうだ。
「そんなすごい呪文を知ってたらとっくに試してるわよ。実はね、中学の時にちょっとやってみたことがあるの。魔術書みたいなものを買ってきて、その通りにしてみたわ。でもなんにも出てこなかった。あたしの経験上、流通ルートに乗っている本に書いてあることは役に立たないわ。あ、いいこと思いついた」
ハルヒの額十センチ上空で電球が瞬く様が見えた気がした。また要らんことを思いつかせてしまったようだ。
「今度の市内パトロールは古本屋さんと古道具屋さんを巡りましょ。怪しい店主が店番してる古くさい店を狙って、本物の魔術書とか儀式に使えそうな道具を探すの。擦ったら魔神が出てきそうなやつ」
その魔神が願い事を三つほど叶えて素直に壺に戻ってくれるのならいいが、ハルヒのことだ、封印されていた恐怖の暗黒大魔王を解放しちまって世界に恐慌を巻き起こしそうだから不安なのである。いつのまにか悪霊退散の話が完全に逆になっているし、市内にある古書店とアンティークショップがハルヒの目に留まる前に店じまいしてくれることをひそかに願うのみだ。
そんな俺の胸中を読みとったのか、隣に立って揺られている古泉がフッと笑う。つり革をもたずに立っているのは両手がふさがっているからで、古泉は片手に自分の鞄、もう一方に朝比奈さんの鞄を持っている。ちなみに俺も自分の荷物以外に袋を肩にかけていて、そこには朝比奈さんの芳しい制服が入っていた。せめて着替えてお帰りになっていただこうという配慮である。制服を部室に置きっぱなしにして、明日も巫女衣装で登校するようなことになれば、朝比奈さんは学校を休みかねず、そんなことになったら放課後俺は何を飲んで喉を潤せばいいんだ?
「ご心配なく」
安易に請け負ったのは古泉である。
「お茶くみのほうは僕の手に余りそうですが、朝比奈さんの登下校くらいは簡単です。僕が手配して送り迎えのハイヤーを、」
と言いかけたので黙らせた。どうせそのハイヤーを運転しているのも『機関』とやらのメンバーだろう。新川さんだけならまだいいが、あの年齢不詳の森さんからはちょっと怪しい気配がする。ひょっとして古泉の上司なのではないかと疑っている程度の怪しさだが。それにその二人以外の誰かだったりしたらなおのこと不審だ。古泉の組織には朝比奈さん誘拐騒ぎの時の借りがあるとはいえ、借りは一つで充分だろう。
古泉はまたフフッと微笑んで、
「森さんにそうお伝えしておきますよ。おそらく苦笑されるでしょうね」
電車ががくんと揺れて、減速を開始した。降りるべき駅はもうそこだ。
今考えるべきは『機関』内の組織図でも、次の市内探索紀行のことでもない。
さて、阪中の犬の散歩コースに、いったい何があるというのかね。
駅から出た俺たちは、阪中を先頭に再び山の方を目指すことになった。ただし北高へ至る道とは違って比較的平坦な市街地の中で、心なしか道行く人々が全員オシャレに見える。幸い巫女さんが交じっている我が一行は、担当地域の平和維持に励む勤勉なポリスマンに職務質問を受けることもなく歩くこと十五分程度、そこに阪中の家があった。
「ここなのね」
阪中が普通に指差した建造物を見て、俺は生まれの不幸を嘆く言葉を即座に五つほど編み出した----くらいのそれは豪奢な家だった。いかにもお金持ちが住んでますみたいな、外壁から玄関から立派なオーラが出ている三階建て一軒家、それも芝生の広がる開放的な庭つき。
さすがに鶴屋さんの純日本風大家屋のような桁違いの敷地面積はないが、近代的なぶん俺みたいな素人の高校生にも高級感のほどが理解できる。表札の横には当たり前のようにセキュリティ会社のステッカーが貼られ、屋根付きガレージには外車と高級国産車が二台ほど停まっていて、さらにもう一台停められそうなスペースがあった。どんな善行を積めばこんなところに生まれ育って住めるんだ?
俺がなんとなく憮然としてると、阪中はさっさと門扉を押し開いてハルヒに手招き。ハルヒはハルヒで当然のような顔をして上がり込み、長門、古泉、朝比奈さんもそれに続いた。最後尾が俺。
「ちょっと待ってて」
阪中は鞄から鍵を取り出し、玄関ドアの鍵穴に差し込む。なんと鍵の種類が三つもあり、
「面倒なんだけどね」
と言いつつ、阪中は慣れた手つきで開錠していく。家に誰もいないのかというとそういうわけではなく、母親はいるのだそうだ。ただ施錠が習慣化しているだけらしい。
ハルヒは庭の芝生に目をやっていたが、
「犬はどこにいるの?」
「ん、もうすぐ」
阪中がドアを開くや否や、
「わわんっ」
というような鳴き声とともに、白い毛糸の塊のようなものが飛び出してきた。短い尻尾を振りまくりながら阪中のスカートにじゃれつく小型犬を見て、
「わぁ……かわいい……」
朝比奈さんが目を輝かせてしゃがみこんだ。その手にさっそくお手をして、さらに巫女姿の周りをぐるぐる走るつぶらな瞳の白い犬には、どう見ても血統書が額に入って付いていそうだった。
「ルソー、お座り」
飼い主の言葉に即座に従うあたりも躾が行き届いている。朝比奈さんはやわやわとルソーとやらの頭を撫でながら、
「あの、だっこしても……?」
「うん、いいよ」
朝比奈さんは不器用にその小型犬を抱き上げ、ルソーくんはわふわふ言いながら客人の頬をぺろりとなめた。こういう犬になれるんだったら来世は犬でもいい。
「これがルソー? 電池で動くオモチャみたいね。何ていう犬?」
朝比奈さんにきゅっと抱きしめられてもおとなしくしている血筋よさげな犬の頭をつっつきつつ、ハルヒが尋ねる。
「ウェストハイランドホワイトテリアですね」
古泉が阪中より先に舌をかみそうな種族名をすらすらと答え、博識ぶりを無駄にアピールしやがった。阪中は「よく知ってるね」と言いつつ朝比奈さんの抱擁を受ける飼い犬に慈しむような目を向ける。
「可愛いでしょ」
確かにな。むくむくとした白い毛並みと、それに埋もれるような黒い目がまるでヌイグルミのようだ。ウチの家でゴロゴロしている元ノラの雑種三毛猫とは、生まれも育ちもカースト制度のてっぺんと最下層くらいの差があるね。マハラジャとジャンバラヤくらいに違う。まあシャミセンもあれはあれでアタリの猫なんだが。
長門はまるでシャミセンがそうするように、十秒ほどホワイトテリアのルソーを瞬きもせずに観察していたが、やがて興味を失ったように再び視線を茫洋たるものにした。ふむ、こいつの気になるものは少なくともこの犬にはないらしいな。
「ちょっとみくるちゃん、いつまでそうしてんのよ。あたしもその犬っころで遊びたいわ」
ハルヒの言葉に、朝比奈さんは名残惜しそうにルソーを手放し、見知らぬ人間が大勢いることにハイになっているのか、ルソーは跳びはねながらハルヒの手元に飛び込んだ。がさつな抱き方だが、ハルヒに文句も言わずルソーくんは尻尾を振り続ける。
「ふっかふっかね。このジャン・ジャック」
おいハルヒ、人んちの犬を勝手に改名するなよ、と俺がつっこむより早く、
「あはは。涼宮さん、それ、あたしのお父さんと同じ呼び方」
くしくも阪中の親父さんと同センスであることを露呈したハルヒだったが、いっこうに気にすることもなくフランスの哲学者みたいな本名を持つらしい犬に高い高いをしながら、
「で、ジャン・ジャックが不思議なものを散歩のルートで嗅ぎつけたっていうわけね。そうなのね?」
犬に向かって話しかけているが、当然ルソーは尻尾を振るばかりで答えず、飼い主がうなずいた。
「うん、まあ。でも不思議なものかどうかは解らないけど。ルソーだけじゃないし、他の犬さんたちもだし、何だか不気味でしょ。それが幽霊じゃないかって噂に」
阪中もその犬仲間もずいぶん短絡的だと思ったが、それは幽霊なみに不思議な存在、たとえば未来人とか宇宙人とか超能力者とかの実在を知らされている俺だから思える感想なのかもしれない。しかし朝比奈さんや長門や古泉には実体があってちゃんと目にも見える。目に映らないのに犬たちが怯えるインビジブルなものとは何だ? マジで地縛霊? まさかな。
その後、阪中は家に上がってお茶でも飲んでいくことを勧めてくれたが、一刻も早く不思議ポイントに辿り着きたいハルヒはその申し出を固辞、阪中が着替えるために部屋に行くのとすれ違いに玄関までやってきた彼女の母親は、いくら目をこらしても阪中の年の離れた姉くらいにしか見えないという、しかも物腰から口調から服装から何もかもが好印象な美人だった。たまげた。
美人の阪中母は朝比奈さんの巫女姿に目を細め、俺たちが来訪した理由を聞いてころころと笑い、娘がルソーを甘やかしすぎて困るという話を上品にして、そのような奥様を前にして普通に対応していたハルヒはさすがである。俺なんかすっかりしゃちほこばってしまい、汚れた靴で玄関口に立っているのも申し訳ないような気分になっちまってたのに。
阪中母は帰りにはぜひ娘の部屋にでも上がっていくように進言してくれて、ひとしきり和やかな時間が経過したあたりで普段着になった阪中が下りてきた。
「お待たせー」
ふう、とりあえず春先の一等地を散歩としゃれこむか。
荷物を阪中邸に置かせてもらい、俺たち六人と犬一匹は玄関を後にした。ホッとした気でいるのは俺だけか? ひょっとして。
どういうわけかルソーの首輪に繋がるリードを持ったハルヒがまっ先に道路に飛び出し、
「行くわよ、J・J!」
また自前のニックネームを叫んだかと思うと、小走りで駆けていく。J・J・ルソーも手綱を握っているのが会ったばかりの他人だということも気にせず、嬉しそうについていくのは古代から番人として人とともに歴史を歩んできた犬としてどうなんだろうね。
「あっ、涼宮さーん、そっちじゃないのねー。こっち、こっちが散歩コース!」
スコップと犬用はばかり袋を持って追いかける阪中と、立ち止まって笑顔で戻ってくるハルヒを眺めながら、この二人は意外にいいコンビになるのではないかと思い始める俺だった。
犬という動物はよほどの偏屈か病を患ってでもいない限り散歩が大好きであり、その血脈的趣向はルソーにも受け継がれていた。ちょこちょこ歩く白い小型犬の後を、これまたちょこちょこと朝比奈さんが微笑みながらついていく様は、格好が格好なだけあってどこかファンタジーな世界の出来事のようでもあった。
ちなみにハルヒにヒモを持たせていたらどっちがどっちを散歩させているのか解らないようなことになりそうだったので、途中から飼い主の阪中がリードを握り、主従一体となって街中を進む後を、その他SOS団団員がのんびりと歩いている。
「どっち? J・J、もっと早く走れない? ほらほら」
ルソーの横に並ぶようにしてハッパをかけるハルヒに、
「それじゃ速いよ、涼宮さん。走るんじゃなくて歩くの」
やんわりと答えつつルソーに引っ張られる阪中だった。
放っておくと犬よりも先行しそうなハルヒと、ひたすら犬の後を追う朝比奈さんはさておき、長門は黙々、そして古泉が一万分の一市内地図を広げている。
俺は古泉の手元を覗き込みながら、
「どうすんだ? そんなもん眺めてよ。観光名所でもあんのか」
尋ねたところ、古泉はポケットからペンを取り出して、
「犬が近寄りがたく思っている地点を調べようと思いましてね。隅々まで歩かずとも、だいたいの位置なら地図上に図形を描くことで解ります」
ああ、そういうのはお前に任せるさ、この図形好きめ。たとえ犬たちが通ることすら回避しようとする場所があろうがなかろうが、阪中家の飼い犬の元気さを眺めているだけで俺はすでに単なる散歩気分だ。犬飼いたくなってきた。こんな大層なやつでなくてもいい。雑種で充分だからさ。見たところ、ハルヒも幽霊話なんかすっかり忘れてるんじゃないかね。ルソーとじゃれ合うようにウサギみたいに飛び跳ねてるし。
普段着なのは阪中だけで後は全員制服、おまけに巫女一名、ついでに犬というよく解らん一団と化した俺たちは、阪中とルソーのいつもの散歩コースを忠実に再現して歩いていく。それが普通なのか性格的なものなのか、阪中は相当おっとりした感じで歩みを進めている。方向性としては東に向かっている感じ。このまま真っ直ぐ行くとあの川にぶち当たるな。朝比奈さんの未来告白を受けたり、亀投げ込んでまた拾い上げてメガネくんにやったりした、あの桜並木沿いの川だ。ちょうど犬の散歩にも手頃そうな遊歩道もあった……。
と思っていると、阪中の足がピタリと止まった。
「あ。やっぱりここで止まっちゃうのね」
ルソーはしっかり四肢をつっぱってアスファルトを踏みしめていた。阪中がリードを引いても、首に力を込めて後ずさり。
くーん、と悲しげな声を出されては飼い主のみならずこれ以上は、という気分になる。
「へぇ」
ハルヒがやっと目的を思い出したように目を丸くした。次いで周囲を眺める。
「別に怪しいところがあるようには見えないけど」
宅地の中だが、川が近いこともあって緑が目立つ。北の方を見上げると北高と似たような標高を誇りそうな山々の稜線が彼方に見えた。ここいらに熊はいないが猪ならたまに降りて来るという話を聞いたことがある。しかしそれにしたってこんな駅近くの市街地までとなると相当規模で珍しく、そんなニュースには未だお目にかかったことはない。
阪中は言うことを聞かないルソーのリードを握ったまま、
「先週まではここを真っ直ぐ行って、土手の階段を上がって川沿いの道を歩いていたの。しばらく歩いてまた降りてきて家に帰るってコースね。でも一週間前からルソーが川に近寄らなくなっちゃって」
朝比奈さんが膝を折って動かなくなったルソーの耳を掻いてやっている。そのピクピクしている白い耳を眺めつつ、ハルヒは自分の耳たぶを摘んだ。
「その川が怪しいんじゃない? 有毒物質が流れているのかもしれないわ。上流に化学工場みたいもんでもあるんじゃないの?」
そんなもんがないことは俺たち北高生が一番よく知っているだろう。この川を上っていけばそのまま俺たちの通学コースにぶち当たる。本当に山しかなくて毎日ウンザリしてるじゃねえか。買い食いする場所すらろくすっぽないような田舎だぞ。
「それがね」と阪中は説明を続行。「川でももっと上の方とか、下流の方ならちゃんと散歩できるみたいなのね。樋口さんや阿南さんが言ってたから」
「そうなの」
ハルヒは朝比奈さんの手の甲をぺろりと舐めるルソーをじっと見ていたが、いきなりその白い高貴な毛並みを持つ愛玩動物を抱え上げ、
「じゃあさ、J・J、とにかく、ここだって場所まで案内してちょうだいよ。そのポイントにきたらここほれワンワンしてくれたらいいからさ。さ、行きましょ」
強引に歩き出そうとしたハルヒだが、阪中が握りしめるリードの長さまでしか進めなかった。なぜならルソーは途端に悲しげな声でくぅんくぅんと鳴き始め、飼い主もまた一歩も動かなかったからである。
ルソーと同じくらい悲しそうな顔になった阪中の主張するところによると、たとえ何であれ飼い犬がしょんぼりするところは見たくないのだそうだ。
「あたしルソーに怒ったことないの」
ハルヒの腕からルソーを取り返し、阪中は頭を撫でながら、
「知ってる? 飼い主に怒られたショックで死んじゃう犬もいるんだって。そんなことになったらあたしも死んじゃいそう。だからね?」
呆れるくらい犬バカだ。いくらいいところのお嬢さまでも飼い犬を甘やかしすぎだろう。ウチのシャミセンを一度ホームステイさせてやりたいな。きっとそこにはシャミセンにとってのパラダイスが広がっているはずだ。
さしものハルヒも口を半開きにしてルソーを抱きしめる阪中を眺めていたが、朝比奈さんは納得したようにうんうんとうなずいている。かくも短時間で朝比奈さんの心を奪った犬ふぜいに軽く嫉妬を覚えていると、
「そこまで強引に連れて行くことはありませんよ」
古泉が柔和に割って入ってきた。地図をひらひらさせながら、
「今、僕たちがいる現在地が」
と、地図上に赤ペンで印をつけて、
「ここです。犬たちが何やらの危機意識を感じているという地点はここから先、延長線上にあるはずですね。または地点というより地域と言うべき範囲に広がっているのかもしれませんが、ともかくこのまま進んでもかえって位置は特定しにくいんです」
どういうことだ、と俺が聞き返す前に、古泉は阪中にキャッチセールスマンのような笑みを投げかけた。
「いったん戻りましょう。ルソー氏には引き続き、別コースの散策を楽しんでもらうことにします」
古泉の言葉通り、俺たちは元来た道を引き返すと、五分ほど歩いたところにあった十字路を左折して南に向かった。駅が近くになるつれ人通りも多くなってきた。しかし朝比奈さんは自分の衣装よりもルソーが気になっているようで、あまり人目を気にしている様子もない。もしくはコスプレによる外出にも少しずつ慣れてきているのだろうか。
先頭を歩いているのは地図片手の古泉で、これは割と珍しい光景だった。如才ないハンサム面に人好きのする微笑を浮かべ、先導役を務め上げている。
「次はこちらに」
一度南下した古泉は、再び東の進路を取った。ぞろぞろとついていく俺たち。
そして、さらに五分ほど歩き終えた時、
「くーん」
ルソーの前進拒否が始まった。
「やっぱり川なんじゃない?」
ハルヒが指差す方向は俺たちが向かっていた方角で、すでに川横にある土手の斜面と桜の木々が見えている。
古泉は近くの標識や住所を記したプレートを確認の上、注意深く地図に現在位置の印を新たに付けた。
「これでだいぶ解ってきました。もう一ヶ所くらいでいいでしょう」
古泉が何を解りかけているのかは解らんが、俺たちはまたもや南下を開始した。今度は来た道を戻らず、その場から小道に入って海方向を目指す。といっても海は遠く、古泉もそこまで探索を続ける気にはならなかったようで、進むことせいぜい五分。ちょうど最初にルソーが立ち止まったところから二番目の所までくらいの距離を歩き、そしてまた東へ向かう。
今度は三分もかからなかった。
「く~~ん」
ルソーくん、三度目の拒否行動。もともとヌイグルミみたいな犬がもの悲しげな声で鳴くもんだから、ただそれだけでも可哀相になる。即座に抱き上げてやった阪中の気分もよく解るぜ。俺でも心が揺さぶられる。
朝比奈さんもハラハラ、長門は相変わらずの無表情だが、古泉は得心したような朗らかなスマイルで、
「なるほど」
地図に印をつけて、さてここから本番だと言わんばかりに俺たちに振り向いた。またワケの解らないことを言い出しそうな雰囲気を感じ取ったものの、無視し続けるわけにもいくまい。
「どういうこった?」
訊いて欲しそうだったので訊いてやる。俺の配慮をありがたく受け取るがいい。
「まずこの地図を見てください」
古泉が広げた地図に俺たちの視線が集中する。
「赤く印をつけたところがルソー氏の立ち入り拒否した地点です。今、僕たちが立っているこの場所を含めて三つあります。最初のものから仮に地点A、B、Cと呼びますが、この三つの印を見て何か気づいたところはありませんか?」
何の野外授業を始めるつもりだ?
教室以外での学業を半ば放棄することにしている俺が回答を拒否していると、即座にハルヒが挙手もなしに言った。
「直線距離にしたらAとB、BとCの間がほとんど同じね」
「よくお気づきです。そうなるように選んで歩きましたからね」
理想の生徒を得て古泉は満足そうに、
「重要なのは個々のポイントにはあまり意味がないということなんです。特に地点Bは通過点に過ぎません。論より証拠、描いてしまったほうが解りやすいでしょう」
赤ペンを気取った仕草で握り直した古泉は、地図にさっと線を引いた。地点AからBを中間点にしてCへと至る曲線である。一万分の一縮尺図の中に、小さな弧が浮かび上がる。
「ああ、そういうことね」
ハルヒが誰よりも早く解答に辿り着いたようだった。俺は解らん。
「キョン、見たら解るじゃないの。この曲線が何に見える?」
曲線以外の何にも見えんが。
「だからあんたは数学がダメなのよ。こんなの直感で気づかないと。いい? 古泉くん」
ハルヒは古泉からペンを借り受けると、地図に新たな線を描き足した。
「曲線をさらに延長させるの。弧の角度をできるだけそのままにして、こうしてぐるっと一周させるわけ。そうすると円になるでしょう?」
まさしく。フリーハンドにしてはかなり真円に近いものが赤ペンで描かれていた。まるで市内地図に宝の在処を記したような小型の円。
やっと解った、そういうことか。
「この円の中が犬の立ち入り拒否区画と言いたんだな」
「仮のものですけどね」
古泉が補足する。
「その区画が円状に広がっていると仮定した場合こうなります。幽霊のような超自然現象か、有害物質のような人為的なものかは今のところ判別できませんが、ただ、これで少しは解りやすくなったでしょう」
ハルヒと共同制作した円を指しつつ、
「何かがあるとしたら、曲線上にあるすべての地点から同一距離、つまり円の中心点が一番怪しいわけです。三つの地点を参考にしただけですから、かなりの誤差はあるでしょうが、あながち間違ってはいないと思いますよ。それでその中心にあるのは----」
古泉が指差すより、ハルヒがそこにペン先を置くほうが早かった。
「やっぱり川沿いね」
ハルヒの声を聞くまでもなかった。地図が位置を教えてくれている円の中心、そこには俺にはお馴染みの桜並木が広がっているはずだ。ただし思いで深い朝比奈さんベンチがあるところとは対岸になるが。
「すごーい」
阪中が素の感嘆声を出し、
「古泉さん、よくこんなの考えられたのね。わー、感動しちゃう」
「それほどでも」
微笑む古泉に、真っ直ぐで素直な目を向ける阪中。おいおい、そいつはよしといたほうがいいぜ。腹の底では何考えてるか解らんヤツだし、赤い光のボールに変身するような変態だからな。
そう忠告したいところだが、あえて俺は口を閉ざしたまま地図を眺め続けた。
どうも奇怪な事件が起きるたびに、俺の見知った場所に辿り着くような気がする。まるで何者かに呼び寄せられているような感覚だが、今度こそ車にひかれかかった少年を助けたり、新キャラが出てきてイヤミ臭いことを言ったりはしないだろう。あん時は俺と朝比奈さんだけだった。しかし今は全員が揃っている。何が起ころうとこのうちの誰かが何とでもするだろうし、何より団長閣下がここにいるんだ。
「行きましょう」
ハルヒが楽しそうに号令をかけた。
「その怪しいポイントにね。阪中さん、J・Jも、後は豪華客船に乗った気でいてちょうだい。あたしたちが幽霊とかそんなのと記念撮影したあとで、ちゃんと除霊してくるから」
「じょ、除霊……ですか?」
やっと自分の扮装を思い出したように、朝比奈さんが両肩を抱くようなポーズをする。その腕を取ってハルヒは、
「さあ超特急でそこまで、全員駆け足!」
そう言って、本当に走り出した。
そこから目的地まではほど近く、あっという間に到着したのはハルヒの駆け足行軍指令のたまものだ。古泉の持つ地図通りの推定オカルトポイントは、花を咲かせるエネルギーを着々と蓄えつつある桜が立ち並ぶ川そばの並木道に相違なかった。
地図とにらめっこしながらハルヒは最も円の中心に近いところを探しているが、古泉の算出方法だってけっこうアバウトなもんだからそんなに正確さを求めなくていいと思うぞ。
「このへんかしら」
「そのへんでよいのではないでしょうか」
ハルヒが熱心に地図と地面を見比べているのに対し、古泉が適当な返答をしているのは自覚があるからだろう。
ここまでやって来たのは正規のSOS団員五人のみだった。阪中とルソーは自宅で待機、というか、「いやがるルソーを連れて行くことなんてできないのね」と頑なに言い張った阪中が同行を拒否したのだ。その一匹と一人がいたところで立会人以外の役には立たないであろうから、ハルヒも俺も気にしなかった。無論、役に立つ立たないの話になれば俺だって見物人役エキストラ以上になれないことは明白だ。
この場で明快な役を振られているのは、
「みくるちゃん、お待たせ。やっと出番よ」
「は、ははいっ」
ハルヒにとってみれば朝比奈さんだけである。そのための巫女の扮装までさせたのだ。ここで何もせずに帰ったりしたら、せっかくの衣装がかなりもったいない。
「で、でも、あたし、何をしたら……」
「まっかせなさいって。ちゃんと用意はしてあるわ。みくるちゃんはそこに立って。ほら、この棒も持って」
御幣つきの棒きれを持たされ、ハルヒは朝比奈さんを川岸近くの草むらに位置取らせると、スカートのポケットから丸めたコピー用紙の束を取り出した。
「それじゃあ」
ハルヒはきょときょとしている朝比奈さんの肩を抱き、俺たちを振り仰ぎながら、
「見たとこ幽霊の姿はないし、さっさと御祓い始めましょう!」
「か……かんじざいぼ、さつぎょ?……ぎょうじんはんにゃーはらみーたじーい、しょ、しょうけんごうんかいくーう、」
どこから持ってきた呪文かと思ったら、何のことはない、般若心経だ。巫女衣装で経文を唱えるのは何となく罰当たりのような気もするが、考えようによっては神道と仏教のダブル効果で霊験あらたかさ二倍になっていると言えなくもないだろう。
ハルヒが持ったカンペを見ながら必死に唱えている朝比奈さんの真摯さに免じて、寺社仏閣各関係者には寛恕を求めたいと切に願う所存である。
ハルヒは次々とカンペをめくり、般若心経の書き下し文ルビ付きを朝比奈さんに見せるアシスタントをやっていた。
「ど、ど、どいちさいくやくしゃりしぃ、しきふいーくーくーうふいーしきー……?」
そうやって朝比奈さんがインチキ巫女にしては敬虔な面持ちでお経を唱えている間、俺は個人的に気になっているヤツの顔色をうかがっていた。それが誰かなんて言うまでもないよな。
「…………」
長門は夜風に揺れるガラス製風鈴のような目で、朝比奈さんの後ろ姿を眺めていた。何らおかしいところはなく、手持ちぶたさにしている姿は通常モードの長門のものだ。部室で本読んでいるときと変わらん揺らぎのなさ。
これは安心してもいいか。
朝比奈さんが臨時僧侶を務めるこの辺りが本当に「何かある」ジャストのポイントだと言うつもりはない。しかしここではなくともこの周辺にオカルトないしサイエンスなものがあるのだったら、長門がそれに気づかないはずはなく、長門が気づいたということを俺が感づかないこともない。つうか、長門ならそれとなく教えてくれるはずだ。あのカマドウマのときのようにな。
横顔をじっと見られていることを悟ったのか、長門は最初に目を動かし、次に顔をこっちに向けて、まるで心を読んだかのようなコメントを小さく発した。
「何もない」
爆弾や冬眠中の熊や放射性同位元素や卑弥呼の金印とか----。
「ない」
痕跡もか?
「わたしの感知能力の限りにおいて」
長門は九九の一の段を暗唱するような口ぶりで、
「特殊な残存物は発見できない」
じゃあルソー他の犬たちがこの一帯に近づかなくなったのは何故だ? 何もないんだったらそんな理由もなくなるぜ。
「…………」
長門は微風に揺れる風鈴のように頭を揺らし、ついっと俺の斜向かいに視線をやった。
つられるように俺もそちらを向き、
「えあ?」
下流の方からトレーニングウェアに身を包んだ長身の男性が走ってくる。通りすがりのジョガーとお見受けするが、俺の目を釘付けにしたのは、彼が片手に持っているリードと、その先にいる一頭の犬の姿だった。と言っても茶色の柴犬がそんなに珍しかったわけではない。何のてらいも変哲もない柴犬だった。
なぜ犬がここに? この辺一帯は臨時的な犬の禁足地ではなかったのか?
「あれ?」
ハルヒも気づいた。読経していた朝比奈さんも、カンペめくりの中断を受けて顔を上げ、俺たちの視線を読んで声を詰まらせる。
「むちゃむく……とく……え?」
「ほう」
腕組みしていた古泉が、目をすがめて男性と並んで走る柴犬を注視した。
阪中家のウェストハイランドホワイトテリアがちょっと前に見せていたような不審な挙動はその犬にはなかった。主人と走るのが楽しくてしかたがないという風情でハッハッと規則的な息づかいで四本の脚をちょこまかさせて土を蹴っている。
その若い大学生くらいの男性と飼い犬くんは、彼らよりもよほど不審な一団、つまり俺たちに一瞥をくれつつ、後ろを通り過ぎようとしたところで、
「ちょっと! 待って!」
横から飛び出してきたハルヒによって通行を阻まれた。
「訊きたいことがあるの」
ハルヒの圧力すら感じさせる強い視線がレーザー光のように柴犬に向けられて、
「少しお時間いいかしら。どうしてその犬は普通にここを走ってるの? ああ、ええと、話すとちょっとだけ長くなるんだけど」
と言いつつ、俺の制服のネクタイをつかんで引き寄せ、何だこいつらという顔をして立ち止まった男性と不思議そうに舌を出している犬を尻目に俺の耳元で囁いた。
「説明してあげなさい。キョン」
俺がかよ。
古泉にバトンを渡したいところだったが、ハルヒに背を押されて犬と飼い主の前にまろび出てしまった。しかたがない。散歩を邪魔してすみませんが、と前置きして俺は説明を開始した。一週間ほど前から近隣の犬がこの辺りを歩きたくなくなったらしい。俺たちは友人からそのことを聞き、不審を覚えて調査することにした。その友人の犬はつい先だってもここの近くには来たくない素振りを見せていた。てっきり何かあるんじゃないかと思って調査を続行していたところ、あなたとその犬がランニングしてきた。その賢そうな柴犬は全然平気に見えるが、それはなぜなのだろう。
「ああ、そのことか」
と、二十歳前後の男性はすぐに納得してくれた。御幣棒を持って突っ立っつ朝比奈さんをしげしげと見やりつつ、
「確かに先週のいつからだったか、こいつが」と犬を指し、「いつものジョギングコースを避けるようになったな。川の土手を上がろうとするとてこでも動かなくなって、何だろうとは思っていたよ」
スポーツマンらしい犬連れの男性は、朝比奈さんとハルヒの間の空間で視線をゆっくり移しながら、
「でも、こっちもここは走るには最適の道だから、どうにかして引っ張り上げられないかとやってみたんだ。そしたら、一昨日か、三日前からだったかな? 最初はむずがっていたけど、今はこの通り、また元の散歩コースを走れるようになった。もう平気のようだ」
犬の顔色を読めるほど俺は動物医学に秀でていないが、主人の足元で行儀良く座っている柴犬は心身ともに健康そのものに見えた。何の悩みもなさそうな目をしている。
「きっとキミたちの友達の犬も、強引にでも連れてきたら元に戻ると思うね。何だったんだろうとちょっとは不思議に思うが、きっと熊でもいたんじゃないかな。その匂いが残ってたんだろ」
古泉のような発想のコメントを告げ、スポーツ大学生らしき男性は、
「もういいか?」
「ありがとうございました。大変参考になったわ」
ハルヒがまともな口調で礼を言い、青年は朝比奈さんの扮装に何か言いたげな顔を一瞬したものの、きっと出しゃばらないタチの性格をしているんだろう、いい人で助かった。「じゃあ」と言い残して犬とともに上流方面へとジョギングを再開して行く男性。
残されたのは俺、般若心経のカンペを持っているハルヒ、神社に行く道を間違った風情の朝比奈さん、川の流れに目を落としている長門、顎に手を当てて思案顔の古泉というマヌケな五人組だった。
「どういうことよ?」
見て聞いたとおりのことだろう。
「幽霊は? 楽しみにしてたのに」
んなもんいなかったと言うべきだろうな。
「じゃ、何だったのよ?」
知らん。
「……妙に嬉しそうね、あんた。何だか腹が立つわ」
言いがかりさ。俺はいつでも真面目な顔をしているつもりだ。ハルヒの期待通りのものが出てこず、それどころか最早なかったことを心から安堵しているなんてこともないぜ。
「うそばっか」
プイとハルヒは前を向き、大股で歩く歩調を早めた。
川沿いの並木道を後にした俺たちは一同揃って阪中の家に向かっていた。荷物を置きっぱなしだし、依頼主に調査報告もせにゃならん。
「でもぉ」
俺の斜め後ろで人目をはばかるように歩いている朝比奈さんが、控えめに疑問を呈した。
「ほんとうにどうしてだったんでしょう? ルソーさんが今日も散歩を嫌がってたのって」
これには古泉が身を乗り出して、
「さきほどの方の話によると三日前ですか。それまで犬たちが警戒心を覚える何かがあったことは確かです。しかし現在、それはないようです。ルソー氏や阪中さんの話による他の犬たちが未だに接近を回避しようとするのは、たぶん過去の記憶がそうさせているのでしょう。あの柴犬も飼い主に無理に連れてこられなければ、やはり近寄ることはなかったと思います」
犬にも二種類あるんじゃないか? 異変をいつまでも覚えていることに長てんのとそうでないのと。思うにルソーは記憶力のいいほうで、さっきの柴犬はおおらかな脳みそをしてるんだ。
「…………」
長門の無言が心地よい。こいつが何もないと言うからには絶対的に何もなかったのである。今なら、冬眠中だった熊が三日前に山に戻った説に一票を投じてもかまわない気分だ。
この時期の夕暮れ間際はやや肌寒く、俺たちはハルヒの早足に合わせるように阪中宅への道を急いだ。せっかくの依頼を受けたものの結局何だか解りませんでした、と報告するのが団長としての矜持を傷つけるのか、ハルヒはプリプリしていたが、こいつの性格上、こんなことはすぐに忘れる。一つのことにこだわるより、ダメならダメでさっさと次に移っていくのが涼宮ハルヒの習性だ。
案の定、ハルヒは阪中の豪奢な家を再訪し、今度こそ客人としてリビングに通されて阪中母の手作りシュークリームを一口頬張った途端に機嫌を直した。
「すご。うま。おいしい。お店開けるわ、この味」
リビングルームの調度品も適度にシックな高級そうなものが揃っており、俺が座っているソファなんてシャミセンを乗せてやったら十二時間くらいは寝続けるかもしれないくらいフカフカである。美人のお母さんに高級犬まで加わって、まったく金持ちの家は見栄えから雰囲気まで違う。ハルヒもこんな環境で育っていれば阪中みたいな性格になったのかもしれないな。
俺たちが絶品シュークリームとアールグレイをご相伴にあずかっている間、調査の顛末は古泉が阪中に説明していた。阪中は抱いたルソーの頭を撫でながら言葉一つ一つにうなずいていたが、説明が終了してもやはり不思議そうな表情を消さなかった。
「もう大丈夫そうだっていうのは解ったのね」
ぴくぴくしているルソーの耳をみつめながら、
「けど、やっぱり今日もルソーは嫌がってたし、このコや他の犬さんたちが平気で歩くようになるまであの道は散歩させないことにする。かわいそうだもん」
そこは飼い主の判断にまかせるさ。ルソーもいい御主人様に当たったもんだ。ちょいと甘やかしすぎな気もするが。
ハルヒと長門の食べっぷりに気をよくした阪中母がどんどん焼きたてシュークリームを運んでくる中、しばらく俺たちは阪中による犬エピソードを中心に談笑を続けた。ルソーは阪中の横に腹這いになって耳を傾けていたが、やがて眠そうな黒目を伏せてまどろみ始める。そんなルソーを愛おしげに見つめる朝比奈さんが、羨望の溜息を漏らして微笑んだ。
「いいなぁ。お犬さん、いいなぁ」
未来ではペットを飼うことが禁止されているのかもしれないが、俺の本音を言わせてもらうと犬より朝比奈さんを自宅に置いておきたいね。メイド姿で朝晩の送り迎え、それこそまさしくメイドの正当なる仕事ではあるまいか。古ぼけた部室でお茶入れているよりずっと似合ってると思うぜ。
まあ、思うだけにしておくけどな。
結局この日、俺たちのしたことと言ったらみんなして阪中ん家までやってきて、犬と戯れつつ散歩させ、朝比奈さん巫女仕様に般若心経を唱えさせたあげく、シュークリームとお茶をよばれてそれぞれ帰宅する、という普通にクラスメイトの家に遊びに来たようなもので終わった。
そして俺の予想ではこのままこの事件は迷宮入りし、やがてハルヒや俺の脳裏からも消え去ってしまうことになっていたのだが……。
数日後、予期せぬことが発生した。
金曜日だった。期末試験も球技大会も終わり、あと高一の最後にすることと言ったら、来年度のクラス割りを気にしながら春休みを待ちわびることくらいである。卒業式も二月末に終わっちまってるし、北高生の三分の一がいなくなったことで校舎はどこか閑散としているが、来月になったら初々しい新入生が大挙して押し寄せて来る。それは在りし日の俺たちの姿でもあった。
果たして俺は先輩と呼ばれる身分になるんだろうか。SOS団に入団を希望する新一年生などいないとは思うが、さてハルヒがどう出るかだな。
二時限終わりの窓際後方二番目の席で、俺が日差しだけはすっかり春めいた太陽光線を浴びながら大きく伸びをしていると、
「キョン」
最後尾の席にいるやつがおれの背中をシャープペンの先でつついた。
「なんだよ」
新入団員勧誘の口上なら考えるつもりはないぞ。
「ちがうわよ。そんなのあたしが考えることだし。じゃなくて」
ハルヒはペン先を教室の前方へと移動させ、
「今日、阪中が休んでるの気づいてた?」
「いや……。そうだったのか?」
「そうよ。朝からいなかったじゃないの」
これは驚き。ハルヒが他のクラスメイトについて言及するなど、谷口のアホぶりを口にする以外では朝倉の一件以来である。
「依頼を受けた手前があるんだもの、今日ぐらいに散歩コースが元に戻ったかどうか、近況を聞こうと思ったのよ。あんたは気にならないの? それにさ、犬は可愛かったしシュークリームも美味しかったしね。あたしはそんなに忘れっぽい人間じゃないわよ」
本来なら、ハルヒにもようやくクラスで気になるような女友達ができたかと本人に代わって喜んでやるところだったが、言われてみれば気にかかる。なんせ阪中家近郊に犬がタブー視していた一帯があったというのは紛れもない事実であり、事実は事実として未解決のままほったらかしにしているからだ。そこに来て阪中の欠席。繋がりがあっても不思議ではないが、
「季節の変わり目だからな。風邪でもひいたんじゃないか? それかもう学期末だ。サボったって罪は軽い」
「かもしんないけど」
殊勝なことにハルヒも同意した。
「あたしだってSOS団の活動がなければ、もう学校に用はないからね。でも、あの真面目そうな阪中が平日を勝手にカレンダーの赤い日にするわけはないわ」
休日を勝手にSOS団の活動日にしてしまうお前が、暦を忠実に守っているとは思っていないさ。
「うーん」
ハルヒはシャープペンを唇の上にのせ、
「もう一度調査しに行こうかしら。今度はみくるちゃんにナース服着せて」
何の技能もないニセナースに来てもらっても困惑させるだけだろうぜ。ていうかお前、シュークリームをもういっぺん喰いたいだけだろ?
「ばか。J・Jにも会いたいわよ。あの羊みたいな毛を刈ったらどうなるのかとか思わない?」
ハルヒが手持ちぶさたそうにシャープペンを指先で回し始めたとき、三限開始を告げるチャイムが鳴った。
事態が一気に進展したのは放課後だった。
俺は部室で古泉相手に将棋を指していて、長門は読書、朝比奈さんは巫女姿よりよほどお似合いのメイド姿でお茶くみに励んでいる。
そこに、掃除当番で遅れてきたハルヒが飛び込んできた。
「キョン、やっぱりだったわ!」
こういうことを言い出すときは大抵笑顔のハルヒだったが、どうしたことか今日は奇妙な憂鬱ブレンド配合だ。異常事態の予感がする。
「阪中の休みの理由が解ったの。本人も元気なかったけど、本当に元気がないのはルソーで、病院に連れて行ったんだって。だけど病院では原因不明って言われてものすごくしょんぼりしてて、心配で心配で学校なんていけなかったっていうことなのよ! 電話口で阪中、今にも泣きそうな声してたわ。朝から何も口を通らないくらいに胸が苦しくって、でもルソーも何も食べないからもっと苦しいっていう----」
「ちょっと落ち着けよ」
と言うしかなかった俺に、一方的にまくしたてていたハルヒはセリフを中断されたことを怒ると言うよりは、溺れる子供を見捨てていく薄情者を睨む目で、
「何よ、あんた。J・Jが病気だっていうのにのんきにお茶なんか飲んでて。J・Jは水一滴も飲めないほど弱っちゃってんのよ!」
お茶飲んでて罪に問われるんだったら古泉と朝比奈さんも同罪だが、それよりどうしてお前がいきなり登場したかと思ったら阪中家の内情をがなり始める事態になったのか、そっちをまず教えてくれないか。
「掃除してる途中に阪中の携帯に電話してみたのよ。どうしても気がかりだったから。そしたら----」
本日二度目の軽サプライズだ。いつの間にかハルヒと阪中は番号を交換し合う間柄になっていたらしい。
「掃除なんかしてる場合じゃないわ」
ハルヒは手にした携帯電話を振り回しながら、
「やっぱりあの場所には何かあったのよ! あたしが思うに、きっと病気になる元みたいなものなんだわ。だってほら、阪中言ってたじゃない。近所の犬が具合を悪くしてるって」
それは俺も聞いたし、今言われて思い出した。
「同じ症状ならそうなのかもしれんが……」
「同じ症状なのよ」
ハルヒはきっぱりと、
「さっき阪中に聞いたの。かかりつけの動物病院に連れて行ったら、そのお医者さん、何日か前にまったく同じ症状の犬が来て今も通院してるってさ。尋ねてみたらそれが樋口さんところの犬だったんだって」
樋口さんて誰だ?
「もうバカキョン! ここに来たとき阪中が言ったでしょ! 犬いっぱい飼ってる樋口さんよ。阪中の家の近くに住んでいる。そのうちの一頭が具合悪くしてるって、あんた聞かなかった?」
だから今思い出したよ。お前だって電話で聞くまで忘れていただろうに、俺ばかりを責めるのは筋違いだ。だが、ルソーが病気? あんなに元気そうだったのに。
「何の病気なんだ?」
「それが原因不明だって言うのよ」
ハルヒは団長席に着くことも忘れたように立ちっぱなしで、
「お医者さんには首をひねられたらしいわ。身体のどこにも悪いところはないんだけど、とにかく元気だけがなくて、樋口さんところのマイクもそうなの。極度の食欲不振でぐったりしたまま動かないらしいわ。ワンともクンとも言わないからますます心配なわけ」
まるで俺のせいだと言わんばかりのハルヒの眼光をさけ、俺は部室にいる他の人員を見回した。
朝比奈さんはルソーが謎の病気と聞いて心から心配そうな顔で盆を抱きしめ、長門は本から顔を上げてハルヒの声に耳を傾けている姿勢、古泉は盤面に置きかけていた金将をそっと元の位置に戻しながら、
「再調査の必要がありますね」
ペットの不調を案じる飼い主に獣医が向けるような笑みを浮かべ、
「もともとこれは阪中さんが僕たちに持ち込んできた依頼でもありました。ここまで関わった以上、とうてい看過できません。最後までおつき合いするのが筋と言えます」
「そ、そうですね。お見舞いに行かなきゃ……」
古泉の意見表明に対し、朝比奈さんもうなずいた。
「…………」
長門が本を閉じ、無言で立ち上がる。
なんとも、全員がルソーの身を心配しているようなシチュエーション、たった一日、ともに行動しただけだというのにこうも全員の心を捉えるとは恐るべきカリスマ性を持つ犬だった。
「あんたは?」
挑みかかるような視線でハルヒが俺を睨んでいる。
「どうなのよ?」
そして当然、俺だってあのヌイグルミみたいなワンコロが不調をきたしていると聞いて心安らかではいられない。シャミセンと違って温室育ちの貴族階級のようなスコットランド産テリア種だ、身体だってそうそう頑丈ではないだろう。
それ以前に原因不明の健康不振というのが気にかかる。俺はハルヒに気取られないように視線を逸らし、任意の人物へと目を向けた。
「…………」
あの場所に何もなかったことを保証してくれた長門有希は、どこか考え込むような表情で鞄を手にすることろだった。
朝比奈さんの着替えを待つのもそこそこに、俺たちは学校を飛び出してほぼ競歩と言っても過言ではないスピードで坂を降り、文字通り発車間際だった電車に飛び乗って阪中の家を目指した。ひとたび行動を開始すると決めたハルヒの機動力と指揮能力は、敵軍を追撃するモンゴル騎兵隊隊長以上になるのである。
あっという間に再び高級住宅街へとやって来た俺たちは、阪中家の呼び鈴を押すハルヒの指先を見た。
「はい……」
出てきた阪中は見るからに悄然としていた。物憂げな顔つき、今まで泣いていたような濡れ気味の目で、
「入って。涼宮さん。みんなもありがとう。わざわざ……」
語尾をとぎれがちにする阪中の招きに応じ、俺たちはこの前も通されたリビングへと足を向ける。豪華ソファの上、おそらく阪中の指定席であろうところにルソーが両手足を引っ込めるような形で寝そべっていた。白い毛並みにも心なしかツヤがなく、顎をソファに投げ出すようにしてぐったりとしているルソーは、大人数で登場した俺たちに見向きもせず、耳の一つも動かさなかった。
「ルソーさん……」
まっ先に朝比奈さんが近寄り、しゃがみ込んで犬の鼻面を覗き込む。つぶらな黒い瞳がぴくりと動き、悲しげに朝比奈さんを見ると、またゆっくり伏せられた。朝比奈さんはルソーの頭に手のひらを置いたが、条件反射的に耳先がわずかに揺れただけだった。確かにこれはただごとではなさそうだ。
「いつからこうなったの?」
ハルヒが問い、阪中が疲労しきった声で、
「たぶん昨日の夜。その時は眠いのかと思って気にしなかったのね。でも朝起きてもずっとこういう感じだったの。この場所から全然動かないし、ご飯も食べないの。だから朝の散歩もダメ。心配になって病院に行ったら……」
ハルヒが部室で叫んでいたようなことが判明したというわけか。一つは原因不明、一つはもう一匹同じ症状の犬がいる。
「うん。樋口さんのマイク。ミニチュアダックスなのね。ルソーともいいお友達だったんだけど……」
朝比奈さんは労わるようにルソーを撫でている。小さき物の命を大切にしなければならないことを知っている人特有の優しさで。朝比奈さんの悲しみが俺にまで伝播して、人知れず胸を打たれていると、その感傷をやぶるように、
「少しお訊きしていいでしょうか」
古泉がしゃしゃり出てきた。
「そうなると樋口家のマイク氏がルソー氏と同様の症例を訴えたのは、今日から五日ほど前になりますね。今のマイク氏の具合はどうなっているのですか?」
「樋口さんには昼頃に電話してみたの。マイクはずっと元気がなくて、今でもそうだって。食べ物を受け付けないから病院で点滴したり、栄養剤を注射してもらっているって言ってた。ルソーもそうなっちゃたらどうしよう」
いつまでもそれでは衰弱する一方だろう。つい数日前まで元気に飛び跳ねていた犬の映像を思い起こし、現在との落差の激しさを改めて思う。パッと見だけでは、コタツの中で動こうとしないシャミセンそっくりな無気力さだが、それが犬ともなれば事情が違う。さすがに本気で心配になってきた。
「もう一つ」と古泉。「マイク氏とルソー氏、このような症例が出ているのは二頭だけですか? あなたには犬の散歩仲間が大勢いらっしゃるとのことでしたが」
「他の人からこんなの、聞いたことがないのね。マイクのときにけっこう噂になったから、あったらきっとあたしも聞いてると思うんだけど……」
「そのマイク氏ですが、飼い主の樋口さんのご自宅はここからすぐ近くですか?」
「うん。向かいの家の三軒どなりなんだけど……それがどうかしたの?」
「いえ、特には」
古泉は穏やかに質疑を終了した。
阪中はうつむき加減に、
「やっぱり幽霊なのかなぁ。病院の先生にも解らないなんて」
すがりつくような小さな声に、ハルヒは眉の間を曇らせながら、
「そうねぇ……。なんかヘンよね。幽霊かどうかはいいとして、笑い事ではない感じがするわ」
最初に幽霊だという話に飛びつき、朝比奈さんを巫女にして読経させたことを悔いるような顔つきだった。本気で怨霊や悪霊を相手にするなら格好だけの巫女さんではダメだったか、と反省しているような気配である。ハルヒにしては真面目に悩んでいる様子だ。
「ねえ。有希、なんとかなんない?」
どうして長門に質問するのか不思議だったが、言われた長門のほうはごく自然に動き出した。鞄を丁寧に置くと、すすっとルソーの前に移動、心配げな朝比奈さんが空けたスペースにしゃがみ込み、そしてルソーの顔を正面から見据えた。
俺が息を飲んで見守っていると、
「…………」
長門は手を伸ばしてルソーの顎下指を潜らせると、くいと持ち上げ、瞬きの極端に少ない目でルソーの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ出した。まるでDVDの円盤から直接情報を読み取ろうとしているような真剣な目の色をしている。ほとんど鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で、長門はルソーの目を凝視、そのまま三十秒ほどそうしていただろうか。
「…………」
長門は幽霊以上に幽霊じみた仕草で立ち上がると、全員の視線を浴びながら元の立ち位置へと戻り、ゆっくりとわずかにだけ首を傾げた。
ハルヒが溜息をつく。
「そう、有希にもわかんないの? まあ、そうよね。うーん……」
長門に何を期待したのかは知らないが、この場であっさり治療できるなら長門の万能度は度を超しすぎているだろうな。さすがの宇宙人もゴットハンドの持ち合わせはなかったか、と俺まで肩を落としていると、背後に何やら強い気配を感じた。
振り向く。長門が俺に視線を向け、緩やかに瞬きしてから、マイクロミリまで目盛りのついた定規で測らないと解らないくらいのうなずき方をした。すぐに逸らされる。
誰に目にも止まらなかったはずだ。ハルヒも朝比奈さんも阪中もくたりとしたルソーに気を取られて長門にまで注意が回っていない。だが唯一、長門の動作に目ざとく気づいた野郎がいた。
「ここは一時撤退ですね」
古泉が俺の耳元で囁く。
「ここに留まっていても僕たちにできることはありません。そう、僕やあなたにはね」
こっそり古泉は微笑んで、さらに小声を出す。吐息をかけるなよ。気色悪い。
「急ぐことはありませんが、おちおちもしていられません。なにより涼宮さんがあの調子ですから。彼女が我々の恐れるようなアクションを起こす前に事態を収束させねばならないでしょう。それができるのは……」
古泉は柔和な目で長門を捉え、しかしウインクを向けたのは俺へだった。
何の合図だか----と、しらばっくれたいところだったが、なぜか解ってしまうのは俺が本質的には頭がいいからなのであろうか。長門や古泉の表情うかがいばかりに秀でたところで受験には何の役にも立ちそうにないが、今回はそう言ってはいられないな。古泉のためではなく、ルソーと阪中のために。
手を打つ必要があるだろう。
阪中家を辞した後も、ハルヒと朝比奈さんは魂を病気の犬のもとに置いてきたような上の空を披露し、歩きながらも電車の中でもずっと黙りがちで、俺たちが電車に飛び乗った駅に降り立っても阪中の落ち込みぶりが伝染したように気もそぞろだった。
気持ちは俺も共有するさ。元気だったものが元気じゃなくなっていく過程を見るのは辛いものだ。憂鬱でいるより校舎を走り回ってくれているほうが安心するのは俺も同じだ。それが人でも動物でもな。
しかし、犬の病に関して現時点で部外者にできることはない、というのが古泉の告げた冷たい結論だった。
「今は見守りましょう。動物病院の方も無能ではないでしょうから、今頃対応策を研究中だと思いますよ」
研究して判明するようなものだったらいいさ。だが、そうでなかったら? ルソーの葬儀になんて俺は立ち会いたくないぜ。
「幸い僕の知り合いに獣医師の方もおられます。いろいろ尋ねてみることにしますよ。何か手がかりが出てくるかもしれません」
古泉のとってつけたような慰めにも、ハルヒと朝比奈さんの反応は薄かった。うん、とか、ええ、とか言葉を濁すようなことを呟くのみである。
いつまでもこうして暗い雰囲気に浸っているわけにもいかず、ここで俺たちは散会することになった。というより無理矢理した。そうでないと本当にいつまでも全員揃ってしょんぼりし続けるハメになりかねないからな。
ハルヒと朝比奈さんが肩を並べて線路沿いの道を歩いていく。本来なら俺や古泉もそっち方面のルートを辿った方が家に近いが、ハルヒは全然気づかないようで、両者ともすぐに姿が見えなくなった。
二人には悪いが邪魔者は消えた。朝比奈さんは残ってくれてもよかったが、今回の事件に彼女の出番はないはずだ。
俺と古泉と一緒に女子二人の帰り様を眺めていた長門が、自分のマンションへ身体を向けた。ただし、なかなか第一歩を踏み出さない。
「長門」
ショートヘアの小柄な制服姿が機械的に振り向く。俺の呼びかけを予測していたようなスムーズさで。
その顔を見て俺は直感した。やはりな。長門には解っていたんだ。だから遠慮なく訊こう。
「ルソーに取り憑いているのは何だ」
少しは考えるかと思ったのだが、長門は簡単に口を割った。
「情報生命素子」
その解答を聞いて、俺は、
「…………」
と、なる。
俺の無言を理解不足と思ったのか、長門はセリフを継ぎ足した。
「珪素構造生命体共生型情報生命素子」
「…………」
ますます無言になる俺に対して、長門はさらに説明しようとしたように唇を開いたが、該当する言葉を持たなかったのに気づいたように押し黙った。
「……………………」
そのまま二人して沈黙していると、
「要するに、かのルソー氏は姿の見えない地球外生命体に憑依されているんですね」
古泉が短絡的な解答を述べ、長門は少し間を持たせるような、誰かに許可を申請しているようなポーズを取った後、
「そう」
と、うなずいた。
「なるほど。その情報生命素子というのは、人間の目に映らない、というよりも姿そのものがなく、つまり単なる情報そのものであると理解していいでしょうか」
「かまわない」
「すると情報統合思念体に似通った存在ですか? コンピュータ研の部長を乗っ取った、あのネットワーク感染タイプの情報生命体のように」
「情報統合思念体やあの亜種とは存在レベルがまったく異なる。あまりにも原始的」
「たとえで比較することはできますか? もし統合思念体を人間に置き換えたなら、その珪素構造生命体共生型情報生命素子は何に比定されるでしょうか」
一回聞いただけでよく覚えられたものだ。ここぞとばかりの古泉の質問攻撃に、長門は普段と変わりなく答えた。簡素に、
「ウイルス」
「それでなんですね? まず最初の犬が身体……いや精神の調子を崩し、それと同じ症状がルソー氏にも発生したのは、情報生命素子なる異性体がウイルスのように増殖、感染するからなのでしょう」
古泉は伸びた前髪を弾くように指で触り、
「ところでその奇妙な情報生体が、どうして地上にいて、それも犬に寄生することになったのですか?」
「おそらく」
長門は淡い声で、
「宿主としていた珪素構造体が地球の引力に捕捉され隕石化したのだと推定される。その珪素構造体は大気圏突入時の摩擦熱で消滅したが、情報を構成要件とする生命素子は物質が消えても残存する。情報は消えない。残った情報生命素子は地上に固着した」
「それが、犬の散歩道にあった、あの場所付近ですね。そして、そこをたまたま通った犬に乗り移ったと」
「珪素生命体の持つネットワーク構造と犬類の脳内神経回路が類似していたと思われる」
「しかし同じようにはいかなかったというわけです。結果的に犬たちは衰弱することになった」
古泉と問答を繰り広げていた長門だったが、つと思案するように口を閉ざしてから、
「感染ではない。一体の情報素子が思索メモリの増大化を計っている」
何のことだか----。
だが、どうしてだか古泉には解ったようだ。
「一匹の犬ではリソース不足だったのですね。ですが二匹でも到底収まりきれるとは思えません。珪素で構成される生命体一体のネットワーク構造を過不足なく再現するには、何頭の犬の脳が必要ですか?」
「既存データベースにある珪素生命体の規模を最小と推定して計算する。……地球上に存在するすべての犬科属を使用しても不足」
「ちょっと待ってくれ」
俺は巨大な不安とともに割って入った。
「ルソーともう一頭が変な宇宙病原体にやられたってのは解った。そのウイルス野郎が隕石にくっついてたってのも、まあ何とか理解した。だが、すると何か。この宇宙には……俺たちみたいな人類……ええと長門、お前がいうところの有機生命体……つまりその有機物でできた生命体じゃない生命体なら存在するってことなのか」
長門はふっと考えるような目をして、
「その質問への解答は生命そのものの概念をどう捉えるかによって左右される」
危うく吸い込まれそうになるくらいの透明な瞳で俺を見つめ、
「珪素を主幹とした構造体の中に意識を内包するものなら存在する」
すらすらと解答してくれたが、んな重大なことをこんなところで俺相手にあっさり言われても困っちまうぜ。せめてSETIでもやってるサイクロプス計画の立案者に教えてやったら小躍りして資金繰りに走り回ると思うのだが。
「ところでだな」
ここまで話が進んでいて、今さら訊きにくい部分でもあるのだが、
「珪素ってな、どういうシロモノだ?」
あいにく化学の授業と教師とは二つまとめて折り合いが悪いんだ。
「一言で言うとシリコンです」
古泉が答えた。
「半導体の材料として有名ですね」
古泉は興味深そうな笑みを長門に向けつつ、
「長門さんが言っているのは、いわゆる機械知性体のことでしょう。我々人類が未だなし得ない人工知能。ところが宇宙のどこかには人工でない機械知性、自ら意識を獲得した非有機生命体がいるということです。いえ、むしろ全宇宙を俯瞰すればそちらの方が一般的で、実は僕たち人類のほうが特殊なのでは?」
長門は古泉をすっぱりと無視し、ただ俺を見つめている。まるで解答を俺にゆだねているように。
というところで俺は思い出した。最初に長門から借りた本。挟んであった栞の語句に導かれるまま、長門の部屋に初めて連れて行かれたときに聞かされた言葉だ。
----情報の集積と伝達速度に絶対的な限界のある有機生命体に知性が発現することなんてありえないと思われていたから----。
古泉は無意識のように顎を撫でている。
「もしや、珪素構造体はただの物体でしかなく、情報生命素子が宿って初めて知性を得るという仕組みになっているのですか?」
長門は空を見上げ、誰かの許可を仰ぐような微妙な仕草をしてから顔を元の位置に戻した。
「知性とは」
少し間を開けて、
「情報を収集し、蓄積した情報を自発的に処理する能力レベルによって判定される」
今日の長門は久々に----いや、俺に正体を告白したあの日以来に----おしゃべりだった。やはりこいつでも得意分野になると饒舌になるのかね。
「情報生命素子は珪素生命体に寄生し、彼らの思索行動を補助する役割を持つ。原始的な情報生命素子は単独では一つの情報群でしかない。新たな情報を獲得し、処理するには物質的な構造を持つネットワーク回路が必要。両者は共生関係を取ることにより互いに利益を得る」
しかし、その珪素生命体というのはどういうヤツなんだ。地球の引力に引かれて大気圏で燃え尽きるまでボーっとしているような、気の遠くなるくらいののんびり屋なのか。
「彼らの生体活動は思索に限定される」
長門は淡々と言う。
「思索以外のことは何もしない。宇宙空間は広大。彼らが重力井戸に落ち込む確率はゼロに近似している。そのため生命維持や自己保存といった概念を持たない」
宇宙をさまよいながら何を考えてんだ?
「彼らの思考形態を有機生命体が理解することは不可能。理論基盤が異なり過ぎるから」
コミュニケーション不能か。ならNASAに教えなくてもよさそうだな。コンタクトしたところでどうせ徒労に終わりそうだ。
「やれやれ」
阪中の幽霊話から一気に宇宙の彼方へと話が飛ぶとは、大いに飛躍しすぎだぜ。しかも知性がどうとか思考形態がどうのとかとなると、せいぜい長門に借りたハードSFを何冊か読んだくらいにしか素養のない俺にはどうにもならん。
科学的なのか哲学的なのか宗教的なのかも判断付きかねるというものだ。不可視の情報生命やら、そいつが宿る思考するシリコンの塊やら……。だったらよほど解りやすく幽霊だったほうが。
「ん?」
と俺は不可思議な引っかかりを覚える。そう、阪中の持ってきたフリは幽霊の噂話で、幽霊といえば霊魂だ。
「じゃ、魂はあるのか?」
実体のない情報生命素子とやらが地球外生命体の知性の源だという。それでもって宿主にしていた本体が消滅したものの、取り憑いていたほうの情報生命素子が残り地上をフラついていたというこの場合、そいつはまさに幽霊じゃないか。
「人間はどうなんだ。俺たちにも考える頭があって、そこには意識ってものが入っているはずだ。ひょっとして、肉体が滅んでも精神は残るのか?」
これはけっこう----いや、けっこうどころではない大事な話だぞ。あるとないでは今後の人生の歩み方に大きくかかわってくるぜ。
長門は答えず、ただ奇妙な表情を見せた。と言っても無表情なのはいつも通りなのだが、何というか雰囲気が変化したのを俺は見て取った。誰が気づかずとも俺には解る。こいつとの付き合いそろそろ一周年だ。そのくらいの洞察力が培われるだけの時間は充分あったし、そうならざるを得ない出来事だっていくつもあった。その俺が言うんだから間違いはない。
長門は----、
「…………」
無言で、無感情で、しかし、それでいて何らかの表情を浮かべたがっているように思えた。そして俺の観察力がエンプティラインを指しているのでない限り----、
「…………」
まるでこれから自分の発するジョークに対して、微笑みを堪えているように思えたのだ。
そして、長門が口にした言葉は著しく短かった。
「それは、禁則事項」
大げさな溜息が聞こえた。俺の口から吐き出された息である。禁則事項か。これまた、いつか俺も使いたい言葉だな。答えようのない質問を受けたときとかにさ。今度授業で指されたときにも教師に向かって言ってやろうかね。
長門が生誕史上初の冗談を言ったのかどうかも大問題といえばそうなのだが、それはともかく、今はルソーのことが最優先だった。宇宙的ウイルス野郎をどうするかが問題だ。
「何とかするしかないな。長門、できるか?」
「可能」
そう言ってくれる長門がひたすら頼もしい。
「当該情報生命素子の構成情報を制御、最小化したうえで圧縮アーカイブし活動停止状態に置く。ただし書庫化したデータを保存する生体ネットワークが必要」
よく解らないがややこしい。すぱっと消し去っちまったらどうだ?
「消去は不可」
なぜ?
「許可が下りない」
お前の親玉のか?
「そう」
その情報生命素子は銀河系の絶滅危惧種に指定でもされているのか。
「有益な存在」
人間にとってのビフィズス菌とか乳酸菌みたいなもんらしい。
古泉にも振ってやろう。何を面白そうな顔をしていやがる。
「珪素の塊にそいつを宿らせてロケットで宇宙に戻すわけにはいかないのか。お前の組織ならできるんじゃないか?」
古泉はひょいと肩をすくめ、
「シリコンバレーからインゴットを取り寄せるくらいならいくらでも用意しますし、水素燃料ロケットのほうも込み入った政治工作と大がかりな経済活動をおこなえば可能かもしれませんが、珪素生命体の準備までは手が回りそうにないですね」
だめか。いや……待てよ。
俺の脳裏に綺麗な文様の金属棒が輝きつつよぎった。鶴屋さんの持ち山で発掘され、鶴屋家所蔵になっている元禄時代の遺跡物。アレはこの時のために用意されたものか? 過去からの贈り物、謎のオーパーツ……。
「違うか」
鶴屋さんの話では写真に写っていた棒状物質は、チタニウムとセシウムからなる合成加工金属だった。もし学会に広く公表したら邪馬台国の所在地どころの騒ぎではなくなるだろうが、アレは水につけたら復活するかもといった、乾燥ワカメ的な珪素生命体の化石などとかいう都合のよさとは無縁の産出物である。また別の機会に必要となる物体か、もしくは永遠に封印するべきものなのか、あるいは俺たちの時代よりさらに未来に残すべき品物なんだろう。できれば二度と見たくないな。俺がきっかけで発見したものだとはいえさ。
俺が自分の思索に埋没していると、古泉の声が現実に引き戻した。
「幸い急を要する事態ではなさそうです。最初の犬が体調を崩してから、二匹目と思われるルソー氏に触手が伸ばされるまで、数日のタイムラグがあります。今日明日中に何とかしておけば、これ以上被害が蔓延することはないでしょう」
地球上と広大な宇宙では時間の感覚も相当違うだろうからな。ウイルスもどきが宇宙時間を採用していてくれて助かったと言うべきか。
「阪中さんの家を訪れるのは明日でいいでしょう。休日ですしね。ただ、訪問の理由を考えておいたほうがいいかもしれませんね。日を置かずに見舞いに行っても不審には思われないでしょうが、実際に治療しにいくのですから。さらにもう一頭、樋口さんの犬も同様の処置をしなければ」
古泉のセリフを俺は半ば聞き流していた。そういう理由はお前が何とでも考えろ。治療も処置もするのは長門だ。
「明日だな。すまないが頼むぜ、長門」
心を阪中家に残してきたハルヒと朝比奈さんのように、俺は俺で心が宇宙へ飛び出しそうなのを抑えなければならなかった。そんなわけで俺はぼんやりとしており、ぼんやりしたまま立ち去りかけた身体に急制動がかかった。なんだなんだ。
振り返ってみると、長門が俺のベルトに指をかけて静止している。止めてくれるのはいいんだがな、長門。せめて声をかけるとか、あるいは袖口を引っ張るとかしてくれないかな。俺としては後者を希望したいところなのだが。
長門の無表情な口元がゆっくりと動いて、
「必要なものがある」
「何だ」
「猫」
俺があっけにとられていると、長門は言葉を選び出すような口調で言った。
「あなたの家の猫が望ましい」
しばらく古泉と長門と俺とで計画を練った後、俺は自宅に向かって歩きながら携帯電話をかけた。
「ハルヒ? ああ、俺だ。ルソーのことで話がある。実はな、帰る途中に聞いたんだが、長門が昔読んだ本の中に、今回のルソーと似たような犬の病気の話があったそうだ。……うん、治療方法も書いてあったんだと。絶対うまくいくとは言い切れないが…………ああ、解ってる。試してみる価値はあるだろ? やり方は長門が知ってる。だから明日、もう一度阪中の家にお邪魔……今から? そりゃ無理だ。用意するもんがあってだな、明日には揃うからそう急ぐな。古泉……じゃなかった、長門によれば急に容態が悪化するもんじゃなさそうなんだ。……そうだな、阪中にはお前から言っといてくれ。あ、それからだな、もう一匹犬がいただろ? 樋口さんとこのマイクとかいうやつ。そいつも……そうだ、阪中の家に連れてくるようにと伝えてくれ。朝比奈さんには俺から言っとく。じゃあ、明日の……九時な。それでいいだろう。いつもの駅前集合ってことで」
翌日、SOS団集合ポイントとしてそろそろ観光名所になりそうな駅前に行くと、まだ二十分も前だってのに全員が俺を待っていた。
ただし、いつもと同じ表情でいるのは長門と古泉だけで、朝比奈さんは不安そうなお顔で佇み、ハルヒは有り金をすべて宝くじにつぎ込んだ人間が抽籤日を迎えたような顔をして、
「遅いわよ」
どこか複雑な顔つきで俺を睨んだ。
この日ばかりはハルヒも茶店おごりを罰則として課すことなく、俺の腕を取ると改札へずんずん歩き始める。
「あんたが来る前に古泉くんに聞いたわ」
ハルヒは人数分の切符をまとめて買いながら、
「有希が民間治療を試してくれるんですって? 陽猫病の」
ヨウネコビョー? 何だそれは。ポリネシアあたりに生息する新種の妖怪か。
「ルソー氏が罹患したと思われる病ですよ」
切符を受け取った古泉が自動改札口へ片手を広げた。俺がボロを出さないようだろう、早口で、
「本来活発であるはずの犬がこれといった原因もなく、ある日突然あたかも日溜まりにうずくまる猫のように動かなくなってしまう症例を指します。非常に希有なケースでしてね。医学書にも載っていません。一説にはノイローゼの一種なのではないか----」
古泉は俺に向けてウインクし、
「----というのが、僕が長門さんからお聞きした説明です。長門さんは古い本からそのことを知ったそうです。でしたよね?」
一人、制服姿の長門が誰の目にも解りやすくうなずいた。なんとか打ち合わせの通りにしてみました、といわんばかりのぎこちなさで。
長門は古泉が提げている有名百貨店の紙袋を見つめ、それから俺が持っているキャリーボックスに目を移した。
「にゃあ」
箱の隙間をかりかり爪で掻いているシャミセンが、長門に挨拶するような声で鳴く。
ハルヒはコンと猫用キャリーをはたき、
「治療に猫がいるなんて不思議な病気ね。有希、ホントにだいじょうぶなの? それ、信頼できる本?」
治療ってよりは除霊に近いのだが、ハルヒに教えてやるわけにはいかない。長門が無口属性を持っていてよかった。
長門は黙ったままこくりと首を傾斜させ、俺に向かって片手を差し伸べてきた。そんなふうに手を伸ばされても俺が持っているのはシャミセンの入ったプラボックスだけだぜ、と思っていると、
「猫」
長門は抑揚の平らな声で告げた。
「かして」
かくして俺は手ぶらとなり、猫入りキャリーボックスは電車に乗っている間、座席に座った長門の膝の上に置かれていた。電車の中だからなのか、長門が無言で何かの合図を送っているのか解らなかったが、シャミセンは騒ぎもせず大人しくしている。
長門を挟むように席についているハルヒと朝比奈さんが猫の入った箱を気にしているのとは対照的に、中身と言うなら俺は古泉の手提げ紙袋のほうがよほど気になるね。
「ご心配なく、ちゃんとそれらしいものを用意してきました」
男二人して電車扉にもたれるように立っているので会話がハルヒに届く心配はない。古泉はかさりと紙袋を振って、
「一晩で用意するのは少々手間でしたが、何とかね。後は長門さんしだいです」
長門の手腕に疑問を持つ余地などないさ。必ずルソーを救ってやれる。俺が今から頭を痛めているのは、事後処理に関してだぜ。
「そちらは僕の役割ですね。これは僕の勘ですが、それほど煩雑なことにはならないと思いますよ。涼宮さんを見ていれば解ります。目下のところ、彼女にとっての最優先事項はルソー氏の完治ですから。それさえ果たしてしまえば僕たちの任務も終わります」
だといいんだがな。
俺は余裕の微笑を浮かべる古泉から目を逸らし、電車の減速にそなえて手すりをつかんだ。阪中の家に続く駅まではたった二駅。あまり考えている余裕はなかった。
阪中の家にお邪魔するのはこれで三回目だ。まさか一週間のうちに三度も上がり込むことになるとは思わなかった。
出迎えてくれた阪中は昨日と同様にしょげていたが、一縷の希望を抱いているようで、俺たちを見る目にすがるような色が交じっている。
「涼宮さん……」
泣きそうな声で言葉を詰まらせる阪中に、ハルヒは真面目な顔でうなずいて振り向いた。見ているのは団員の中でもっとも優秀と目される、長門のほっそりした制服姿である。
「まかせといて、阪中さん。こう見えても有希は何でもできるしっかりっ娘なんだから。J・Jもすぐによくなるわ」
ほどなく通された阪中家の居間には、阪中母ともう一人の女性がいた。見たところ女子大生っぽいが、どうやらその人が樋口さんというもう一匹の被害犬の飼い主であるのは、うかない表情を観察するまでもなく解る。彼女に抱かれてぐったりしているミニチュアダックスフントがマイクという名を持つのもな。
ルソーの不調は昨日のままだった。ソファの上でじっとしたまま動かない。目は開いているがどこも見ていなさそうな感じは、マイクとまったくうり二つのものだ。
ここからだな。俺は長門と古泉に目配せをする。
そして開始されたのは、長門が淡々と指示を告げ、俺がアシスタントを務めるという、昨日、俺と長門と古泉でおこなった三者会談によって決定されたものだ。それらしい道具は古泉が用意してきた。どこから持ってきたのかは知らんが、こういう時には役に立つ野郎だ。珪素構造体を持ってくるよりは遥かに簡単なことなんだろう。
まずカーテンを閉じて日光を遮断する。当然電灯はつけず、部屋を薄暗くした上で、俺は古泉が持参した荷物の中から太くてカラフルな蝋燭を取り出し、年代物のキャンドルスタンドに突き立ててマッチで火を灯した。さらに小さな壺に香料を入れ、こちらにも火をつける。ヘンな色と香りをした煙がゆるやかに立ち上るのを確認し、俺は長門に合図を送る。
長門はキャリーボックスからシャミセンを取り出し、両脇を抱えるようにして抱いた。実はそれはシャミセンの嫌がる抱かれ方だったが、なぜかいつもは牙を剥く三毛猫も長門には無抵抗だった。
俺は咳払いをして、
「えー、ルソーの隣にその犬も置いてもらえますか?」
若くて気品ありげな樋口さんは、まるで呪術でも始めそうな俺たちに不安そうな顔をしていつつも、進行役を務める俺の言葉に従ってくれた。ソファに横たわる犬が二匹に増え、魂を抜かれたように力なくぼんやりしている。
そのソファの前に、長門が猫を持って跪いた。
最後の仕上げだ。俺はデジタルレコーダーのスイッチを押した。テルミンとシタールを主旋律としたキテレツな音楽が流れ始める。正直やりすぎではないかと思うんだが、ギミックに凝るならとことんまでというのが古泉の主張だった。
蝋燭の炎が頼りなく灯され、妙に甘ったるい匂いのお香がたかれて、オリエンタルなインストゥルメンタルが流れる中、長門は奇怪な儀式としか思えないような行動に出た。
「…………」
薄暗い室内でも白い顔はフリーズドライされたかのような無表情。その白い顔と同じだけの白さを持つ手が動いた。片手をルソーの頭に乗せ、なで回すような仕草をしてから、その手をシャミセンの額に当てる。未知の家、しかも犬二匹と正対しているのにシャミセンは感心してやっていいくらいにじっとしていた。
長門はシャミセンをルソーの鼻先まで近づけていく。ルソーの黒い瞳が緩慢に動いて三毛猫の見開いた瞳と重なり合う。長門はまるで、ルソーの身体からシャミセンの身体に何かを移すように交互に手を動かし、同じことをマイクにもおこなった。長門の唇が小さく動いて言葉として聞こえないような言語を発していた、と気づいているのは俺と古泉だけだったろう。
最後に長門は、シャミセンの狭い額を二匹の犬の鼻面に押しつけ、唐突に立ち上がった。何も言わずにシャミセンをキャリーボックスに押し込むと、すたすた歩いてきて俺の胸元に持ち上げて言った一言が、
「終わった」
当然、全員が唖然としている。キャリーを受け取った俺もそうなのだから、ハルヒや朝比奈さん、とりわけ阪中と樋口さんはなおさらであろう。
口を開きっぱなしでは何だと思ったのか、開きついでのようにハルヒが、
「終わったって、有希。今ので? というか今の、何だったの?」
「…………」
長門はただ、首をひねって二匹の犬に視線を飛ばした。見るのはあっちだと言うように。
全員の視線がソファに向けられた。
そこには----。
よろよろと、だが生気の戻った目で立ち上がり、それぞれの主人を愛らしい仕草で探す犬たちの姿があった。
「ルソー!」
「マイク!」
阪中と樋口さんが駆け寄って両手を伸ばす。くーん、と鳴いて二匹の犬は弱々しくも尾を振って応じ、飼い主の頬を舐めた。
朝比奈さんがもらい泣きするくらいに感動的なシーンの数分後、リビングはうさんくさい呪術スペースから日常の風景を取り戻した。
ルソーとマイクは台所で阪中母に食事をもらっている最中であり、高そうなテーブルを囲んでソファに座っているのは俺たち五人と阪中、樋口さんだ。その二人に、
「長門さんがおこなったのは、猫を使ったアニマルセラピーを動物相手におこなうという画期的な治療法なのです」
あまりにも苦しい古泉の説明だが、ほがらかな笑顔と明快な口調のせいか皆騙されてくれた。
「蝋燭とお香にはアロマ成分が含まれていまして、嗅覚の鋭い犬には人間以上に有効です。音楽は聴覚に訴えかけることでリラックスできるものを選びました」
デタラメにも限度があるが、なにしろ本当にルソーとマイクは元気を取り戻したのだから結果オーライ、阪中と樋口さんの喜びようは半端ではなく、これまた飼い犬と娘の元気が同時に戻って阪中母にも大感謝され、以前ハルヒが絶賛したシュークリームを山のように焼きまくって出してくれた。
母親以上に喜んでいるのは阪中で、
「でも本当にすごいのね。長門さん。動物の先生も知らなかったことを知ってるなんて」
「有希はね、SOS団一の万能選手なの」
無言でシュークリームを食べている長門より、ハルヒのほうが鼻高々に、
「たくさん本読んでて物知りでギターも料理もうまいし、スポーツだってインハイ級なのよ」
「治療法が長門さんの読んだ古い文献の中にあって助かりました」
追加フォローする古泉は優雅に紅茶を啜り、
「漢方薬の中にはなぜ効果があるのか科学的に説明できないものもあるそうです。民間療法もいちがいにはおろそかにできないということですね」
と、デタラメの上塗りとしか思えないことを言った。
用済みとなったアロマセットはまとめて紙袋の中に眠らせてある。同じく治療の道具として使われたシャミセンだけでも、せめてキャリーから出してやろうかと思ったが、阪中家の高価な家具で爪研ぎなどしたら折檻ではすまないのでそのままだ。長門の手を離れた今は、にゃごにゃごと箱を揺らしているが、しばらく放っておいたらうたた寝でもしてくれるだろう。
本当なら特大の功労賞を与えなければならないのはシャミセンであり、他の道具は単なる目くらましなのだが、それは俺と長門と古泉の胸に秘めておけばいいことさ。
長門がすべきことは情報生命素子の凍結、それだけだった。
だから、やろうと思えば長門は罹患した犬二匹の中に情報生命素子を凍結することだってできたわけだ。端的に最も簡素は解決方法だったが、それでは後々問題が生じる。樋口さんところのマイクや阪中愛するルソーが天寿を全うし、天に召された後も凍結状態の情報生命素子は残ってしまう。活動を停止したそいつが何かの拍子に解凍され、再び動き出す可能性は無視できないという。ならばそいつを常時監視状態における生命体に設置するのが最善のことである。宿主となる生命体は何でもよかった----俺とかハルヒでも----が、一番問題なさそうな依り代として長門はシャミセンを指名した。かりそめにでも人語を話したことがあるという超常現象を体験したオスの三毛猫。この際新たな宇宙的変態性能が加わってもたいした問題にはならないだろう、何か変化が生じたらすぐに俺が気づくし……という仕組みである。
やれやれ、と言う代替案として俺は手作りシュークリームを口に詰め込んだ。
阪中もとんだ災難だったが、その災難の素を体内に閉じこめた猫の飼い主となった俺の立場は誰が勘案してくれるのかね?
長門のマンションがペット可なんだったら、いっそ譲渡するという手もあったんだが、妹の説得に時間がかかりそうであるし、俺としてももう情がわいているしな。いいさ、シャミセン。いっそのこと猫股になるくらいまで長生きしてくれ。
一気に祝賀ムードになった阪中家のリビングで、俺は再びシャミセンが喋り出す日があるのかもなと考えていた。
俺たちが阪中家を去る頃には、ルソーもマイクも嘘みたいに元気になっていた。これにはハルヒも朝比奈さんも大いに喜び、二匹の人なつっこい犬をかわるがわる抱きしめて、とびっきりスーパーな笑顔を見せた。
帰り際、阪中母はお土産にと、余ったシュークリームを大量に持たせてくれた。特に長門に差し出された手提げ袋は一際大きく、感謝されるべき人物が相応に配慮されているのを見るのはいい気分だった。談笑の途中で解ったことだが、やっぱり女子大生だった樋口さんも感謝を形にしたいようなことを言ってくれたものの、ハルヒはきっぱりと、
「いいっていいって。もともとタダで請け負ったことだもんね。マイキーを抱かせてくれただけで充分。あたしのSOS団は営利組織じゃないから、お金や物で動いたりはしないのよ。J・Jとマイキーが元気になって嬉しいっていうこの気持ちが報酬みたいなものだわ。ね、有希」
長門はうんともすんとも言わず、少しだけ顎を引いた。
古泉は冷静さを失わず、阪中に、
「今回のルソー氏のような症状に陥っている犬が他にいたらご一報ください。可能性は低いと思いますが、念のためです」
「うん。散歩仲間の人たちを一通り当たってみるのね」
熱心にうなずく阪中だった。
また学校で、と手を振るクラスメイトに別れを告げ、ハルヒはご機嫌な表情で歩き始める。その後をついて行きつつ俺は思う。
来年度ハルヒと阪中が同じクラスになれば、それは非常にいいことなのかもしれない。
駅までの道のりでも帰りの電車の中でも、ハルヒはあることをすっかり忘れているようで、朝比奈さんと犬について語っていた。俺としても忘れていてくれたほうが助かるから、ヘタなことは言わずにおく。
集合地点の駅前に戻るより早く、俺たちはなし崩し的に散会することになった。ハルヒと長門と朝比奈さんは一つ手前の駅で降りたほうが家に近く、まだ昼過ぎだったがシュークリームで腹は膨れていたし、猫を連れて飲食店に入るのは俺が遠慮する。なので、今日のSOS団的活動は以上で終了だ。
俺と同じ改札を通り、同じ駅に降り立ったのは古泉一人だった。
自宅に向かって歩く俺の横に、古泉が同じ歩調でくっついてくる。お前の住んでるとこはこっちだったか?
何かと目立ったりかしましいSOS団女子団員たちと離れ、超能力野郎と二人で歩いていると無性に目や耳が寂しくなるな。
「今日はお疲れ様でしたね」
古泉にそう言われても単なる社交辞令にしか聞こえんぜ。
「何しろ問題の原因が難解極まるものでしたから。シャミセン氏にもご出張いただきましたしね。それにしても本当に長門さんには色々助けられます。そういえば去年も似たようなことがありましたね。喜緑さんが訪れて、僕たちはコンピュータ研の部長さんを情報生命体から救い出した……。僕たちのところに来る依頼は長門さん絡みのものが多いと思いませんか?」
「何が言いたい」
「長門さんがSOS団にいるのは最早必然だということです。僕の単なる感想ですけどね。むしろ言いたいことは、あなたのほうが多いのではないかと睨んでいるのですが」
俺が思うことなんてそんなにないぜ。あえて感想を言うとしたら、カマドウマ寄生体といい、今回のやつといい、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように宇宙から地球にやって来るのはどういう理屈だ? それを言えば長門もそうか。だが長門はハルヒがいたからで----。
俺はハタと立ち止まる。
ハルヒ。
それが答えなのか? ハルヒが発したという情報爆発が原因で情報統合思念体は長門を送り込んできて、どちらかというとそれは能動的な行為だ。逆にコンピ研の部長の部屋をあんなふうにしたり、珪素にくっついて落ちてきた精神ウイルスもどきの狙いがハルヒにあったとは思えない。前者に至っては、地球に来たのが数百万年も前だと長門が説明してくれたしな。
もし、ハルヒの無意識が時間を遡ってそんな過去にまで作用するようなものなんだったとしたら、かなりの勢いで話がぶっ飛びすぎている。だが、朝比奈さん……未来人がこの時代に来ているということは----。
俺が心持ち真剣に考えていると、まるで俺が自分の思考を独り言で呟いていたのを聞いたように、あるいは俺が頭を巡らすのを邪魔するようなタイミングで、
「偶然だと思いますか?」
黙っていればいいものを、喫茶店のウェイターが客のオーダーを確認するような口調で古泉が声をかけてきた。俺は古泉が何を言い出すか、予感めいたものを感じつつ、
「はっきり言えよ。お前相手に腹のさぐり合いをするつもりはねえ」
「わざわざ僕たちの住む街に宇宙生命体が落ちてきて、その精神寄生体が北高の生徒の飼い犬に取り憑き、さらに阪中さんは事前にSOS団に相談に訪れており、たまたま出張って行った僕たち……長門さんが真相に気づいて事件を処理する。これらがすべて並立的に起きた偶発的産物なのだとしたら、それらは天文学的な確率でしか複合しえません」
そう言われると反論したくなるのが俺の性分だ。ハルヒの肩を持つわけじゃないが。
「だから天文的だったじゃないか。結果的に二種類の宇宙人モドキが介在していたしな。これが偶然じゃなかったら何なんだ。お前のミステリ劇のように、長門がシナリオを書いていたとでもいうのか」
「それはないでしょうね。やったのだとしたら情報統合思念体か、まだ未知なる別口の異星人でしょう。涼宮さんが望んだことでもないことは確かです」
なぜ解る。春休みまでヒマを持てあましつつあったあいつがここらで一つ事件でも----と考えて、それが実現しただけかもしれないじゃねえか。
「言ったでしょ? 涼宮さんの精神はどんどん平穏になっています。それこそ拍子抜けするくらいにね。そして、それが問題なんです」
俺は黙ったまま先を促し、古泉は唇を指でなぞりながら、
「涼宮さんが大人しくしていたら面白くない何者かがまだいるのかもしれません。情報フレア、時空震、閉鎖空間。なんでもいいですが、とにかく彼女の持つ分析不能な能力を発現させたいと思う一派がどこかの分野にいるのかもしれないのですよ」
古泉の笑顔がだんだん違うものに見えてきた。朝倉涼子のイメージとダブる。
「ですから、今回の事件はなんらかの予兆なのかもしれません」
何のだよ。なんでもかんでも予兆にしていいってんなら、俺だって今すぐ予言者の看板を出してノストラダムス二世を名乗るぜ。
古泉はシニカルなスマイルを浮かべ、
「宇宙からの来訪者がこのタイミングで来たのは偶然では説明がつきません。あなたは知っているはずですよ。宇宙人と呼ぶべき存在、それも僕たちのごく近くに潜んでいるであろう地球外知性がTFEI、何も統合思念体の人型端末に限った話ではないということをね」
「ちっ」
あまり芝居的なことはしたくなかったが、俺は顔をしかめて舌を打った。古泉、お前がたまに見せる偽悪的な言動には付き合いきれん。長門を人型端末と呼びたいならそうするがいいさ。事実なんだしな。だが、
「俺は、お前が他の宇宙人に心当たりがあるってほうが気がかりだぜ」
「『機関』はいろいろな情報源を持っていますからね。僕の知り得ることもおのずと多様性を持つのです。すべてとは言いませんが、ですが、まあ。そうですねぇ」
やっと古泉の微笑がノーマルモードに変化した。
「別口の宇宙人は長門さんにお任せしますよ。僕は『機関』のライバル組織のほうに重点を置くことにします。またそろそろ何かをしかけてくる予感がするのでね。同様に、別種の未来人は朝比奈さんになんとかしてもらいましょう」
古泉の表情からは真剣味が感じられなかったが、同感だな。ただし今の朝比奈さんではなく、もっと未来の朝比奈さんにだが。
長門に関しては心配無用だ。今のあいつほど強い自己意識をもっている存在はいないと俺が太鼓判を押してやれる。いざとなったら古泉、お前も俺と一緒に走り回ってもらうぜ。必要なら何度でも繰り返してやる。あの雪山での約束を忘れたとは言わせん。
「覚えていますよ、もちろん。忘れたとしてもすぐに思い出させてくれるでしょう? あなたが」
爽やかな微笑で応じ、古泉は手を広げた。
「その時が来たら、ね」
「あ、おかえりー」
部屋に戻ると、妹が俺のベッドに寝そべってマンガを読んでいた。
「シャミ持ってどこ行ってたのー?」
俺は答えず、キャリーボックスからシャミセンを出してやった。即座にベッドに駆け上がり、妹の背中に乗るとマッサージするように前足踏み踏みをし始める三毛猫。妹はくすぐったそうに笑いながら足をバタバタさせて、
「キョンくん、シャミ取ってー。起きられないー」
猫を抱き上げ、妹の傍らに置いてやる。現在小学五年生十一歳、そろそろ小学校でも最高学年にならんとする我が妹は、マンガ本を放り出すと布団の上にうずくまるシャミセンをめったらやたらに触りつつ、鼻をくんくんさせて、
「甘い匂いがするっー。なーにー?」
俺は土産にもらった阪中母手製シュークリームを渡してやった。喜びいさんでパクつき始める妹を横目に、俺は机の上に置いていたハードカバー本を取り上げた。
一週間くらい前だ。学期末考査の終わった頭をクールダウンでもさせようと部室の本棚にあった長門の所蔵本を借りてきたやつである。「なんか面白い本ないか。今の俺の気分にぴったりなのは」という俺の問いに、長門は五分ほど棚の前で硬直していたが、おもむろにこれを俺に突きつけた。まだ中盤までしか読めていないが、それは高校生から大学生に至る二人の男女が織りなす恋愛小説らしく、SFでもミステリでもファンタジーでもない。ごく普通の世界の物語で、様々な意味でその時および現在の俺の気分に合致していた。長門は獣医でもアロマセラピストでも占い師でもなく、将来は司書になるべきだ。
俺はベッドに寝ころんで本を読み始め、妹は二個目のショークリームを持って飲み物を探しに台所へ降りていった。
どれほどの時間が経過しただろう。
読書に没頭していた俺がふと気づくと、シャミセンがドアをカリカリ掻いている。これを開けてここから出せというシャミセンの意思表示である。いつもはこいつが出入りできるように半開きにしてやっているのだが、妹が出た拍子に閉じてったようだ。
俺は栞を挟み、猫のために扉を開いてやる。シャミセンはするりと隙間から廊下に出ると、振り返って礼でも言うようにニャアと鳴く。そして振り返った顔をそのままにして、俺の肩口の上を凝視した。その視線の先を読んで俺も振り返る。
天井の片隅だ。何もない。いない。
シャミセンは天井の角に向けていた丸く開いた目を、ゆっくりと動かした。視線の終着点には外側の壁がある。まるで俺には見えない何かが天井から壁をすり抜けて出て行ったような、そんな目の動きだった。
「おい」
だが、シャミセンがそうしていたのも数秒で、俺の問いかけを聞いたのはやつの尻尾の先だけだ。てってってっと歩く音が遠ざかる。台所に行った妹につられて、自分もエサをもらおうとしているんだろう。
俺は猫が入って来やすいように隙間を残して扉を閉め、さっきのシャミセンの挙動がありがちなことを思い出した。動物というのは人が見逃しがちな小さな物に反応したり、外の小さな物音にもピクリとするものさ。
だが、もし。
人には見えないがシャミセンには見えるようなモノがそこにいたのだとしたら。その透明な何かが俺の部屋の天井に張り付いていて、ふよふよ漂うように壁を素通りして行ったんだとしたらどうだろう。
----幽霊はいるのか?
----それは禁則。
何百万年か、何千万年かの昔、地球に犬を宿主とせず、人類を選択するような情報生命素子が降ってきたのだとしたらどうだろう。人のほうもルソーみたいな拒否反応を見せず、普通に共生した可能性は完全にゼロだと言い切れるだろうか。それによって原始の初期人類が知恵をつけたのだというのは飛躍のしすぎか?
だとしたら、長門の親玉が不思議がるような有機生命体が知性を身につけることだってできたのかもしれない。自力ではなく、地球外からの思わぬ贈り物によって。
俺が思いつくようなことを統合思念体とやらが考察済みでないのは不自然だが、ミトコンドリアが元々自前のものではなかったように、いつの間にか体内に組み込まれてしまった精神共生体が太古の昔に猿よりちょっとマシ的な脳みそに入り込み、今までも連綿と受け継がれているんだとしたら、一応は筋が通る----。
「なんてな」
ってこんなん俺が考えるのは、実にらしくない。人は自分の持つ想像力以上のものを想像できたりはしないものだ。ましてや俺においておや、だ。こ難しいトンデモ理屈の思索担当は古泉一人に任せておこう。あいつが異星人対策を長門に一任したように、こっちは聞き役に回らせてもらおうじゃないか。古泉がたまに見せる人を食ったような言質の本質だって解ってるんだ。そのうちボクは掌を返すかもしれませんよ、と、あたかも忠告せんかのようなセリフの数々は、全部アリバイ工作に過ぎないんだろ?
悪いが古泉、アリバイってのは崩されることが前提になってるものなのさ。俺やハルヒに浅知恵じみた陳腐なエクスキューズは通用しねえ。
それに、だ。もし古泉が『機関』とかの陰謀で身動きが取れなくなったとしても、俺にはまだ手が残っている。そうなりゃ全知全能を尽くし、土下座してでも鶴屋さんを引っ張り込むだけのことだ。あの明るく天才的な先輩が存分に辣腕を振るい笑顔のまま暗躍するようなことになれば、さぞかし『機関』とやらのトップも困惑顔を見せるだろうぜ。
どうやってそうするか、そうなったらどうなるのかは脳みそ一ミリぶんも考えが及ばないんだが。今のところは、という但し書き付きで。
「……やっぱ、あれこれ考え込むのは俺の性分じゃねーな」
まあ、いいさ。俺が俺以外の誰にもなれないように、俺の頭ん中にある意識は他の誰のもんでもなく、イッツオールマイン、俺だけのもんだ。
だから、今さら返せと言っても返済期限はとうに時効の彼方だぜ。
と、そうやって俺がやりたくもないことを考えていると、机の上の携帯電話がブルブル震えだした。まさか先取りした知恵の督促電話ではあるまいなと手に取ると、発信元にはハルヒの名。
「何だ」
『ねえ、キョン。大切なことを忘れてたわ』
前置きもなしに用件に入るのがハルヒ流電話作法である。
『J・Jとマイキーが治ったのはいいけどさ、どうしてあんなへんな心の病気に罹ったんだと思う? あたしが思ったのはね、あの二匹は本当に幽霊を見たショックでああなっちゃったのよ!』
ほらな、古泉。俺が事後処理について思い悩んでいたのが解っただろう。こいつはこういうことを思いつくやつなんだよ。
『たぶん、あたしたちが行った散歩道に一週間くらい前までいたんだわ。あたしの読みではまだ成仏していないわね。きっと浮遊霊になってあっちこっちをブラブラしているに違いないの』
「なんの幽霊か知らんが、さっさと極楽浄土に行かせてやれよ」
『だから明日、また全員集合! 今度こそ幽霊と記念撮影しないと』
「幽霊とどうやって肩を組むつもりだ」
『日中じゃダメね、きっと。夜にしましょう。この世に残った霊が会合を開きそうな所を探して、そこで写真を撮りまくるのよ。そしたら二、三枚くらい写ってくれるわ』
ハルヒは一方的に集合時間を告げると、俺の日曜の予定も聞かずに電話を切った。数秒後には他の団員にも召集電話がかけられているのは間違いない。どうやら明日の不思議探索パトロールは、深夜の心霊スポットめぐりになりそうだ。
俺は携帯を置いて、再び部屋の隅を眺めた。
阪中の持ってきた幽霊話は、犬の不具合を経由して最終的に長門の管轄で終わった。幽霊などの介在がなかったことを俺は知っているし、古泉にも解っている。しかしハルヒの頭にはまだその言葉は数時間を経て思い出すくらいには残っていたらしい。団長殿は宇宙から来たナントカ生命体ではなく、今度こそ本家本元の幽霊をお望みだ。
ともあれ、市内地図を開いて印をつける役目は古泉に委託しよう。万が一、リアルな心霊写真が撮れてしまったら科学的なイイワケをする役もな。俺は暗がりを歩く朝比奈さんが風の音にビクついて、すがりつかれる役を買って出るつもりだ。
夜道をねり歩きながらところかまわず記念撮影をする謎の一団か。ハタ目から見れば、写るはずのない幽霊を求めて彷徨う俺たちのほうがよほど奇怪かもしれん。それでも、そろそろ暖かくなる季節だし、「春ですから」の一言で説明終了できようというものさ。いざとなったら朝比奈さんに巫女姿で般若心経唱えてもらえばいい。それでハルヒ的には除霊が完了する。
それにマジもんの幽霊がいたとしても、ちょっと歩いただけで出くわすほどそこらに群れているわけはないだろう。ハルヒだって本当に会いたがっているわけじゃない。
もう一年近くハルヒを見ていればそのくらい解る。あいつが好きなのは幽霊なんかではなく、幽霊をみんなで探すという行為なのだ。
だが、まあ、俺としては----。
「別に出てきても構わないぜ」
シャミセンが眺めていた天井にそう呟きかけつつ、俺は読書の続きに戻った。本の中には、俺の周りに広がっているものよりよほど常識的な現実があった。
しかし、だからと言って、そんな現実的な現実が羨ましいとも感じないんだ。
今の俺にはね。